83話「開幕」
カーテンが上がり、奏者達が楽器に触れた。
次の瞬間には、心の奥底から沸き上がる未知の感情が、空間を超えて五感を震わせた。
この演奏は、まさに天の狭間から紡がれた言葉だった。
弦楽器が奏でる不協和音は、まるで可能性が一瞬で収束する刹那を捉えたかのようだった。
鼓膜が殴られる度に、時間の概念を捨て去り、過去と未来が混ざり合う奇妙な世界に迷い込んだ。
誰かが、宇宙へ振り撒かれた星を集め、砂時計に詰め込んでいた。
そして、打楽器が放つその一撃は、言葉で表現することが不可能なほど深く、まるで星の鼓動そのものが、この一瞬に凝縮されているかのような錯覚を覚えた。
数多の命が濾され、水滴となって滴るようだ。滴った水が星を潤していた。
管楽器の響きは、まるで忘却の彼方から呻いて来る声のように、耳がひび割れそうな痛みが押し寄せて来た。
破れた紙を捨て、新たな紙を拵えている。
あれは判じ、やり直そうとしているのだ。
一つの音が無限に分岐し、全てが収束する瞬間が訪れた。
美術に学のない俺の心が突き動かされた。
これが、求めていたものだ。
この瞬間の為に……
「クリフ!!」
頬にやって来た痛みによって覚醒する。
オーケストラの舞台には、演奏者はおらず、不気味な静寂が訪れていた。
周囲の人々は俯いたまま動かなくなっており、瞳孔を開き、涎を垂らしている始末だった。
すぐ側では、シルヴィアが俺の顔を覗いていた。
「クソ……どうなってる?」
「皆が席に着いた途端、大人しくなっちゃった」
だからと言って、殴る奴があるか。
と、罵声を浴びせたかったが、状況が許してはくれなかった。
気が付けば、劇場の入り口が燃え始めていた。そして、ボルトガンで武装した憲兵が、遠くで客の身元を確認しながら、ナイフで喉を掻き切っていたのが見えた。
「シルヴィア、黒減を思いっきり使え。多分魔法だ」
声を殺し、彼女に指示を飛ばす。
リスクは大きかったが、一番確実だった。
「分かった」
次の瞬間、間髪入れずに彼女の掌から波動が溢れ出し、劇場全体に突き抜けた。
黒減の影響で眠気に襲われ、意識が刈られそうになるも、歯を食いしばって耐えた。
俯いていた人々が一斉に目を覚まし、会場内がざわつく。
次の瞬間、悲鳴が響き渡った。
ボルトガンの作動音が鳴り、座席に居た人々は恐慌状態へと陥る。
狼男の姿をしたネクロドールが入り口に降り立ち、口腔から炎を吐き出した。
出口に押し寄せていた観客達は炎の波に飲まれ、燃え尽きた。
座席は踏み倒され、燃え盛る炎を避ける為に、倒れた他の観客を押し潰しながら逃げ惑う。
地獄絵図と評したくなる程の、酷い光景だった。
「アンセルムさんに届いてない……行って来る」
彼女はその場から跳躍し、全身から白色の光を放った。
次の瞬間、残光だけを残して飛び上がり、二階の貴賓席へ吹き抜けから侵入した。
そして、重い打撃音が響き、地震が起きたかのようにコンサートホールが揺れた。
「こっちは俺かよ……」
憲兵達の殺戮が続く中、突然背後から頭を抑えられた。
踞る形で横を振り向くと、マレーナが同じく伏せて俺を見つめていた。
「どっちに付く気だ?」
彼女の意図を理解する。この襲撃は、軍拡派のものだ。
マレーナは、アンセルムかセザールのどちらに付くのかを尋ねていた。
「アンセルムだ。無差別に殺すような奴らと、仲良くなんて出来るかよ」
マレーナの身体から魔力が滲み出た。
反射的に身構え、彼女を凝視する。
彼女は冒険者として戦地に立ち、軍拡派とも懇意にしている。
この結果は予想出来ていた。しかし、彼女に不義理なことをしたくなかった。
「ポチ、おいで」
マレーナが短く呟くと、劇場の壁が吹き飛んだ。
飛び散る瓦礫を抜け、マレーナのネクロドールが民衆を押し飛ばしながら目の前に飛び降りた。
ポチは、口に俺の剣を咥えていた。
「……良いのか?」
そう尋ねながら剣を受け取ると、ポチは嬉しげに尻尾を振っていた。
きっと、声帯があれば鳴いていた事だろう。
「元々折り合いが悪かったんだ。だからいつも通り″黙らせる″だけだ」
マレーナはそう言って大剣をポチのコンテナから取り出すと、その背に跨った。
「私は遠い奴らからやる」
ポチが飛び上がり、座席の上を軽やかに飛び上がりながら、入り口に居たネクロドールの前に立った。
彼女はポチから飛び降りると、ネクロドールに背を向け、他の憲兵に向けて走り出した。
ネクロドールが反応し、喉奥を光らせ、銃口をマレーナの背中に向けた。
ポチは素早く地面を蹴り、一瞬でネクロドールの頭に牙を突き立てた。
金属が裂ける音が響き、その首が無惨にも引きちぎられ、断面から緑色の液体が散った。
一方で彼女は、ボルトガンの斉射を掻い潜り、憲兵の腹部に大剣を突き立てた。
「やっぱこうじゃないとな!!」
マレーナは深く笑みを浮かべ、突き刺した憲兵をもう一人の憲兵に投げ付け、押し潰した。
狂喜に歪むその顔を見て、思わず心が抉られる。
戦場に居た頃のマレーナが帰って来た。
普段の明るく人当たりの良い彼女が、アレに塗り潰され始めている気がした。
彼女の後を追おうと歩き出した瞬間、首の後ろがざわついた。
直感を頼りに腰を落とすと、頭上を剣が通過した。
黒曜石のような輝きを放つそれを目視した後、素早く後ろに蹴りを放つ。
振り返りながら剣を構えると、眼前にはベルナールが立っていた。
「見切ったか……小賢しい」
黒色の甲冑を身に纏った彼は、軽蔑の眼差しでこちらを見ていた。
奴は、姉を信仰する男だ。
しかも、願望を多分に詰め込んだものを拝んでいる。
「お前、ルナを信仰してたんだっけな」
「敬称を付けろ……」
彼は怒りの形相を浮かべ、今にも飛び掛かって来そうだった。
「俺がヴィリングから来たって言っただろ?」
敢えて、彼を挑発する為に軽々しい口調で話す。
「まだ騙るか貴様!!」
彼の剣から黒い魔力が滲み出す。
「ルナブラムは俺の姉ちゃんだ」
嘲笑を交えてその言葉を放った瞬間、彼の顔が暗く沈み、感じたことの無い程の強烈な殺気がやって来た。
彼が勢い良く剣を振り下ろすと、剣先から黒い塊が弾き出され、座席を薙ぎ倒しながら迫って来た。
が、分かり切っていた攻撃に当たる程間抜けでは無い。
軽く横に逸れると、真隣の座席に直撃し、接触したものを次々と灰へと変えながら、劇場の壁を突き破った。
ポチと彼の開けた穴によって二箇所の出口が生まれ、殆どの観客が劇場からの脱出に成功する。
「ああ、やっぱり間抜けだな……だから教義を履き違えるんだよ」
続けて彼を煽る。
神々の調停者である姉が、誰かの争いを幇助する事など決して無い。
彼のように、進んで誰かを粛清するなど以ての外だ。
そして何より、想い出の中に居る姉を汚されたようで、不愉快極まりなかった。
「貴様ぁっ……」
怒りに任せて走り寄って来たベルナールに、座席の破片を投げ付ける。
彼がそれを切り飛ばしたと同時に、剣を振り交わした。
鍔迫り合いの形になるも、やはり力負けは避けられなかった。
しかし、それすらも不愉快だった。
鍛え上げた肉体に無理を言わせ、無理矢理競り合って、彼に顔を近づけた。
「ほら頑張れよ。姉ちゃんからミートパイの焼き方くらいは教えてもらえるだろうよ」
「黙っ__!!」
口を開いた彼の顔面に頭突きを食らわせ、舌先を噛み切らせた。
鍔迫り合いが解け、互いに距離が開く。
「知りもしねぇで人の姉を騙ってんじゃねぇ!!」
思い切り息を吸い、心の奥底で煮えた怒りを吐き出した。
◆
数分前、エレネアは思案していた。
護衛と祖父が突然眠り、動かなくなってしまった。
「……どうしようかしら」
外向けの口調を崩し、顎先に指を当てて思案する。
恐らくこれは魔法で、何らかの悪意を持って行われた事は間違いなかった。
貴賓席からは、劇場内を一望できる。
下を見下ろすと、観客達も同様に眠りに落ちていた。
そして、ステージから複数の憲兵とネクロドールが見えた瞬間、貴賓席から顔を引っ込め、背後にある窓へと歩き始めた。
「うん、逃げましょう。ごめんなさいお祖父様……」
カーテンを開き、窓を開ける。
あの家から連れ出してくれた祖父を見殺しにするのは心が痛んだ。
しかしそれと同時に、これからすべき事を考えれば、この状況は好都合でもあった。
「冒険者様、いらっしゃいますか?」
外に向けて尋ねる。
「飛び降りろ」
すると、屋根の上から男の声が聞こえた。
「感謝します」
ドレスの端を摘みながら窓に片足を掛け、そのまま外へと踏み出した。
それと同時に貴賓室のドアが開いた。
しかし、憲兵に見られるよりも先に窓から飛び降りた。
降りた先には地面ではなく、赤い転移門が現れていた。




