82話「許す訳ないでしょ」
ナパルク邸の客間で、クリフは上裸姿で体を動かしていた。
長い金属の棒の両端に重りが付いたそれを肩に乗せ、スクワットを繰り返し続けていた。
「クリフー……それ、意味無いと思うけど」
シルヴィアは部屋のベッドで横になり、ナトの書庫から借りた本を読んでいた。
「黙れ、追いつく為に……やってるんだよ」
クリフは130kgはあるバーベルを担ぎながら、汗を滴らせていた。
「種族の壁があるよ。まあでも……その身体なら女の人は口説けそうだね」
シルヴィアは身体を起こし、クリフの体を見つめる。
セジェスに訪れて半年。彼の肉体は異常な成長を見せており、痩せ気味の体型に少し筋肉が乗った身体から、彫像のようにしなやかで引き締まった身体へと変化していた。
シルヴィアがナトに尋ねた際に、魔力によって変化しているのだと、彼女は言及していた。
「俺も3年前に、戦友に同じ事言ったよ」
自虐的に笑いながら、構わずに続ける。
かれこれ、二時間はやっていた。
明らかにオーバーワークであり、トレーニングが終わる度に、皮膚が痛々しく変色しているのだが、一晩過ぎれば何故か完治していた。
シルヴィアから見ても分かるほど、彼の精神力は、壊れていた。
瞳には、暗い覚悟が宿っていた。
家族との死別が原因だろうか、或いは、戦争での辛い経験かもしれない。
一度決意した彼は、どれだけの苦痛があろうと、絶対に止まる事はない。
その姿はどこか高潔で、狂気的だった。
シルヴィアはそんな彼が嫌いだった。
「ねえクリフ」
「……なんだ」
「オーケストラのコンサートを観に行かない?」
クリフはダンベルを下ろし、首を傾げる。
「花と歌を愛でるような人間だったか?」
シルヴィアは本を閉じ、机に置いた。
「魔法の練習に行き詰まったから、イメージとは違うものを見て来なさいって」
彼女は嘘をついた。
彼が肉体と精神を擦り減らしていくさまを、これ以上見たくなかった。
「……ああ。行こうか」
クリフは近くに置いたタオルで汗を拭き取りながら、思案する。
彼女の特訓に付き添う理由は無い。にも関わらず声を掛けられたのは、寂しさからだろうか?
ともかく、クリフに断る理由は無かった。
◆
「……てっきり、興味がないと思ってたんだが」
そう言って、マレーナとセジェスの街を歩く。軽く振り向くと、シルヴィアがやけに上機嫌に微笑んでいた。
「良い気分転換になるよ。偶には悪くない」
意外な返事だった。
正直言って、マレーナがオーケストラを聴いている姿が微塵も想像できなかった。
「失礼な事考えただろ」
マレーナは不機嫌そうに眉を顰めた。
「……悪かったよ。意外だったんだ」
「お前が行くなら、行っても良いかと思ったんだ」
「そうか。ありがとな」
思わず笑みが溢れる。そんな折、視界の端にシルヴィアが映り、軽く振り向くと、彼女はニヤニヤと笑っていた。
「何か面白かったか?」
「ううん、クリフが元気になって良かった」
その言葉に裏は無いように思えたが、同時に揶揄われているようにも思えてしまった。
「私が連れ回したお陰だな」
と、マレーナは胸を張った。
「ああ」
「うん」
シルヴィアも加わって肯定した為、彼女の顔が引き攣り、不器用な笑みを浮かべて顔を赤くしていた。
劇場に近づいたその時だった。
ナパルク家の馬車が走り、そこから二人の男女が降りて来る。
エレネアとアンセルムだった。
先に降りたエレネアが、軽やかな足取りでこちらに向かって歩いて来た。
「奇遇ですね。あなた様も劇場に?」
「ええ、軽い気晴らしに訪れていたのです」
「まあ、それでしたらご一緒いたしませんか?貴賓席にはまだ空きがあるのです」
人混みに邪魔されずに、演奏を聞けるのは魅力的だった。
アンセルムならば、話題にも気を利かせてくれるだろう。だが、マレーナは軍拡派と繋がりがある上に、俺と同じくお固い場所が苦手だった。
「申し訳ありません。ご厚意だけ頂きます」
ビジネススマイルを浮かべながら、にこやかに断る。
「そうですか……残念です、また機会があればぜひご一緒させて下さいね」
彼女もまた、人懐こい笑みを浮かべ、ドレスの端を摘んで膝を折った。
その一挙一動は洗練された優雅さがあり、どこか愛らしささえ感じさせられた。
しかし、それが計算し尽くされた演技なのだと思うと、少し複雑だった。
「ではご機嫌よう」
「ええ、良い一日を」
彼女に倣って礼を済ませると、エレネアはその場から離れ、アンセルムと合流した。
彼と目線が合った際に、軽く帽子を取って会釈された。
こちらもまた、軽い会釈を返して微笑んだ。
エレネアと違い、こちらの性分を理解している彼は、あまり過度に干渉してくる事が無く、かなり助かっていた。
ケルスの側近のとして考えるなら、この考えは論外なのだろうが。
二人が人混みに消え、劇場の列に並び始める。並ぶ人々の身なりは様々で、裕福な身なりをした者も居れば、平民や冒険者らしき人物まで様々だった。
「クリフ、お前そういうのも出来たんだな」
マレーナは感心した様子だった。
「出来なかったら、依頼主と揉めたりしないのか?」
「あー……黙らせてるな」
彼女はあごに手を当て、目を瞑って思案していた。
「……売れっ子冒険者が羨ましいよ」
そう呟き、苦い狩人時代のことを思い出していた。
「ヴィリングのNo.2がそれを言うか?」
「羨ましいか?……きっと後悔するぞ」
そう言ってため息を吐き、待ち時間にこれまでの旅路を思い出していた。
そういえば、アキムは元気だろうか。
◆
劇場舞台の裏でエミールという男が、セジェスの憲兵達を引き連れ、支度を整えていた。
楽屋に本来居るべき奏者達は何処かへと消え、起動準備を済ませたネクロドールが並び、隊員たちはボルトガンの状態を確かめていた。
「要人の確認は済ませたな。良いか、間違って撃った日には、お前達の家族の首を総て並べても清算できない代価を支払わされる、良いな?」
エミールは声量を落として、部下達に釘を刺す。
「リストに無いものは全て殺せ。冒険者と女子供も例外なくだ」
農民を幾度となく粛清してきた彼にとって、懸念点は作戦の不備だけであった。
急に決定されただけあって、人員に対して対応すべき相手が多すぎる事だけだ。
粛清そのものに不満は無かった。
世とはこういうものであり、頭の片隅では、自宅の庭いじりの事を考えていた。
「……例外なく、ですか」
部下の一人が呟いた。
彼は失言だと気付いたのか、エミールを見て少し緊張していた。
「歯を食い縛って耐えろ。そうやって我慢していれば……その内何も感じなくなる」
「了解……しました」
目を逸らし、弱々しく返事をした。
彼は部隊の中で最も若かった。
「痛みは若い内に済ませる事だな。老いて来ると……受け付けなくなる」
そう呟き、沈黙が起こる。
そして、その重い空気を切り裂くかのように、楽屋内に転移門が出現した。
全員がボルトガンに手が掛かるも、決して銃口を向ける事は無かった。
「粗相の無いようにな。俺達が資金石だと言う事を忘れるな」
今回、アンセルムの抹殺を担うにあたって、監視人と手助けを兼ねた人物が来ると伝えられていた。
しかし先方は、当然のように転移門を使って来た。
魔法学院でさえ、開発すら進んでいない大魔法の筈なのだが。
「失礼、驚かせてしまいましたね」
黒色のドレスを着た女性が、転移門から出て来た。
重心を揺らす事なく歩くさまは優雅で、気品を感じさせられた。
だが、エミールは再び驚かされる。
「メアリー……様?」
10年ほど前に失踪した、ナパルク家の愛人と同じ姿をしていた。
「まあ、お久しぶりですわ。エミール様」
彼女はにこやかに微笑み、ドレスの端を摘んだ。
「改めて。私はメアリー・ルージュ。フランシス様の愛人にして、エレネアの母よ……そして」
メアリーの肌が大理石のように白く染まり、顔の部品が溶けるように消え去った。
手脚は赤く染まり、肘から下は蝙蝠の翅が皮膚を突き破って生え出し、顔には大きな孔がぽっかりと空いた。
「魔神第三席。シェリティオ=ハステップの娘なのです……皆には秘密にして下さいね?」
恐ろしい姿と対照的に、安心感のある優しげな女性の声をしていた。
それがまた、彼女の恐ろしさをより一層増していた。
彼女が手を叩いた。
次の瞬間、メアリーの姿が元に戻り、彼女はにこやかに笑い掛けた。
恐らく、これが彼女の力なのだろう。
「メアリー様……お言葉ですが、貴方のご息女も標的となっています。宜しいので?」
「ええ、構いませんわ」
彼女が手を叩くと赤い鎌が出現し、床に突き刺さった。
刺さった鎌の柄に腰掛け、顎に人差し指をあてた。
「私の娘ですもの。ここで果てるならそこまでね」
彼女は僅かに目を輝かせ、指先に魔力を込めた。
〈__幻踏〉
指先から溢れた紅い魔力が弾け、それらが劇場を包み込んだ。




