78話「基礎練」
思えば、走り込みなどほとんどした事が無かった。息を切らしたのだって、霊山を登る前に一度あったかどうかだ。
そして今、セジェス郊外の森を走りながら、かつてない程の負荷に苦しんでいた。
湿った空気を吸い込み、水気の含んだ土を踏み締める。その度に、露を乗せた草がざわめき、雫を滴らせた。
木々の隙間から差し込む光は美しくもあったが、景観を楽しむ余裕はなく、目に瞬いて鬱陶しかった。
足はさして痛くはなかった。
だが、肺が凄まじく痛い。
息を吸い込む度に、焼けた空気を吸い込んでいるかのようで、酷使された肺が風船のように膨れる度に、風船のように破裂してしまうような気さえした。
「ほら、フォーム崩れてるぞ」
隣を並走するマレーナに尻を叩かれ、走り方を矯正された。
「悪い……助かった」
歯を食い縛り、運動を拒否する身体を精神力で突き動かした。
「ああ、頑張ろうな」
彼女は屈託のない笑みをこぼし、軽く背中を叩いて来た。
痛みを紛らわせる為に少し思案する。
彼女は何故か優しかった。
俺の知るマレーナは、鮮血を浴びながら敵へ突撃する狂戦士であり、俺の戦友を叩き殺した時も、高揚して高らかに笑っていたのを覚えている。
だが今はどうだ。
セジェスを案内し、ベルナールから俺を庇い、果てにはトレーニングに付き合ってくれている。
確かに、クレイグも一度稽古を付けてくれたが、彼のように打算や目的があるようには思えなかった。
戦場で会った人物像とあまりに乖離しており、それが不気味だった。
「……なあ、お前本当にマレーナなのか?」
「え?」
彼女は目を丸くしていた。質問の意図を掴みかねて居るようだ。
「俺の知ってるマレーナは、人を殺して笑うような奴だったよ」
彼女はいたたまれない様子で目を伏せた。
「あー……そんな事もしたな。そのっ……そういう役に入ってるんだよ」
「役?」
「ほらっ、ためらったり、怖くならないようにさ……分からないかもしれないけどさ」
合点が入った。
元の性格との乖離は、心根を隠す為の鎧だった。だとするなら何故、兵役がある訳でも無いのに戦場に立っているのだろうか?
心にフタをしてまで、戦う理由がわからなかった。
「気持ちは分かるさ。そういう奴も戦友には居たよ」
だが、これ以上は聞けなかった。
彼女からも、ウェールと似た繊細さと危うさを感じたからだ。
恐らく、聞くべきではなかったのだろう。
「あ……そっか、そうだよな!」
彼女は冷や汗をかきながら、そのまま走り続けていた。
やはり、不味かったようだ。
しかしこうなった以上、彼女の矛盾が気になって仕方なかった。
ここまで面倒見が良いにも関わらず、友人が居ないのにも気掛かりだ。
ただの危険人物という可能性も否めないのだから。
「ひとまず、どこまで走るつもりなんだ?」
「気絶するまでだ。身体が嫌がったぐらいじゃ絶対に辞めない」
マレーナはそれを聞いてニヤリと笑った。
「よし、じゃあ飛ばすぞ!」
彼女は得意げに俺の手を引きながら、歩調を早めた。身体中が悲鳴を上げる中、彼女の走りに付いて行く。
急な負荷を前に、肺が爆発しそうだった。
「筋肉が強くなるイメージを絶やすなよ?千切れた筋肉が強くなって、脂が燃えてくイメージをするんだぞ」
マレーナのアドバイスを前に、魔力の扱いを思い出した。
「魔力は練れないって言ったろ?」
「無意識には漏れてるだろ。ダメ元でも良いからやるんだ。リハビリになるからな」
ぐうの音も出ない正論だ。
図星だったことよりも、そこをサボろうとした自分に腹が立った。
「……悪かったよ」
黒減を描いた時の要領で、自分自身の筋肉を思い描く。
皮膚を取り除き、赤い果実のように実ったそれらが、一歩踏み出す度に、実が膨らみ、縮んだ。
過度な負荷によって繊維が裂け、再び繋がる。熱く煮えた液体が身体の中を駆け巡る。
「おいっ!!」
マレーナに強く呼ばれ、我に返る。
文句を言おうとした瞬間、目と鼻の先に木があった。
踏み止まるも間に合わず、勢いよく顔面から樹木に激突した。
鈍い痛みが額に広がり、脳が器の中で激しく揺られるイメージを反射的にしてしまった。
「イメージし過ぎて木にぶつかる奴があるかよ!」
途切れつつある意識の中で、彼女の声が聞こえた。
◆
「こんにちは!ウェールさんっ!!」
勢い良く工房のドアを開き、挨拶をした。
何事も元気が一番だ。
ナトからは、押しに弱いので元気に明るく引っ張っぱれば気に入られると言われた。
おおらかな心も忘れずにと。
「……ぇ、あっ。こんにちは、あなたがシルヴィア?」
「はいっ、よろしくね!!」
作業台の間を抜けて、呆然としているウェールの手を取った。
「えと……ネクロドールの事なんだけど」
彼女は目を逸らしながら、手を握り返してくれた。
「うんっ」
「殴るのが得意な子と、魔法が得意な子、あとは……手先が器用な子とか?どれに……するんだ?」
「殴るのと魔法が得意な子が良い」
そう答えると、ウェールは目を白黒させ、固まった。
何か不味いことを言ったのだろうか。
「えと、魔力が沢山減るし……高いぞ……?」
彼女は少し怯え、顔色を伺うように言った。
「それで良いよ!大丈夫、あたし魔力には自信があります!」
そう言って胸に手を当て、空いた左手から銀色の魔力を放出してみせた。
ウェールが顔を近付け、まじまじと見つめたその瞬間に、さらに魔力を放出してみせた。
「ひゃぁっ……!?」
手のひらから間欠泉のように溢れ出した魔力が、天井に当たっては雪のように部屋中に舞い散った。
その場から飛び退いたウェールは驚き、しかし目を輝かせていた。
「……任せてくれ!」
彼女はその場から駆け出し、覆い被さるように製図台へ飛び込んだ。
どうやら、インスピレーションを得たようだ。
危機迫る勢いでペンを握り、引き出しから滑り出した用紙に、ペン先を滑らせていた。
定規を一切用いる事なく、走り書きの寸法や覚え書きが記されたそれは、余人に理解できるようなものではなく、ましてや解読できるものではなかった。
会話の流れが突然途切れ、私はその場で置き去りにされてしまった。
「スマネェな、シルヴィアの嬢チャン。ウチの主人はいつもこうなんダヨ」
「気にしないで、それより……グレゴさんって何者?」
本の挿絵に出る悪魔の姿をした彼。
その独特の声質から、ネクロドールであることは間違いなかったが、自律的に活動しているのが解せなかった。
本当に彼がネクロドールだと言うのであれば、ウェールは生命を創ってしまった事になる。
「ウチの主人が、ナトが保管してた悪魔の死体からオレを創ったんだとヨ」
「本当に悪魔だったんだ」
グレゴワールは瞑目し、甲殻に覆われた頭を横に振った。
「アクマデ部品だぜ。ゼンセの記憶なんてねぇし、皮と心臓以外は腐って使い物にならなかった。ソレニ、腕と足は別物ダゼ?」
「魂は?」
ナトから教わったことを聞く。
きっと、それが一番重要だからだ。
「アア……それは」
「あるよ」
言い淀んでいたグレゴワールの言葉を、ウェールが遮った。
その声音はいつになく明瞭で、透き通った瞳で私を見ていた。
「ナトに聞くまでもない、グレゴは生きてる。だって、私が創ったんだからな」
彼女は別人のように、きっぱりと言った。
その面持ちには確固たる意思が宿っており、それは恐らく、老練の職人が自身の作品に向けるような感情だった。
私への関心を失ったようで、再びペン先を滑らせ、自分の世界に入ってしまった。
「良い人だね」
「アア……気に入ってるよ」
しみじみと呟くグレゴを前に、一つ思い出した。
「そういえばどうしてナトさんと仲悪いの?」
グレゴの口が半開きになり、唖然としていた。
ウェールは作業台に勢い良く両手を付き、机を鳴らした。
揺れたインクの瓶が倒れ、床に飛び散る。
彼女もそれに驚いたようで、慌てていた。
「あっ……そのっ、ナトに聞いて!」




