73話「臆病者」
一週間が経った。
常軌を逸した詰め込み教育によって、目に見えて技量が伸び始めた。
しかし、剣の腕が伸びる程、戦いが上手くなる程、師との間に生じる力の格差をより強く感じていた。
1の力が4になった程度では、100を超える師匠には到底追い付ける筈が無かった。
「1分か……あと倍は伸ばせ」
アードラクトの庭で私は仰向けになり、転がされていた。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、意識が飛びそうな中、師は無慈悲に言った。
「はいっ……」
右手が動かない為、左手で立ち上がると、右手が地面に落ちた。
痛みよりも先に、木剣で腕が切れるのだと感心し、落ちた腕の断面に見入っていた。
「痛みと疲労で気力が尽きたか?」
師は冷淡に尋ねて来た。
「まだ行けますっ!」
ひどく痛む右腕を押さえながら、元気よく答えた。
痛みにはもう慣れた。後は気合いだけだ。
「……オネスタ」
「ええ」
視界の外からやって来た巨大な蛸の触手に捕まれた。
オネスタの背中から伸びるそれに巻き取られ、そのまま彼女の体に吸い込まれた。
次の瞬間、赤い液体の中に沈められ、強烈な水流に流された。
最初の頃は混乱し、暴れたものの、今ではなされるままに流されていた。
息苦しい上に時折逆さになるので、鼻腔から液体が入りもしたが、我慢できる範疇ではあった。
しばらくして、水中で触手に引っ張られると、彼女の外に出された。
触手が私を手放し、地面に放り投げられた。
両腕を使って前転し、綺麗に着地してみせた。
全身の痛みが引き、右肘からは新しい腕が生えて来ていた。
何ひとつ不自由なく動く腕を確かめた後、剣を引き抜いて構えた。
「お願いします……!」
アードラクトは木剣を握り直すと、視界から消失し、次の瞬間には眼前に現れていた。
木剣の激突音とは思えない程の高音を立てながら、彼と切り結び続けた。
◆
月が昇り始めた夜、裏庭でナトは転移門の亜種を使い、小窓を出現させていた。
「俺の返事は変わらないぞ、ナト」
小窓の先に映るケルスは、やや苛立った口調で話していた。
「お願い。私には、打てる手が無いの」
「断る。お祖父様が生きていない以上、俺に介入の意思は無い」
「あなたの……奥さんの種族が滅びるんだよ?」
「滅ぶと良い」
ケルスは関心が無さそうに、きっぱりと言い切った。
「俺が妻を愛していたのは、姿形が優れていたからじゃない。侵し難く、高潔な精神を有していたからだ」
彼は右手に魔力を集め、転移門に干渉し始めた。
「奴らが滅びるなら結構だ。それに、事と次第によっては、俺はバルツァーブ側に着く」
そう言ってケルスは転移門を閉じた。
「ケルス……」
ナトは力なく呟き、うなだれた。
「ごめん姉さん。間が悪かったかな」
ゆったりとした旅装に身を包んだ金髪の青年が、暗闇から溶け出すかのように、ナトの背後にやって来た。
「アルバ……ううん、大丈夫」
「なら教えてよ……父さんを、どうする気なんだ?」
暫しの沈黙が続いた。
「封印するよ、絶対に」
ナトの返答を前にアルバはたじろいだ。
「……どうして?父さんと一緒に人間を倒して終わりで良いじゃないか、そうしたら元通りに__」
「ならないよ」
ナトは鋭く遮る。
「父さんは壊れて、母さんは死んで……1000年前の殺人の報いにヒトを全て殺したら、昔に戻れるの?」
アルバは黙り込み、思案した。
「あのアウレア人が勝算なのかい?彼女の成長よりも、父さんが力を取り戻す方が早いように思えるけど」
「魔神の妃とアードラクトが担保してくれてる。イネスは、バルツァーブに噛み付けるって」
「父さん憎しで頑張ってるみたいだけど……危険じゃないかな?」
「イネスは、そんなのじゃない」
「そっか、信じてるんだね」
アルバは弱々しく微笑んだ。
「でも姉さん、僕は力になれない。父さんに刃を向けるなんて、出来ないんだ」
彼は肩を落とし、俯いた。
「私の責任だから、気にしないで」
ナトはアルバの両肩を叩いて、微笑んだ。
「武運を祈ってるよ、姉さん」
アルバは重々しく呟くと、再び夜闇へと消え去った。
大きく息を吐き、家の玄関へと向かったその時、滝壺の近くの石の上でイネスが座っている事に気が付いた。
「イネス?」
彼女の側に近付くと、イネスは慌てて目元を拭い、真っ赤に腫れた目元を残したまま、私に笑いかけてくれた。
「あっ、ごめんね。サボってた訳じゃないんだよ?ちょっと、師匠にお客さんが来てるみたいで」
「……泣いてたの?」
「えっ、ああっ……修行が辛い訳じゃ無いんだよ!?ただ……両親が死んだから……ちょっとだけ」
その言葉に、心を抉られた。
あまり考えないようにしていた事が、思考から弾いていたものが、頭に浮き出ていた。
「……ごめんなさい」
責められないから、彼女が激昂していないからこそ、辛かった。
「ナトを恨んだりしないよ?だって……家族に会いたかったんでしょ?」
彼女は笑顔を浮かべてはいたものの、明らかに無理をしていた。
「……イネス」
「だから、思い詰めない__ふぇっ!?」
話すイネスの両手を握り締めた。
「絶対に、父さんを封印してみせるから。私の……心に誓って」
「……うんっ、絶対成功させよう!」
彼女もまた、強い意志を瞳に宿らせながら、そう言った。
イネスは私の手を離し、滝壺近くの岩場を軽い足取りで歩き始めた。
「ねぇナト、この戦いが終わったら……友達になろうよ」
彼女は屈託のない笑みでそう言った。
「うん……分かった」
私もまた、不器用に笑みを浮かべてそれに応じた。
◆
灯りの消えた家の中で、アードラクトは片膝を着いて、目の前の女性に頭を垂れていた。
白金のような輝きを放つドレープに身を包み、仄かに光を発する金髪。
そしてその顔立ちは、聖母の如き慈愛を感じさせる、柔らかなものだった。
「久しいわね、アードラクト」
彼女は抑揚の無い声で呟く。
天使フラーテル。
古代人が作り上げた究極の兵器のひとつにして、エルウェクトが置いた生涯ただ一人の側近だった。
「はっ、ご壮健なようで何よりです」
イネスに応対していた陰険な老人とは思えない程に、彼は整った口調で話していた。
「私に礼節を尽くす必要なんて無いわ。結局、私はあの人の権能に刻む価値の無かった人形なのだから」
彼女は眉を落とし、自身を卑下した。
「では私はその資格を蹴った愚者でありますれば」
間髪入れずにアードラクトが卑下し、沈黙が続いた。
「止めましょう、悲しくなるだけよ」
「……はっ」
「皇城は、アウレアは今も貴方の力を求めてるわ。騎士として、帰還する決意が出来たのかしら?」
その語気は強かった。
当然だ。と、アードラクトは思う。
魔神の被害が出続ける最中、この火急の事態に、裏切り者がアウレアのトップを呼び出したのだから。
「エルウェクト様の剣を継がせるべき人物を選定しました」
彼がそう呟いた瞬間、フラーテルの右腕が虹色の炎が激しく燃え盛った。
そして彼女が腕を振ると、アードラクトの右腕が消滅した。
「老いて耄碌したのかしら?」
フラーテルは、怒りの感情を明確に彼へと向けていた。
その中には、殺意すらも織り交ぜられていた。
「恐れながら我が弟子には、その資格があると判断した次第です」
右腕の断面から多量の血が溢れ出すも、アードラクトは一滴の汗を流す事も無かった。
彼の情緒は、とうの昔に壊れていた。
「……力ならば貴方が居るでしょう」
「力ではなく、心を評した上での判断です」
その発言にフラーテルは苦い顔をし、顎に人差し指を当てて思案した。
「神の武具をあの少女が扱えると?」
「必ずや」
フラーテルは燃焼させた右腕を振り払って鎮火させた。
「良いでしょう。あの子にフォールティアを……勇者の剣を授けましょう」




