72話「苦い記憶は」
そこは、森の奥にあった。
深い渓谷の底で、巨大な滝が激しい水音を鳴らし続けるその場所は、どこか幻想的で、ある種の神秘性を放っていた。
「ここがそうなの?」
滝の麓にある、廃墟にも見えるボロ屋を見て、ナトに尋ねる。
「うん。上手く隠してるけど、あの人の魔力がある」
「確かに、英雄の隠遁先としては、好都合かもしれないわね」
湿った土と落ち葉を踏み締めながら、ボロ屋の前に立つ。
やや傷んだ木で作られた玄関階段を登り、取れ掛けのドアノッカーを鳴らした。
「留守……じゃないよね?」
そう言ってナトを見つめると、彼女は頷いた。
「確かに、居るよ」
彼女がそう言って扉を開く。
傷んだ壁に、少し腐食した床。
古びた家具と割れた食器が並んでいた。中央には安楽椅子が置いてあったものの、人の居た気配が無く、外で流れる滝の音だけが響いていた。
そこは正に廃墟だった。
「アードラクト・イスウィック。貴方の力を借りたい」
ナトは誰も居ない部屋で呟いた。
「「えっ」」
私とセシリアは、思わず声を出した。
誰も居なかった安楽椅子の上に、一人の老人が座っていた。
「何の用だ、半神」
老人は、しゃがれた声で呟く。
声量に反し、力強さと威厳の籠ったその声質は、彼がそうであると感じさせた。
「バルツァーブの封印を手伝って欲しい」
アードラクトは、鼻で笑った。
「意味が無いだろう」
「はぁ……?」
その返答に、反感を真っ先に覚えたのはセシリアだった。
「今この瞬間も、何人が死んでいると思っているの!??どれだけの兵士たちが……身を捨ててると思っているのよ!!あなたそれでも……」
彼女は激昂し、アードラクトに近付こうとする。しかし、それをナトが制した。
「何を……」
「殺されるよ」
彼女は短くそう言い、アードラクトは椅子から立ち上がった。
屋無しの放浪者のような見窄らしい衣服に、痩せ細った身体。
英雄とは思えないその姿にも関わらず、直視できない程の闘気を放ち続けていた。
「エルウェクト様亡きアウレアに、何の価値がある?主が死んだのだ、我々も死ねば良い」
気が付くと、彼は剣を握り締めていた。
所作が見えなかった。
彼が現れてから瞬きはしていない筈なのに、次の瞬間にはナトの前に立っていた。
「それでも……と言ったな、続けてみろ」
魔力ではなく、彼の放つ気迫によって、家屋が震えたような感覚を覚えた。
瞳の奥には、燃えるような殺意が宿っていた。
そんな二人の間に、ナトが立った。
「お願い、やめて」
そう言った瞬間、二人との間で何かが弾け、幾重にも重なった金属音が響いた。
いつの間にかナトは、右手に黒い木で出来た杖を握り締めていた。
杖の先が僅かに熱を帯びており、彼の一撃を防いだのだと伺えた。
それを見て、アードラクトは嘲笑し、剣を床に突き刺した。
「バルツァーブの娘がヒトを守るか」
「何ですって……?」
セシリアが真っ先に顔を歪め、怒りの形相を浮かべながら、腰の剣に手を掛けた。
そんな彼女の手を掴み、制した。
彼女は振り返り、私に殺意を向けていた。
声を出さないままに、鞘で腹を突かれた。
脇腹を掠める形でそれを躱し、力任せに彼女の足を払った。
セシリアがその場で倒れ、その直前に剣を取り上げた。
「貴方っ……!!」
彼女を無視し、驚いた様子で振り向いたナトを見つめた。
きっと、彼女にも理由がある筈だ。セシリアを止めないと、後悔する気がした。
「話してよ」
彼女に微笑み掛けると、ナトは苦い表情を浮かべた。
「私はナト・クアリル。バルツァーブの娘、エルウェクトが死んだから、彼女に封印されてたお父さんを助けたの」
彼女は息を吐き、目を瞑った。
「でも……別人みたいになってた。凄く怒ってて、人間を、エルの遺したものを全て消し去るって」
「元はっ、貴方達魔神がこの世界に攻め入ったせいでしょう!?被害者のフリをしないで!!」
セシリアが叫んだ瞬間、ナトは怒りの形相を浮かべ、彼女の腹を思い切り蹴り飛ばした。
セシリアの体が浮き、壁面に勢いよく激突した。
「私達はっ、アウレアの隅で平和に暮らしてた!!家族や友達と皆で!!それをっ……エルが、お前達人間が皆……殺したせいで!!」
危険な気配を感じて一歩踏み出すと、彼女はこちらを見つめ、肩の力を抜いた。
「本当なの?」
「うん……多分お父さんは、お母さんが殺された事を、許せないんだと思う」
「ナトは、お父さんを封印したいの?」
家族はつい最近殺された。
けれど、ナトを恨む気にはなれなかった。
そして、家族との離別を経験して間も無いからこそ、彼女の決断が信じられなかった。
「私が起こしたから、私で決着を付けないと」
ナトの真っ直ぐな眼差しを見て、決意が決まった。
彼女を横切り、剣を引き抜いた。
「アードラクトさん、手合わせ願えますか?」
剣を構え、切先を彼に向けた。
瞬きはまだしていない。目の乾きに抗いながら、彼の一挙一動を見計らっていた。
彼がため息を吐くと、床から剣を抜き、一歩踏み出した。
その瞬間、頭の中の危険信号が警告を発し、考えるよりも先に身体が動いた。
咄嗟に首元を防御すると、強烈な手応えが指先に伝わり、地面に倒れていた。
恐らく、首を狙うと同時に足を払われた。
「何の真似だ」
アードラクトは苛立った様子で、私の首元に切先を向けた。
「力が欲しいんです」
「動機は何だ」
「バルツァーブに、両親を奪われました」
アードラクトは剣を下ろし、踵を返した。
「凡庸だな。一人でやれ、復讐に他者を介入させるな」
「だから、私みたいな人を無くしたいの」
彼は、足を止めた。
大きく溜息を吐き、片手で顔を覆いながら天井を見上げていた。
ゆっくりと身体を起こし、彼を見つめる。
返事を待った。
気怠げな所作でこちらに振り向くと、彼はやや恨めしげな眼差しを向け、私を指差した。
「変わらず、俺に戦う意志は無い。だがお前に剣を教えてやる」
彼が手を叩くと、ボロ屋の景色が歪み始めた。
木とレンガで造られた、温かみのある一軒家へと一変し、リビングの向こうにあるキッチンでは、一人の女性が鍋で何かのスープを煮ていた。
「おお、入れたんだな」
彼女は関心が無さそうに呟くと、裏にあったオーブンからパンが乗った鉄のトレー引き出していた。
素手で。
「多めに作って良かった。食べていくと良い」
青白い髪の女性は、パンとシチューを皿によそい始めた。
「オネスタ、俺が引き受けると分かっていたな」
アードラクトは不機嫌そうに言うと、彼女は苦笑していた。
周囲を見ると、セシリアは居なくなっており、ナトと目が合った。
「食べる?」
頷き、二人の元に歩いた。
「あのっ、お世話になります!」
◆
昼食を食べ終え、アードラクトの家から出ると、再び家がボロ屋へと戻り、振り返ると廃墟があった。
「話は済んだかしら」
古びた階段に、セシリアは座っていた。
その声は掠れており、彼女は俯いていた。
「うん、アードラクトさんに剣を、バルツァーブを倒す術を教えて貰うの」
「そう」
彼女は立ち上がると、彼女は来た道を戻り始めた。
「行くの?」
彼女は気怠げに振り向く。
酷く疲れた面持ちをしており、その裏には、微かな怒りも感じられた。
「ええ、最前線であなたが抜けた穴を埋めて来るわ。一先ずは戦死扱いにしておくから、時が満ちたら合流しなさい」
「ありがとう」
「犬死だとしても、誰かがやらなくちゃならないのよ」
彼女は返事をせずに呟いた。
「力を付けて、絶対戻って来るから」
景色に溶けて行くセシリアに、そう言って背を向けた。




