61話「あなたの為なら」
拳に嫌な感触が伝わる。
樹脂のように粘ついて、指先から離れないそれは、赤く、友人だった彼の頭から滴っていた。
頭の上半分が潰れ、目の焦点が合わなくなった彼を見て、私の中で何かが吹っ切れた。
「シルヴィア」
腹の奥に響く威厳のある声に呼ばれ、我に返った。
「はいっ……皆さん。私はヴィリングより参りました、シルヴィア・クレゾイルという者です。先程ティロソレア様が仰っていたように、ソルクス様を裏切った邪悪なる竜は、ティロソレア様とケルス様によって、無事打ち倒されました」
民衆でごった返す広場、偽のティロソレアの横で、予め決めていた台詞を頭の中で読み上げた。
「ですからどうか、不安に怯え、自信を見失わないで下さい。今回ご不幸に遭われた方々は皆、パラシオンに導かれています。どうか今は、大切な家族や隣人の為、今を生きて下さい」
パラシオン。
それは、竜神を信仰するストリクト教での、死後の世界。
つまり天国の事である。
しかし、そんなものは存在しないと、ティロソレア本人から聞かされていた。
人々を落ち着かせる為の嘘。
我ながら、反吐が出そうだった。
嫌悪で歪みそうになる顔を抑え、上辺の笑顔をどうにか作る。
「ティロソレア様は霊山へとご帰還なされますが、私はこの国に滞在する間、微力ながらこの国の復興に尽力させていただきます」
膝を折り、チュニックの裾を軽く持ち上げ、視線を落とした。
感嘆、畏敬、安堵。
それらの感情が込められた視線や言葉を一身に受けながら、視線を戻した。
偽のティロソレアが巨大な翼を広げ、そこから放たれた魔力によって巨大な転移門を潜った。
「では皆さん、後ほどお会いしましょう」
作り笑いを浮かべ、彼らにひと言告げて転移門を潜った。
視界が玉虫色の光に覆われ、それが晴れると同時に、荒野に辿り着いた。
生き物は一つとして無く、小さな山々から切り立った岩肌。植物が失せ、風によって砂塵が巻き上がるその様は、例えるならば死の大地だった。
「ご苦労だったの、シルヴィア」
本物のティロソレアが、竜人の姿で岩に腰掛けていた。そしてすぐ側では、偽のティロソレアが俯いて頭を下げていた。
「いえ、感謝します。こうして便宜を図って貰えて」
「まあの、本来なら人間共が何と言おうと興味なぞ無いが……言い訳のひとつでもせねば、お主らの旅に差し支えるであろう?とは言え、お主に言い訳をさせたのは悪かったのう」
「クリフの為ですから」
そう返事をすると、彼女は渋い顔をしていた。
何が気に食わなかったのだろうかと考えるも、分からなかった。
「それで……あたしに会わなかったのはどうしてですか?」
偽のティロソレアに尋ねると、彼は地に頭を下ろし、謝罪の意思を示した。
「申し訳ありません、シルヴィア様」
それをティロソレアが手で遮る仕草をした。
「妾の意向じゃ。ぶっちゃけ、お主の内にソルクスがあると伝えても、結果は同じじゃったからの……濁す他無かった」
意味が分からなかった。
ソルクスを目覚めさせない手立てなら幾らでもあった筈だ。
「同じだった……?」
あまりにも不誠実な回答に、怒りが湧き上がる。
「ルナブラムの脚本通りの結末……という事じゃ。お主らが霊山に来た時、ギーリャの姿でクリフと接触した時に、彼女と話したがの……心が壊れていたよ」
頭が混乱する。
自分の中でルナブラムは。母はそんな人物には思えなかったからだ。
「今回の成果は、クリフに技術を学ばせた。奴に長い修練に耐える理由を与え、そして世界最高峰の技を教えた。ソルクスは、良い実戦相手にされた訳じゃ」
彼女は腰に巻きつけた布の裏から干し肉を取り出し、齧った。
「一度殺されるのが確約されている者に、死刑宣告など酷であろう……まぁ、アルバの小僧が暴露しよったがの」
彼女は干し肉を食べ終え、指先に付いた脂を舐め取った。
「……じゃあ、これだけの人が死ぬって分かっていて、あなたや母さんは何も思わなかったの?」
「妾の飼い主のミラナとアンドレイは守った。後は知らん。神からすれば、所詮は他人の飼っていた家畜よ。妾を犠牲にしてまで守る道理は無いのう。昔のソルなら守ったやもしれぬが……そのソルが殺しておるのだ、もう無理じゃ」
彼女は少し疲れた様子で話す。
それに返す言葉も無かった。
「……そっか。もう良い、帰して」
「無礼な娘じゃのう……せいぜい、ルナブラムには気を付けるのじゃぞ。恐らく、この先もこんな事が起こるじゃろうから」
彼女がそう呟くと、視界が再び玉虫色に光り、アンドレイの店内に戻された。
周囲を見渡すと、店内はそれなりに荒れていたが、被害は少ないようで、アンドレイが店の一部を補修していた。
彼はこちらに気付いたようで、作業の手を止め、気の良い笑顔を向けて来た。
「おぉ……ティロソレア様に会ってきたので?どうですかねシルヴィア様、あのお方は」
何食わぬ顔で、カウンターの下で眠るギーリャを見つめた。
「あいつ嫌い……」
「ぶみっ!?」
ギーリャもといティロソレアは、後ろ足で立ち上がると、勢いよくその場から飛び跳ね、顔に向かって飛び付いて来た。
「ぶみーっ!!」
彼女は勢い良く口を開き、髪の毛に噛み付いた。
「ひえぁああああっ!!?お前ぇっ!!」
彼女の尻尾を引っ張ろうと手を伸ばすも、それよりも先に彼女から離れ、飛び降りた。
そして、追いかけようと考えるより先に、ティロソレアはその場から走り、ミラナの工房へと逃げてしまった。
「ギーリャ!!……面目ねえ、シルヴィア様。さっさと風呂沸かしますんで……」
「ううん、良いの。丁度邪魔だから切ろうと思ってたから」
そう言って作り笑いを浮かべ、長く伸びた髪を持ち上げた。
◆
突然地面に叩きつけられた。
イネスは目を開くと、木造の家屋に居るのだと理解した。
体を起こすと、節々が痛むものの、不自由は無いように思えた。
「久しぶりだな。二代目」
聞き慣れない声に振り向くと、ケルスがこちらを見つめていた。
息が詰まるような感覚がやって来た。
鼓動が早まり、緊張で頭がボヤける。
そんなイネスの態度にケルスは顔を顰めた。
彼の仕草が恐ろしくて堪らなかった。
「私の命を取りにきたのですか」
震える声で、尋ねる。
「ペルギニルに咀嚼させれば済む話だ。100も昔の出来事に、今も怒るほど子供じゃない」
ケルスは鼻で笑いながら、コートの裏から古びた革装丁の本を取り出した。
そして、それをイネスの前に落とした。
「ナトの図書館に入る為の鍵だ。セジェス首都バロンの南西にある、プルーヴィアという書店に向かうと良い」
彼女は目を丸くし、本を手に取って眺めた。
「私の苗字……」
「そうだ。お前の苗字と同じ書店にある五番目の棚にその本を置け。転移魔法によって地下に飛び、お前の……親友が居る筈だ」
ケルスは苦々しい顔でそう言った。
「私……あの時ナトを見殺しにしたのに……そんな価値あるんでしょうか?」
イネスは涙声で尋ねる。
「その為にセジェスに向かうんだろう。勘違いするな二代目、お前を励ましてやれる程許した訳じゃない」
ケルスはイネスを見下し、氷のように冷たい怒気を放っていた。
「自惚れるな。俺はお前の為ではなく、ナトの為に鍵を渡した。それを履き違えない事だな」
イネスの鼓動が早まり、目の焦点が合わなくなった。
「あっ……ご、ごめんなさい……」
恐怖で怯え、呼吸のペースが不規則になる。
今すぐ、その場から消えてしまいたかった。
「アルバと会っただろう」
「え……」
「アイツが狂ったのは、お前がナトを裏切った時からだ」
ケルスは苛立った様子で、転移門をイネスの後ろに開く。
「ナトと会うのは……お前の義務だ」
彼はそう言ってイネスの首根っこを掴み、転移門へと放り投げた。




