6話「目的」
アウレア神聖帝国、その首都であるフルゴルビス内に存在する豪邸。そこで暮らすニールは貴族の出身であり、最も戦果を挙げた英雄であるとして、帝都に屋敷を持っていた。
だが屋敷に帰れるのは年に二度あるかないかであり、彼の趣味により、巨大なワインセラーと化していた。
そして今、ニールは自室で一人ワインを嗜んでいた。秘蔵のワインセラーからお気に入りのものを取り出し、一晩を掛けて二本ほど飲み切る。
それが数少ない楽しみだった。
「悪くない……いや良いな……!」
グラスに注いだワインを口に含む。
そして色を、香りを、味を確かめる。
口の中で転がし、頭の中では葡萄園の景色が浮かんでいた。
小さな畑に実る、美しい大粒の葡萄。
朝露によって淑やかな照りを放つ宝石たちを、職人達が収穫していた光景を、思い出した。
もう、随分と古い記憶だ。
__最後に行ったのはいつだったか。
「隊長!!」
追想していたその時、赤毛の青年が自室の扉を勢いよく開き、部屋へ押し入った。
それと同時に、華やかな思い出が霧散し、面倒な部下の相手をしなくてはならない現実へと叩き戻された。
「マイルズ、何の用だ。それとノックは必ずしろ、作法だぞ」
青年はこちらに対し、明確な怒りを向けていた。
「レイのおっさんから聞いたぞ……どうしてクリフを逃した!!」
思わず目を逸らし、心の内で毒づいた。
__俺を売ったな、あの薄情者め。
「アンタはあの兵士たちを見たか!!?戦友を殺され、家族に死亡報告をしに向かった一兵卒達をだ!!!」
マイルズは年相応の若さと熱に任せ、非難する。そういった態度は、どうも苦手だった。
目を細め、グラスに注がれたワインを一口で飲み切る。匂いを感じる余韻すらなく、安酒のように胃に流し込んだ。
「ああ、確かに残念だった」
大きく息を吐き、空になったグラスの底を眺める。
そんな態度を見たマイルズは、勢いよく机を叩いた。
「アンタの利己主義にはうんざりだ……英雄なのに、仲間ひとり救えやしない!!」
激情する彼の眼差しには、怒りの裏に羨望が混ざっていた。
英雄は、戦友から向けられるその感情が、とても嫌いだった。
グラスを机の上に置く。硝子が軽い音を鳴らし、その場の空気をより張り詰めさせた。
「いいや、救ったさ。俺達の親愛なる戦友をな」
「アイツはもう仲間じゃない!!」
怒りが頂点に達したマイルズは胸ぐらを掴もうと手を出す。
手を払い、それを弾いた。
「二度はないぞ」
冷ややかな眼差しを向け、声の端に静かな怒気を乗せた。
「俺は手段を選ばない。ただ、戦友の命と顔の知らない部下の命を天秤に掛けただけだ」
置いたグラスにワインを注ぐ。
「それが、正しい訳ないだろ……!」
「敢えて言おう、俺は正しい。マイルズ、正しさなど誰が決める?俺か?お前か?或いは皇帝か?……それとも、亜人達か?」
ナッツを口に放り込み、咀嚼する。
「当然、誰も決められない。何せ人々は誰もが正しいと思って動いているからだ。正義や道徳の指摘など、価値観の押し付けに他ならない。少なくとも、絶対的な正しさを定める神々はもう、この世から消えた」
机の引き出しから出した、家紋の入ったハンカチを机に置く。
「つまり正しさは人間が、自分自身で決めなくてはならない。もう一度言うぞマイルズ、神の時代は終わった。俺の規範が気に入らないなら好きにすると良い、抜け出そうと、騙そうと……殺したって良い」
ハンカチを重ね合うというのは、決闘の合図である。栄華を極めた黄金期のアウレアでは、このような決闘が度々行われた。
だがそれはもう、昔の話だ。
劣勢に置かれたアウレアに於いて、内輪揉めなど愚の骨頂である。
だがしかし、いち人間として喧嘩を買うつもりだ。
「お前が俺を殺せば、この部隊と帝国最強の称号……「勇者」の名はお前のものだ」
席を立ち、机に両手をついて乾いた瞳でマイルズを見つめる。
人殺しの目だ。
「……くそっ……くそ!!」
マイルズはその言葉と気迫に圧される。
彼は悔しそうに顔を歪めると、背を向けて部屋を飛び出して行った。
それを見届けた後、肩をすくめてため息をついた。
__疲れた。
当然、彼を殺すつもりは無い。彼の熱意は強みであると同時に、脆さでもあった。
__実際、クリフの件は俺だって間違いだと思うさ……失敗した。
立場の差を突きつけるのも薬になる。そう考えての行動だった。
「レイ、そろそろ出てこい」
グラスをもう一つ出しながら呟く。
「なんだ、気づいてたんですか?」
レイはそう言いながら、突如として目の前に出現する。
彼は、魔法を使って姿を消していた。
「今日だけはその口ぶりをよせ。俺が新入りだった頃ので良い……お前とは、そっちの方が楽だ」
「分かったよ、隊長殿。んで、懐寂しいこの老人にワインを恵んでくださるのだろう?」
ワインを注ぎ、テーブルの上を勢いよく滑らせる。
「どうも」
レイはワインを受け取り、一口だけ飲んだ。
「良い酒だ……何て名だ?」
「エイリーン2世だ」
それは、額にして300000プレムは下らない最高級ワインだ。
戦時下という事もあって、嗜好品の生産数は少なく、老舗や大御所の醸造所以外は軒並み潰れていたからだ。
それを聞いたレイは固まり、呆けた顔でこちらを見つめる。
「……お前俺に何させる気だ?」
「別に?利己主義の若造の酒に付き合って欲しいだけだ」
苦笑し、ワインを揺らしながら、ナッツを口に放り込む。
暫し沈黙が流れた後、レイは咳払いをする。
「分かった、聞いてやるよ。随分とクリフを甘やかすな?」
「……ああ。気に入ってるんだ、アイツを」
それは本来憚られる台詞だった。
「そうか、だが逃げ出したらどうする?次来るとすれば皇城だろう」
「あいつの手錠は特注品だ。両腕を落とすか、俺やお前くらい魔力が扱えなければ壊せん。心配はないさ」
「だと良いがね、どうも嫌な予感がする。陛下の前にでも来れば、お前とてタダじゃ済まないぞ?」
「もし、踏み入れたなら……どうすべきだろうな?」
グラスを静かに置き、抑揚の無い声でそう言った。
「殺すしかないだろう?」
レイは呆れた様子で答える。
「お前は、全力のアイツを見た事があるか?」
「あの時の与太話か?」
その言葉を聞き、思わず鼻で笑う。
「与太話なものか。あの時のアイツは、お前より強いぞ」
そう言ってグラスを揺らし、ワインの色を眺めた。
「言ってくれるな、お前はどうなんだ?」
ワインを少し口に含み、喉に通す。
そして不敵に笑った。
「言うまでもないだろ?」
◆
クリフは、昼下がりの皇都城下町を、深めのフードを被りながら散策する。
破損しているというのもあるが、巡回する兵士達の数が多い為、装備の類は隠してある。
一晩経った事で、ある程度は再生していたが、右手の火傷、肋骨の粉砕骨折に、重度の内臓へのダメージ。
そして何より、左手に風穴が開いた事と片方の肺が壊れた事に関しては治るかどうか怪しかった。
「動きはするか」
そう言って指の動かない左手を振った。
遠くに聳え建つ城を見上げる。
果てしない高さを誇る白亜の宮殿は、神の時代、神がその権能を以て作り上げたものだそうだ。
国を象徴する、とがった群青の屋根は千年の時が経った今も色褪せない。それどころか、欠けることすらなく光を反射し、眩い光を放ち続けていた。
そして街を囲む水道橋は輪を描き、防壁のように街を幾重にも囲っていた。
さまざまな色合いで彩られた背の高い建物たちは、訪れた人々の目を刺激することだろう。
路地は広々としているというのに、道に張り出された露店と道ゆく人々や往来する馬車によって、とても狭く感じさせられる。
100年前、大陸全土を席巻していたアウレアは、世界に存在する文化や知識を一つ残らず収集した。価値のないものは保管され、洗練された嗜好品と芸術はアウレアの独自の文化を育んだ。
「相変わらず良いな、この街は」
人混みをかき分ける。
昼下がりという事もあって、労働者達がガラスジョッキを鳴らす音と音楽が通りで鳴り響き、騒いでいる。
戦争と抑圧があるのにも関わらず、街の人々の瞳は褪せることなく、輝いていた。
むろん彼らとて、亜人の脅威を知らぬ訳ではない。
アウレアの男たちは皆、徴兵によって従軍経験を持っている。この活気は、無知によって起きているものではない。
むしろ過酷な現状を理解し、今を生きようとする熱意によってもたらされているものだ。
ここは皇都フルゴルビス。数々の神話と英雄譚の舞台となり、今も尚色褪せる事なく、輝かしい伝説を刻み続ける街。
人間の誇りが形となった街である。
客寄せの声や、人々の喧騒が相まって中々に騒々しく、今の状況と体調が悪くなければ、身体に酒を入れて厚みのある肉にかぶりつきたかった。
そんな心情を責め立てるように、露店に並ぶ焼き肉屋からは上質なスパイスと炭の香りが漂ってくる。
「クソ……」
悔しげな表情を浮かべて唾を飲み、腹の傷口に軽く手を当てる。ズタズタになった内臓に肉など取り込んだらどうなるか分からない。
「牛肉を四つくれ……その、デカい奴な」
人混みをかき分け、声を掛ける。
結局、空腹という欲求には勝てなかった。
「おっ!兄ちゃん食べるねぇ!これからキツい仕事があると見た!!」
焼き肉屋の男は、裏表のない笑顔を浮かべる。
「ああ、この街はいつだって活気付いてるからな……これで良いか?」
銭袋を開け、なけなしの硬貨を出す。
男は、出された銀貨と銅貨を確かめた後、手早く肉を網から出し、紙に包んで手渡して来た。
「なぁ少し聞きたいんだが」
「なんだい?」
「この頃変わった話は無いか?」
「おー……そうだなぁ、最近少し兵士がピリピリしてるな。知ってるのはそれくらいだ」
男はキッパリと言うと、仕事に戻った。
後ろも並び始めた以上、邪魔するのは悪いとその場を離れる。
絶妙な焼き加減とスパイスの効いた牛肉を頬張る。やや痛む顎で脂の乗った牛肉の繊維を噛み切り、喉に通す。
「く……うっっめぇ……!」
二日ぶりの食事と、数ヶ月ぶりの上質な食事に感動する。
二串を軽く平らげ、水筒の水を一気に飲み干す。新鮮な栄養に、身体が生き返るような感覚を覚えるが、気の所為だろう。
「ふぅ……」
ほぼ間違いなく、明日には痛みで悶えるかもしれない。
だが後悔は無かった。
牛串を頬張りながら、新聞売りを探す。
「おーい、ひとつくれ」
新聞が詰まった箱を持った女性が歩くのを見つけ、銅貨を手渡す。
「ありがとうございます!またのご愛読を!!」
「ああ」
綺麗な営業スマイルを浮かべる彼女に、軽く手を上げてその場を去る。
近くの建物の壁にもたれ掛かり、新聞を読む。重要な情報を吟味しつつ、目を通す。
__警備の増員。
__英雄ニールの臨時休暇。
__夜間での数ヶ所の区画封鎖。
目に付いたのはこれだ。
「イネスの言ってた事は本当かもな」
間違いなく、誰かが来る事は確実だった。
「相手が本当にヴィリングなら良い。奴らの神話が事実なら、あそこに棲む魔神は竜神に拾われたらしいからな……シルヴィアは助かる」
そう考えると、何故か喜べなかった。
空を見上げ、大きなため息を吐いた。
「なら……どうするかな」
言うべき台詞では無いと分かっていても、溢れてしまった。
新聞紙を握りつぶし、過去を思い返す。
生きたまま焼かれた両親。首を落とされた姉。ある日寝台で突然死んだ義父。
そして、矢を受けて孤独な最期を迎えた相棒。
「今更どこに帰れって言うんだよ……」
一度こぼれてしまえば、暗い気持ちが留まることはない。
__見返りが欲しい訳じゃない。
そう、言い聞かせる。だが心は沈む一方で、堤防が崩れたように気持ちが溢れ出す。
「今頃あいつはドレスでも着て、最高に旨い飯と、最高級のベッドに転がってるんだろうな」
乾いた笑いをこぼす。
「あいつに会ってどうする……立場を捨てて、泥臭く危険に満ちた旅に行こう……か?イカれてるよ」
論外だ。彼女がそこまで好いてくれているとは思えない。
彼女が手を払えば、それまでだ。
「……本当に、馬鹿げてるよ」
口では否定しながら、その足は皇城へと進んでいた。
「せめて自殺する場所ぐらい、選ばせてくれ」
語る予定の無い設定その2
アウレアの貨幣であるプレムは大体1プレム100円です。
銅貨が1プレム、銀貨が10、金貨が100となっています。
金貨に関しては故意に混ぜ物を多くして価値を下げていて、単純に貨幣としての使いやすさを重視したものだからです。
余談ですが、ドワーフは紙幣、エルフの貨幣は使い難く、オーガの国は悪貨が出回っています。




