113話「退廃の女王」
オネスタは、セジェス市街に蔓延る魔物を掃滅していた。
「……幾らなんでも限度がある」
確かに、ルナブラムが画策したプランには乗った。
アードラクトと話し合い、クリフを竜の主神とする計画を認めた。
しかし、これは度が過ぎていた。
「……これが教育だと?」
焦土と化した街を眺め、鼻で笑う。
横たわる魔物に魔力を放射すると、血肉が泡立ち、毒々しい煙を吹き出して消滅させた。
「あの子はもう充分戦っただろうに……」
オネスタは眉間に皺を寄せ、苛立った口調で呟いた。
彼女は数歩進み、周囲を見渡す。
「あれは……?」
鉛で作られた巨大な箱が打ち捨てられていた。
恐らく高所から落とされたであろうそれは、外殻が大きく破損しており、黒い霧が外から溢れ出していた。
周囲から、子供の笑い声が響いた。
「まさか__」
オネスタはあの霧を、彼らの事を知っていた。霧は凝集してヒトの形を取り、箱の上に立つ。
彼らの名はペイルライダー。
星を喰うウェンディゴを作った、魔神マリアヌートの傑作。
単純な脅威度だけで言えば、テュポンや半神すらも凌駕する、疫病の化身だった。
ペイルライダーは形を崩しながら、オネスタの前に立った。
「久しぶりだね、おねーさん」
彼らとは、一度だけ面識があった。
まだ魔神の妃として生きていた時に、一度だけ。
「何をする気だ……」
そう尋ねた時、オネスタの視界が真っ赤に染まった。
身体中から血が吹き出していた。
瞳の隙間から始まり、口と耳、果てには毛穴に至る全ての箇所が壊死し、真っ赤な血を流していた。
「僕たちは生きるだけだよ」
彼は無数に重なった声で返事をする。
「……っ、そんな」
オネスタは右腕を上げ、ペイルライダーへの攻撃を試みるも、それよりも先に腕が腐り落ちた。
「おねーさん、前見た時から欲しかったんだ。とっても、とっても頑丈そうだもん!」
ペイルライダーの輪郭が崩れ、無数の砂塵となって彼女に降り掛かった。
オネスタの肉体が凄まじい速度で分解され、彼女は膝をついた。
「ルナぁっ!!お前は最初からこれが目的で……!!」
彼女はこれから起こる事に焦り、恐怖した。
__私が目覚める。
死につつある肉体を前に、魂が暴れていた。
大神エルウェクトに調伏される前の私が、彼女の力によって押さえ込まれていた本能が、肉体という枷を抜けて脱出しようとしていた。
「駄目っ……お願い……やめて……!」
血を吐きながら、縋るように呟いた。
もし私が目覚めたら、間違いなくクリフを襲うだろう。
彼にあの子を護ると誓った筈なのに、私はあの子の敵になってしまう。
「いただきます」
ペイルライダーがそう呟くと、私の頭が蕩けて崩れ落ちた。
そうして、剥き出しになった魂から、本当の私が飛び出した。
◆
「おねーさん、脆かったな。次はどうしよう」
ペイルライダーは、オネスタを後にしようとしたその時、彼女の亡骸から水音が鳴った。
「……おはよう」
にこやかに話す彼女は、その容姿を大きく変えていた。
深海のように青い髪をなびかせ、胸元と背中
を大きく開いた扇情的なドレスを身に纏っていた。
貞淑で、一種の厳格さすら湛えていた彼女の姿は何処にもなく、どこか淫靡な雰囲気を放っていた。
「あっ、おねーさん。元に戻ったの?」
スクタイは薄く微笑むと、頬を紅潮させた。
「ええ。ねぇ、さっきの攻撃だけれど……」
彼女は口角を深く釣り上げ、ペイルライダーに近付いた。
「もう一度やってくれないかしら?」
彼女がそう呟くと、下腹部が真っ二つ裂けた。
竜の顎のように巨大化した裂け目が地表ごとペイルライダーを削り取り、一瞬で収縮して体内に取り込んでしまった。
疫病を取り込んだ事で、彼女の全身から再び血が噴き出し、皮膚が壊死し始める。
その場から崩れ落ちた彼女は、体を痙攣させながら、恍惚の表情を浮かべた。
「あぁ……とっても良いわ」
彼女は糸に引っ張られるように立ち上がると、全身の傷を瞬く間に治した。
捕食されたペイルライダーは、彼女の体内を渦巻く毒素を前に、一匹残らず死滅してしまった。
「あは、仲間が死んじゃった」
ペイルライダーは、彼女の前で再び集合すると、変わらず細菌を撒き始めた。
「ハードに、たっぷり……夜が明けるまであなたと楽しみたい所だけれど……残念」
スクタイは右手を振り上げた。
指先に魔力を纏わせ、魔法を練り上げる。
〈__酸桃毒〉
指先から朱色の液体が滴り落ち、それが地面に触れた瞬間、毒々しい蒸気が膨れ上がり市街を突き抜けた。
周囲に転がっていた魔物の死体は、一瞬にして蒸発し、赤い霧と化した。
そしてそれは、ペイルライダーも例外ではなかった。
彼らを構成する全ての細菌が赤く染まり、ひとつ残らず霧散してしまった。
「愛しい愛しい……息子が待っているの」
彼女は踊るように両手を広げ、空を見上げた。
__かつてこの星には、魔神の被造物達が多く攻めて来た。
疫病の化身ペイルライダー。
炎の巨人スルト。
万魔の巨人テュポン。
増えるオブジワ。
破滅の魔王アスモデウス。
そのどれもが人類を滅亡させるに足る存在であり、ヒトではなく神の介入が必要な存在だった。
そして、その中でも群を抜いて強大な存在が居た。
退廃の女王スクタイ。
魔神ベルトゥールの娘にして、その妃。
全ての性的刺激を網羅する彼の妃となる過程で、彼女の身体には、魔神の魂と権能の一部が埋め込まれていた。
つまり彼女は、真の意味で半神だった。
蒸発したペイルライダーを後にし、彼女は眼前に転移門を呼び出した。
「今行くわ、私の愛しいクリフ……」
彼女が転移門を潜ると、一瞬で彼の眼前に出現する。
「……オネスタさん?」
シルヴィアがクリフの肩を支え、街を抜け出そうとしていた所だった。
彼女は泣き腫らした顔で首を傾げ、スクタイに近付いた。
「ああ、シルヴィアちゃんも居たのね。丁度良かったわ」
彼女は二人を抱き締めた。
いつになく優しい口調の彼女を前に、シルヴィアは眉を顰めた。
「あなたは、誰?」
シルヴィアは直前に、アヴァルスと会っていた。
言葉には出来ないが、確かな違和感を彼女は感じていた。
「私はスクタイよ。エルウェクトが封印していた本当の私」
彼女は一歩離れ、シルヴィアに手を差し伸べる。
「あなたもなの……?」
シルヴィアは、酷く沈んだ声で尋ねた。
「大丈夫……意識はハッキリしてるし、ちゃんとオネスタの記憶もあるわ。安心して」
スクタイは、そう言ってクリフの頬を撫でた。
「……母さん」
声を震わせ、縋るように彼女を呼んだ。
「一緒に安全な所に行きましょう」
オネスタがシルヴィアの手を引き、転移門を呼び出す。
しかし、シルヴィアはその場で立ち止まった。
「……シルヴィアちゃん?」
彼女は不思議そうに首を傾げ、目を細めた。
「どこに行くつもり?」
恐る恐る尋ねたシルヴィアに対し、スクタイはにこやかに答えた。
「魔神ベルトゥールの領域よ。彼は少しだらしないけれど……とても優しい人なの。きっと、あなた達を受け入れてくれるわ」
クリフは顔を上げ、スクタイを見つめた。
「可哀想なクリフ。もう大丈夫よ。辛いことなんて全部忘れて、楽しいことや、気持ちいいことだけしましょう?」
クリフはシルヴィアから離れ、少しふらつきながらも一人で立ち上がった。
「駄目なんだ……母さん。俺は逃げない……ここで逃げたら、俺はアキムに……顔向けできない……」
苦しげに、嗚咽するように答えたクリフに対し、スクタイは目を細めた。
「あらそう?」
彼女は関心が無さそうに答えると、シルヴィアに右手を振り上げた。
掌から朱色の光が瞬いたその時、彼女の足元で水が湧き上がった。
「困ったわ」
彼女は特に抵抗する素振りを見せず、湧き上がった水に呑み込まれ、球状の檻に包まれた。
「まあ良いわ、どうせすぐでしょうし」
彼女は南を向いて呟くと、クリフに向き直った。
「ごめんなさい。竜神たちが死ぬまで出れそうにないわ」
彼女は水の檻に触れ、クリフに顏を近づけた。
「安心して。必ず、あなたを迎えに行くわ」
スクタイは艶かしい声音で囁くと、一瞬の内にその場から消滅した。
二人はその場で立ち尽くし、僅かに残った水たまりを見た。
「オネスタさん……あたしを……」
殺そうとした。
シルヴィアがそう話そうとした瞬間にクリフが膝から崩れ落ちた。
「もうやだ……」
クリフは子供のように弱々しく呟き、そのまま倒れた。




