109話「壊れた家族」
私にとって、彼は弟のようなものだった。
歳月が過ぎ、私よりも達観した考えを持ってしまったけれど、それでも彼を年長者として扱いたくなかった。
「お前がナトだな?」
まだ本屋で暮らしていた頃、鼻息の荒いハイエルフの男が私の元を訪れた。
「そうだけど……何?」
気怠げに返事をすると、彼は人差し指を私に向けた。
「私はアンセルム=ナパルク!セジェス最強の魔法使いである貴殿と手合わせを願いたい!!」
今では考えられない程、彼は無鉄砲だった。
けれどきっと、イネスとの一件で心をすり減らしていた私にとって、彼は一つの転換点だった。
「……気が済んだ?」
本屋の外で、頭から地面に埋められたアンセルムを眺めていた。
樹根の触手で彼の足首を掴み、地面から引き抜いた。
「また出直させてもらおう!」
快活に答える彼を、思わず地面に埋め直してしまった。
「出直さなくて良いよ」
私はため息を吐き、首を振った。
そんな時、遠くからエルフの女性が駆け足でこちらに来ていた。
30代程の顔立ちに、豪奢な服で着飾った姿はまさしく貴婦人といった出立ちだった。
「ああっ、申し訳ございません。ご無礼を……」
彼女は息を切らしながら謝罪していた。
「あなたは……?」
尋ねると、彼女は息を整えて微笑んだ。
「ルイーズ=ナパルクと申します。どうかお見知り置き下さい」
綺麗な所作で挨拶する彼女を前に、再びため息を吐いた。
突き刺さったアンセルムを引き抜き、彼女の側に投げ捨てた。
「もう来ないでね」
投げやりに答える。
「前言を撤回するつもりはない!!」
アンセルムはすぐさに起き上がると、食ってかかるように答えた。
傍迷惑な奴。けれど嫌いではなかった。
「……ルイーズが老けてから、変わったよね」
彼との付き合いが続いて30年が経った頃、ナパルク邸の庭で2人話し合っていた。
「そういう君だって、随分と口調が明るくなった。昔は片言で喋っていたのを覚えているかな?」
にこやかに答えるアンセルムの顔には、僅かに皺が入り、鮮やかな金髪にも白髪が混じり始めていた。
「あなたに触発されたから」
元来、ハイエルフが老けることはなく、肉体的な衰えは来ない。
しかし、ルイーズと同じ時間を歩みたいと願う彼の気持ちが、そうさせていたのだろう。
「……すまないね」
アンセルムは寂しげに呟いた。
「やめて、余計寂しくなる」
少しの間を置いて、アンセルムが口を開いた。
「……将軍を引退して、評議員になろうと思うんだ」
ナトの脳裏には、ケルスの姿が思い浮かんだ。
息子達に囲まれ、すっかりと老いてしまった彼の姿を。
「君のお父さんの跡を継ぐの?あの人も歳だし、良いんじゃない?」
ぶっきらぼうに答えた。
彼が政治屋になれば、より一層老いていく気がしたからだ。
「……戦争を終わらせたいんだ」
アンセルムの言葉に、思わず眉を顰めた。
イネスの討伐とアウレア侵攻の足掛かりを条件に、一度だけ戦争に加担した。
あの本屋も、国との取引で貰い受けたものだった。
だが、以降の戦争に介入する気は無い。
私はこの国の道具では無いのだから。
「私は手を貸さないよ。7代目を捕虜にしたんだよね?そう手間は掛からないと思うけど」
彼は首を振った。
「武器を使うつもりはないよ。私は、紙とペンだけで立ち向かうつもりだ」
それは、一種の狂気すら感じる発言だった。
腐敗しきったセジェスの内情を僅かでも知っている
「本気?」
「……ああ。もう君とイネスのような悲劇は起こさせない」
彼は決意のこもった、澄んだ眼差しで答えた。
その時私は納得した。
アンセルムという男の本質は消え去っていないのだと。
在りし日に見た、太陽のように燃える衝動は、まだ消えていないのだと。
「……期待はしておくよ」
私は照れ隠しに苦笑し、ティーセットに手を伸ばした。
◆
燃え盛るナパルク邸の中、ナトは一つの焼死体を抱えていた。
頬からこぼれ落ちた涙が炎によって蒸発し、木々の裂ける音が彼女の嗚咽をかき消した。
家屋が倒壊し始め、燃える瓦礫が彼女の背に注いだ。
今の彼女にそれを対処する余裕は無かった。
「危ないよ、姉さん」
彼女の後をつけていたアルバが、黒色の剣を振って瓦礫を払った。
「アルバぁ……!」
ナトは涙がらに彼を睨む。心の奥底では、彼が仕組んだと信じたくない気持ちが存在していた。
「あぁ……可哀想に……辛いんだね姉さん」
アルバは失笑していた。
「でも大丈夫、そんな奴が居なくたって……僕が居るよ……!」
曇りのない眼差しで、彼は両手を広げた。
「……イカれてるの?」
彼は屈託のない笑みを浮かべた。
「もちろん!いつだって姉さんに狂ってるよ!!」
情熱的に答えたその瞬間、ナトの瞳には深い失望の色が浮かんでいた。
彼はアルバではない。
彼女は、彼を弟と認識するのを諦めた。
気色悪いストーカーにして、アンセルム殺害の首謀者。
絶対に、生かしてはならない相手だった。
「……もういいよ」
酷く沈んだ声音で、唸るように呟いた。
アンセルムの亡骸を手放し、立ち上がりざまにアルバの首を掴んだ。
「情熱的っ__」
ナトは彼の首を握り潰し、脚力に任せて館の壁を突き破った。
空中に投げ出された状態で、枯れ枝の翼を生やし、全身を硬化させ、魔神の娘としての姿へと変化した。
「私の思い出を汚すなァ!!」
木の軋むような声音で叫び、掴んだ掌から樹根を放出し、アルバの肉体を内側からズタズタに破壊した。
「大丈夫さ!これから幾らでも作れるよ!!」
アルバの全身が砕け散り、鎧騎士の姿に変身した。
「黙れ、お前とはここで終わりだ」
ナトは杖を振り、アルバを思い切り殴打した。
かつてバルツァーブが込めた魔法が作用し、遥か遠方へと弾き飛ばされた。
ナトは翼を広げ、弾かれるようにその場から飛翔した。
宙を舞うアルバに一瞬で追い付き、再び杖を彼の顔面に叩き付けた。
進行方向が急激に変化した事で、彼の体が不自然にへし折れ、真下へと落ちた。
落下先は、森だった。
「死ねっ!!」
彼女が中指を立てると、森を構成していた樹木が変化し、木々の葉が散り、枝が絡み合って槍のように変化した。
「情熱的だね姉さん!!」
槍のように変化した木々がアルバの身体を貫き、串刺しにした。
しかし彼の全身から電流が生じ、一瞬で木々を焼き尽くしてみせた。
アルバはその場から起き上がり、焼け焦げた樹の上で彼女を見上げた。
超域魔法を用いずに、アルバに攻撃をした所で、彼の命を奪う事など出来ない。
それは、ナトが一番分かっていた事だった。
彼女は、改めて弟を殺す覚悟を固めた。
「……超域魔法解放」
彼女は息を整え、指先を胸に突き立てた。
傷口を指先で広げた時、内側から光が溢れ出した。
その光景を見て、アルバは満面の笑みを浮かべた。
「超域魔法……閉塞」
彼は仰向けに樹から落ち、大の字に身体を広げた。
緑ではなく黒色の魔力が、彼の身体から溢れ出した。鈍く光るそれは、鉛のような重圧を発していた。
彼の魂の場所として光り輝いたのは、股間部だった。
「何……?」
あまりに露悪的な気配を放つその魔法に、ナトは顔を顰めた。
明らかに、超域魔法が変容していた。
そして次の瞬間、ナトとアルバの心臓部に、鎖が繋がった。
〈__純逆哀咲〉
次の瞬間、ナトは力が抜けるような感覚を覚えた。発動しかけていた超域魔法の光が消え、空に浮かんでいられなくなってしまう。
「なん……っ……で?」
鎧が崩れるように変異していた肉体が剥離し、人間の姿に戻り、その場から落ちてしまった。
彼女の身体には、バルツァーブを封印していた筈の刺青が跡形もなく消えていた。
「おっと……大丈夫かい姉さん」
アルバはナトを受け止めると、同様に鎧が崩れ去り、人間の姿に戻る。
普段の神父服は破け、彼は上裸姿だった。
しかし、ナトは彼の姿を見て目を白黒させた。
彼の身体には、バルツァーブの魂と力が封印された刺青が刻まれていた。
「魂を……改造したの……?」
アルバは深い笑みを浮かべた。
「姉さんを愛してるから出来たんだよ!本来絶対に奪えない超域魔法や魂だって、愛があれば可能なんだ!!」
ナトの瞳が震え、大粒の涙を流して嗚咽し始めた。
父に続き、弟さえも狂ってしまった事実に、彼女の心は悲鳴を上げた。
「なんで……アルバまで……壊しちゃったの」
悲痛に呟いた彼女を前に、アルバの眼差しがほんの一瞬変化し、空を見上げた。
「望んだあの日が遠いから、僕は僕の手で僕を壊すんだ……」
その言葉は、心が壊れる前の残滓が顔を覗かせた瞬間だった。
彼はナトを抱き抱えながらその場に着地し、彼女を強く抱き締めた。
「……これで、姉さんは僕のものだよ」
彼の眼差しが再び情欲に歪んだものに変化し、ナトは顔を青くした。
「嫌っ……」
ナトは怯えた様子で呟き、彼を押し除けようと抵抗するも、今の彼女は力の殆どをアルバに抜き取られており、外見相応の膂力しかなかった。
「さあ、僕たちの家に帰ろう……まだ整えてはいないけど、姉さんだってきっと__」
上機嫌に話していたアルバは、何かに気付いて言葉を止めた。
「ナト……?」
木陰の裏から、イネスが怯えた様子で二人を見つめていた。
ナトから見た彼女は、ひどくやつれており、目の下に溜まった隈は、彼女の精神状態を如実に表していた。
「ああ、丁度いい。お前は消しておかないと」
アルバが掌を彼女に向けるも、イネスは手を震わせ、剣すら握れていなかった。
ナトとイネスの目線が合った。
彼女は唾を飲み、怯えながらも彼女を凝視していた。
そしてナトもまた、彼女が何を望んでいるかを知っていた。
アルバの掌から樹根の触手が射出され、イネスに迫る。
その最中、意を決した二人はもう一度あの日をやり直した。
「……助けて」
その言葉がイネスの鼓膜を叩いた瞬間、彼女の身体が跳ね起き、目にも止まらぬ速さで剣を引き抜いた。
触手は千々に切り刻まれ、地面に砕け散った。
「今度は……逃げないからっ……」
涙を流して応えたイネスを前に、アルバは顔を強張らせ、転移門を呼び出した。
「不味い……」
彼が忌々しげに呟いたその瞬間、彼女の額から眩い光が生じた。
「超域魔法、開始」
彼女の握るフォールティアの刀身が裂け、金色に輝く魔力が右腕に注入され始めた。
『肉体強度の変化を確認。ステージ4へ移行、対神兵装を解禁します』
彼女の顔から隈が消え、衰えた肉体が引き締まっていく。
フォールティアから送られる殺人的な量の魔力が血管を走り、肌に刺青のように浮かび上がる。
刀身から砂のような粒子が溢れ、純白の鎧を形作った。
海のように青いマントをなびかせ、彼女は剣を払った。
〈__無双戦兵〉
精悍な眼差しでアルバを見つめ、片手で剣を持ち上げ、切先を彼に向けた。
「さあ……勇者が相手だ」




