飽食の計~樊城の戦いに寄せて~
固有名詞について
人名:于禁文則、関羽雲長、陸遜、龐徳、糜芳、曹仁、満寵、孫権、劉備、曹操、董衝、董超
地名:樊城、南郡、江陵、許昌、洛陽、鄴
漢水というのは川の名前です。
もはやこれまで……。
魏国の左将軍である于禁文則は、眼下に広がる汚濁した漢水と水面に浮かぶ船団を見て唇を引き結んだ。
西暦219年、後漢末期の中国荊州。
孫権率いる呉と同盟し後顧の憂いを断った蜀の劉備が、魏の軍勢を破り、後漢発祥の聖地漢中の領有権を確定させた直後のことである。
荊州に留まっていた蜀の関羽雲長は、勢いを好機と見て軍を発し、魏を攻撃せんと北上を開始した。
破竹の勢いで軍を進めた関羽は、ついに曹仁が守備する樊城を取り囲んだ。
後に、樊城の戦いと伝わる戦役である。
樊城を救援すべし。
主君曹操の命を受けて陸路南下した于禁であったが、三万もの兵をうまく用いることができなかった。
天候が于禁に味方をしなかったのだ。
季節は晩夏であった。
長雨に見舞われた樊城一帯。沛然と降り続く雨によって、樊城付近を流れる漢水が氾濫したのだった。
大河である漢水の増水を避けようと、于禁は軍を率いて高台に拠った。
雨は連日止み間を持たず、陸路を舟を持たず進軍してきた于禁軍はこの事態になす術が無かった。
「勝敗は兵家の常とは言うが……」
援軍の敗北は籠城方の戦意を大きく削ぐ。于禁の敗北は、樊城の落城と同義だった。
そして、樊城が落ちれば次は許昌、洛陽、そして鄴と続く。
関羽の勢い止まず、いよいよ魏の本拠に迫らんとするのが于禁には目に見えて予想がついた。
自分の負けは最早揺るぎない。于禁は歯噛みをした。
「龐徳殿にもどうしようもないだろうな」
曹仁は遊軍として龐徳を樊城から出兵させていたが、多勢に無勢である。いま、手をこまねいている間にも、まるで乾酪を削り出すように、龐徳の軍勢は縮小していく。
「龐徳殿は徹底抗戦の姿勢を崩さないようです」
報告を受ける于禁の顔は厳しかった。間者が報告を続ける。
「龐徳殿に、麾下の董衝殿や董超殿は降伏を進言したそうです。しかし、『この軍で将兵が俺一人になったとて、決して俺は蜀の蛮族になぞ降らない!』と龐徳殿は案を退け、そればかりか両名を斬首してしまったと」
「馬鹿な。未だかつてどの軍律でも、進言した配下を誅殺して良いとは規定しておらぬ。道理を守らぬ者に一軍の将たる資格は無いわ」
規則を重んじる于禁は苦々しげに吐き捨てた。
いかに于禁の胸が悪くなろうとも、戦況は魏軍に有利にならない。質実剛健で知られる于禁の苛立ちを、部下たちは不安げに仰ぎ見ていた。
「曹仁様は如何なるお考えか」
于禁は密使を通じて樊城内の様子を探っていた。
「一戦役での敗北が、そのまま軍令に背くことと同義ではない。まして相手は関羽殿だ。敗残の将を酷く扱うことは無いだろう」
関羽の性格は「羽剛而自矜」と伝わる。剛直で、傲慢なほど誇り高く、たとい敵将であろうともその能力を認めた人間を厚遇する──まさに英雄たる性格。
「曹仁様も十二分に理解しておられるはずだが」
降伏を選ばない心理的障害は無い。
果たして、于禁の前に密使は跪いて報告した。
「城内では降伏論と抗戦論が真二つに割れているご様子。龐徳様のご様子に、曹仁様を始め多くの将官方弱気になれど、参謀の満寵様が声高に抗戦を主張しておられるご様子」
「満寵殿か。私の下にも文が届いておるわ。山の水は引くのが早く、この状況は長くは続かないと」
「しかし、閣下」
部下がおずおずと満寵の言葉に異を唱える。
「や、山の水が引くより早く、我が軍の兵站が尽きてしまいます。汚水を被った麦や米は腐るのを待つばかりでございます」
「うむ。分かっている」
し、失礼いたしましたっ、と部下は過剰なまでに于禁に頭を下げる。部下に恐れられていることを于禁は肌で感じていたが、さほど気に留めることは無かった。
それよりも、目の前の戦況をどうするかだ。
「蜀軍とて、兵站に余力があるわけでもあるまい。南郡太守の糜芳殿が江陵一帯から兵粮を輸送しているといえど、ここ樊城は蜀の領からはかなり距離がある。呉の領の方が近いくらいだ。蜀軍の補給線は明らかに限界を超えている。長雨に苛まれているのは我が軍だけではないからな。
………………待てよ」
ふと自らの独り言にひっかかりを覚えて、于禁はしばらく沈思黙考した。厳かな雰囲気に、部下たちは固唾をのんで主人の発言を待った。
「……策はある」
ややあって、于禁はひとつ頷くと密使を呼びだした。
「今から文を認める。呉の陸遜都督に届けよ」
陸遜は呉国の将軍で、当時は対蜀の総司令官を務めていた。手紙を書きつつ、「そうだな。言わば飽食の計」と呟いている。聞き返した側近に、于禁は相変わらずの厳しい表情で言った。
「私たちは、関羽殿に降伏する」
「はははっ! 于禁が降伏を打診してきたぞ!」
沛雨の陣中で関羽は高笑いをした。
漢水と白河の封鎖に用いるため用意していた舟が役に立った。天運を味方につけた水攻めがはまって、関羽は殆ど槍を交えることなく于禁軍を下すことができた。
「我が軍は寡兵だが、それでも多勢を追い詰めている! 呉の連中も腑抜けて我らに謙るばかり! 向かうところ敵なしだ! 天が我らに味方しているのだ! この戦い、勝てるぞ!」
関羽は兵士を大いに煽った。嫌気が差すほどの長雨の中で、兵の心を一気に奮わせる。関羽はまさに軍神だった。
戦いの最中、関羽は腕に毒矢を受けていた。医者が骨を削り取る治療方針を説明すると、関羽は「ここでするがよかろう」と言って目の前の碁盤を傍らに除け袖を捲った。外科手術の間中、大胆にも関羽は陣幕を開放して、諸侯ばかりか一般兵卒までにも自らを覗けるようにしていた。
降伏する于禁自らが関羽を訪ねたのは、まさにそんな手術の只中であった。
「于禁殿か」
関羽は鷹揚に渋面の于禁を迎えた。半身を晒し、肘に手術刀を執刀されながらである。于禁の後ろに控える魏国の将たちが関羽の異様にどよめいた。
「魏国の左将軍を迎えるというのに、このようにお見苦しい状態で申し訳ないな」
表面的な言葉とは裏腹に、関羽の声はどこか誇らしげだった。自らの剛毅さを見せつけることができる衒気な性格があからさまであった。
「この関羽雲長としたことが、肘に附子の毒矢を受けてしまってな。龐徳という魏の将なのだが……」
関羽はぎょろりと于禁を見つめた。視線に晒されて、于禁は短く「面識はありますな」と言った。
「龐徳は最期、儂自ら斬り捨てた。一向に降伏などしよらんかった。敵ながら気骨のある良い将であった。
それに対して卿はどうだ? あ゛?」
「…………………………………………」
関羽の挑発を受けても、于禁は表情をぴたりと変えず、伏し目がちに沈黙を保っていた。関羽はへっと面白くなさそうに言った。
「儂は卿のことを買い被っていたのかもしれんな。糜芳や孫権よりは断然尊敬に値する将と思っていたのだがな。…………こんなものを殺しても名が落ちるだけだ。牢に案内せよ。……ああ、仮にも魏国の左将軍だ。丁寧に処遇するのだぞ」
関羽はその赤ら顔を最大限侮蔑色に染めて指示を下した。
「牢って言ったって、三万もいるんだぜ? 一体どこに収容するってんだよ」
案内役の若将がぼやきながら于禁たちを案内する。
三万もの兵卒が丸ごと降って来たのだ。しかも戦闘がないまま濁流に飲まれてしまったために、外傷も負っていない。
「いったん元の陣に帰ってもらうか。ああ、勿論武装は全部解いてもらう」
関羽軍は于禁軍から武具を回収していった。ここは戦場。敵に刀剣を奪われる恥辱に、将官たちはそれぞれに悔しさを滲ませていた。
ただひとり、于禁だけはその表情を変えることなく、淡々と関羽の軍に言われるままに何でも差し出していた。
「左将軍様は、まるで魂が抜かれたみたいだ」
「武官の風上にも置けない」
関羽軍に見張られた高台の拠点で、于禁配下の兵卒は悉く于禁を悪し様に言っていた。
当の于禁はどこ吹く風であった。
「我が軍の兵士の命が総員あるのも関羽将軍のお陰だ。まさに当世一の度量を持つお方。ほれ、諸君。待ち望んだ兵粮ぞ。折角饗してくださっているのだから腹一杯に収めよ」
ただただ関羽を讃え、「たらふく食べよ」としか言わないでいる。長年仕えた魏国への忠誠は微塵も感じられない様子で、そのことがさらに諸侯を失望させた。
しびれを切らし、于禁の側近は涙ながらに奏上した。
「于禁様。このような扱いは屈辱でございます。某には耐えられませぬ。この地の土に還ろうとも、蜀に一矢報いる所存」
「ならぬ」
側近の訴えを、于禁は言葉短かに却下した。
「良いか。変な気を起こしてはならぬ。私たちは関羽将軍に降伏したのだ。しかしそれでいて、命が救われているばかりか、こうやって飯を食わせてもらえている。誇りでは糊口を凌げる訳がなかろうに」
于禁の口調は諭すようでも哀願するようでもあった。側近すら于禁を嘲り始めていた。
「して、戦況はどうなっておる」
客人相応の饗しを受け、すっかり腑抜けたと認められつつも、未だに于禁は戦況を気にかけていた。間者がどこからともなく現れ、報告する。
「はっ。樊城内の曹仁閣下はまだ士気を失っておらず、籠城を堅持されるつもりのご様子でありまする。」
「そうか。して、樊城内部の食糧事情は如何ばかりか。まだ保ちそうか?」
「徹底して切り詰めていらっしゃるご様子なれど、やはり状況は厳しく……」
「関羽殿の方はどうだ?」
「鄴で反乱の計画を立てていたようですが、露見し失敗したと……」
「違う。兵站の事情だ。兵站は南郡太守の糜芳殿が担っておっただろう」
「于禁様」
間者の報告を側近が遮った。「どうした」と于禁が鋭い視線を注ぐ。
「どうしてそれほどまでに兵粮のことを気にかけるのです。現に江陵から樊城までの距離を、蜀軍は余裕をもって行軍してきたではありませんか」
「……そうだな。これまでは、な。しかしそれが果たして続くかな」
質問に質問を返された側近は、目をしばたたいた。
「……あり得ませぬ。兵粮が尽きぬはずがない。絶対に、なにか絡繰があるはずです」
「絡繰か。ある意味ではそうであるが、それほど技巧的なものでは無いぞ」
于禁は言葉を切って、「その方面の調べは如何?」と間者に尋ねた。
「蜀軍は呉国領内で兵粮の徴発を行っている模様にございます。我らの軍の分の食糧も余分に必要となり、とっくに蜀軍だけで賄える量を越えたとのこと」
間者の報告に、側近が息を呑んだ。
「于禁様、それはつまり」
「掠奪だ。同盟国領内からのな。当然、呉が許す訳もない」
于禁は声を潜めて、種明かしをした。
「既に呉の陸遜殿には南郡の攻略を依頼している。糜芳殿は元より関羽殿から罵られており折り合いが悪い。今頃は呉の軍勢に降伏をしているところであろう。
兵粮が尽き、後方の拠点も失い、前後を敵に囲まれて、関羽殿と言えども敗北は必至」
語り終えた于禁は陣幕の垂を上げた。長く続いていた沛雨もこの頃には止み間を持ち、雲間から陽光を見る日も多くなっていた。
遥か彼方に、おびただしい魏軍の旗を見た。樊城の開放が直に迫っていた。
お読みいただきありがとうございました。
「秋の食事」とありながらあんま食事してないな……と少々背中に汗をかいています。
三国志の正史とも、三国志演義とも異なるところがあると思いますが、小説なので脚色は当然あるということでご了解願います。
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