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7、ダイアナ



 日常はゆっくりごく普通に流れていった。


 母とのお喋りや、弟のアシェルの面倒を見ること。長い散歩と針仕事……。これまでのエマの暮らしが当たり前に目の前に広がっていた。


 レオがこの地を立ち、十日経った。彼女への連絡はなく、噂にも聞かない。もしかしたらオリヴィアが何か知っているのかもしれないが、教えてくれる親切は期待できなかった。


 北西部グロージャーのウォルシャー家は大変な名家で、手紙を出すことは可能だ。夜更けに彼のことを思い、手紙を書くことを思い立ったことがあった。しかし、翌朝にはその気持ちはすっかり萎えてしまっているのだった。


 家族や親族以外の婚約者でもない男女が手紙を交わすのは、恥ずべき行為とされている。


(何の約束もなかった)


 気持ちを暗く塞がせるのも、その事実が理由だった。


 滞在中、彼は彼女に優しかった。特別な視線を向けられていると、彼女も信じていられた。馬に乗せてもらったのも、送り届けてくれたのも、時間を割いてくれたのも、


(わたしだけだった)


 と、今も甘く嬉しく思い返すことが出来た。教誨師夫人のベルが言うように、自分たちは「特別な雰囲気」にあったのは間違いないだろう。


(でも、それだけだわ)


 彼は彼女へ約束の言葉を残してくれなかった。思いの欠片は互いに感じ合ったはず。しかし、愛情をしっかりと告げられた訳ではない。


(何も言葉で言ってくれなかった)


 現実を思い知らされ、心が重く沈む。目の前が暗くなる気がする。


 何気ない自分を装い日々を送る。そうしながら、滅入りそうになる自分を鼓舞するため、


(何か、連絡の出来ない事情があるのだわ)


 と慰め、


(待ってみよう)


 と気持ちを落ち着けるのが常だった。


 幸い、ベルが手仕事をたくさん用意してくれた。麻布の染色で、何も考えず集中して作業を行なった。染めた生地を幾度も水で流し、干す。風に揺れるそれらを眺めると穏やかな自分に戻れた。


 生地が仕上がれば、今度はそれらを使った針仕事が待っている。エマはたくさん分担してもらい、励んだ。誰かの家で集まることもあるが、そんな場には決まってオリヴィアはいない。


 だから、誰も彼女とレオの件を意地悪に詮索せず、ふと寂しげに笑う彼女をいたわってくれた。


 もしかしたら、既に周囲からは「他所から来た紳士に気持ちを弄ばれた可哀想なエマ」という、同情した目で見られていたのかもしれない。



 ある日、散歩の途中見知った郵便配達人に会った。スタイルズ家へ宛てた手紙をエマに手渡してくれた。母へのものが一通、それにダイアナからのものがあった。


 諦めかけていたし、手紙のやり取りは不適切であることはわきまえていた。それでも、レオからの手紙がないことに胸が痛んだ。木陰に座り、ダイアナからの手紙の封を切った。


 近況を知らせる内容に続き、来月の初頭に帰省すると書かれてあった。



『…ジュリアたちがお祖母様のお邸に行くの。わたしも招かれたのだけれど、久しぶりだから帰省してはどうかと、ハミルトンさんが勧めて下さったわ…』



(ダイアナが帰って来る)


 嬉しさが込み上げた。


 離れてもう半年以上になる。母もアシェルもきっと喜ぶ。早く伝えてあげたくなり、手紙の続きを読むのを止め、腰を上げた。


 心地いい風を感じながら歩く。その彼女へ手を振る人物がいた。馬車を御しながら大きく手で合図している。すぐにキースだとわかる。この地域では珍しい二人乗りの洒落た二輪馬車だ。


 彼女の側まで馬車を寄せ、


「良かったら、送るよ」


 と言う。


「ありがとう」


 断る理由もない。キースの手を借りて馬車に乗り込んだ。


 馬に鞭を当てながら、キースの視線が彼女の手に注ぐのがわかる。ダイアナからの手紙では、と勘繰っているようだ。


 物問いたげに黙り込まれるのも居心地が悪い。どうせ知られることでもある。彼女はダイアナが近く帰省する予定を知らせてきたと伝えた。


「ぜひ迎えは僕に行かせて欲しい。乗り換える馬車駅まで行くよ」


 勢い込んで言う。


「ご親切にありがとう。でも、まだ何もわからないの」


 キースの迎えをダイアナはきっと辞退するだろう。距離を詰めようとする彼を、やんわりとこれまで遠ざけてきたのだから。


 妹と違い、優しい笑顔をエマに向ける彼が不意に、


「レオが」


 と口にした。もう懐かしくも感じるその名に、エマは気持ちが波立つのを感じた。もう彼が去って、連絡もなくひと月が経っていた。


 飽きたのか、あのオリヴィアさえももう皮肉を口にしない。


「グロージャーの果実酒をたくさん送ってくれたよ。滞在の礼だろう」


「…お元気かしら。お変わりはなさそう?」


 キースを通して彼女へ伝言をくれるのではないか。そんな思いの問いかけだった。


「今は王都にいるようだ。忙しいと書いてあったな。時間がないと。それくらいだよ」


 一瞬膨らんだ期待がすぐにしぼんだ。冷たい落胆に変わる。彼女は顔をキースから背け、流れる景色を涙の滲む目で見ていた。


 今更ながら、レオからの拒絶を突きつけられたように思う。彼の中では彼女はもう過去なのだ。振り返る意味すらない。


 館に着き、礼を言ってキースとは別れた。そのまま中に入らずに庭を歩いた。気持ちを落ち着け、自然に溢れた涙が渇くのを待って家に入った。



 ダイアナを乗せた馬車が館に着いた。知らせをもらっていた時刻が近づくと、エマも母も弟も玄関を出て待っていた。


 立派な馬車が到着し、エマも母も驚いた。駅馬車のそれではなく、ハミルトン家の馬車をダイアナに使わせてくれたようだ。メイドまで乗っており、更に目を丸くした。


 長旅の疲れを見せず、ダイアナの陶器のような頬が喜びでやや上気していた。皆との抱擁の後で伝えた。


「女の旅は不安だからと、ハミルトンさんのご親切なの」


 母が申し訳なく思い、馬車の人々に食事や休憩をとってもらうようにメイドに指図した。


 久しぶりの大きい姉に、アシェルが嬉しげにスカートにまとわりつく。すぐに居間に入り、ダイアナを囲んでの団欒だ。


 ハミルトン家の様子について、あれこれ質問が飛んだ。時に重なるそれらに、鷹揚にダイアナは一つ一つに答えた。


 手紙で知らされてはいたが、直接本人から仔細を聞くと、改めて納得も安心も出来た。家庭教師として若い女性が勤めるには、理想的な家庭のようだ。


 母がダイアナのカップにお茶を注ぎ、


「ベルは街の貴族の邸勤めは、決して勧めなかったわね。裕福な商人の家庭がずっと待遇も良くて、働き易いと繰り返し助言してくれたけれど、本当ね」


 感謝しないと、と頷く。


「ご出身が王都の方だけれど、ハミルトンさんのお父様の代にはお商売の方は固められていて、今では月に何度かご用で滞在されるくらいよ」


「そんな時に、頼りになる家庭教師がお嬢さん方の側にいてくれると、ハミルトンさんもご安心でしょうね」


「わたしは特に。使用人もいい人たちばかりだし、何よりジュリアもアメリアも素直で賢いわ」


 ハミルトン家の使用人が辞去するのを見送ったダイアナが、居間に戻った。それを見て、エマはキースのことを思い出した。


 手紙のやり取りをするには日数の余裕がなく、彼の意向はダイアナに伝えずじまいだった。


(ご自慢の馬車でダイアナを迎えに行けなかったことをきっと悔しがっているわ)


 今更ではあるが、厚意は厚意だ。伝えておく。


「キースが馬車駅まで迎えに行くと申し出てくれていたの」


「そうなの。会う機会があれば、お礼を言うわ」


 とさらりと返す。


「ねえ、エマ」


 ダイアナがエマの腕を取って言う。声を低める。針仕事を始めた母の耳を憚っているようだ。


「あなたの手紙に書いてあった、例のあの方のことを聞きたいのだけれど…」


 彼女は姉の言葉を遮るように目をつむり、首を振った。


「何でもないの。本当よ」


 強い口調にたただならぬものを感じたのか、ダイアナは彼女の耳元に囁いた。


「何でもなくはないのじゃない? 夜にゆっくり話を聞かせて、ね」


 優しい声に、エマはうなだれた。頷く。ダイアナには、誰よりもレオとの件を聞いて欲しいとずっと思っていた。


 どうもならなくとも、それで心が慰められると思うから。




お読み下さりまことにありがとうございます。

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