九話 裕一と書いてドMと読む
プールの中で眠っている気分だ。
定まらない重心、肌に触れることのない重力、全身が大地から切り離されている。髪が揺れ、裕一はゆっくりと瞳を空けた。夜の帳ちりばめられた宝石の砂粒が喜びにその身を瞬かせる。一面の星空、黒紫色のキャンパスに、小さく目を細めた。
綺麗な歌が聞こえる。耳が嬉しげに囁いた。嗚呼、これは夢か。ぼんやりとした思考がその答えを導き出した。澄んだ歌声、独特の奏音、七十二の楽章と十三の旋律。
――意識が急速に感覚を取り戻した。すぐさま肉体――夢の中だが――を掌握、身を任せていた潮流を制御する。
「にゃんだばー!」
とりあえず言葉を発し、自己を確立した。内容にさほど意味はない。自分がここにいることさえ確認できればそれでよいのだ。
「あー、あー、あー。よし、大丈夫。まったく何かな、もう。人がせっかく奥さんとのアバンチュールな夢を見てたってのに」
全方位星空、天も地もない。しかし裕一はある一方向を忌々しげに睨み、小さく嘆息した。わずかに瞳に険を湛える。
凄まじい圧力がそこにたゆたっていた。星空だった一角が消失し、かわりに目を開けられないほどの光が渦巻いていく。でかい。そこ以外、全ての領域が星空のため距離感覚がつかめないが、ろくでもないくらいの大きさであることは理解できた。もはや第六勘的な領域の話である。
「他人様の世界に土足で踏み込むなんて、お教育がなっていないんじゃありませんこと?」
渦は応えない。ただ、その身から一斉に放たれた何億という音律が不協和音となって裕一目掛けて襲い掛かった。理性の最奥が諦観の混じった分析の声をあげる。
これはこの世界の拒絶だ。星空が水面のように震える。木が、森が、水が、命が、この世界を構成するもの全ての意志集合体が、裕一を『いてはならないもの』と見なして襲いかかろうとしているのだ。苦笑する。何とも嫌われたものであった。
濁った楽章が裕一の意識に牙をつきたてた。ああ、こりゃ不味い。意識の片隅でそんなことを呟く。世界に生きる全ての命に食い破られたら、ちっぽけな人間風情の魂など八つ裂きにされてしまう。大いなる力の前では、人など無力な案山子に過ぎないのだ。これは死ぬな。脳内会議が満場一致でその結果を提出した。
なので、裕一は世界の意志をねじ伏せることにした。
声なき悲鳴が心を揺らす。力ではなく技で、正面からではなく背後から、切り裂き、縛りつけ、細分化して叩き潰す。渦が何本もの線によって引き裂かれた。世界が崩れる。法理が絶たれる。それでもなお、手を休めることはなかった。
気がつくと、光の渦は跡形もなく消え去っていた。
「相変わらず、えぐいわね」
涼やかな声が耳を打つ。わずかに心臓が高鳴り、隠し切れないほどの喜びが顔全体に表れた。
「これはあれですかねんごろルートですかそうですかそうに決まってるよね初心なねんねじゃあるまいしではいただきま――」
「一度脳みその色を見てあげましょうか? きっと紫色だと思うけど」
「すみませんでした! 自分調子くれてました!」
飛びかかろうとした瞬間、何でも斬っちゃいそうなお刀様が裕一の首に突きつけられた。刃が肌に食い込んで、身体の熱をどんどん奪っていくような錯覚を覚える。まだ身体さんと離婚したくなかったので、裕一は神の領域に踏み入れんとする速度で土下座した。
「ちょっとしたスキンシップなのに……愛とは耐え忍ぶことと見つけたり」
「ハ!」
鼻で笑われた。きっと液体窒素の海を泳ぐとはこんな感じなのであろう。しもやけしそうな肌をさすって、目からあふれ出る汗をぬぐった。青春の汗は気持ちいい。よく知らないけれど。
裕一は顔を挙げ、視線で氷を押し付けている御方のご尊顔を拝した。真っ白な肌、流れるような金の長髪。目元で切りそろえられた黄金の輝きに隠されているが、そんなの関係ないとばかりに満ち満ちた絶世の美貌、年のころは十五、六の、もう脳回路が焼ききれそうなほどに美しい娘であった。
何よりも目を引くのは、さほど背の高くない彼女の背にたたえられた六枚の翼だった。穢れなき純白、燃えさかる閃光、まったきの白銀。星闇のこの場所で、彼女はまさに太陽のごとく煌いている。
「それで? 今のはなんだったのかしら? 人がせっかくいい夢を見てたってのに。事と次第によっては、貴方に責任をとってもらうことになるんだけど」
「よっしゃばっちこーい! 愛は全てを受け入れる……あ、嘘ですゴメンナサイ」
人間、あまりにも冷たいものに触ると逆に火傷をするそうだ。だがこの場合、裕一には関係ない。何故なら、自分の火傷は愛と情熱による火傷だからである。ちなみに、目は火傷を冷やすために水を出すようであった。初めて知ったぜ!
「さあ? よくわかんないね。なんか世界の意志っぽいものだったけど」
「へえ、世界の意志。たかが世界の意志ごときが私の安眠を妨害したと?」
「そうであります、マム! 全部世界の意志さんのせいであり、自分に責任はないであります!」
へたれとは賢きものの尊称だと思う。人間、ささいな一言で文字通り人生が終わってしまうことがままあるからであった。一つ選択を間違えばやられる! 弟と幼馴染によって鍛えられた生存本能が悲鳴を上げた。先ほどの意志さんの脅威などゴミ屑同然である。
「で? どうして世界の意志なんかがこんなとこにいるの? 一応、ここって貴方の最深部でしょ?」
「報告します、マム! どうやら世界の意志さんは僕の精神世界にハッキングをかけて進入、顕在意識の僕を引きずり込んで発狂させようとしたみたいであります!」
ああ、と天使様は納得の声を漏らした。絶え間なく音律が奏でられるこの場所は、裕一の精神世界の奥の奥、顕在層どころか本質すらも飛び越えた、魂の原初というべき空間であった。そんなところに顕在意識が引きずり込まれたら、発される出力やら真理やら情報やらでパンクして発狂する。哲学者の皆様方が偶然ここに入り込んで、あっぱらぱーのおじゃんになったというのはよく聞く話であった。
「でも僕が発狂するどころか目覚めて意志掌握なんかしちゃったもんだから、作戦変更食い潰しちゃえーとかなんとかなったようであります、マム!」
「いつまで軍隊のりしてるつもり? まあ、いいけど。しかし、貴方も大概人間やめ始めてるわね。こんな場所で世間話なんて」
「あはは、そりゃ違いない。でも僕は『魔法使い』なんだから」
苦笑しながら、裕一は鼻歌を口ずさんだ。この空間に流れている旋律とあわせるように。くるくる踊る。回転、回転、手拍子で一拍。
「正確には、『大魔法使い』でしょ? 魔法使いならここで音律を聴くだけだけど、貴方はその詩を歌えるんだから」
「いやいや。いやいやいや。僕は魔法使いであって、大魔法使いじゃないもーん。あんな仕事と責任で鼻血出しそうな階級なんいらんのだ」
始原律、というものがここにはある。
それは命という名の世界を形作る始まりの調べ。同時に、世界というシステムの正規変革を行うための管理者コードである。魔法とは、すなわち世界の改竄。世界というシステムを意志と技術によって屈服させ、己の望む結果へと変革する奇跡の技。世界の定めた法則にのっとった魔術とは、一線を隔する存在である。
先ほど世界をあっさり屈服させることができたのは、裕一が『魔法』使いだからであった。いわば世界改竄の専門家。どこが弱く、どこをいじれば変革するかなど一目瞭然なのであった。ここか、ここがええのんか。
そして大魔法、始原呪奏詩。世界を管理者権限によって創りかえる創造の技。始原律に己の意思を込めた歌詞をつけることで、ありとあらゆる予定運命を改変するという、平たくいうと公式チートであった。なんという外道。
「大体さ、あのクソジジイどもが始原呪奏詩を永久禁止してる以上、大魔法使いなんて名目上の階級じゃないか。ハイリスクノーリターン、名誉職などいらぬわ戯け!」
「まあ、あの連中にしてはまっとうな判断だとも思うけどね。…で?」
「で? と申しますと?」
「どうして世界の意志とやらは、貴方を潰そうとしたのかしら?」
「さてさて、そこが問題なのですよ」
裕一は腕を組んで笑った。浮いたまま胡坐をかき、天使様の目の前を横へいったり縦にいったり。やがて上下逆さまになった状態で停止した。
「そもそも、世界の意志が何かを拒絶するという現象は、殆ど起きたことがなかったりするんだよね、これが」
「私は貴方みたいに専門知識がないから、分かりやすく要点だけ述べなさい」
「世界ってのは、人間が考えるよりもずっと度量が広いの。大抵の異物は受け入れるし、それこそ理を崩すようなまねでもしない限りは大抵放置プレイ。つまり、普通に考えて僕があそこまで拒絶されることはないとです」
「つまり?」
「あの攻撃は自然的なものではないということ。もっと具体的にいうと、何らかの存在が恣意的に起こした拒絶反応ということでありますよ」
ぶっちゃけ、ラスボスっぽいものの攻撃、みたいな? 直立体勢の姿勢をとり、向きを彼女に合わせた。息がかかりそうな距離まで接近し、首を傾げる。
「多分、僕の世界間移動を感知したどこぞの誰か様が、お前は邪魔ーって消しにきたんでしょ。嗚呼、やだやだ。風情がないねぇ」
「その風情のない奴ってのは誰? この世界の魔王?」
「違うよ」
鬱陶しげに払いのけられ、若干涙目になりながら裕一は否定した。心が痛い。だがこれも慣れれば快楽へと変じるのである。新しい世界の扉を、いざ開かん。
「魔王ではない。もしも先の攻撃が魔王とかいう存在のものであるのなら、コウとゆずきんが生きているはずがないから。だから、これはもっと別の、何か」
「…つまり、義弟には魔王以外にも敵がいる、てわけね」
「案外、これは僕らの敵かもしれないね。まあ、今の段階では何もいえないけど」
うへぇ。嫌だという感情を隠しもせず、裕一はうめいた。しかし、同時に引っかかっていたものがすとんと落ちた開放感も憶えていた。
もともと、胡散臭さは感じていたのだ。勇者と魔王。正義と悪。使い古された、陳腐とさえいえる対局図。だが、それが簡単に、何の疑いもなく当てはまるほど、世界は単純でも不条理でもなかった。裕一は、魔法使いはそれを嫌というほど知り尽くしている。
あまりにも整合性が取れすぎているのだ。この状況は。近年の魔獣の活性化、噂される魔王の出現、勇者の召喚と旅立ち。三流のRPGじみた活劇模様であった。
何かがある。この舞台には、何かが。だが、それが何なのかまではわからない。いいじゃないか。心内で頭をもたげた知識欲が哂った。愉快な愉快な謎解きゲーム。暇つぶしにはもってこいだ。
「一応いっておくけど、貴方、ここに来た目的を忘れてないでしょうね。私たちは義弟を迎えに来たのよ?」
「無論分かっておりますとも」
隙を突いて彼女の背中に抱きついた。柔らかな羽毛が頬をくすぐり、何ともいえぬ心地よさをかもし出している。
「ねえ、奥さん」
「何?」
「ありがとう」
払いのけようと伸ばされた手が止まった。顔を見ると、心底わからないといった様子で困惑している。微笑んで、その頬に自分のそれをこすりつけた。
「だって、僕がこの空間まで引きずり込まれたから、奥さんは心配して出てきてくれたんでしょう? だから、ありがとう」
「……………………………………………………………………礼には及ばないわ」
「――ねえ奥さん。何でそんな夢にも思わなかったって顔してるの? 照れてるんだよね? 俗にいうツンデレってやつだよね? ほら、好きすぎて素直になれないっていう乙女心だよね。そうだよね?」
「…………………………………………………………………そうね」
「何で搾り出すかのような声? 奥さん、あ、ちょっとどこいくの奥さん。ちょ、否定して! せめて否定してから自己領域に帰って! おねがい奥さんカムバァァァァァーック!」
翌日起床すると、裕一の瞳は溢れんばかりの涙でどろどろになっていた。こ、これは昨日不貞寝したときにコンタクト外さなかったからなんだからねっ! か、勘違いしないでよっ!