三十九話 勇者様、ギガ頑張る
ここ数日にかけて続いていた雨雲は、すでに遥か彼方への旅路についたらしい。質の悪いガラス窓に映し出される靄に包まれた紅の世界を眺めて、アラゴン大公ルブルン=カテーリャ=エスパニアは銀製のナイフを巧みに操り魚のクリームパイ包みに切り込みを入れた。
かちゃかちゃと、食器が打ち鳴らすボレロが広々とした大食堂にむなしく響き渡る。つい先日まで、賑やかな面々を主として迎えたテーブルクロスがどこか寂しげに肩を落としている気がして、大公は小さく苦笑した。
今この食事処には、ルブルン以外には数人の侍女しか存在しない。そしてここで食事を取ることを許される身分の者は、自分のみであった。普段ならここに彼の兄や甥、先日までなら勇者たちが同席しているはずなのだが、そのことごとくがこの城から姿を消してしまったとあっては致し方ないのかもしれない。
妙齢の侍女が入れた茶を一口含み、ルブルンは大きく息をついた。昨日から、エスパニア王城はひどくピリピリした空気で包み込まれている。騎士たちは常に大公を守らんと厳戒態勢を敷き、自分に敵対的な官僚――所謂王太子派と呼ばれるものたちは、隠しきれない憎悪を持ってルブルンに相対していた。表立って抗議する者はいない。しかし目つきや態度、その他様々なところで、連中は大公への不信を遺憾なく表明しているのだ。今やエスパニア王国の中枢は完全に麻痺状態である。
それもこれも、一昨日未明に起こったという王太子暗殺未遂事件のせいであった。
甥が不埒な賊に切りつけられて行方不明。その情報は王城内を駆け巡るとともに、豪胆で知られる王国の大貴族たちを未曾有の混乱にたたき落とした。王太子派で知られる王国開闢以来の名門出の伯爵など顔面蒼白にして気絶する醜態を見せ、逆に大公派――とかいうもの――のとある侯爵は狂喜乱舞して誰も見ていないところで踊り狂っていたらしい。どちらにしろ、政府としての機能を失ったことは確かだ。
王太子派はすぐさま甥の安否を確かめるとともに、下手人の捜索を開始した。けれどそれはもはや捜査等ではなく、完全な証拠固めと言っていいものであろう。
それを知らぬ誰もが、大公あるいはそれに与するものの仕業だと疑っていなかった。
それを知らぬ誰もが、これを受けて王太子の廃嫡を宣言するとともに、ルブルンがいと高き玉座へ上るものだと疑っていなかった。
しかし、それらの動きを受けてアラゴン大公ルブルンは何らの声明を出すことなく、今なお黙して語ろうとはしなかった。その口からは否定の言葉も、肯定の笑いも飛び出してこない。ただ黙々と大公としての責務を果たすのみであった。
それは仕方のないことであった。何故なら、この件に関して語ろうにも、ルブルンには肝心の舌に上らせるべき台詞が一切存在しなかったからである。それでも、あえて言葉を探すのならば、彼の発するべき思いは次の一言に集約されてしまうだろう。
即ち――くだらん、という一単語に。
クリームのパイ包みを片付けると、今度は大皿に盛られたサラダを小皿に取り分けた。侍女の一人が空いた皿を抱えて食堂を後にする。
「大公殿下」
ふと、すぐそばに立っていた妙齢の侍女が深々と一礼しつつルブルンに言葉を投げかけた。ナイフとスプーンで挟んだ野菜を皿に戻し、大公は何だと問い返す。すっと、侍女の視線が自分から離れて今しがた給仕が出て行った扉へと移された。
はて、この侍女はどこかで見た覚えがある。ルブルンはしばし自分にとって重要度の低い記憶――人の名前が詰まった箱をひっくり返し、ああと発見の呟きを洩らした。
「君は、兄上付きの侍女だったね。うちの薬師が世話になってると言う」
「はい、殿下。リリアーノのおかげで、我々も大層心強うございました」
リリアーノ。そう言われて大公は、亜麻色の女を思い浮かべた。ああ。そう言えば、そんな名前だった。カップを傾け、茶をすする。
「それで、私に何の用かな? 別にお礼を言いたかったわけでもないだろう?」
そんな理由で主の食事を邪魔するなど大罪である。よほど大した理由なんだろうな。ルブルンは暗にその言葉を突き付けた。侍女はにこりともせず、じっと扉を見たまま右手を視線と同じ方向に差し出す。
「殿下に、お客様がお見えでございます」
「…客? 面会はすべて断るよう言っていたはずだが」
国王が崩御し、王太子も行方不明。そんな状況故、しばらく面会は謝絶する旨をひそかに貴族たちに通達したばかりである。でなければこんな風に一人優雅な夕食などとれるはずも無く、今頃有力貴族や各国大使との面談でてんてこ舞いになっていたことだろう。
「心得ております。ですが、どうしてもお断りできぬお方でござましたので…」
侍女は淡々と物言いを崩すことなく扉の方まで駆けより、もう一度こちらに向けて一礼した。取っ手に手をかけ、両開きの出入り口を大きく開け放つ。とたんに金属がぶつかり合う独特の音色が大食堂中に響き渡った。剣や鎧の留め金が高らかに張る戦歌。ルブルンはゆっくりとカップをソーサーに置き、椅子の背もたれに全体重を預ける。ぎしりと、ちょっとばかり嫌な音――主に体重にとって――が耳を打った。
「やれやれ、食事中にお客を呼ぶなんて、少しばかり無礼じゃないかい? それに私は許可した覚えはないんだがね」
「申し訳ございません、殿下。ですがこれは我が主のご命令ですので」
侍女が一礼すると、闖入者たち――即ち、完全武装の騎士団が一斉に剣を抜き、大公に切っ先を突き付ける。銀の輝きがまぶしい、正真正銘この国の騎士たちだ。
「で、何だね。君たちは。私は今、大事な儀式の最中なのだが」
「これは失礼いたしました。ですが、その儀式とやらを待っている時間がなかったものですから。ご機嫌いかがですかな、叔父上?」
「最悪だよ。食事は私の人生で二番目に価値があるものなんだ。それを邪魔されて、機嫌のいいはずがなかろうに。やれやれ、君にはもう少し、礼儀というものを教えるべきだったね。我が甥よ」
大食堂全体の出入り口全てを封鎖し、惚れ惚れするほど綺麗な包囲網を敷いた騎士の一角が割れた。分断された部分の両端にいた騎士が、儀仗よろしく剣を高々と上げてその人物の来訪を祝福する。ゆっくりと、ルブルンの前に一人の男が足を踏み出した。均整のとれた肢体、驚くほど端正な顔、ところどころわざとらしく巻かれた包帯も、しかし彼の荘厳さを損なうほどの力はない。
「いえいえ、叔父上にはすでに数え切れぬほどの教えを受けておりますよ。今だって、ほら、事ここに至るまで何の手も打たなかった敗残者の末路、それを、御身を持ってご教授下さっている」
にこやかに。それこそまるで世間話をしているかのような朗らかな笑顔で王太子は嗤った。その芝居がかった動きは、普段いくつかの事象を除いて何ら心を動かすことのないルブルンをして、ある感情を喚起せずにはいられぬほどに洗練され、力強いものだ。大公はカップを傾けることで、どうにか身の内に湧き上がるその感情を頬肉の堤防でもって押さえつけようと努力する。
「怪我は、もういいのかね?」
「ええ。おかげ様で」
甥は頭や手など、外から見えやすいところに巻かれた白布を愛おしげに撫でた。本来ならば傷を癒す目的で結ばれた彼女らは、しかしその身を汚すことなく己の純白を守り続けている。汗も埃も、あるべき赤い雫すら一滴たりとも抱いていない。
ルブルンの皮肉を含んだ言葉に、甥は常と変らぬにこやかな笑みでもって答えた。最初からわかりきっていた答えだが、ついつい問わずにはいられない。何か別の言葉を吐いていなければ、今にもとある激情がこの身を支配してしまいかねないからである。
「我が甥よ。老婆心ながら忠告しておこう。君には俳優としての才が全くない。『大公派とかいうものの騎士によって襲撃された』などと、陳腐すぎて笑う気にすらならないぞ」
「現実とは得てして陳腐なものですよ。いえ、あり触れているが故にリアルなのでしょうか。どの道、大公派の騎士が私を襲ったのは紛れも無き事実。変えようのない過去です」
「大公派? そんなものがどこにあると言うのだね。この城には最初から王太子閥しか存在していないじゃないか」
「はは、叔父上こそ何をおっしゃいますのやら。ほら、すぐそこにもいるではないですか。大公派の騎士殿が」
甥は会話の途中でも気を抜くことなくルブルンに剣を突き付けている騎士数名を指差した。指された男たちはその顔に一切の感情を浮かべることなく、黙々と己に課せられた役目を遂行し続けている。
「ほう、彼らが大公派とやらかね。だが、私はそんなものを作った覚えはないのだが?」
「はは、まさかそんな。彼らは常日頃から叔父上にお味方すると宣言していた忠臣たちではないですか。常に大公殿下の御身を守り、地盤を増やし、日和見する諸侯まで引きこんで。いやはや、類い稀なる忠義の心。羨ましい限りです」
朗らかな声は、まるでルブルンの人徳を心から褒め称えているように弾んで響いた。それが皮肉以外の何物でもないとわかっている自分でさえ、あるはずのない真摯さを感じてしまうほどに。思わず苦笑する。
「それもこれも、全て君の差配だろうに。やれやれ、全くもって意味不明だな。何故、わざわざ大公派などという偽りの勢力を造り上げたのだね? はっきり言って、無駄骨以外の何物でもないと思うのだが」
椅子を引いて、ゆっくりと立ち上がった。福々しい腹を王太子に向けるよう突き出し、ルブルンは柔らかな顎に指をうずめて熟考する。
そもそもの問題として、ルブルンは派閥など作った覚えがない。というか、現在のエスパニア王国の対立構造自体が、彼の預かり知らぬところにある代物なのだ。継承問題? お家騒動? 何であろうか、それは。食べたら美味しいのか?
ルブルンには自身が王位継承を巡る争いに巻き込まれているという自覚は粉微塵も存在しなかった。彼にとって、問題が起こると言うこと自体が理解の埒外にあるのだ。
理由は簡単である。アラゴン大公ルブルンは、エスパニア王位に対し何らの興味も抱いていないからだ。
むしろ、そんなものを欲しがる人間の気がしれないとすら思っている。玉座など、ただ座り心地のいい椅子でしかないではないか。そんなもの、そこらの少し割高なソファで充分事足りる。そう、彼女を目覚めさせることかなわない権力に、いかほどの価値があろうか。
「私など放っておけば、君は何の障害も無く玉座に就くことができたはずだ。それなのに何故、こんな摩訶不思議な対立を作り出した? 君の治世に不要な貴族を粛正するためにしろ、ここまで事を荒立てる必要もなかったはずだろうに」
脳裏に権力に擦り寄るしか能のない名門貴族数人の顔を思い浮かべ、小さく苦笑した。その全員が一人残らず自派と目される集団――という名のゴミ箱――に帰属しているのを見たときは、あからさま過ぎて笑えたものだ。
そのことを指摘すると、しかし王太子はひどく芝居がかった様子で首を横に振った。
「それこそ御冗談を、ですよ。あのままいっていれば、王位は確実に叔父上のものになっていた。よもやお気づきでなかったわけではありますまい? 陛下――父上のご心情を、私には決して向けられなかった、あの方の溢れんばかりの信頼を」
ま、さしてほしいとも思いませんでしたけど。くすくすと小さな苦笑が艶やかな唇からこぼれおちた。先ほどから毛筋ほどもひび割れぬ笑顔。ルブルンはふと、妙な違和感を覚えた。確かに甥は物心ついたころから――もっといえば、王族としての自覚を持った時から、ひと時たりとも笑顔の仮面を外したことがない。少なくともルブルンは彼の生の感情なるものにお目にかかったことはなかったし、聞くところによると国王も幼少期以降は見たこともなかったらしい。
感情を他者に見せない。これは王族や貴族、国政に携わるものが等しく負わねばならない習慣であり業だ。だが、と。大公は身の内から湧き上がる強烈な疑問にとらわれた.
「信頼、ね。で? そんなものが君の妄想の根拠になったわけかな?」
「さて、どうでしょう。ただまあ、亡くなる直前――文字通り、今際の際に御下へ召されるという一事だけでも、そう判断する理由たりえるのではないですか?」
ルブルンはしばし、沈黙した。先ほどから焦がすどころかあぶりにあぶる感情の焔が内側よりどんどんと扉を叩いている。ぐっとかんぬきをかけ、暴れる激情を押さえつけようとした。けれど、それは無駄な足掻きだった。彼の抵抗は心という名の魔物によってたやすく食いちぎられ、丸々とした全身の主導権が理性の手寄りはく奪される。ルブルンはぐっと前のめりになるよう身体を折ると、とうとう己の欲求全てを口から吐き出した。
「ぷ…くく、くは、くははははははは! あっははははははははは!」
周りを取り囲んだ騎士たちから動揺の気配が立ち上る。狂ったように嗤うルブルンは、過呼吸で大暴れする肺と心臓を必死で押さえながら身体をくの字に曲げた。足が熱された蝋のごとく溶け崩れそうになる。
「そ、それで………!? そんなことで、私を巻き込んだと………!? くは、くはは、何とまあ…………!」
滑稽だった。あまりにも滑稽で、ルブルンは際限なき笑い地獄へ説き落とされる。
嗚呼――ルブルンは、笑いながらも大きく吐息した。何と愚かな甥だろう。たかだか王位ごときのために、ここまで大がかりかつ意味のない行動を起こすなんて。
そんなことをせずとも、自分は最初から玉座に興味など抱いていなかったというのに。
「あまりにも嗤え過ぎて腹がよじれそうだよ、我が甥。そんなちっぽけな猜疑心のために、ここまで騒乱の火の粉をまき散らすとは……くく」
こらえきれずに、もう一度噴出した。にわかに騎士団から怒気と困惑の霧が吹きあがる。真っ二つに分かれた彼らの反応に、ルブルンは甥がどちらの表情を浮かべているのかほんの少しだけ気になった。未だ暴れる腹部を抱えながら、彼は愚かな王太子の顔を焼きつけるべく目じりにたまった涙を綺麗にぬぐい去る。
――そして、ぴたりと笑いの波が止まった。
「……何がそんなに面白いのだね?」
「どちらかと言えばそれはこちらの台詞だと思いますけれど」
微笑み。先ほどと寸分変わらぬそれをたたえて、王太子はさもおかしそうに肩をすくめた。その顔には怒りも動揺も一切なく、まるで澄み切った水面のごとく穏やかだ。ルブルンは先ほども覚えた違和感が強烈な刃となって身に突き刺さった事を悟る。
「まあ、あれですね。他人の振り見てわが振り直せとは、よくいったものだな、と思いまして」
「……どういう意味だ?」
自然と声音が下がった。もはや先ほどの突き動かすような衝動は粉微塵へと消え、代わりに湧き上がったのは言いようのない苛立ちである。
「ふふ、説明したところで叔父上にお分かりになるとは思いませんし――語ったところで、何の意味もない。なぜならば」
王太子が片腕を上げた。金属を打ち鳴らす音が一斉に響き渡り、鋭いにび色の刃に力がみなぎる。
「既に幕は上がり、舞台は整ってしまった。あとはただ、道化のごとく踊るのみ。
――道具は道具らしく、ね」
困ったように、あるいは楽しそうに。しかしそうでありながら、一切の感情も表さぬ笑顔を共にして。
腕が、振り下ろされた。
★★★
仮に城門前の風景を描写するとしたら、次の一言ほど的確かつ明朗な言葉はこの世には存在しないはずであろう。否、ひょっとしたらより優れた表現があり得るのかもしれないが、およそ凡夫とは天と地ほども差を有す神崎幸二の語彙といえどもそれ以上の台詞を吐きだすことはかなわなかった。
つまるところ、こういうことである。絶賛、大混乱。
幸二たちがエスパニア王城の口にたどり着いたとき、その場にあったのはただただ惑乱の一時であった。同じ鎧をまとった騎士の集団同士が剣を突き付けあい、充満した殺気――というには、いささかその偏重が一方に偏っていた。片方は今にも逃げ出したそうに腰を引いて武器を構えている――が今にも爆発せんと火種を振りまわして暴れ狂っている。
ある身なりの良い壮年の男が自分は王太子派だと騎士の後ろで叫ぶと、そのすぐそばにいた軍人風の貴人に「裏切り者」とののしられた。彼らに相対する騎士から嘲笑が津波のごとく押し寄せ、それに激高したひと際きらびやかな鎧の男が豪奢な剣を抜き放つと、たちまち味方の衛兵に押し戻される。
「ワーラヴィア卿、おやめください!」「離さぬか、貴様ら! 恐れ多くも大公殿下より賜りし恩顧を汚すとは、その罪万死に値するわ!」
幸二はその様子を幾分離れた茂みに隠れながらじっと見つめると、やがてお手上げだと文字通りの意思表示を行った。
「どうなってるんだよ、あれ」
「ふむ、ここから聞く限りでは、王太子派と大公派が正面から衝突したと考えるべきだろうね。そしておそらく、仕掛けたのは王太子派」
「では、エンバル殿下はこのために……?」
かがみこんでいた幸二の背中に、ぐっと押さえつけるかのような力が加わった。さらりと頬を黒い絹糸がくすぐるように垂れ下がる。
「状況から考えると、そうとしか思えないのだけど………。ちょっと動きが速すぎだね?」
「前々から用意していた…ということではないでしょうか?」
「ま、そう考えるのが妥当なのだけど。それだとどうして前々から準備していたのか。そして何故今動いたのか、という問題が浮上してしまうわけだよ、君」
さらにぐっと抑圧が強まる。ただし、今度のそれはいささか遠慮があるのか最初の者よりもずっと小さかった。
「ま、前者に関しては色々理由も思いつくから置いておくとして、問題は後者だね。王太子が何者かに襲われて負傷した。なるほど、大義としては十分とはいえないものの、釈明できなくもないものがある。けれど、国王の喪が明けるどころか葬儀すら終わっていないこの状況で動くなんて、他国に介入してくれというものじゃないかな?」
「迅速に済ませる自信があってのことなのでは? 他国に崩御が伝わる前に、一気に国内の禍根をつぶす」
「崩御の知らせを聞いて慌てて登城した貴族連中もろとも、頭をつぶすか。理由としては妥当だけど………うーん」
「何か、お気づきのことでも?」
「…どうにもね、引っかかるんだ。何だろうか、このなんとも言えない――ぐだぐださは」
「…………どうでもいいけど、俺の上で真剣に議論するのはやめてもらえないか?」
とうとう耐えきれなくなり、幸二はできる限り低い声音で上の二人に抗議した。自分の背中にそれぞれ肩肘をついて体重をかけている幼馴染とお姫様は、それに対していっそ見事なほど正反対の反応を返してくれる。
「す、すみませんコウジ様……。その、つい……」
「はは、乙女に介添えをするのは紳士の義務じゃないのかな?」
「悪いけど、俺は紳士なんかじゃないんでね。ていうか、絶対に違う」
紳士と言えば、本来ならば男が目指すべき精神や立ち居振る舞いの事を指すのだろうが、生憎と幸二の紳士像はさる身内のせいで世間一般のそれと大きな乖離を有していた。
その原因となった身内は自身を紳士と称していた。そう、同類項でHEN★TAIと結ばれてしまうアレである。
「そんな! コウジ様はご立派な紳士です!」
思わず血を吐いて号泣しそうになった。砂漠から水分を絞り出すがごとく全身全霊をもって幸二はゆっくりと顔を上げる。
一点の曇りもない真剣な表情がこれほど痛いとは思わなかった。幸二は数瞬垣間見ただけで、逃げるように少女の美貌から眼をそらす。わかっている。わかっているのだ。彼女の言う紳士が文字どおりの意味なのだと。むしろ自分の認識しているそれが、いかに世間の――故郷、異世界問わず――それと乖離しているかくらい、きちんと理解できている。ただ、頭で理解することと納得することの間に、せまく深い溝があるだけなのだ。
「これこれ、妾ののしかかるところがないではないか」
そしてしばし二人の少女を背に負う状況を見守っていた褐色の美女から、そんな要望が飛び出した。本気で言っているのか冗談なのか、残念ながら彼女の微笑から読み取ることはできない。けれど、ほんの少しだけにやついた印象を受けるのは、はたして自分の気のせいなのか。
「ああ、すまない。では私が代ろうか」
にこにこと柚木は身体をのけ、場所をライラへと譲り渡した。クリーム色の髪をなびかせて、竜の姫は幸二の背中半分に両肘を置く。ほんの少しだけ柚木よりも強い重みを感じた。
後はもはや、収拾のつかない雑談のみが展開した。
「……あ、あの」
「ほうほう、これはまた、以外と心地よいの」
「昔はゆー君と並んでよく枕にしたものだよ。ま、今はもう筋張ってて堅いからそんなこともできないけどね」
「…………いや、やるなよ」
「ま、枕…ですか? その、コウジ様を?」
「――あのぅ」
「どうせならもっと丸々してくれた方がきっと寝心地は良いと思うよ、君?」
「俺の存在価値は枕だけなのか!?」
「――あのっ」
「………え?」
「ちょっと待て何だよそのあからさまに「違うの?」って顔は!?」
「確かに、もう少し柔らかい方が肘もいたくならずに済むのだがの」
「そんな、コウジ様は今のままでも素晴らしい肘掛けですっ」
「……モニカ。気持ちはありがたいんだけど、それ、褒めてないから」
「へ、あ、すみません!」
「――っ、あのお!」
唐突にかけられる大きな声。幸二ははっとしてその主の方向に首を曲げた。亜麻色の侍女が瞳からこぼれ落ちんばかりの涙をためて、ぐっとエプロンを握っている姿が視界にはいると、思い切り頬がひきつる。心なしか煤けた雰囲気を醸し出すリリアーノは、そのどこか全てを諦めきった表情によって、非常に直視しがたい何かを全域にまき散らしていた。
「あ…リリアーノ」
「…私のような端女ごときが、勇者様方の御言葉を遮るなどはなはだ無礼と存じますが……何卒、何卒殿下の事を」
「いや、別にエンバル王太子の事を忘れていたとか、そういうことではないんだけどね」
あまりの悲壮さに、さすがの柚木も若干頬をひきつらせていた。まあまあと手のひらで侍女を抑えると、黒髪をかき上げて未だ騒乱収まらぬ城門を一瞥する。
「あれでは、ね」
このままあそこに出て行って「入れてくれ」「はいどうぞ」などといくわけがない。強行突破可能だろうがいくらなんでも外聞が悪すぎるし、秘密の抜け道はあるのかもしれないが、知っているのはそれこそ王族くらいだろう。はっきり言って、八方ふさがりであった。
「城に入る手立てがない以上、我々にはどうすることもできまいよ。何かきっかけでもあれば話は変わるのだが、そうそう都合よく何か起こるわけもないし――」
轟音と共に、空が灼熱の紅に染まった。
「…おやま」
柚木のどこか間の抜けた声をかき消すように、堅い何かがひび割れ砕け散る破砕音がこだまする。慌てて顔を天へ向けると、壮麗な白亜の城の一角が痛々しい傷とともにその身の内を外気に露呈させているのが見えた。大小のがれきが重力の腕に抱かれ、まっすぐ大地の胸へ飛び込んでいく。
「っ!」
幸二は素早く魔力を練り上げ、呪文を唱えた。まばゆい光が両の掌へ収束すると、それを一気にがれきの群れへと照射した。凄まじい熱量を宿した光線が巨石を瞬く間に蒸発させる。しかし全てを防ぎ切ることは不可能だった。
城門で言いあっていた貴人らの悲鳴が上がる。だが残念なことに、彼らに逃げる暇などありはしなかった。身なりのいい男が腰を抜かしたところに、人間よりも大きな石が降り注ぐ。
「不味い…!」
呪文詠唱する暇さえない。幸二が茂みより身を乗り出した瞬間、すぐそばから巨大な圧力が三つ吹きあがった。先ほどの幸二の魔術に勝るとも劣らない火線が落下するがれきを薙ぎ払い、小さいが鋭い破片を現れた水流が押し流す。夜よりもなお暗い闇がいくつもの塊を呑みこみ虚空へと消えた。
彼らの直上からとりあえずの脅威が去ったことを確認すると、幸二はその場にへたり込みそうになるほど安堵をおぼえた。刹那の間をおいて、無人の野へ下った石がもうもうと土埃を夜空へと押し上げ始める。もうもうと立ち込める砂塵がこちらに来ないことを祈りつつ、同じく茂みから抜け出た三人へと首を向けた。
「また派手にやったの」
「間に合ってよかったです」
飄々としたライラはともかく、モニカは胸に手を当てて大きな吐息をついた。興奮と緊張で多少ひきつってしまっている頬を揉む金髪の娘に幸二はねぎらいの言葉をかける。
「む、妾にはなしなのかの?」
「いや、そんな。ライラ、さんもお疲れ様」
「呼び捨てで構わぬと言うに。そうはっきり区切られたら違和感しか覚えんよ」
からかうように笑う褐色の美女に苦笑を返す。ほんの少しかいた冷や汗を手でぬぐうと、幸二はもう一人の功労者へ視線を向けた。
「…柚木姉?」
闇を操った彼の幼馴染は、しかしどういうわけか難しい表情で己の掌をじっと見つめていた。そのただならぬ様子を見て取ったのか、モニカもどこか気遣うように柚木の顔を覗き込む。
「いかがなされましたか、ユズキ様?」
「…ん? あ、いや、何でもないよ。少しばかり気になることがあっただけで。それより、誰も怪我はしていないね?」
明らかに何かをごまかしている感じではあったが、幸二は無言で首肯した。長い経験から、彼女がこういう態度に出たときは絶対に胸の内を明かさないと知っていたのである。
少なくとも、誰かさん以外には。
「き、貴殿らは……!」
豪奢な鎧の貴族――確か衛兵からワーラヴィア卿と呼ばれていた男が、たるんだ頬肉を震わせながら地におろした腰を震わせた。すぐ間近まで迫っていた落石と、風に乗って城壁を上り始めた土煙によって現実に引き戻された貴族たちも、三々五々誰何の声を上げ始める。もっともその声に張りはなく、顔面は蒼白を通り越して真白となっていたが。
「お怪我はありませんか、皆さん」
しかしそんな様子も、柔和に微笑むモニカの姿を認めたことで瞬く間に変化した。次々と血色が戻り、新たなざわめきが場に舞い降りる。
「あ、貴方様は…モニカ王女殿下!?」
「双竜の勇者様……お、御戻り下されたのか!?」
「もしや、王太子殿下の招集を御受けになられたか!」
「いや、俺たちは」
口ぐちに喚き立てる貴族たちに辟易していると、突然鋭い一括が雷のごとく場を切り裂いた。裂ぱくの気合がたちまち大勢の貴人の自由を奪う。その戦時もかくやという空気をまとって立ち上がったのは、ワーラヴィア卿であった。豪奢な鎧をまとった貴人は、まず幸二の手を握り、次いでモニカと柚木の手の甲に口づけを落とした。
「勇者殿、まずは某共の命を御救いいただき、感謝いたす。おかげでオバル二世陛下に不名誉な謁見を賜らずに済んだ」
「あ、いえ、お気になさらず」
いかにも怠惰な貴族、という姿を体現したワーラヴィア卿の、言い方は悪いが全く似合わない真剣なまなざしを受けた幸二は、思わず引きつった苦笑を彼に返す。多分に愛想が含まれていたそれに、しかし卿は気にするそぶりもなく、貫くような眼差しで自分たちを睥睨した。
「恩人にこのような事をおたずねすること、まことに慙愧の念に堪えませぬがこれも我が殿下より賜りしお役目のため。どうぞ無礼をお許しいただきたい。勇者殿、並びにモニカ王女殿下、貴殿らはどのような理由で城に戻られた? 是非、某にお聞かせ願いたい」
彼の御世辞にも豊かとはいえない頭頂がきらりと光った。どことなくシュールな光景とは裏腹に、彼から発される圧力は筆舌に尽くしがたいものがあった。気を抜けば思わず後ず去ってしまいそうなそれを、幸二はぐっと腹に力を込めて前へと押し戻す。この気配には幾分か覚えがあった。ゼルドバール国王、ルドマン聖騎士団長、そして自分の兄が、時折発する空気に酷似しているのだ。
もっとも、兄がこれを纏うのは夏と冬に催されるとある祭り、それに出店する何かの閉め切り間近だけであるが。
「殿下、殿下をお助けいただくためにございます!」
どう答えたものか悩む暇もなく、回答を叩き出したものがいた。リリアーノ、亜麻色の侍女が手を胸の前で組んで訴える。
「殿下をお助けに………?」「だが、それはどちらの……?」
その台詞に貴族たちが大いに揺れた。何故か互いの顔を見合わせると一斉に小声でささやき合う。ワーラヴィア卿はますます顔を険しくして、さらに鋭くなった言葉の矢をこちらへ射かけた。
「…重ね重ね御問いする無礼をお許し願いたい。それはどちらの殿下のことでありましょうや? 大公殿下か、王太子殿下か…お聞かせいただきたい」
ぴりりと頬が突っ張った。乾きすぎて刺々しささえ感じる空気が幸二の肌を浸食し、潤いという潤いを根こそぎ奪い去っていく。ごくりと誰かが唾を飲み込んだ。
さて、どういったものか。ほんの少しだけ柚木、モニカに視線をやった。柚木も言っていたが、これはエスパニア王国の内政問題。部外者の自分たちの行動いかんによっては、この国どころか周辺国にまでその影響が波及する。あちらでは一高校生、しかもこちらの基礎知識も薄い状態である幸二にはいささか荷が重かった。平素から知識だの問題意識だのを持っている兄や幼馴染とは違うのである。ちなみにこれは自分が脳筋だからではない。断じてない。絶対。
「ふむ、どちらの味方か、かね?」
柚木が一歩足を踏み出すと、たちまち視線が彼女に集った。いや、わかっている。わかってはいるのだ。どうせ自分には答えられる問題ではないことくらい。でも何故か、ちょっとだけ悔しかった。
「それは――」
ちらりと上を、もっと言うなら城の一角を見上げて、柚木はほんのりと苦笑する。
「あれかな?」
その言葉を受けて幸二を含めた全員が同じ場所に目を向け――絶句した。
★★★
「わからないな。嗚呼、わからない」
ルブルンは塵芥にまみれてしまった料理の残りを悲しげに見やった。白い石壁の粉が皿の上に散乱し、せっかくの新鮮なサラダが石灰の彫刻となってしまっている。これではもはや食べられなかった。
こみ上げてくる悲しさと苛立ちを視線に乗せて、大公は同じく破片で埋め尽くされてしまった食堂を今度はさして感慨もなく睥睨する。低いうめき声がそこかしこから立ち上った。煌びやかな鎧は見る影もなく薄汚れ、それをまとった誇り高き戦士たちは無様に地へ伏し聞くに堪えない苦痛への呪詛を吐き散らしている。
ルブルンはそれら邪魔な置物を無視して、この場で自分を除けば五体満足で立っている人影――彼の甥と先ほどまで給仕をしていた侍女へ歩みを進めた。
「君が何を考えているのか、何をしたいのかが全く見えてこない。まるで出来の悪い三文芝居を見せられているようだよ、我が甥。この形容しがたいペーソスをどうしたらいいのだろうな?」
「恐れながら叔父上。道具の身にてこの世でわかることなど何らありませんよ。我らにできるのは、ただ見通すことのみ」
「ほう、では君はこの状況をも見通していたと言うのかね?」
ふわりと、自分の前に茶色の影が複数降り立った。円らな瞳に獰猛な輝き、もこもこ毛皮に不釣り合いな巨大な剣や槍がぶおんと空を切り裂いた。
「はは、いつ見てもかわいらしい。それが数多の血を吸ってきたおぞましい凶器とは、とても思えません」
自分を中心に扇を描くように布陣したクマのぬいぐるみ――ルブルンが人形繰りから借り受けた魔導人形は、命あらざるもの特有の無機質さを持って一斉に己が武具を掲げる。明確な殺意を付きつけられれば、さしもの貴公子も脆弱なバカ息子になり下がるだろうか。小さな疑問はしかし、心のどこかで予想していた結果を得てずこずこと心奥へ引きさがった。
ことここに及んでさえ余裕を失わぬ甥。その事実を目の当たりにした瞬間、ルブルンの意識は若き王太子のカテゴリを変更する決定を下す。すなわち、狭視眼的な愚者から最優先で滅するべき強敵へと。
「なるほど、真に愚物だったのはこの私か。遠きにとらわれ近きを見誤っておきながら、あれだけ得々と語るなど、赤面の至りだよ。穴があったら入りたい」
「よろしければ、あちらなどはいかがですか? 生憎と横穴ですが」
「いいや、遠慮しておこう。丸くなって不貞寝するにはいささか早い。それにだ」
ルブルンは白に染まりつつある星柄のキャンパスを眺め、首を振る。
「この上、君が開けてくれた穴に入るなど叔父の面目丸つぶれじゃないか。せめて自分の穴ぐらい自分で掘るさ」
焦げ目の附いた壁面の大穴、それを空けた張本人はさも残念そうに肩をすくめた。
そう、食堂の風通しを良くしてくれた野性的な窓を造りだしたのはルブルンではないし、配下の人形たちでもなかった。これは王太子派の騎士連中を蹴散らした際に、甥が自ら火系の攻撃魔術でもって破壊した代物だったのである。
これがルブルンあるいは人形への攻撃を表しているのであれば、自分もここまで悩みはしなかった。ひょいとかわすか、人形繰り御自慢のクマ共による防御で抑え込み、やれやれと肩をすくめば事足りたはずである。だが、現実はそうではない。
甥はどんな迷弓兵でも飛ばさない方向へ火球を打ちこみ、何の変哲もない壁面に風穴を開けた。無意味な、何も考えず自棄になったとしか思えないほど無秩序な攻撃。普通に考えればそのはず、なのだ。
だが、甥のたたえる底知れない笑顔を目の当たりにすると、それが本当に何らの役割も担っていないと断言する気には絶対になれなかった。薄ら寒さすら感じる不快感が足から這い上がって腹を撫でる。
「だが、まあいい。そもそも私にとってそれらのことは全て瑣末ごと。君が何を考えていようと、私の邪魔にならないならよし。もし邪魔になるのなら、排除するだけだ」
ルブルンは考える事を放棄した。わからないものは仕方がない。世の中、理解できないものの方がはるかに多いのだ。学者でもあるまいし、それらにいちいち付き合っていたら身が持たない。
「さて、我が甥よ。君は私の敵かね?」
「ええ、敵です」
即答だった。何の迷いもなく告げられた朗らかな答えに、ルブルンも速やかな返事でもって答える事にした。いけ。一言命じるとクマのぬいぐるみが一斉に王太子めがけて殺到する。
しかし――
「む」
彼の甥は信じがたい体さばきを繰り出し、魔獣並みの速度でもって挑みかかる剣林の合間を、まるで舞踏会のダンスのごとく軽やかなあステップで縫い通った。思わず唖然と口を開く。あり得ない。頭のどこかでそんなことを呟く誰かがいた。甥が武術に秀でているということは、宮中の小話で耳にしてはいた。しかしまさか、複数の殺戮人形に迫られて無傷でいられるほどの腕前を持っているなどとは思ってもみなかったのである。というよりも、持っていたのなら何故、今の今までそれを使わなかったのか。
もう幾度覚えたか数えるのも馬鹿らしくなってきた程に親しんだ感覚、即ち得体の知れない不信感のようなものがざわざわと茂みを揺らす。何だ、何なのだ。この男は。
その疑問を知ってか知らずか、甥は彼自身が明けた横穴を背に負って、相変わらずの笑みをたたえていた。ほんの一歩分でも押せば、その瞬間冥府に旅立てそうな場所にいながらも、その美貌には一片たりとも恐怖や憎悪はない。これではまるで――。
――まるで人形のようではないか。
ルブルンは心内でそう吐き捨て、次いで愕然とした。人形、その言葉に猛烈な引っかかりを覚える。
「……何が目的だ」
低く呟く。今やルブルンの瞳には憎悪と呼んでも差し支えない感情が浮かんでいた。甥が何をたくらんでいようが関係ないと、今まで思ってきた。だから自分を利用した政治的蠢動も見逃してきたし、所詮は俗物と軽視もできた。
だが、違う。これは違う。俗物? 何の冗談だそれは。こんな得体のしれない化け物が俗物であるはずがない。考えろ、考えろ。この男のとってきた行動の意味、それら全てを考えろ。全くする必要のない派閥による対立構造の創生と、それによる政治的混乱、それに付随する陰謀劇。それの帰結する先は何か。頭が沸騰するほど思考が回って。
そしてルブルンはようやっと、その可能性に気がついた。
「………っ、まさか!?」
「叔父上、先の質問にお答えしましょう」
それを口にする前に、甥が、化け物が笑った。
「私の目的、それは――こういうことですよ」
そして彼は、曇りのないにこやかな顔で。とん、と後ろに跳躍した。
★★★
「――いやああああああああああああああああああああああ!」
自失したのは、ほんの一瞬だった。絶望というには余りにも悲痛すぎる侍女の悲鳴がモニカの精神に現実という冷水を浴びせかける。城壁の大穴から落下する金髪の青年、その有様が何故か落葉のごとく緩やかに感じられたのは、あるいは錯覚なのだろうか。だが何でもよかった。おかげでモニカには体勢を立て直す時間が与えられたのだから。
先ほどのように魔術で救う? 駄目だ、そもそも魔術は攻撃のために生み出された技法であるからして、人命救助のためのものではない。それ故に、このような状況で使用できる術式など存在はしなかった。六属性の中で特に汎用性の高いと言われる水でさえそうなのだ。光と闇については問うまでもないだろう。
では、ライラは。竜である彼女ならばそれを打破する方法を知っているかもしれない。湧き上がった希望は即座に打ち捨てられた。竜は人間と違い、その絶対的な生物的能力故に文明や技術を持たないとされる。その高い資質にも関わらず――否、資質があるからこそ、小手先の技に頼ることがないため――魔力の操作に関しては人間の足元にも及ばないのだ。おそらく、現状を打破する術は持っていないだろう。
どうする。様々な思考が交り合い、その全てを精査して、モニカは呪文の言葉を下に乗せた。
術式内容は流水。ただし、その勢いは最弱に設定する。噛まずに詠唱できたことに内心で喝さいを上げながら、目標に向かって魔術を解放した。まるで大河のような水線が落下する王太子を呑みこみ、幾度かの微調整を行いながら地の魔力に引かれて大地へと吸い込まれていく。
「モニカ!」
「庭園に落としました! 水と土草がクッション代わりになっているはずです!」
顔をこわばらせた幸二がその台詞を聞いて安堵の吐息を漏らす。柚木もこちらに向かって一度大きく頷くと、がくがくと身を震わせるリリアーノの肩を強くたたいた。
「落ち着きたまえ、リリアーノ! エンバル王太子は死んでいない!」
本音を言えば、王太子が生きているという確信は微塵もなかった。だが、あのまま落ちて城壁のどこかにぶつかるよりははるかに生存率が高いはずだ。ともすれば襲いかかってくる不安を必死に押しのけ、モニカも侍女を押さえつける位置に回る。
「いやぁ…殿下………」
「リリアーノさん、お願いですから今は…!」
「殿下ぁ!」
落ち着かせようとしたモニカを遮って、別所からも鋭い悲鳴が挙がった。つられるようにそちらを見ると、予想外の人物を収めて思わず瞠目する。何がどうなっているのか、わからず、刹那の間思考が停止した。何故なら、顔面を蒼白にして唇を戦慄かせていたのは大公派の中心人物の一人と目される大貴族、ナバラス候ワーラヴィアその人であったからである。
「わ、ワーラヴィア卿?」
「何をボケッとしておる、貴公ら! 急ぎ殿下をお助けに参るぞ!」
幸いなことに唖然と口を開けたものは自分だけでなく、王太子、大公両派の貴族らにもいたらしい。一人の若い貴族が信じられないものを見たかの様に低く呻いた。だが、彼はすぐ後にさらなる驚きを体験することとなる。
「皆のもの、行くぞ!」
数にして実に大公派三分の一、王太子派ほぼ全員に及ぶ面々から「応!」という裂ぱくの気合が立ち上った。ただし、王太子派の中にはわけがわからないという顔をしつつも場に合わせたという様子のものが多かったが。
「――っ、ユズキ様、私も…!」
「ああ。行ってくると良い」
「ありがとうございます!」モニカと柚木がぱっと手を離すと、亜麻色の侍女は猛牛もかくやという突進で貴族の群れに追随した。彼女が足を踏み込んだ後からもうもうと土煙が舞い上がり、思わずこんこんとせき込みそうになった。
「…何なんだ、一体」
おそらく半ば無意識に呟かれた幸二の台詞は、モニカを含めこの場に残された大多数の人間の内心を代弁したものであろう。モニカはうんうんと頷き、庭園に殺到した集団の後を見つめた。はっきり言って、わけがわからない。彼らは大公、王太子と二つの派閥に分かれ争っていたのではないのか。ことに大公派の領袖、ワーラヴィア卿があそこまで王太子の身を案ずるというのは驚きを通り越して不気味ですらあった。
「…ま、エンバル王太子の方はあちらに任せるとしてだ。我々はどうするね?」
「どうするって、そりゃ…………どうしようか」言いかけて、幸二は明確な回答を紡ぎだせず閉口した。
「一応私たちの目的は、王太子の捜索だったわけなんだけど、もはやそう言った状況を通り越している気がするんだよね、私は」
「…確かに、その通りです」
既に状況は自分たちの手を離れている。王太子、大公両派に分かれていたと思ったら、現状はこちらの予想の斜め上五回転を行っている。はっきり言って、事態はモニカに与えられた権限を通り越してしまっていた。介入するにせよ静観するにせよ、本国の指示がなければ動くに動けなくなっているのである。
「では、一時撤退ということで、異論はないね」
幸二とモニカは一も二も無く頷いた。
「ライラも、それで――」
「…待て」いいねと、訊ねようとしたのであろう柚木の唇が止まった。先ほどから黙りこくっていた褐色の美女は、今まで見たこともないような鋭い視線を空に――正しくは先ほど王太子が身を落とした大穴に注いでいる。常に纏っていた飄々とした空気はなりを潜め、その目は何かを探るかのように深い色合いを帯びているかのようだ。つられるように瞳の先を負ったモニカは、穴の中で佇む人影を認識し鋭い呼気を鳴らした。
「あ、あれは……」
ぽっちゃりとした体躯に、豪奢な衣装。モニカはその人物の名を冷たく脳裏に描く。アラゴン大公ルブルン。この舞台の主演男優であった。
「これは――あの男……いや、しかし何故」
「どうしたんだ、ライラ?」
幸二が心配そうにのぞきこむと、彼女ははっと夢から覚めたように目を瞬かせる。ふるふるとクリームの髪を揺らし、頭の回転を取り戻さんとこめかみをたたいた。
「大公殿下がどうかしたのかい?」柚木の質問に、彼女は焦れたように端的に答える。
「あの男の纏う魔力に、かすかだが大精霊様の気配があった」
そのひと言だけで十分だった。柚木の顔が引き締まり、さっと自分と幸二に目配せした。言葉を発する前に、モニカは即座に頷きを返す。
「やれやれ、このまま帰れれば楽だったのだがね。変なところで理由が出来てしまった」
「しかたあるまい。これは汝らにとっても重要なことであるからの」
「俺、まだそこいらの説明受けてないんだけど…」
「――申し訳ありません。大精霊様のことは、各国への巡幸が終わってから国元の神官を交えてお話しするのが昔からの習わしでして…」
政治というよりかは伝統、権威的な問題で彼らに詳しく説明できなかったことに罪悪感を覚えて、モニカは身を縮こまらせて謝罪した。しかしそれをぶった切るように、柚木がぱんぱんと手をたたく。
「謝るのは落ち着いてから、ということにしてもらおうか。では、ライラ」
「うむ。済まぬが御付き合い願おう。――行くぞ」
混乱の合間を縫って、モニカたちは王城の中へ突入した。目指す場所はアラゴン大公ルブルンのおわす場所。そこにきっと、何らかの手がかりがあると信じて。
★★★
「嗚呼、そうか。そういうことなのか」
明け方特有の澄んだ空気が埃にまみれた室内を縦横無尽に駆け巡った。そのどこか冷たさを含んだ風を大きく吸い、ルブルンはただただ淡々とした呟きを紡いだ。言葉には何の心情も入っていない。けれど、胸の奥では様々な感情が交り合い、ぐつぐつと煮えたぎったオリオ・スープのように熱くしみわたっていた。
これはなんだ。歓喜か? 怒りか? 悲しみか? 否、断じて否である。これはもはやそのような単一で言い表せるものではなかった。まさに混沌とした、滅茶苦茶な大嵐。静かでありながら猛々しさすら覚えるものだ。
それでもなお、誤解を承知でルブルンの心を表すとすれば、次の一言が最も近いのかもしれない。少なくとも、混ざりに詰まった感情の坩堝の中で、唯一自主独立を失わなかったものがそれであった。
即ち、諦観。
「なるほど、結局のところ、全ては手のひらの上。そういうことなのだね」
自嘲ともとれる笑みが唇に浮く。大公はまっすぐにこちらを目指して駆け抜ける勇者たちを穏やかに見つめ、肩をすくめた。先ほどまでの焦慮も不安感も、全てが氷解し霧散する。すがすがしさは感じなかった。ただ空虚で、それでいて雑多なだけである。
だが、まあいい。もとより道化を演じるつもりであったのだ。多少その脚本に変更があった押しても、舞台で踊ると言うことはに変わりない。勇者たちの最後の一人が王城へ呑まれたことを確認すると、ルブルンはすっと踵を返し歩き出した。彼らはすぐにも自分の元へ来るだろう。だが、此処ではいけない。こんな埃にまみれた廃墟のような場所では、風情も何もあったものではなかった。彼らと相まみえるのならば、やはりあそこが一番いい。
ルブルンはつっと視線をずらし、甥と共にあり、そして自分を除けばただ一人この場で傷を負っていないものを瞳に収めた。長年国王の側にあり、病に伏してからは献身的にその身を支えた、信頼厚き忠実なる侍女。そう思われていた女性は一切の表情を変えず、まるで何も見えていないかのようにただ一点を見つめて立ち尽くしていた。まるで周りの騎士たちにも、ルブルンですら意識していないかのようである。否、実際に何とも思っていないのだろう。自分の想像が正しければ、これはそういうものだからだ。
「命じる。私が彼の地に着くまで、勇者どもを足止めせよ」
「御意」
反論も抗命もなく、侍女はスカートをつまんで一礼した。ルブルンがもう一度頷くと、まるで溶け込むかのように虚空へと消える。ああ、やはりそうか。苦い笑みが自然とこぼれ落ちた。
「まあ、私には関係ないがな」
どうでもいい。そう、どうでもいいことなのだ。これが例え誰の思惑だとしても、その計画に自分がどのような配役で組み込まれていたとしても。ルブルンには関係のない話だった。
自分はただ、彼女が目覚めさえすればそれでいいのだから。
後二話。二話でござります…。
本当は次で終わりだったのが、思いのほか延びました…orz