三十八話 勇者様、メガメガ頑張る
夜の帳に包まれた城下の街は、昼間の活気が嘘のように深い沈黙の澱で満たされていた。月明かりが石造りの建物を白く照らしてはいるものの、その御手は太陽に比べればあまりに弱々しく、竜である自分はともかくとして他の種族――特に人間には不自由この上ないはずである。
故に、こういった一国の王都であっても歓楽街や富裕街を除けばほとんどの人間は夢の彼方へ舵を漕ぎだす。夜目の利かない人間が夜中に活動するには光が必要で、魔力を使った道具を持っている者たちならばともかく普通の民はそれを薪でもって購わなければならない。けれど一般の民衆にとって――あるいは貴族にとっても――薪の費用はばかにならず、ほとんどの人間にはそれを捻出する余裕がない。なので、大抵の住民は日の出と共に起き出し、日入りと共に眠るのが一日のサイクルなのである。
「さて、始めようか」
目前の屋敷は、その御多分に漏れることなくその寝姿を暗闇の布団で覆い隠していた。広々とした庭に、威容を備える建築物。先ほど言葉を発した柚木には見えないだろうが、あちらこちらに壮麗な細工が施された壁は、このような文化基盤を持たないライラにとって、ひどく物珍しいものに思える。
「何やらごてごてとしとるの。貴族の屋敷というのは、こういうものか」
「うーん、言うほどけばけばしくないと思うけどね。むしろ、他に比べればシンプルな方さ」
夜闇に消え入るかのような呟きだったが、すぐそばの彼女にはきっちりと聞こえていたようだ。それは数瞬悩んだ後、顔半分を覆う黒覆面の上から顎を撫でて小首を傾げた。
「しかしまあ、汝も大概物好きだの。隠密行動が主とはいえ、わざわざそんな恰好をするとは」
「はは、何分形から入る主義なのでね。こう、装いと共に気分を切り替えると言うか」
くるりとその場で回転し、柚木はころころと笑った。その様子はまるで新しい鱗に生え換わった子竜が親に我が身を見せびらかしているものにそっくりで、恰好さえまともならば微笑ましい一幕で終わることだろう。しかし、残念なことに彼女の恰好は他者に不審と困惑を招きこそすれ、少女自身が期しているのほほんとした空気などアドデスの火口に飛び込んでもやっては来まい。
長く美しい黒髪は墨染の頭巾にひっ詰められ、目元を除いた顔は同じく黒色の覆面で覆われている。御世辞にも発育のいいとは言えない肢体を包むのはしつこいくらい黒々とした麻でできた見たことのない作りの服で、手袋から靴まで、肌と言う肌が夜と同じ色合いで統一されていた。おそらく夜道で出会えば可及的速やかに回れ右したくなるほどの怪しい出で立ちである。
「そこら辺はほら、文化の違いというやつだね? 私の故郷では、これは古来より続く伝統的な隠密装束なのだよ」
鼠小僧次郎吉、と意味不明なポーズをとる。まあ、ただでさえ人間の文化には疎いのに、これが異界の代物である以上、ライラに言える言葉は存在しなかった。なので、苦笑して小首をかしげる。
「しかし、いまさら言うのも何なのだが…ほんに、良かったのかの?」
「何がだい?」
「あの二人を置いてきたことだよ」
閑散とした街路には二人以外の人影はなく、時折無視の音色や遠方から獣の遠吠えが響く以外には全くの静穏が幅を利かせていた。今宵は無風で、普段騒がしい風の精霊も木の葉のさえずりすら聞こえてこず、現在唯一の耳慰みは互いの音声のみである。
「だいぶ渋っておったからの。あれは完全に納得してはおらぬと思うよ?」
「けど、仕方ないだろう? こー君は暗闇でも自分から光出すような子だし、王族のモニカにこんなまねはさせられない。その点私なら夜闇に紛れるのも慣れているし、いざとなれば闇の魔術で姿を隠せる。ライラがいれば、そのまま抱えてもらって空の旅を楽しめるじゃないか」
「自分で言うのも何だが、会ったばかりの、それも成り行きとはいえ一度は剣を交わしたような輩をほいほい信じても大丈夫なのかの? 何かの拍子で、妾が裏切るかもしれんのだぞ?」
無論、ライラにはそんな気は一かけらたりとも持っていなかったのだが、彼女らの余りにも無警戒というか、ともすれば無思慮にも転げてしまう観念に少々危機感を抱いていた。
とはいえ、先祖から聞き及んでいた歴代勇者の人柄からある程度予想はできていたし、一族の口伝で「あれはそういう生き物だから何言っても無駄」という諦観に満ち満ちた言葉が残っていることから鑑みて、ことさら強制するべきだ、という気分ではなかった。ただ、頭の片隅でも良いからそういう意識を持っていて欲しいだけの言葉である。
勇者とは人間ではなく、お人よしという生き物だという伝承は正鵠を得ていると思った。
「はは、というか思い切り今更出し、そもそも自分からそう言うと言うこと自体が何もないことの証明だと思うけどね。まあ、そういう可能性も考えなかったわけじゃないけど、どう考えても君が私を害することで得られる利益というものが思いつかなかったのでね。ライラが享楽的な快楽殺戮者でもない限り、大丈夫じゃないかなー、と」
「ふむ。では例えば、妾が実は魔王軍で、汝らを罠にはめようとしているとかはどうだ?」
周囲に気配がないことを数度にわたって確認し、ライラは背の竜翼を思い切り伸ばした。そのまま柚木の脇の下に腕をいれ、その身を天高く星の海へ引き入れる。
「おお、絶景かな絶景かな。っと、仮に君が魔王軍であったのなら、城で敵対した時に真っ先に私たちを殺しにかかるだろうと思ってね。一応は勇者とか呼ばれているわけだし、さすがにノーマークだとも考えられない。ま、私たちの顔を知らなかったお間抜けさんという可能性も捨てきれなかったけど。それに」
「それに?」
柚木は肩越しに振り剥き、唇で不敵な弧の形を描き出した。覆面に隠れているにもかかわらず、幻視出来てしまいそうなほどの圧力がその笑みからひしひしと伝わってくる。
「もしここで私がやられたとしても、まだこー君がいるからね。そもそも、私よりも彼の方がよほど勇者らしい。であるならば、貧乏くじはできる限り私が引くべきだと思ったのだよ、姉貴分的に考えて」
「…ふふ、なるほどなるほど」
明かり一つない暗闇の中、月明かりのみがこうこうと眼下の屋敷を照らし出している。乏しい光源ながらライラの竜の眼は建物の造りを正確に把握し、手近なバルコニーへと黒づくめの勇者をそっとおろした。
「ま、及第点と言っておこう。汝の強固な仮面に免じての」
残念ながらその呟きは柚木に届かなかったようだ。否、あるいは聞こえていたのかもしれないが、反応がない以上どちらであってもさほど変わらない。柚木がぽつぽつと呪文を詠唱すると、ガラスという透明な板の鍵部分が夜よりもなお深い闇の球体に包まれ消滅した。さらに呪文が流れ、今度はバルコニー全体を覆い隠す薄い闇の膜が顕現した。
「これは?」
「何、単なる音消しだよ」
きいきいと止め具部分の小さな悲鳴が、この膜の存在意義を如実に物語ってくれた。闇の膜があるのであまり意味はないことだが、気持ち物音をたてぬよう素早く室内に転がりこむと、闇の魔術は役目を果たしたと言わんばかりに虚空へと消える。
「…何やら手慣れておるように見えるのは、妾の気のせいか?」
「無論、気のせいだとも。さて、ではとっとと探すとしようか」
誤魔化すように曖昧に笑われた。その様子にほんの少しだけ苦笑し、どうしてかつま先だけで歩く柚木の背を追って、ライラはふかふかの赤絨毯に覆われた廊下に進み出た。
★★★
さて、何故に柚木がこんなコソ泥じみた真似をする必要があるかというと、話は逢魔が時にまでさかのぼる。あの昼食という名の闘争から人心地ついたころ、柚木はリリアーノに対し今後の行動について質問した。国際関係など何だのとしがらみの多い自分たちはあまり長々と彼らに付き合うわけにはいかないため、王太子派を頼るなり一度王都から脱出するなりと、明確な指針を立てて独立した行動を取ってもらわないと色々と困るのである。
そのことはリリアーノ、もといその上のエンバル王太子も理解していたのか、彼らは一つの腹案に沿って動くことを決めていた。即ち、さる大物貴族の元に一時身を寄せるというものである。
その貴族は大公・王太子両派のどちらにも属しておらず、中立を持って今回の出来事にあたっている人物だった。本来ならばそのような日和見はどちらの閥をも敵に回す愚挙なのであろうが、それを行ったのが王族に次ぐと言われる大貴族であったこと、既に政界から退いている隠居であったのが幸いして、王国からは黙認という形で目こぼしをされているらしい。
昨夜の事件によって主だった王太子派の貴族邸宅には追跡の手が及んでいるのは間違いなく、うかつに接触しようとすればあっという間に御縄を頂戴してしまう現状、その人物意外に頼るべき存在が思い至らなかったというのがリリアーノから語られたエンバルの言であった。
けれど、と柚木はそれを聞いて疑問にとらわれた。その思いは「でも、そんな人ならなおのこと殿下を助けようとはしないんじゃないか?」というすぐさま発せられた幸二の台詞に集約されて投げかけられる。その回答は「いえ、殿下がおっしゃるには、この際身を寄せられる寄せれないは関係ない…そうです」であった。
その言葉を聞いたとき、柚木は思い切り苦笑した。他人ごととは思えないね、という呟きは多分好意的に無視されたのだと思う。
つまり、エンバル王太子にとって、彼の御人と秘密裏に接触を持ったということをそれとなく知らしめることが重要なのだ。中立、というある意味両方を敵に回している大貴族に、対立する陣営の片割れ――しかも組織の頂上が――が何らかの密談を持ちかける。するともう片方や無辜の民衆はどう考えるだろうか。この際、話の成否事態は関係がない。接触を持ったという一事が大切なのである。
どういうことかというと。一陣営との会談が成立したのか破談になったのか、という一事は一見重大事に思えるし、実際に重要な出来事である。けれど、それは成否の結果が外部に受け取られるからこそ効果を及ぼすのであって、知られなければ成否それ自体に意味はないのである。
わかりにくい言い方だが、要はシュレディンガーの猫と似たようなものなのである。箱の中の猫が死んでいるのか生きているのか、開けてみなければわからない。けれど、箱の中に猫がいるのは確かなのだ。成功していたならその御人は王太子派、失敗していたなら中立、あるいは大公派。けれど、その結果がわからなければ? 人間は重なり合った状態を認識することはできない。であれば、必ずどちらかの状態へと物事を固定化しようとするはずだ。接触を持ったと言う一事のみが独り歩きし、結果その貴族の中立は大きく揺らぎ始める。
ではその中立貴族が結果を発表すればいいのではないかと言われれば、そんなことはない。何せ密談である。例え公然の秘密であろうが、暴露することによって持ちかけた側からは大いに恨まれるし、何よりも話の特性上、その御人の言だけではいささか信憑性に欠けるのだ。もとより、人は己の見たいものしか見ない。かつてローマのユリウス=カエサルが嘆じたそのことは、遠き異界の地でも何ら変わることはない。
とはいえ、相手も馬鹿ではないのだ。すぐに御人が中立を維持していることは知れ渡るだろう。だが、それでもいいのである。
「一時的にしろ、相手の目をくぎ付けにできる。確かに、やるだけの価値はあるんだろうけどね」
暗闇で満たされた廊下で柚木はすぐ後ろの美女にささやきかけた。本当ならば不法侵入中に会話をするなど愚行でしかないのだが、ライラが竜の能力とやらで空気を操って消音してくれているので、ある程度の音量ならば周囲に聞こえる事はない。完璧な遮音はかなり高位の風竜でないとできないらしいのだが、柚木にとってはどちらでもよかった。
気を紛らわすのに、会話は最適とまでいかないものの、十分及第が得られるものだ。
「…のうユズキ、汝はひょっとして、魔術は不得手なのかの?」
「そりゃまあ、できるようになって日が浅いからね。ベテランと一緒にされたら困るよ。…ひょっとして、何か問題でもあるのかな?」
「いや、妾も人の術に口をはさめるほど詳しくはないが…何と言うかな、汝の術は、ゼルドバールの姫君に比べるといささか燃費が悪いのではないか?」
「そうなのかい? 確かに、魔術を使うと身体から力が抜けていくような感覚を味わうけど…他人もそうなのかというのは、私にはわからないし」
「何、そう感じただけだしの。妾の気のせいかもしれん」
くすくすと妖艶と微笑むライラは、同性の自分でさえもひどく魅力的に思えた。おのれ、メロンか、そんなにメロンがええのんか。
「しかし、汝らもとことんお人よしだの。このような薄暗い仕事まで引き受けるなど、王太子とやらにそこまで付き合う義理などあるのか?」
「いいや、全く」覆面の下から隠しきれない苦笑が漏れた。自分で言うのも何だが、このようなことをしなければならない理由が全くと言っていいほど思いつかないのだ。反対にやらなくていい理由ならひと山いくらで出てくるのだが。
「何故かと聞かれれば私としても非常に答え難いね。けど、あえて言うならば……回避不能な成り行きかな?」
涙ながらに懇願するリリアーノを前にしては、潜入に猛反対していたモニカもこうする術を有していなかった。残念ながら――あるいは幸いなことに「ご迷惑をおかけしているのは承知の上ですが、何卒殿下を…」と額を床にこすりつける娘を無碍にできるほど柚木たちは情けを捨てていない。まあ、仮にそれが自分たちを動かすための演技だったとしても、結局はここに来ることになっただろうが。
「私が私の目的をかなえるためには、避けて通れない問題さ。例えどれほど危険であろうともね」
「…汝も大概難儀よの。他にもっと良い生き方があるだろうに」
呆れたようにライラは嘆息した。きっと澄んでいるだろう彼女の瞳は闇の帳に阻まれて、柚木に表されることはない。そのことにほんの少しだけほっとした。今龍の姫に見つめられたら、色々なものがはがれおちそうで怖かったのだ。
だから、へにゃりとしたゆるい苦笑をライラに向ける。
「あったのかもしれないけど、もう忘れてしまったよ。これとも、ずいぶん長い付き合いだからね」
別の生き方、即ち高梨柚木という少女の根幹たる目的を捨てるということ。考えたことがないと言えば嘘になるが、実行したいと思ったことは一度もなかった。何となれば、それは高梨柚木の完全な死と同義であり、彼女がこの世で最も欲しているものを自ら手放すことを意味している。
それだけは、それだけは絶対に嫌だった。
「血にまみれ、平和な故郷から奴隷のごとくひっ立てられ、挙句このような暗闘劇に使ってさえ貫かねばならない生き方か。興味あるの」
「何、言うだけなら一言ですむ事さ。実行には恐ろしいほどの根気と努力が要るけどね」
「良ければ、後学のためにきかせてくりゃせんか? 無論、無理にとは言わぬがの」
簡単なことだよ、と柚木は人差し指を桜色の唇にあてた。
「格好いい女になる。それだけさ」
★★★
アルソス女侯爵フランソワ=ベラス=フランコに、就寝前に一杯の葡萄酒を舐めるという日課があった。これは彼女の父祖の代からフランコ家に続く伝統であり、さかのぼること数十年、フランソワが十の齢を数えたころから自身も欠かさずに行っている習慣である。
アルソス侯爵領は王都の北西部に位置する肥沃な土地を抱え、中でも領内の主要生産物である葡萄は近隣諸国でもひと際名の知れ渡った作物であった。代々の領主は自領で作られる葡萄の数々を誇りとし、幾度となく王家の方々へ献上し続けてきた。いと高き国王のお口に運ばれるものが、愚作であってはならない。そう言って侯爵自らが始めたこの味見は、戦功報償としてアルソス候を拝命したばかりの十数代前の当主から現当主である自分まで、途切れることなく脈々と受け継がれてきた。家紋の黄金葡萄と共に、この事はフランコ家が名高い葡萄酒を生み出すことに強い誇りを抱いていた証左と言えよう。
もっとも、フランソワに言わせればただ単に美味い葡萄酒を毎晩飲みたかっただけというであろう。実際、事この一事に関しては彼女も家の誇りや何やらなどに興味はなく、ただ近隣に名をとどろかすアルソス・ワインを楽しみたいだけの思いで続けていることだった。むしろ毎夜毎夜酒盛りができて非常に嬉しい、御先祖様には感謝せねば、などと思っていた。
しかし、今日この日ばかりはその前例に倣うわけにもいかなかった。
齢六十を過ぎ、かつては側妃の座すら望めば得られると謳われた美しさも、既に昔日の残照が射し込むのみとなっている。最近ますます言うことをきかなくなった自身を寝台に預けつつ、フランソワは銀のカップに注がれた赤い甘露を喉に流した。数回ほど口に含むと、ため息と共にカップを側の卓上に置く。顔には色濃い疲労が浮かび上がっていた。国王の不予のため未だに女侯爵をいただく自分であるが、その実公務の殆どは既に息子が務めているため、実質は楽隠居も同然だった。時折訪れる貴族間の利害調節を除けば、毎日が穏やかで疲労などそうそう溜まるものではない。にもかかわらず、フランソワの顔色はすこぶる悪かった。
原因は、葡萄酒と共に彼女の寝台にいざなわれていた一枚の羊皮紙である。薄い魔導光に照らされるその姿はどこか弱々しいが、彼の伝える事は容姿に反してすこぶる強烈であった。内容は、昨日夜半に起こった大事件。
「なんてこと………」
旧交ある貴族からもたらされた火急の知らせに、フランソワは数度首を振った。こめかみに手を当て、うずき出した頭痛をこらえながらもう一度ため息をつく。脇のカップを再び手に取ると、今度は味など気にする事もなく中身を一気に飲み干した。正直、酔わなければやってられない気分になったのだ。
あの王国中枢に近い全貴族を混乱の坩堝にたたき落とした国王崩御の報から数日、たった数日で今度は王太子が行方不明。何の冗談だと手紙を読んだときに叫ばなかったのは、ここ最近で自慢できる一事であろう。この報を受けて、奇声を上げずに済んだ貴族たちは何人いるのだろうか、と考えるのは言うまでもなく現実逃避だった。
かっと頬に集まりだした熱を起点にして、フランソワは素早く思考を回転させる。国王暗殺事件から王太子襲撃に至る一連の事件、まずはこれをどうとらえるかが問題だった。
「いくらなんでも、行動が速すぎる……。となると、同一勢力の仕業と見て間違いはないわね」
フランソワは、この二つがそれぞれ独立して行われたものだとは見なしていなかった。別々と認識するには、両者の間隔があまりにも短すぎるのである。普通、城内のしかも王族を襲撃するとなると、かなり周到かつ莫大な準備期間が必要とされる。暗殺対象の日々の生活態度、護衛規模、訪問場所と日程、その全てを把握し、かつそこから最も始末しやすい状況を導き出すことは、とてもではないが数日やそこらででき得ることではなかった。であるならば、この事件はあらかじめ調和として組み込まれていたと考えるのが普通である。何者かの、国王暗殺に連なる形で、だ。
「だとすると、一体誰が……」
フランソワの脳裏に浮かび上がったのは、巷ですら噂されるほどに有名となった、王太子の対立抗馬たる大公――ではなかった。口惜しいことに、彼女の心には確固たる犯人像が紡ぎだされることはなかったのである。
仮に、女侯爵にかつて王族の教育顧問として参内していた経験がなければ、おそらく多くの貴族が描いているだろう事件像を同じく見据えていた事であろう。しかしながら、フランソワは先代国王メジェフ一世の御代から教育者として王族と親しく付き合ってきた人間だった。他の有象無象よりも、彼ら一人一人の人柄に関しては王室を除けば一番に詳しいと自負もしている。それ故に、女侯爵はこのたびの事件から、大公の存在を端から除外するに至っていた。
フランソワはしばし黙考を続けたが、やがて力なく首を振った。情報が少ない、少なすぎる。長らく権門から遠ざかっているとはいえ、様々な役職を歴任した女侯爵には国の内外を問わず、今なお親交のある貴族は数多い。彼らの助力や子飼いの草などで、エスパニア王位に色気のある連中の所作は筒抜けだったはずなのである。その彼女ですら今回の件は予兆の察知すらできなかった。マークの外にいたか、周到に隠し通していたか、それは定かではない。
「とにかくまずは事態の把握を…明日にでも部下たちを向かわせて――むぐっ!」
思考をまとめるために自然と下に乗せられていた言葉は、唐突な防壁に遮られて外気にふれる事はなかった。フランソワは口元を覆うひんやりとした感触――おそらく動物の皮を加工したものだろう――に一瞬肩を震わせ、全身を硬化させる。
暗殺者。刹那の間脳裏によぎった単語が女侯爵の意識を急速に鎮静化させた。年を経て弱った心臓にはいささか以上によろしくない運動をさせつつ、ぐっと老骨を奮い立たせる。もしや陛下を弑奉った連中か? けれど自分を襲う理由が全く見当たらない。あるいはアルソス侯爵領を狙う者の仕業か。
様々な可能性が浮かんでは消えていく。じわりと背筋から冷たいものが流れ落ちた。
「――むう、むぐ……」
「お静かに願います、アルソス女侯爵殿」
耳をくすぐったのは、驚くべきことに若い女の声だった。さっと記憶の底を掬い上げるが、聞き覚えのあるものではない。すっと聴覚を研ぎ澄ますと、寝台の背もたれから身を乗り出しているのだろう、きしきしとそれなりの装飾を施し得てあった寝台が上げる抗議の呻きが鼓膜を打ちたたいた。
「どうか振り向きなさいませんよう」すっと口をふさいでいた手が除かれ、フランソワは一度大きく息を吐いた。癪ではあるが、無粋な侵入者の言に従い振り向くことなく誰何の言葉を紡ぐ。
「……どこの手の者ですか?」
「はて、どこと申されますと?」
「…白々しい。どこの誰に頼まれて、私の首を取りに来たのかと聞いているのです」
「これは異なことをおっしゃる。私はただ、恐れ多くもエスパニアにその人ありと謳われた、アルソス女侯爵閣下のご尊顔を拝しに参ったのみ。首を頂戴仕る等、我が意の埒外にございますれば」
抜け抜けとよく言う。内心で悪態をつきながら、フランソワは努めて事務的な口調を造り上げた。
「よく廻る口ですね。であるならば、きちんと許可を取って、光の精霊の恩寵溢れる時分に参りなさい。要件が正当なものであれば、拒むことなどありません」
「お心遣い、恐悦至極。しかし世には表ざたにできぬ要件というのもありましょう。女侯爵のお寛ぎを邪魔いたしましたこと、真に汗顔の至りではございますが、平にご容赦を」
…何か変だ。しばし舌戦じみたものを交わしたフランソワは、背後の女にいささか遅い疑問を抱いた。自分は文官であるため、武官のように気配を察する等という芸当はできないが、代わりに場の空気を読むという御技にかけてはそれなりの自信を有している。その磨き抜かれた感覚が叫んでいるのだ。何と言うか、場の雰囲気が――緩い。命を狙う、狙われるという修羅場に直面している割に、殺意とか緊迫とか、そう言った切羽詰まった情景が頭からしっぽまで隠れてしまっているような気がして、むくむくと疑惑の念が鎌首をもたげ始めた。
「………貴方、本当に何者なの?」
「…ふむ、どうやら本物のようだ」
軽やかな吐息と共に、後ろの女が苦笑した気配を感じた。もう振り向いて結構、との言葉を聞いて、ゆっくりと慎重に首を後ろに回す。
そこにいたのは、全身を墨染で覆ったいかにもな感じの娘だった。ただ、想像していたものよりもひどく小さい。下手をすれば十かそこらの童女に間違えそうなほどだ。そしておそらく、年齢そのものも二十歳は超えていまい。
「いや、失礼。一応貴方がアルソス女侯爵フランソワ殿ご本人であると確証がほしかったものでね。ご無礼して申し訳ない」
「ふむ、ではその御人が目的の人物、ということでよいのかの」
何やら一人で納得している少女を訝しげに見ていると、さらに聞き覚えのない声が寝台のすぐそばから聞こえてきた。慌てて視線を投げると、これまた顔も知らない若い女が小首をかしげて微笑んでいるのが見えた。
いつの間に、そんなありきたりな思いを抱きつつも、顔に出すことなく――実践できていることを切に願う――彼女らの顔を数度見比べる。どうやら暗殺者の類ではなさそうだがだからと言って安心もできない。警戒心をありありと込めた視線を振り向けると、真っ黒の少女が困ったように肩をすくめた。
「失敬、御挨拶がまだでしたね。私は――そう、謎の美少女隠密ゆずきちちゃんとでも及びいただいて結構」
「……………はあ」
どうにか相槌らしきものを打てた自分を褒め称えたい気分になった。自分で謎の美少女とかいうか、とかそもそも美少女かどうか覆面しいてたらわからないのでは、とか即座に種々の疑問が浮かび上がってきたが、そんなことどうでもいいくらい、こう、何と言うか、空気が死んだ。緊張感的な意味で。
しかもだ。そう感じているのがどうやら自分だけだと言うのが、ものすごい場の隔意を生んでいる。褐色の美女――こちらは顔を隠していないためそう判別できる――は面白そうに笑いこそすれ、その美貌に呆れなどの感情は浮いていない。ろくでもない名乗りを上げた少女に関しては言わずもがなであった。非常に残念ながら、この場においてフランソワは少数派の様である。
しかしだからと言って、放っておくわけにもいかないだろう。無駄だと思いつつも、つい反射的に助けを求めるように褐色の娘を見た。彼女はこちらの会話に加わる気はないらしく、先ほどまで自分が楽しんでいた葡萄酒をちゃっかり確保して部屋の隅で楽しみ始めた。というか、何のために現れたのだろうか。
「それで、その…………美少女? 隠密殿が、私に何の用なのです?」
「ふふ、突っ込まれぬままスルーされると言うのは、なかなかもって形容しがたい感慨を生むね? ゆー君が病みつきになるのもわかると言うものだよ」
嗚呼、冗談だったのか。しかし悪いことをした気が全く起きないのはどうしようもないと思いたい。
「ま、場を和ませるジョークはこれくらいにして、だ。アルソス女侯爵フランソワ殿。貴殿に言伝を預かってまいりました」
「言伝、ですか? どなたからでしょう」
「クーレルゲンの長靴殿より、と言えばおわかりかな?」
告げられた名に一瞬の困惑が生まれ、その意味を理解すると同時にフランソワは寝台から飛び起きて片膝をついた。そのまま深く首を垂れ、下賜される言の葉に耳を傾ける。
クーレルゲンというのは、大陸中原に古くから伝わる神話の一つである。さすらいの吟遊詩人クーレルゲンと、子供の守り神トゥーヤが行く先々で様々な事件や謎を解き明かしていくこのおとぎ話は、庶民の寝物語の定番の一つと言えた。
その中で長靴と言うのは、『長靴のニャータ』の話を指す。とある国に立ち寄ったクーレルゲンとトゥーヤ神、彼らはふとしたことで長靴をはいたしゃべる猫と出会う。穏やかで誰とでもすぐ仲良くなれるクーレルゲンは、瞬く間に猫とも親しくなり、やがて猫が悪い魔法使いによって呪いをかけられたその国の王子であることを知る。どうか魔法使いを倒すため力を貸してほしい、そう嘆願する猫に二人は助力を誓い、ついには魔法使いを倒し国に平穏をもたらす。簡単にまとめるとこんな感じの物語だった。
フランソワはその遠回しな隠語の指し示す人物を察するとともに、彼女らがどういった立場の人間なのかも正確に洞察する。
「なるほど。大体のところは理解致しました、現代のクーレルゲン殿。では、ニャータ様の御言葉をお聞かせ願いたい」
語られた内容は、彼女も頭の片隅で考慮していた事象の一つであった。王太子が生き残っていた場合、現在どの勢力にも属しおらず、かつそれなりの力を有する自分の庭先が仮の宿として選ばれる可能性は非常に高いものである。あるいは、それがかなわずともひと時の目くらましくらいにはなるだろう。
「…お話は承知いたしました。けれど、真慙愧の念に堪えませぬが、王太子殿下の御心に沿うことは出来かねます」
「……ふむ、理由をお聞かせいただいても?」
「私は王国より侯爵領を賜って以来、一片たりとも王国と王家の方々への忠誠を忘れたことはありません。ですが、それはただ唯々諾々と御方々に盲従することと同義ではない、とも考えております」
「…忠節と盲信は違う、と。なるほど。それで?」
「もう三十年近くになりましょうか。私は前国王メジェフ一世陛下より、御子息へご教授差し上げるという望外の栄誉を賜りました。はい、オバル二世陛下とルブルン大公殿下にあらせられます。またつい十年ほど前には、恐れ多くも再びいと高き御方のお側につかえさせていただいた事も御座います」
「…エンバル殿下の事かな?」
「ええ。やはりお血筋なのでしょうか。御三方ともそれはそれは聡明で。不遜ながら、この方々のいずれの御身が玉座に上られんとも、王国の未来は無謬であると私は信じて疑いませんでしたし、今なおそう思っている次第です。故に、私と致しましては両殿下のどちらが即位なされてもかまいません」
ぴくりと、黒づくめの娘の頬が反応した。当然だろう。旗手を鮮明にしている者にとって、この発言は日和見以外の何物にも感ぜられまい。少女や褐色の女性の心情は図れないが、おそらくその内に好意が含まれていないことは確かであろう。
だが、フランソワにとってはその日和見こそが重要なのだ。
「昔、友人に教えてもらったことがある。中立とは、ある意味で全てを敵に回すことと同義であると。女侯爵殿、貴方は王太子派と大公派、そのどちらも敵に回すとおっしゃるのかな?」
「その御友人はなかなか的を得たことをおっしゃいますね。なるほど、確かに中立はどこにも手を貸さない代償に、いずこからも手を差し伸べられない。それはある意味敵対していると言っても過言ではありますまい」
淡々とした言葉に、同じく淡々とした答えを返す。覆面の隙間からのぞいた黒曜の瞳は何の感情を映すことなく、ただじっとこちらの真意を覗き込もうとする貪欲な暗闇を奥に抱いていた。
「――いいじゃありませんか」
「…ほう」
「周りのあらゆるものが敵、大いに結構。むしろそうである方が、こちらとしても動きやすいというものでしょう」
言ってフランソワはかかと笑った。それはずっと昔、夫が「心臓に悪いからその笑い方やめて」と泣きを入れたそれと同じものだった。愛する者のために全てを食い破ることを誓った女の笑み。
「クーレルゲン殿は、カウフをおやりになったことはありますか?」
「カウフ……………ああ、あのチェスに似た――いや、失礼。たしなむ程度ではありますが、一応は」
唐突ともいえる話題変換に戸惑ったのか、少女は一瞬呆けたかのように思考を待伸びさせた。しかしすぐに我を取り戻したらしく、はっきりとした答えが投げ返される。
「そう。ではクーレルゲン殿、貴方にとってカウフで最もしてほしくないことと思うこととは何でしょうか?」
「…今一質問の意図がつかみきれないのだけれど…まあ無難にチェックメイト、いえ、王と取られることでしょうか」
「なるほど」
フランソワは小さく苦笑した。嘘をついたり、その場に合わせて口にしたりした様子は見受けられない。きっと素直な気質なのだろう。そして負けず嫌い。年相応の少女らしい様子を垣間見て、どこか微笑ましい気持ちになった。
「私とは少し違いますね」
「…では、アルザス女侯爵殿は一体どのようなことが御嫌いなので」
「決まっています。横から他人に盤上をひっくり返されることですよ」
はっと黒づくめの娘が目を丸くした。どうやら気づいてくれたようである。自分が何を考え、何を目的として日和見を貫いているのかを。
「今まで築き上げた結果を、いいか悪いかは別として得られるはずだった未来を壊されること。これが私の一番嫌いなことです」
「…つまり、貴方は他国の介入に備えるために?」
少女の声音には色濃い呆れと苦笑が交っていた。物好きな、とでも言いたげな空気が逆に心地いい。
「クーレルゲン殿も御存じだと思いますが、我がエスパニアは決して大国でもなければ強国でもありません。中原の肥沃な地にある故、そこそこ侮られない力を持ち、そこそこに豊かではありますし、ゼルドバール等の近隣国とも同盟を結んでいる。平時ならば油断はできませんがそうそう攻め込もうと考える国もあまり多くはないでしょう。ですが、国内が荒れていればいらぬ欲をかき立てられるところも出てくるはず」
「それに備えるための、中立貴族であると?」
「おそらく内乱にまでは発展しないでしょうが、両派とも睨みあって動けないということは十分に考えられます。意地や他意等で協力を拒むものすら出てくるかもしれないし、敵と戦わせることで相手の勢力減退をもくろんだ結果、どちらも行動しないという最悪の展開もあり得るでしょう。無論、外敵を前にすんなりと一致団結するという可能性もありますが――まあ、楽観論ですね。だからこそ、全てのエスパニア貴族が二元化されてしまうことを、私は恐れています」
「そのために、大貴族である貴方が日和見を決め込むことで両派が拡大しないよう努めなければならないと?」
「はい。先ほども言いましたが、どちらが王位につかれてもきっと良き王に御なりになるでしょう」
しばし少女は黙考するかのように沈黙の岩戸へとひきこもった。手を顎にあて、数瞬だけ黒曜の瞳を瞼で隠す。
「…一つ、よろしいか?」
「何なりと」
「貴方の考えは良く理解した。私は所詮伝言役にすぎないから、そのことは後できちんと王太子にお伝えしよう。ただ、先ほどの話で気になったのだけど…貴方は、内乱にまで発展しないという言説にかなり自信を持っているように思われた。その理由を伺っていいかな?」
ああ、とフランソワは納得した。確かに王位継承者二人をよく知らない人物からすれば、それは現実を省みない夢想にすぎないだろう。楽観論を戒める発言から完全に矛盾するそれに疑問を差し挟んでも何らの不思議はなかった。
「そうですね、まあ理由はそれなりにあるのですが、時間もないことですし簡潔に申しましょう。私の見る限り、あの御二方――王太子殿下と大公殿下には、玉座への執着などまるでないのですよ」
きょとんと。黒づくめの娘は完全に目を丸くした。
「…それはどういう」
「そのままの意味です。ご両名とも、王位に微塵も興味を持っておられない。故にそれを巡っての内乱など、起こりようがないのです」
ある意味、両派に分かれて相争っている者たちからすればたまったものではないだろう。血みどろの権力闘争に明け暮れてみれば、肝心のトップに冠を頂く気がないというのだから、もはや喜劇を通り越して笑劇である。過程で首を召されたものはきっと冥府で涙していよう。
「王太子殿下は外聞こそよろしいが基本的に無気力な方ですし、大公殿下に至ってはそもそも食と古代の遺物以外にご興味がない。どちらも権威を振りかざすより、気ままな生活の方が性に合っておられますからね」
「いやはや、なんともまあ」
「王家にあってはご本人様の意思などないようなもの。臣下に担がれての暗闘は致し方なきことではございますが、武を持っての争いであれば、頭目である御二方のご意思も強く通りましょう。先にも言いました通り、お二方は御聡明でありますから」
「……なるほど」
少女は納得したのかひどく大きなため息をついた。数度首を振り、苦笑の気配をにじませながらフランソワに向かって一礼する。それと同時に、空になった葡萄酒のピッチャーを持った褐色の美女が少女の傍らに立った。
「貴重なご意見を拝聴させていただき、厚く御礼申し上げる。女侯爵殿。近いうちにまたお会いすることになるだろうけど、その時はまた宜しくお願いする」
「ええ。私も、今度は日の元でお会いできるようお祈り申しあげますわ。黒竜の勇者殿」
ぴくりと黒づくめの娘――否、黒竜の勇者柚木=高梨の肩が揺れた。くすくすとクリームの髪を揺らす美女を肩肘で小突くと、彼女はますます苦笑の色合いを濃くして覆面を外した。
「いつから御気づきで?」
「貴方が王太子殿下の使いと名乗られた折からです。先だっての事件から未だ殿下は行くへ不明、もし自派の何某かを頼られたなら、自然と耳に入ります。ですが、それがなく、しかも真っ先に私を頼ると言うことは、殿下はいずこの貴族にも寄らずおっか売れになっているということでしょう。そんな状況で、私の所までおいでになれるほどのお力をお持ちの方と言われれば……」
「私たちしかない、と言うことか」
「殿下が勇者様方と共に御隠れ遊ばされたことは、既に方々に知れ渡っておりますので」
まいったなぁ、と肩をすくめるが、生憎傍目では全く困った様子には見えなかった。名目上はゼルドバール王国に属している彼女らからすれば、同盟国とはいえ他国の王族と深くかかわる今の事態は本意ではないのだろう。おそらく国元からも何らかの突き上げも来るはずだ。何せ彼の国には、勇者召喚以外の取り柄と言うものがないのだから。
「どうせならば、このままエスパニアにご定住為されたらどうです? 不肖この私が誠心誠意、御世話させていただきますが」
「…ふむ、非常に魅力的な提案だね。けどま、今は胸の内に留めるだけにさせてもらうよ」
明確な否定をしない、という予想外な好感触を得たフランソワは、わずかに目を細めると背筋を伸ばして少女たちに礼を返した。脳裏にはさて、どうやって籠絡しようかと年甲斐のない興奮が渦巻いていた。
★★★
「やれやれ、これで二日連続の夜更かしか。御肌がそれはもう悲惨なことになっていそうで、乙女の私としては戦々恐々だね」
うっすらと地平の彼方から漏れだす光に目を細めて、空中に釣り上げられた柚木はやれやれと首を振った。それを釣り上げる形となったライラは地平の輝きに気圧されている星々を翼でたたき、すっと彼女の脇に差し挟んだ腕で柚木のほっぺたを数度撫でる。
「ふむ、なかなか良い触り心地だが」
「お褒めにあずかり恐悦至極。まあ、まだ若いからね。とはいえその若さにかまけていると、後で手痛いしっぺ返しを食らうものなのだよ」
そういうものか、とライラは小首を傾げた。竜である自分には、人間の美容のことはわからない。ついでに言えば、竜の中であっても彼女はあまり美に関して興味を払っていなかった。従者の雌竜に「姫様ー! ちゃんと鱗の手入れはしてくださいー!」と御小言を言われ続けて、不承不承どうにか他者に見られる程度にしていただけである。
「私もさしたる興味はないのだけどね。ただまあ、最低限見られる程度の水準を維持しなければ、嫌われてしまうから」
誰に、とは聞かなかった。柚木の近場にいる異性など一人しかいなかったからである。この少女の性格上それ以外に考えられないし、なにより彼の纏う、どこか惹きつけられるような空気を思い出すと、彼なのだろうなあと、ライラは勝手に当たりを付けてしまった。
「愛だのう」
「愛さ」
朗らかに笑う柚木に、ほんの少しだけ得体のしれない何かが心の奥底で身をよじらせた。おや、と刹那の間に気配を発したそれに小首を傾げる。
「どうかしたかね?」
「…いや、何でもない」
はて、何か悪いものでも食べただろうか。今晩の夕食と潜入前に腹に入れた夜食の献立を思い出す。しかし竜に害を与えるような食材は一つも見当たらなかった。おかしい。思わず思考の海へ埋没しかけたライラは、しかし視界の隅に刹那瞬いた光を認めるとすぐさま自我を顕在の水面へと急速浮上させた。
「ユズキ。緑が三だ」
「…こー君かい?」
ぐんと速度を上げた。「おっと」と柚木の黒髪を隠していた頭巾が飛ばされそうになって、彼女は慌てて頭を押さえる。再び闇が駆逐され始めた空に、紛れそうなほど薄い緑光が三度明滅した。神崎幸二の光魔術による連絡だ。
緑が三度、その意味は――。
「緊急事態。それも最優先か。どう思うね?」
「さて、城の人間どもに見つかったか、あるいはあの侍女殿がまた無茶をしでかしたか。いずれにせよ、面白いことになりそうだの」
気楽に言わないでほしいものだね、柚木が苦い笑みと共に肩をすくめた。そう思うのならば、さっさと見捨てればいいのに。頑なと言うか頑固と言うか、勇者がひどく面倒な生き物というご先祖様の遺言を聞いていても、いざ目の当たりにすると呆れるしかない。自身の生き方を曲げないというその生き方自体は、誇りを尊ぶ竜種からすれば好ましいものだが、ライラ個人としては苦笑を禁じ得ないものだった。
「では、超特急で頼むよ」
「心得た」
光が打ち出された場所――即ち幸二とモニカが待機していた隠れ家の正面に降り立つと、待っていたかのように二人と、そしてあの侍女殿が血相を変えて詰め寄ってきた。
「柚木姉!」
「ご無事ですか、ユズキ様!」
まずは御約束と言うか、感動のご対面。相手の無事を祝い喜ぶ三人を微笑ましげに見ながらも、誰も自分の心配をしないことにライラはほんの少しだけ頬を膨らませて拗ねた。いや、頭ではわかる。それなりに長い付き合いなのであろうこの三人と違い、自分は昨日今日参入した、それも正式な仲間というわけでもないのだ。と言うか、自分には勇者と共に在る理由もあるが、向こうからすれば何となく成り行きで同行している、という認識しかないかもしれない。まともな感性の持ち主なら、ライラよりも柚木を優先するのは当然と言える。言えるのだが――
「ライラさんも、お疲れ様。怪我がなくて何よりだ」
そんな状況なのだ。にこにこと顔をほころばせて手を差し伸べる幸二を、思わず胸に抱いて撫でまわしてしまった自分を責めるものがどこにいようか。いやいない。
「コウジはほんに良い子だの」
「ちょ、ライ…!」
「な、ライラさん!? 何をなさっているのですか!?」
「友好を深めておる。妾は新参者故、自分から歩み寄らねばならぬと考えたのだが、どこか間違えてしもうたかの?」
「うぐ、ええと、そういうわけでは、いえでも、その……そ、そんなことをしている場合ではありません!」
誤魔化した。ライラは幸二の頭を胸に挟みつつ、頭巾を外して自慢の濡れ羽の髪を広がらせていた柚木と苦笑し合う。そしてすぐさま表情を引き締めて何があったのかを問うことにした。なお、幸二は撫でまわされているままである。
「で、殿下が……」
何かを言い募ろうとしたモニカを遮るように、今にも倒れそうなリリアーノが紫の唇を戦慄かせて機先を制した。全身の血を抜かれたかのように土気色の顔を晒す彼女に気圧されたのか、うっとモニカが口をつぐむ。
「殿下が………いらっしゃらないのです。どこにも………………」
「――何?」
柚木の声音が変わった。先ほどまでののほほんとした空気は瞬く間になりを潜め、代わってひどく真剣なまなざしが侍女を貫く。だが、普段ならば即座に委縮してしまうであろうそれに気づくことなく、リリアーノはぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「先ほど……殿下のご様子を確かめに……部屋に入ったのですが………どこにも、殿下……いらっしゃらなくて……」
「こー君…は駄目そうだからモニカ、いつだね?」
「発見したのは本当につい先ごろです。殿下が抜けだされたのがいつかは、残念ながら…。けれど、お部屋の前では私とコウジ様が交代で見張っていましたから、何かあればすぐ気付いたはずです」
一瞬だけ、ライラの胸元でもがもが言っている幸二にもの問いたげな視線を送るが、そこはさすがに王族、締めるべきところは締めるようでさっと顔が真摯なものへと変化した。モニカは離すことで思考をまとめるかのように、一言一句はっきりと留守番時の情景を発していく。
「加えて殿下のいらした部屋は天窓しかなく、扉以外から出ることは不可能でした。乗りあがろうとしても台座も、それに代わる家具もありませんし…」
「リリアーノ、君が食事を届けに行ったとき、エンバル王太子は確かに寝ていたんだね?」
「はい……間違いなく、お休みになっておりました」
震える声音だが、はっきりと頷いた。柚木はしばし黙考していたが、やがて大儀そうに頭を振ってこめかみを押さえる。
「…ま、攫われたのか自分から出て行ったのかは知らないけど、どっちにしろ目的地は変わらないんだから、いいか。やれやれ、超展開も甚だしい」
「目的地って…もしや、殿下のいらっしゃる場所に御心当たりがあるのですか!?」
掴みかかるかのように侍女は柚木に顔を寄せた。黒髪の娘は私にそんな趣味はないよ、と前置きして若干腰を引く。
「というか、この状況で一番可能性というか、動きがあるのは一ヶ所しかないじゃないか」
それはどこだと、先ほどまでの意気消沈ぶりを遠く東方の魔大陸にまでかっ飛ばすリリアーノに対するのに、言葉はあまり役に立たないと踏んだのだろう。柚木は苦笑しながら人差し指をある方向へつきつけた。
うっすらと影から抜け出そうともがいている、街一番の巨大建造物、王城に。