三十七話 勇者様、メガっさ頑張る
ただの侍女にしては、ものすごい濃密な殺気だと思う。モニカは周りの空気を肌に指すほど辛くしている侍女の姿を見て、思わず引きつった苦笑を洩らした。
言うまでも無く、それはそれは恐ろしい眼差しで褐色の女性を見つめるリリアーノがその根元である。なまじ類いまれな美貌であるせいか、殺意の化粧を塗りたくった彼女の顔は悪鬼羅刹も泣いて土下座しそうなくらいの凄みを発していた。これを真正面から受けて尚も平然としているライラという名の女性の豪胆さには、思わず感嘆の息を洩らしてしまいそうになってしまう。よくもまあ、あんなものを直視して艶然と微笑んでいられるものである。
モニカは澱のように身体の奥底に沈殿した疲労に、思わず大きなため息をついた。幸二たちと合流を果たした後、この古めかしい民家に帰りつくまでに過ぎ去った出来事を思い出して、どことなく憂鬱な表情へと気を転じてしまう。
二人の勇者と共にあった国王弑逆の容疑者を認めた瞬間、リリアーノはこれまでの小動物的な雰囲気をかなぐり捨てて、それこそ野生のオーガも道を譲るほどの勢いで妖艶なる美女へ食ってかかった。すぐにでも絞殺さんばかりの麗しい侍女に驚いた柚木らは、慌てて彼女を説得し、あるいは宥めすかそうとしたが、常とは違う勢いに気圧され思うように抑えきれない。それでも何とか様々な手練手管――柚木いわく『人方超速修羅場解決装置。ただし逆に増加させてしまう誤作動あり』――を使うことで、ようやくここまでたどり着く事が出来たのだ。
ちなみにその中で特に目覚ましい働きをした功労者はソファでぐったりしていた。なお、様々な理由――主にモニカの精神衛生上のため――その様子は記憶の奥底に封印されている。
「リリアーノ。いい加減、その顔をどうにかしたらどうだい? せっかくの美人が台無しじゃないか」
「ですがユズキ様! この女は陛下の――」
「だから妾ではないと言うとるに。ほんに、ヒトの話を聞かぬ娘だの」
「何ですって!?」
くすくすと、どこか楽しそうに嘯くライラに、リリアーノの顔は羅刹から魔獣王へと進化した。柚木は珍しく疲れたように肩をすくめ、やがていつになく真剣なまなざしを侍女へと据える。
「リリアーノ」
「え? あ、はい!」
彼女のただならぬ様子に気づいたのだろう。リリアーノはその身を人間へと復帰させ、頬に緊迫を張りつかせながら勇者の二の句を待った。褐色の美女も、笑いを引っ込めてどことなく張りつめた空気をまとい始める。モニカはごくりと喉を鳴らした。
「私もこー君も、朝から何も食べてない」
「はいっ! …………はい?」
「さっきも、ようやく朝兼昼にありつけるかと思ったら、お金だけ取られて料理は食べれずじまい。いい加減、温厚な私の胃もクーデターを起こし掛けているのだよ、君」
柚木はどこまでもどこまでも真剣だった。黒曜石もかくやという星をたたえた瞳は曇りなく透き通り、薄い桜色の唇もきゅっと引きしめられている。ほんの少し離れていても、彼女からは戦場をも思わせるような裂ぱくの気合が感じられた。
にも、かかわらず。この場の空気は空恐ろしい勢いで弛緩していった。
「これ以上食事が取れなかった場合、私は高確率で飯を求めて泣き叫ぶだろう。お腹がすいた、お腹がすいたと、うら若き乙女にあるまじき醜態をさらすのは必定。そこで!」
びしりと、リリアーノに白魚のごとき人差し指が付きつけられた。指差された侍女は、引きつった顔でそれを凝視する。
「というわけで、私は君に全員分の食事を用意することを要求する。本来ならばエンバル王太子に言うべきことなんだろうけど、彼は今夢の世界へ舵を切っているからね。その代理として、君に頼みたいのだよ」
「いやあの、えっと…」
「ほら、そこのモニカだって。何も言わないけど、実は空腹に耐えかねてお腹の虫が大合唱しているんだよ? 仮にも友好国の姫君をそんな目に合わせるだなんて、国際問題ものだね?」
「ユズキ様!」
咄嗟に大声を上げてしまった。心なしか頬が熱い気がする。それは、確かに自分も昨日の夕食からこっち、何も食べていない。ここは最低限の家財道具しかないし、買出しにも言っていない以上食料はゼロ。正直、油断したらお腹の虫に手ひどい裏切りを受けそうではあるが、だからと言ってそれを人前で暴露するなどお世辞にもほめられたことではないと思う。
さすがに思うところがあったので、モニカは抗議の言葉を紡ぎだそうと舌を動かした。しかし、それよりも前に柚木へ積極的に物を申してくれる頼もしき味方がモニカの機先を制してしまう。そのあまりにも利きすぎた気遣いに、モニカは全身の動きを停止してしまった。
彼女の誇るべき味方、名を――腹の虫という。
ひどく重々しい沈黙が帳を張った瞬間、金髪の姫は真っ先にソファでへたっている少年を見た。彼はこちらの騒ぎに耳を傾けることなく、ただひたすら倦怠感とワルツを踊っているようだった。刹那、安堵感から緊張が川の水のごとく清涼と抜け落ちていく。
「真っ先にこー君の様子を確認するとは。これが乙女というものなのかな?」
「さて、妾には何とも言い難いの」
「………モニカ姫様」
ち、違うんですこれは! モニカは絡みつく生温かい視線を振りきるかのようにそう叫んだ。しかし三対の瞳はヤバナの幹のようにしなやかさを見せ、容易には引きちぎらせてもらえない。
もがくように金髪を揺らすモニカを、リリアーノが苦笑をたたえて抑えた。
「承知いたしました。不肖、このリリアーノ。勇者様方のお口に合う立派な御昼食をお出しして御覧に入れます」
「ああ、妾の分は大もりでな。運動すると、腹が減るものよの」
「……了解致しました」
ほんの一瞬きだけ鋭い一瞥をくれるが、それ以上何も言わず麗しい侍女は深々と一礼した。ぱたりと出入り口の扉が閉まり、階下へと降りていく音が耳を打つ。それが小さくなり、やがて聞こえなくなると柚木はもう一度大きなため息を吐いた。
「さて、これでようやくまともな話ができる。…いつまで寝ているつもりなんだい、こー君?」
ぱこんと、柚木が持っていた空の水筒が幸二に向かって投げつけられた。小さな悲鳴とともに、少年が額をさすりながら背筋を伸ばす。
「いて、物を投げるなよ! 物を!」
「いつまでもへばっているからだよ、君。女の扱いなどちょろいものなのだろう? いつものように笑顔で四股、五股を駆けたまえ」
「なあ、マジで柚木姉の俺へのイメージってどうなってんだ? どこの鬼畜野郎なんだよそれは!?」
「さて、モニカ。落ち着いて話ができるようになったところで、まずはお礼を言わせてもらおう。君の援護のおかげで、色々と助かったよ。ありがとう」
「ゆ、ユズキ様……。いえ、そんな」
「無視か!? 俺の話、完全無視なのか!?」
若干涙が瞳に浮き始めた幸二の頭をライラがくしゃくしゃと撫でた。やわらかな髪にその手が埋まり、一瞬彼女が子犬の毛づくろいをしているかのような錯覚に襲われる。
胸の奥で、何かがうごめいた。
「しかし、何故君があそこにいたのかな? おまけにリリアーノまで一緒に」
「…え? あ、はい。えと、実は留守番をしているうちに、この家に食材がないことに気づきまして。リリアーノさんが「殿下がお目覚めになられたとき、美味しいものを食べていただきたい」とおっしゃったものですから……その、買出しに出たんです。あ、殿下の事は薬を持ってきてくださった御典医殿にお任せしていましたので、御心配は無用ですよ」
本当は何度も止めたのだが、あの気弱な侍女が頑として譲らなかったのだ。一人で行かせるわけにもいかず、かといって王太子を一人残して自分が同行するわけにもいかない。そう頭を抱えていたところに、薬草を調合したという御典医が現れた。若干の心配はあったが、それ以上の妙案も浮かばず結果として彼に頼ることになったのである。
「ふむ、先生が?」説明を聞いた柚木はちらりと王太子が伏せっている部屋を一瞥した。
「今はもう、お帰りになられています。薬を処方なされたということで、殿下は今、お休みになられているとのことで」
できればしばらくはそっとしておいてください。御典医の言葉をそのまま伝えると、黒髪の少女はわかったよと頷いた。
「…さて。では、美味しい食事が来る前に頭脳労働は終わらせてしまおうか。ね、ライラ女史」
「ライラ、でかまわぬよ。妾も汝らを名で呼ばせてもらう。…と、そちらの娘御にはまだ名乗っておらなんだの。妾はライラ=ドラコラス。アドデス山脈を守る誇り高き火竜の長、ラァルファーが一子」
その時のモニカの気持ちを表すのに、迂遠な比喩も万を越える修飾も何ら必要とされるところではなかった。人の心を文字で表すということは決してできないと、とある学者が言っていたような気もする。しかし今、ただ一言、たった一つの擬音だけで、彼女の胸に去来したあらゆる思いを表現することが可能となった。
それをここで描くと、こうなる。
――ブハァッ!
頬から無理やり吐き出された空気が盛大な音を立てて部屋中に響いた。およそ一国の姫の所業ではないが、そんな事をのたまう理性は重しをつけられて混乱の湖底奥深くへ沈められてしまっている。モニカは全身の血の気が引いていく音をその形のいい耳で確かに聞いた。
「か、かかかかか、火竜…!?」
「ていうか、長の娘ってことは、ライラさん――ライラはお姫様だったりするのか?」
「…まあ、今のところはな。ただ、竜種の長は大抵その世代で最も力の強いものが担う故、子らにさほどの権威はないよ。皆無というわけではないがの」
あんまり撫でるなよ、と言いながらもさしたる抵抗を見せない幸二の質問に、褐色の美女は苦笑した。しかしモニカにとって、そのあまりに気易い話し方に思わず背筋が凍りつくような感覚を覚える。
何となれば、火竜である。ワイバーンやヒドラなどの亜竜とは違う、六真竜の一つにして偉大なる火の化身。その鱗は一切の剣や魔術を通さず、幾人ものSランク冒険者を屠り続けた、正真正銘の化け物だ。その気になれば国すら滅ぼせる絶対の使徒が、すぐ目の前にいるなんて。ふっと気が遠くなった。
そりゃ、王城とはいえ中堅程度の国ごとき、侵入するのは造作も無いはずである。
「え、と、その、あ、あはは、お、お上手ですね。まさかそんな、火竜だなんて」
「ほれ」
ローブをすり抜けたかのように彼女の背中から蝙蝠のような翼が一対生えた。きらきらと輝く鱗は紅、ライラはそれが偽物でないことを示すかのようにパタパタと部屋の誇りを煽って見せた。
「へえ、あの時はじっくり見れなかったけど、なかなか立派じゃないか。でも、その大きさで空を飛べるものなのかい?」
「別に翼で飛んでるわけではありゃせんよ。竜が飛べるのはこれから発せられる魔力のおかげでの」
触りたそうにしている柚木から、すかさず離すようにライラは翼を引っ込めた。ほんの一瞬だけ、黒髪の勇者が寂しげな目線をローブに包まれた背中に送る。
モニカは今にも手放しそうになる正気の手綱をどうにか握りしめ、震える全身を治めようとした。
「それで、汝は? モニカ、というようだが?」
「ひゃ、ひゃい! し、神聖ゼルドバール王国第一王女、モニカ=エル=バラド=ゼルドバールと申しまふ! か、火竜の姫君におかれまひては、御機嫌うるりゃっ!」
噛んだ。
「そう畏まらずともよいよ。別に取って食いはせん。人間などよりも、うまそうなものはたくさんあるからの」
「…何か、人間食べたことがありそうな言い方だな」
「単なる例え話よ。しかし、なるほどの。ゼルドバール、あの国の姫で、勇者の同道者。となると、汝は召喚の巫女か?」
「………はい」
ずきりと、胸の奥が軋んだ。モニカがくっと唇をかむのと同時に、ライラの瞳に幾分か性質の異なる感情が浮かび上がる。けれどそれが明確な形として現れる前に、褐色の美女はふんわりとした笑顔によって全てを覆い隠してしまった。
「まあよかろ。とにかく、よろしゅうの」
はあ、よろしくおねがいします。どこか気の抜けた感じになってしまったが、モニカは唖然とした心もちで彼女に返礼した。
「で、自己紹介も済んだところで。早速話の続きだけど、何故君は王城の、しかも国王の寝室に忍び込んだりしたんだい? 今一つ、君がそうしなければならなかった理由というものが思いつかないんだが」
「先ほども言ったが、ちと込み入った事情があっての。ま、勇者たる汝らにも関わり話だし、耳の穴かっぽじって、きちんと聞いてくりゃれよ?」
ライラは全員がそろって頷いたことを確認すると、一度大きく息を吸い、吐いた。
「半年ほど前、我らが祭る火の大精霊が何者かによってかどわかされた」
★★★
くっと隣のモニカが鋭い呼気を発した。その雅やかなかんばせからさっと血の気が引き、そんな、という絶望の呟きが漏れ聞こえる。火の大精霊とかいう大層な単語や、モニカの様子から大事であることは理解できるものの、生憎と幸二は事の深刻さと言うものが暇一つつかみかねていた。おそらく事情が同じ柚木もであろう。きょとんと黒曜石の瞳を瞬かせ小首を傾げていた。
「六真竜、という言葉を知っておるか?」
幸二は無言でかぶりを振った。ちらりと柚木を一瞥すると、彼女も困ったように笑って肩をすくめるのみである。
「…無理もない、何せ異世界の民なのだからの。ま、諸俗通説あるが簡単に言ってしまうと、我ら火竜の民を含めた地、水、火、風、光、闇の属性を持った、竜種の中で最高位に位置する血族でな。それぞれ己の属性に対応する精霊の守護を担っておる」
火竜の姫という、これまたご大層な肩書を持っていた褐色の美女は六真竜とか言われてもよくわからなかった幸二たちをフォローするように、苦笑をたたえて説明した。
「我ら火竜の一族も、その名が示す通り火の精霊に忠節を誓い代々アドデスの地を守護してきた。山脈の最奥に眠る灼熱、その御座におわします火の大精霊を神殿に祭ることによって、な」
柚木が火の大精霊とは何ぞや、と質問した。すると即座にその返答が返ってくる。いわく、火の大精霊は火属性の精霊を束ねる王であり、この地を支える六柱の一つであるという。
何となく、いかにもな設定だと思ってしまう。そんな自分をごまかすかのように、幸二は話の続きを促した。
「そんな偉い精霊、誰がどうやってさらうんだよ。ていうか、その神殿に竜の警備とかいなかったのか?」
「無論いた。だが、連中の行動はこちらの予想をはるかに上回って大規模だったのだよ。襲ってきたのは、地平を埋めつくさんばかりの、魔物の群れ――否、軍だった」
その情景を頭に思い描いてしまったのか、ライラは苦々しげに顔を歪めた。ギュッと拳が握りしめられ、唇がかみしめられる。
「魔物の、軍?」
「うむ。あれは間違いなく軍と呼ぶべき集団だった。厳格な規律、ヴァンパイアどころか卑しきゴブリンに至るまで徹底された統率。ガーゴイルの弓兵が一斉に空を舞い、ケンタウロス騎兵が土煙を上げながら大地を疾駆する。オーク共が一糸の乱れも無くパイクを振りおろしてきた時など、我が同胞をして恐怖を通り越した笑いを上げさせたほどだの」
語られた内容は、モニカや自分どころか、柚木でさえもさっと血の気を引かせるほどに衝撃的なものだった。
彼女の話によると、魔物の軍は払暁にワイバーンによる奇襲爆撃を行い、火竜の兵を混乱させたところにヴァンパイア、リッチ等の魔力打撃部隊による徹底した事前砲撃、コブリン、ガーゴイル兵の弓による支援射撃、ケンタウロスの一斉突撃、オーク歩兵の突入と、およそ本能のままに振る舞う魔物とは思えない侵攻を繰り広げたというのである。
「そんな戦い方、本当にあるのか?」
「少なくとも、妾は初めて見たの。もっとも、人間の戦など見当もつかんが」
「…モニカ?」
「…私も軍事はほとんど素人ですので詳しいことは言えませんが……少なくとも、私の知る限りそのような戦いが起こったことはありません。我々の戦争は、基本的に隊列を整えた歩兵のぶつかり合いと、騎馬による突撃がせいぜいです。そもそも、歩兵や騎兵支援のために魔術師を使うという発想自体が、我々にはありません」
この世界において魔術師は絶対的な兵器。いかな堅牢な鎧と盾を身に付けた歩兵でも、どれほど素早く戦場を駆ける騎兵でも、彼ら魔術師の攻撃には塵芥と同様だった。そのため、いかに相手の魔術戦力を疲弊させつつ自らの魔術師を温存するかというところが、指揮官の腕の見せ所なのである。
そんなジョーカーを騎兵はともかく、この世界基準で言ってしまうと使い捨ての歩兵――幸二はこの言葉を聞いたとき形容しがたい感情に襲われた――ごときに使いなど、およそ軍事の専門家には考えもつかないことであった。
「騒ぎを聞きつけた一族が戦場に駆け付けたころには、警備隊は壊乱寸前だった。その後、どうにか奴らを撃退することには成功したが――回復しがたい傷も負ってしもうた」
ライラは言った。だから気付かなかった、と。あれだけの軍勢、あれだけの魔物。その目的が、神殿の占領ではなかっただなんて。
「我らが火竜の神殿は、この千年で十二度の魔物の侵攻を受けた。魔物――魔王にとって、大精霊の存在はよほど目ざわりのようでの。そのたびに一族はその身命を投げ打って奴らを蹴散らし、聖なる御座を守り続けていた。此度のそれも、十二度が十三度になるだけのことと、思っておったよ」
過去、アドデスの地に侵攻した魔王の軍勢――代々の長が受け継いだ伝承によると、軍と呼べるものは一つとしてなかったそうである――は、火の精霊神殿占領を最優先目標に設定していた。それ故に、敵の戦略目標を認識していた火竜族はそれを達成させないための戦術を考え付くことができたのである。
だからこそ、今度もそうだと考えていた。考えて、そして――絶望した。
「あの軍勢が。幾頭もの同胞の命を刈り取ったあの悪魔どもが、単なる囮にしかすぎなかったなど、誰が考え付こうか」
神殿の防衛に何とか成功したライラたちの下に、一人の神官が駆け寄ってきた。そして、彼女の一族にとって全身を切り裂かれたに等しい痛みと衝撃を付きつけたのだ。
「神殿の最奥にあった大精霊が、得体のしれない結晶に封じられ、連れ去られたと」
魔物の軍勢が神殿を取り囲み、男も女も神官も兵士も関係なく、誰もが神殿を守るために奔走していた。そこは火竜族にとって聖地であり、そこを守ることは彼女らの存在理由であったからだ。
そして、その混乱を突かれた。大精霊の間に大神官と数名の共を除いて全員が出払った瞬間、それが現れたそうだ。
「驚くべきことに、現れたのは人間の女――少なくともその姿を取ったものだった」
「…すると、大精霊をさらったのは人間、というこのなのかな、君?」
ほんの少しだけ柚木が表情を険しくして呟いた。幸二も同様に真剣な目でライラを見つめる。彼女の返答によっては、人間の中に魔王の協力者がいる可能性が明らかになるのだ。モニカは顔を真っ青にして、ごくりと喉を鳴らした。
そんな自分たち人間の様子に、竜の姫は苦笑と共に呟いた。否、と。
「聞くところによると、その女は鋭い剣で同胞の鱗を裂き、火竜の重き爪の一撃を片手で受けたそうな。おまけに、特大の火息すら軽々とした跳躍で避けるという大道芸も見せてくれたらしいぞ。方々には不快に聞こえるだろうが、我らの本音として、そんな事が人間という脆弱な種族にできるとは思えぬ」
一瞬だけ、幸二の若者特有の全能感がその言葉に激しく不快感をかき立てた。同時に理性の部分で、そりゃ無理だろというまっとうな意見がささやかれる。葛藤と不満と現実がいっそ見事な不協和音を奏で、最終的に苦笑という形で外界へ現出することになった。
「確かに、人間業じゃないよなぁ」
「どこぞの正義の味方の星条旗ならパワードスーツとかでやりそうな気もするが、普通は無理だね」
「そんなの、アーレン=バウトニーでも無理だと思います」モニカが現役最強の冒険者の名を呟いて顔を土気色に進化させた。
「で、そのような失態を演じた我らは、すぐさま後始末のために大精霊の救出を計画した。しかし、下手人はとっくの昔に逃げ去り、追跡は至難の業。そこで我らは、一族の中でも人化が可能だったものどもを使い、人里での情報収集を行うこととしたのだよ。その女が人里に紛れているという保証はないが、万が一ということもあるし、人間の情報網は侮りがたいと聞いていた。もしかしたら、そこに手掛かりがあるかもしれない。
――まさに、藁にも縋る思いであったよ」
それはひどく乾いた笑みだった。彼女自身、おそらく理解し抜いてしまっていたのだろう。見つかりっこないと。あれだけの大軍を、ただ囮のために使い捨てられるような連中に対して、いかな群生として抜きんでている人間であろうと、有用な手掛かりなど万に一つとしてありはしないことを。
しかし、運命の女神は見目麗しいこの竜を大層お気に召したようであった。
「あれは、一昨日の深夜。大雨で月の見えぬ夜のことだった」
幸二らと出会ったあの宿で、降り注ぐ雫をぼうっと眺めながらつまみと食べていると、唐突に城の方から火の大精霊の力が流れ込んできたそうだのだ。肌で感じる火の気配に、ライラは思わず飛び上がった。
逸る心を鉄壁の城塞で押さえつけると、彼女はすぐさま同じように各地へ散っている仲間に連絡を取り、各種装備を点検して夜が明けるのを待つ。闇夜に乗じて奇襲をかけるというのも考えなかったわけではないが、火竜の力は灼熱たる陽の光が降り注ぐ時間帯の方が大きくなる。相手は神官とはいえ竜を軽々といなして見せた猛者だ。万全の態勢で挑むべきだとライラは判断したらしい。
「そして準備を整えいざ突入、と部屋に押し入ってみると、そこにあったのは大精霊の結晶などではなく。胸を貫かれて死した、この国の王だった」
あまりにも予想外な光景にライラの思考は一度停止した。数秒の再起動時間を経てかつてオバル二世と呼ばれた男に近づくと、彼から強い大精霊の力が発せられていたのである。
「ちょ、ちょっと待ってください! 何故、叔父上から大精霊様のお力が発せられているのですか? 大精霊様のご加護を授けられるのは――!」
認められるのは。何なのだろうか。その先で口ごもられると、非常に精神衛生上よろしくないのだが。幸二は思わず渋面を作り、柚木に視線をやった。黒髪の少女は長髪を指でくるくる廻しながら、気だるげに苦笑する。どうやら幸二と同じような展開に思い至ったらしい。
モニカがちらりとこちらを覗き見た。その瞬間、疑心は確信に姿を変える。何と言う王道展開、と兄ならば言うのだろうか。
そうか。だから俺たちにも関係がある、なのか。
「ああ、すまぬ。少し紛らわしい言い方だったようだの。別に汝の叔父が大精霊より力を下賜されていたわけではないよ。正しくは、この国の王に突き立てられた剣より、精霊の力を感じたのだよ」
言ってライラは、ローブから一振りの短剣と取り出した。長さはさほどの者でもなく力の弱い女性でも使いやすそうな、見るからに無骨な一品である。
「…それが、話の短剣かい?」
柚木が触れようとするのを、幸二は慌てて手で制した。王を殺した凶器であったことも理由の一つであるが、それがライラにとって、いや火竜族にとって命よりも大事な宝物かもしれなかったからである。しかしそんな幸二の気遣いを、褐色の美女は苦笑と共に窘めた。
「触ってもらって構わぬよ。ただの安物だからの」
「…は? いやだってこれ、大精霊? の力が宿ってるんだろ?」
「まあ、そうだの。ただ、正確を期するなら「宿っておった」の方だよ」
苦笑に微量な諦観が交った。ライラは短剣を弄ぶように手のひらで転がし、ぽいっと無造作に卓へ放り投げた。
「何者かによって大精霊のかけらがこの中に封入されておったのだろう。妾が手に触れると同時に、かけらは虚空へ溶け込んでしまったよ。それでまあ、どうしたものかと混乱しておるうちに、あの娘が部屋に入っていて、悲鳴も上げられず腰を抜かしてしもうての。あれよあれよという内に騎士は来るわ、王子は来るわで――後のことは、汝らの知るとおりだよ」
長い沈黙が古めかしい部屋全体を満たした。柚木は何事かを考えるように顎へ手を当て、モニカは信じられないような、けれど相手が火竜であることを考慮しているのか、なんともいがたい表情で固まっている。
かく言う幸二の考えはというと、これはひどく単純であった。即ち、さっぱりわからない。触れあった感想として、ライラという女性は何となく信用が置ける感じがする。彼女の話にも、微妙に信じがたい――あくまで異世界仁の立場から見たものであるが――物ではあるが、一応の整合性はとれている。けれど、それを示すだけの証拠がないことも事実。結局のところ、証拠がないという時点で話を聞く前とさほど状況は変わっていないのである。
リリアーノの言っていることも間違いではなさそうだが、ライラもまた嘘を言っているとは思えない。あくまでも個人的な主観ゆえ、建設的な意見にもなりにくかった。
思考の袋小路に陥りそうになった幸二を助けたのは、部屋に響いたノックであった。
「失礼します。お食事の用意ができました」
侍女服を着た妙齢の女性が、湯気の立つ盆を持って扉をあける。とたんに鼻をくすぐり始めた米の炊けたにおいに、幸二の腹の虫が大声で叫び声を上げ始めた。それを聞いたのか知らないが、柚木、モニカの飼い虫も同様に大声で叫ぶ。――腹が減ったぞ!
モニカは見る見るうちに顔を真っ赤にして俯いた。柚木とライラは瞳を輝かさんばかりに笑顔でリリアーノを、その両手に支えられた大きな鍋を歓迎する。両手に取っ手がある平底の浅いフライパン――俗にパエジェーラと呼ばれる鍋から現れたのは、薄く色づけされた米料理、パエリアっぽいものだった。
卓に乗せられたパエリアっぽい何かは、リリアーノの手によって人数分にとり分けられ、木製も食器と共に全員の前に配膳される。ライラの所におかれる際、若干侍女の視線が険しくなったが、向けられた本人の食に対する期待感のせいか、彼女は妙に毒気を抜かれた様子でため息を漏らす。
配られた瞬間、ライラは目にもとまらぬ速さで木のスプーンを熟練の剣士のごとく繰り出してパエリアっぽいもの――面倒だからパエリアに鋭く切りかかった。自分と柚木はいただきますと一声かけ、モニカはじっと何かに祈りをささげている。
幸二は木皿に盛られたパエリアを口に運んだ。香辛料の独特の風味が鼻を刺激し、具材の肉は筋張っていて硬かった。何の肉かはあえて考えない。もう一口、スプーンで救う。
木製でささくれだっているとはいえ、幸二はスプーンがあるだけありがたいと心の底から思った。この世界、というか文明、ナイフやスプーン、個人用の皿などの食器は王侯貴族しか使わず、庶民は基本的に手づかみ、一つの皿の回し食いなのだ。最初、活動資金を失って安宿で食事をしたときは思わず途方に暮れてしまった。文明社会に慣れ切ってしまった自分たちにとって、手づかみへの心理的抵抗――パンやサンドイッチはともかく――はかなり高かったのである。回し食いに至ってはそもそも論外。何せスープなど一つの皿――時々壺――での回し飲みだったのだ。無理。論外もいいところである。だからこそ、このスプーンのように、旅先でせこせこ木を削って各種食器を造ったのであるが。
「あれ、リリアーノは食べないのか?」
祈りが終わり、モニカもパエリアをほおばり始めたので幸二はリリアーノに同席を促した。彼女の侍女としての心理線は、先の取り調べてある程度折り合いをつけさせているはずだから、食卓を共にするということにもさほど抵抗はないはずだと思う。
「いえ、先に殿下のお下へお食事を届けてまいります」
そう言ってリリアーノは一度階下に戻り、今度はオートミールのような米飯――というかお粥を持って二、三度王太子の病室をノックした。
「殿下、失礼いたします。お食事をお持ちいたしました」
返答はない。エンバル王太子はまだ目覚めていないのだろうか。幸二は何となくその様子を横目で見ながらそう思った。リリアーノはあらかじめわかっていたかのようにもう一度「失礼します」と呟いて扉を空けた。その瞬間、余り分のパエジェーラにあったパエリアの大部分を奪取せんと画策したライラの野望をスプーンによって牽制する。
「…こういうとき、騎士は女子に遠慮するものではないのかの」
「俺の世界は男女平等なんだ。第一、食べ盛りの運動部を舐めるな」
こと食事に関して幸二は妥協という文字を辞書から抹消していた。でなければ、血で血を洗う身内一の食いしん坊との料理争奪戦を生き残れなかったからだ。いっそ変質的とまで言える兄の食への執念、それと幼いころから付き合ってきた幸二にとって、栄養源の確保は自己の生存に必要不可欠な行いなのである。
「ふふ、されど甘いわ!」
「んなっ!?」幸二の顔が教学に包まれた。ライラが繰り出した木製のスプーンは絶妙な力加減で幸二の武器を付き上げ、加えられた回転でもってスプーンを天井へ高らかに突き飛ばしたのだ。
ライラが誇らしげな笑顔で薄黄色の米飯へとスプーンを伸ばした刹那、それまで予期していなかった方向から別の食器が伸びて褐色の美女の腕を軽く突いた。
「む、邪魔をする気かの?」
「ふふ、食事の独り占めはマナー違反だよ。こういうときは、きちんと三等分するものさ」
「さりげない自己主張をありがとう、柚木姉。けどな、食事は戦場なんだぞ?」
「それくらいゆー君の幼馴染をしてたら嫌というほど思い知るよ。けど、だからこそ戦場には最低限のルールと言うものが必要ではないのかな、君?」
「確かに道理。だがのユズキよ。世の中には譲れるものと譲れないものがあるのでの」
「あ、あの。皆さん、何もそこまでいがみ合わなくても。ほら、ユズキ様のおっしゃる通り、三人で分け合っても十分な量が」
「甘い、モニカ、それは甘すぎだ。世間には、美味い飯のためなら家族ですら犠牲にできる人間がいるんだ。そんな相手から命を守るためには、自分の取り分は可能な限り沢山確保しなきゃいけないんだよ。そうじゃなきゃ、あの馬鹿にーちゃんは倒せない」
「あの……コウジ様のお兄様って一体」
「そうか…そこまで君たちが覚悟を決めていると言うのなら、もはや私も何も言うまい。なれば私もまた、己が宿命に真っ向から立ち向かって御覧に入れよう」
「ふふ…人間たちよ。妾を敵に回したこと、後悔するがいい!」
それから起こったことは、まさに筆舌に尽くしがたい惨劇と言えた。正直、幸二はそこで何があったのか記憶から抜け落ちていたのだが、モニカの泣くのを通り越して虚ろな笑みを見ると、思い出さない方が精神衛生上非常にいいことだと思われた。彼女は何があったのか柚木に尋ねられると、「ワタシハナニモミマセンデシタ。ミマセンデスター!」と甲高い声で叫びだして暴れるので、今ではそのことに触れる者はだれもいない。
ただ、その悲劇はリリアーノの「お代わりありますよ」という言葉で鎮静化したことだけははっきりと覚えていた。