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三十五話 勇者様、超々頑張る


 空の機嫌がすこぶる悪かった昨日とは違い、本日は雲一つない晴天だった。いつのまにか登り始めた朝日とともに、水汲みの子供たちがちらほらと街路へ足を踏み入れ始めている。両脇に壺を抱えた少年が、彼より幾分小さい少女を先導するように無骨な石畳を足でたたいた。「待ってよー」と、どこか楽しげな娘が後を追い、二人は朝市に並ぶ女たちに挨拶をしながら川の方へと駆けていく。

 どこかのんびりとした城下の光景を二階の窓から眺めおろし、柚木は少し後ろ髪をひかれながらも両開きの木窓を閉じた。すると、からりとした朝の新鮮な空気がまたたく間に重く湿っぽい瘴気に汚染され、足もとにどんよりと薄靄が張り始める。肺に凝るタールを思い切り吐き出したくなり、柚木は壁一枚に隔てられた光の世界への未練を強くした。

 三角屋根がそのまま乗っかった天井はところどころ後から打ち付けたと思しき板がそこかしこにあてはめられ、床の木材は長い年月を経てところどころささくれだっている。柚木が立っている窓以外はすべて閉め切られ、明かりを入れる天窓がなければ、きっとお化け屋敷も核やという惨状を呈していたに違いない。これで掃除が行き届いていなければどこに出しても恥ずかしくない立派な廃屋の完成であった。

 しかし、柚木をして思いと言わしめる空気を発しているのは、そんな廃屋見習いの風体ではなかった。見れば、長椅子でうとうとと舟を漕いでいるモニカはともかく、幸二もまたなんとも言えない表情で部屋の隅っこを占拠していた。このおどろおどろしいまでの瘴気は、全てモニカの正面に座る亜麻色の侍女から発せられているものである。

 リリアーノはどろどろに汚れた侍女服のまま、着替えもせず夜明け前からずっと不動を貫いていた。白魚のごとき指は薄汚れたエプロンをぎゅっとつかみ、油でべたつく長髪を払いのける事もしないままただただ静かに俯いている。背後に魔界すら幻視しかねない彼女に、柚木は何度目かもわからないため息をついた。

 このまま本能の赴くままに朝日の下を駆け抜けてみようか。普段首に鉄鎖をつけてがんじがらめに縛りあげていた欲望が、理性の堤防へと特攻を開始した。一瞬、バランスを崩したかのように柚木の足が階段に向かってよろめく。このままクラゲになって世界を漂おう。そう思い実行しようとした瞬間、隣室へとつながる扉が静かに開かれた。蝶番がひと

きわ軋んだ音を立てると、底なし沼の主が泡を蹴立てて急速に浮上し、顕れた老紳士へ文字通り飛びかかった。


「先生! 殿下は、殿下はいかがなのですか!?」

「あ、安心なさい。峠は越しましたよ」


 今にも絞殺さんと言わんばかりのリリアーノに大きく引きつつも、老紳士――一昨年引退したという御典医は苦笑しながら侍女を抑えた。あまりにも気が気でなかったのか、しばし「本当に?」「本当です」のやり取りをバリエーション豊かにこなした後、リリアーノはぺたりと床に腰を落としてしまう。


「確かに全身を切りつけられて大量の血を失っていましたが、幸い全て急所は外れておりました。傷を塞ぎ、血を増やす薬草を煎じましたので、後はゆっくりと静養なされればよろしいでしょう」

「よかった……殿下…本当によかった」


 とうとうすすり泣き始めたリリアーノを幸二に託すと、柚木は元御典医に礼を述べた。


「しかし、申し訳ない。わざわざこんなところまで御足労いただいた上に、家まで用意していただいてしまって、何と礼を言えばいいのか」

「いえいえ、事情は聞き及んでおります。本来ならば拙宅へお招きするのが礼儀なのでしょうが、生憎と我が家は王宮に近く、衛兵の通いも多い。このような薄汚き場に尊い身をお運びいただくなど、まこと慙愧の念に堪えませぬ」


 老医師はそう言って本当にすまなさそうな顔をして頭を下げた。しばしその瞳をじっと見つめたが、偽りない感情の星を認めると、柚木はもう一度、大きく首を垂れて礼を述べた。

 どうやら誠実な人物であるのは間違いないらしい。意識を失う前に彼の下へ運んでほしいと言ったエンバル王太子の考えは、間違っていなかったようである。老医師はエンバルの眠っている部屋に最敬礼し、何かあったら読んでくれと言う台詞を残して階段を下りて行った。

 柚木は一連の騒ぎにもめげず、ひたすら夢の花畑で戯れるモニカの隣に腰掛け、深々と息を吐く。そして思った。やはりお家騒動なんてろくなもんじゃあないな、と。

 つい数時間前、半狂乱になりながら血まみれのエンバル王太子を抱えてきたリリアーノの訪問を受けて、柚木たちは流されるままに城を脱出することとなった。途中、明らかにタマを狙ってくる騎士様方を振りはらったり、血走った瞳で攻撃魔術を放つ魔術師を蹴飛ばしたりしつつ王族用の隠し通路――以外とあるものだった――から抜け出すと、王太子は先ほどの老医師を頼るよう願いながらかろうじて保っていた意識を手放した。そこでまた大騒ぎする侍女を何とかなだめすかし、元御典医にかくまわれる形でこの場にたどりついたというわけなのであるが。


「まあ、放っておくわけにもいかなかったしね」


 かといって、何らの事情説明もないままこのような事態に陥ってしまったことに関しては、思うところがないわけでもなかった。これが大公側、あるいは反王太子派から仕掛けてきたものであるならばともかく、王太子派のちょっかいによって巻き起こった事件だとすると笑い話にもなりはしない。あのまま放置すると確実に出血多量でお陀仏だったため助けたことに後悔はないが、それでも早急に状況を打開しないと、立場の悪化を招きかねなかった。


「そろそろ、リリアーノも落ち着いたころ合いだろうか」


 柚木はにへらと笑み崩れた姫君を夢の世界から引きずり戻し、幸二やエンバル王太子のいる部屋に向かった。あの天然フェロモン散布人間なら、落ち込んだ女性を立ち直らせることなど造作もあるまい。果たして、それは正解だったようであった。


「ユズキ様、モニカ様……」


 若干憔悴が残るものの、エンバルの眠る寝台の横に座った侍女が小さな笑みを浮かべて立ち上がった。座っているよう押しとどめた柚木は、どこか安堵した様子の全自動女性ほいほいに御苦労様と頷く。


「なあ柚木姉。今何か変な眼しなかったか?」

「はは、気のせいだよ、君」


 まったく。こういう勘の鋭いところは兄に似ているのだから困りものである。一瞬だけ苦笑がひらめいた。


「さて、少しは落ち着けたかな? リリアーノ」

「あ、はい。おかげ様で……」

「それは重畳。では、早速で悪いが何があったのか説明してくれないかな。勢いのまま付いてきてしまったけど、私たちには何が起こっているのか全く情報がないのでね」


 よほど眠いのか、重心のおぼつかなくなったモニカを幸二に放り投げて――こういうとき、何だかんだ言って紳士的かつ女性の扱いに慣れている彼は便利である。きっとモニカも喜ぶだろう――手近な椅子を彼女の横に並べて腰を下ろす。


「も、申し訳ございません! 勇者様方をこのようなことにまきこんでしまって…! でも、どうしても殿下をお助けしたくて、私――」

「過ぎてしまったことはどう言っても覆らない。それに、あのまま見捨てるのも寝覚めが悪いしね。だからせめて、巻き込まれた経緯くらいは話してくれないかな」

「はい、それは勿論! …といっても、私も詳しいことは何もわからないんです。陛下が身罷られた後、私は王太子殿下付きの侍女として御配慮を賜る栄誉をいただきまして、お側にお仕えしていたのですが……」


 彼女の話した内容は、柚木に大いなる頭痛をもたらすのに十分な代物だった。昨晩、長らく激論の的であった誰を喪主にするかという議論に決着がつき、連日働き詰めであった王太子に今日こそ睡眠を取ってもらおうとリリアーノ含めた侍女たちが土下座泣き落とし等様々な手段を駆使して、彼を寝所に連れて行ったそうだ。苦笑しながらも観念したエンバルに続く形で寝所に向かっていると、不意にどこからともなく数人の騎士たちが現れ、リリアーノたちを囲む形で布陣した。


「暗かったので、顔まではわかりませんでした。ですが、間違いなく近衛騎士の方だったように思います」


 誰何の声を上げる王太子に、彼らは一呼吸の間すら置かず白刃を煌めかせて襲いかかった。一刃、二刃と防いだが、いかんせん数が多すぎた。彼はあっという間に無力化され、まるで訓練用のかかしのごとくなます切りにされてしまったそうである。


「私たちには、どうすることもできませんでした。でも、侍女の中に武術の心得があった方がいらっしゃいまして、その方が騎士たちを押さえているうちに、他の侍女たちと殿下を安全なところまでお連れしようとしたのです」

「…あの時、君は一人だった。他の侍女たちは?」

「…わかりません。途中、何度も得体のしれない騎士に襲われて、そのたびに一人一人、あの者たちを食い止めるために戦いを挑んでいきました。私は一番新米だからと、最後の最後まで残るように言われて…」


 長いまつげに、いくつもの雫が生まれた。ぎゅっと唇をかみしめた娘は肩を震わせて、悔しそうに呟きを放つ。


「そうか。…無事であることを祈ろう。それで、首謀者のことなんだが」


 そこまで言って、柚木は一度言葉を切った。彼女が申告した出自が確かならば、二の句はこの亜麻色の侍女にとって酷くつらいものになるからである。リリアーノがわずかに肩を震わせた。握りしめたエプロンのしわが強くなるのを見て、しかし柚木は二、三度首を振って言葉を続ける。


「他国の蠢動、と言う線もなくはない。けれどやはり一番可能性の高い人物は」

「……ルブルン大公殿下、なのですか?」

「そうなるね」


 順当にいけば、だが。柚木は内心だけで呟いた。


「リリアーノ、良ければ昨日の会議でどういった決議がされたのか教えてくれないかい? 無論、知っていればの話だが」

「…私も詳しくは存じ上げません。ですが先輩のおっしゃることには、王太子殿下が喪主に任じられたと」

「…ああ、なるほど」


 納得して柚木は頷いた。同時にそりゃ色々起こるだろうさ、と色濃い苦笑がこみ上げる。つまりこの場合、国王の国葬を取り仕切る立場にある喪主は、通常のそれと同じ役割にとどまるものではないということであった。簡単に言うと、国王を見送る喪主は王太子、国体の後継者が務めるものなのである。

 国王の葬儀には、当然のことながら周辺諸国や友好国からそれ相応の地位にある者たちが弔使として訪れる。そこで喪主は各国のお歴々の応対をするとともに、国の内外に向かって新たな指導者と盤石な体制を知らしめる必要があった。でなければ、他国から継嗣問題に横やりを入れられたり、最悪の場合継承権の主張を大義名分として侵攻すら招きかねない。

 そういう意味では、幾代も王朝間で婚姻を交わしているゼルドバール王国など大いに注意しなければならないのであるが、今は言ったところで仕方がないので気付かなかったことにした。そういうのは、モニカやゼルドバール王家が考えることである。

 ともかく、このお家騒動真っ最中のエスパニア王国で、王太子が喪主の座に着くと言うことは、彼が次代の国王として認められるのと同義だった。故に、ルブルン大公派が何らかの行動を起こしても不思議はない。…不思議はないのだが。


「ありがとう、リリアーノ。おかげである程度事情は把握できた。それで、君はこれからどうするんだい? 何か考えがあるのなら手を貸すが」


 思考をごまかすかのように、柚木は亜麻色の侍女に訊ねた。彼女は少し考えた風に瞑目したが、やがて穏やかな微笑を浮かべて首を振る。


「私はここで、殿下がお目覚めになるのを待ちます。どうぞ勇者様方におかれましては、私のことはお気づかいなされませぬように」

「そう言われてもね。君たちだけを放っておくわけには」

「勇者様には、勇者様の為すべきことがおありのはず。それが必ずや、殿下をお助けすることにつながりましょう。ですからどうぞ、御心のままに」


 そう言って静かに頭を下げるリリアーノに、柚木は苦笑しながら肩をすくめた。


「だと、いいけどね」




 ★★★




 扉をくぐると、そこはピンク色の青春景色だった。何やら色あせた床板に正面あわせで座り合い、ひたすら真っ赤な顔で謝り合っている少年少女を見て柚木は噴出した。大方眠りこけたモニカがお姫様だっこ等の密着式移動の最中に目覚め、嬉し恥ずかしラッキースケベな展開に発展したとか、そういうところだろう。嗚呼、青春哉。彼氏いない歴=年齢の自分が言うのも何だが、誠に初々しく甘酸っぱい光景であった。ちょっぴり羨ましい。


「柚木姉、終わったのか!?」


 まるでメシアを見るような眼差しでこちらを伺う幸二ににやりと笑い、柚木は二人の側にあった長椅子に腰を下ろした。堅く、身を預けるたびにギシギシと乙女心をえぐる声を上げる椅子畜生が何故か小憎らしくなる。何か。私が重いとでも言うつもりかこの野郎。


「とりあえずはね。とりあえずモニカ。こー君とどのくらいまで官能な展開になったのか一字一句洩らさず教えてくれないかな?」

「そ、そんなことにはなってません! た、ただ…」

「ただ?」

「ええと、その、コウジ様のお手が…………私の、胸に」

「ほう! 胸に! それから?」

「……………あの、ローブが少しはだけ……」

「何と言うエロ。こー君、エロいぞ!」

「何でそういう話になるんだよ!? ていうか、それは運ぶ時にたまたまそうなったからで、他意なんてないからな!?」

「狼は皆そう言うものだよ。やはりゆー君提唱の『幸二鬼畜エロ説』は正しかったわけだね?」

「にーちゃんそんなこと言ってたのか!?」

「ちなみに私は『幸二欲求不満説』の論客だよ。ゆー君との議論はずいぶん白熱したんだが、まだ決着には至ってなくてね。それが心残りだよ、君」


 何やら衝撃を受けた幸二が崩れ落ちるように床板とキスをした。さらに蛇足であるが、これらの議事録や研究報告は幸二君ファンクラブの面々に会報という形で柚木が監修していた。これは裕一にも内緒である。何となれば、彼に知られれば「何で僕がコウのハーレミングに手を貸さなきゃならんのじゃー!」と議論をしなくなりそうであるからだった。


「ま、冗談という名の暴露大会はこのあたりにしておこうか」


 暴露って、本当に本当なのか! と慄いた少年の叫びが聞こえた気もするが、とりあえずスルー方向で行こうと思う。柚木は頬杖をついて、幸二はともかく何故か未だに地べたに座り込んでいるモニカを見つめた。


「さて、何やらなし崩し的にお家騒動に巻き込まれてしまったが、我々の今後の方針はどういった具合になっているのかな?」

「それなのですが、正直、情勢が混乱しすぎていてどうしたらいいのか私にもわかりません。下手に動けば最悪、国際問題に発展します。ですので、本国へ早馬を送り、父上――陛下のご聖断が下るまで、静観するのが妥当かと」


 ふむ、と頬を揉んでモニカの言葉を咀嚼した。何も考えずに動いて、最悪内乱に陥れば周辺国が黙ってみていない。そしてエスパニアが崩壊すれば、それは即ち一衣帯水の仲であるゼルドバール王国の危機に直結するということである。ならば、ゼルドバール王の判断を待って動いた方が得策であるのは間違いない。間違いはないのだが。


「例え昼夜問わず、馬を使いつぶす気で急いでも、ゼルドバール王都までは約十日。往復で二十日。さらにそこへ閣議やらなんやらと政治的判断を下すための討論が起こるとなると…一月では足らない気もするね」

「絶対見つけられて捕まるだろ、そんだけかかったら」


 だらりと床にへばりつきながら幸二が苦笑した。だよね、と柚木も同意し、発案者であるモニカまでもが賛意を示した。彼女自身、現実的な案ではないと認識していたらしい。


「ならば、私の考えを聞いてくれないかな?」


 ちょいちょい、と二人を手招きし立ち上がらせる。少年と少女の耳を極限まで自分の口元にもっていき、彼らの耳にふっと吐息を吹き込ませた。しばし小さな囁きで彼らの耳たぶをくすぐると、やがて二人の顔に驚愕のインクが垂らされていく。


「な、柚木姉…」

「そんな、まさか…」

「しかし、そう考えるとしっくりくるのだよ。少なくとも、あまりにも観客に分かりやすい芝居展開よりは、ね」

「でも、証拠はないんだろ? なら決めつけるのは早計なんじゃ」

「それを言ってしまうと、ルブルン大公が今回の首謀者という意見も証拠がないことになる。ま、だからこそ私たちが行くんだけどね」

「危険です! ユズキ様、相手は多分、人間じゃないんですよ!? それに、どうして私だけ留守番なんですか!」


 モニカがその端正な顔を悲痛に染めて柚木の腕の裾を握った。苦笑して、その指をやんわりと解きほぐす。


「大丈夫だよ。ほんのわずかだったが会話も成立したし、少なくとも問答無用で攻撃してくるということは無いはずさ。それに、いざとなればそこの安定型超高速女たらしが何とかしてくれるだろうしね?」

「…聞きたくないけど、あえて聞く。それは俺のことなのか?」

「君以外に誰がいるんだね」


 何故か幸二が烈火の怒りをぶちまけたが、幸いなことに長年鍛え上げたスルー能力の敵ではなかった。この程度、同学年の少年、木田武雄君(十七)による愛を謳った一人歌劇団十二時間公演に比べればどうというほどのことはない。柚木はなおも不安そうな瞳の少女を覗きこみ、小さく微笑んだ。


「でも、ならなおさら私も一緒に…」

「モニカには、リリアーノたちのことを頼みたいんだ。ちなみにこれは、追ってから彼女らを守れという意味じゃあないよ。あくまで、どこぞの怪我人が無鉄砲をしないように監視するにとどめてほしい」


 モニカの顔が目に見えてこわばった。気づいたのだろう。今自分が放った台詞の意味に。


「まさか、ユズキ様はエンバル殿下までお疑いに…?」

「リリアーノには聞かせられないけどね。とある幼馴染一号の口癖が骨身にしみているんだよ」


 そう言って柚木は小さく苦笑した。そして唇に人差し指を当て、とびきりの笑顔でうまくも無い声真似をする。幸二が微妙な苦笑を浮かべた。


「『昔の人は言いました。常識を疑え、と!』」




 ★★★




 ライラ=ドラコラスは人間という生き物に素直な感嘆の念を持っていた。自分の目前に置かれたリゾットをスプーンで口に運ぶたびに、その感情は彼女の中で確固たる地位を確立していく。スデーナ大河から取られた魚介類の風味が色濃い米は今まで怠けに怠けていたライラの舌をまたたく間に一念発起させ、今では働き者の農夫もかくやと言わんばかりに主人への献上品を増加させている。

 火であぶる等のごくごく簡単な処理ならばともかく、食事にここまで手間暇をかける文化を持たない自分たちにとって、人間が生み出す料理という代物は誇り高き彼女らをして瞳を輝かせるに足る存在だった。故郷たるアドデス山脈は麓こそ豊かな森林に囲まれているが、山肌は堅い岩盤に覆われて頂上付近になると万年雪が降り積もる不毛の大地である。当然、生息する動植物は麓に集中し、狩りをしようものならまず山を降りねばならない。しかし山脈の守り手たるライラの種族はめったに山脈から離れる事はないため、自然と食生活も貧弱なものにならざるを得なかった。

 というか、そもそも彼女たちは人間や他の動物と比べて食事の頻度が桁違いに少ない。燃費がいいというか、水と最低限の魔力さえあれば数年くらいは何も食べなくとも生きていける。また種の特性なのか肉類よりも野菜類を好むため、食物の幅も狭いものだ。そのため、普段の生活にあまり必要のない食事に手間をかけるという発想自体が驚天動地のものだったのである。


「はは、相変わらずお嬢さんはいい食いっぷりだな!」


 ことりと木製の皿がライラの卓の上に置かれた。野菜を塩で炒めた料理が湯気を放ち、僕を食べてと熱烈な愛をささやいている。一瞬即座に手を伸ばそうとしたライラだが、それをぐっと抑えて自分に笑いかけてきた男に微笑を返した。ほっそりとした中年の男、この宿兼食堂の主人は人の良さそうな顔を赤らめて、それをごまかすようにまたにこにこと笑う。


「御主人の腕が良いからの。ついつい食べ過ぎてしまうわ」

「そう言ってくれるのは、お嬢さんだけだよ。どいつもこいつも食えりゃいいって奴らばっかで、いい加減嫌になってくる。しかも、ここ最近は味さえ満足にわかってねぇときたもんだ。たまにはこのお嬢さんみたいに、俺をいたわってほしいもんだね」

「いやいや、御主人の料理あればこそのこの繁盛であろ。ほれ、空き卓どころか席すらないのがその証拠」


 ライラはくつくつと笑って周囲を見渡した。少々年季が入っているものの清潔感を失わない内装、木板の床にいくつもの円卓が並べられ、脇には二階へあがるための階段が鎮座している。品のよい、しかし良すぎない調度品はこの店の店主がかなり内観に気をつけている証拠であった。

 その卓は現在、隙間もないほどの客客客で埋め尽くされている。総じて若い男であったが、皆窮屈そうにしながらもどこか恍惚とした表情で料理を楽しんでいるように見えた。大柄な男が肉を手でつまみ、その横で細身であるががっしりした体つきの男が杯を煽っている。ざわめきには多分の談笑が含まれ、騒がしいと言うほどではないが賑やかな雰囲気が店全体を包み込んでいるいようだ。


「いやいや、お嬢さん。あの野郎どもの目的は俺の料理じゃねえよ」

「む? そうなのかの?」


 ライラが小首をかしげると、何故か主人は苦笑して首を横に振った。


「そんだけ上玉なのにとんと無頓着とは、危なっかしくて見ちゃいらんねえな。まあいいさ。おい野郎ども! 俺の店でお嬢さんにちょかいかけやがったらただじゃすまさねえから、そのつもりでいろ! どうしても話し掛けたきゃ、何かいい貢物でも持ってきな!」


 ういーっす! というなんとも野太い賛同が店を覆い尽くした。うち数人は、そそくさと料理を片付けて外へ駆けだしてしまった。あ、抜け駆けする気か! そんな言葉が飛び交い、ほんの数分で食堂は閑古鳥の巣窟と化した。


「ったく、鼻の下伸ばしやがって……」


 そう言って主人も苦笑いを継続させながら、調理場へとひっこんでしまう。先ほどまでのざわめきが嘘のように静寂があたりを支配した。ライラはとりあえず、まだ温かみを残している野菜の塩炒めを指でつまんで口に放り込む。火を通しながらもしゃきしゃきとした感触を失わない彼らは刹那の間に美しい娘を骨抜きにした。

 からからと、来客を告げる鐘が鳴ったのは野菜砦陥落直前のときである。ライラは何気なくそちらを見やって――ほんの少しだけ、目を細めた。

 入ってきたのは、若い男女である。どちらも黒髪黒目、しかもとても見目麗しい容姿をしていた。小柄な背丈に流れるような黒髪をなびかせて、少女はふんわりと微笑みながら奇麗な姿勢で軽やかに足を進める。その整った目鼻立ちは実物を知っているライラでさえ妖精かと疑ってしまいそうなものだ。対する少年の方は、すらりと高い背に無駄な脂肪など一かけらもない体つき。しかしその筋肉はどこまでもしなやかで、武を嗜む男特有の暑苦しさなど微塵もない。中性的ながらもどこか逞しさを秘める顔は、笑い掛けるだけでそこらの街娘を虜にできそうである。

 そのどちらも、ライラの記憶にある姿だった。彼らは褐色の娘を見とがめると、男の方は警戒感を露わにし、女の方はよりにこやかな表情でこちらに向かってくる。


「やあ、すまないが相席してもよろしいかな?」

「席ならよりどりみどりなのだから、わざわざ相席する必要などないと思うがの」

「はは、確かに。けれど、どうせなら奇麗な女性と食事を共にした方が、より美味しさが引き立つと思うんだけどね?」

「そういう台詞なら、隣の男子に言うて欲しかったがの。生憎と妾にそちらの趣味はありゃせんよ」

「奇遇だね、私もだよ。というわけだ、こー君。君御自慢のたらしスキルを駆使して、是非この美人さんを口説いてくれたまえ」

「なんでそうなるんだ!? て言うかそんなスキルないから!」

「はは、冗談は顔だけにしておくべきだよ、君」

「柚木姉は褒めるか貶すかどっちかにしてくれないか!?」


 きゃいきゃいと戯れ合う童たちに苦笑していると、騒ぎを聞きつけたのか奥から主人が顔を出した。


「ありゃ、お客さんか? お嬢さん目当てってわけじゃあなさそうだし、久方ぶりのまともな客なんかいね?」

「はは、非常に言いづらいが我々もそのお嬢さん目当ての客でね。特にこのこー君は女を騙すことにかけたら天下一品の腕前だよ?」

「柚木姉はどうあっても俺を変態キャラにしたいのか!?」

「…ふーん。ま、いいさ。他の連中みたいにぎらついたりしてねぇしな。で、注文はなんにすんだい?」


 彼らは主人から今日の献立を聞くと、そのいくつかを注文して代金を払った。そしてこちらの許可を取ることなく、当たり前のようにライラの卓に根を張る。


「さて、とりあえず自己紹介をさせてもらおうかな。私は高梨柚木。こちら風に言うと、柚木高梨だ。こっちは」

「幸二神崎…です。よろしく」

「ふむ。名乗られたからには返さねば礼を失するというもの。妾はライラ。ライラ=ドラコラスと名乗っておるよ」


 もっとも、ドラコラスの部分は適当に考えた偽名だが。内心だけで付け足して、ライラは微笑した。


「それで、妾に何用か?」

「ふふ、想像はついていると思うけどね。前に言ったが、あれをやったのは君なのかい?」

「前にも言うたが、あれは妾の仕業ではないよ」


 誰が聞いているかもわからない状況なためか、ひどく廻りくどい言い方での確認がなされた。言うまでも無く、あれというのはこの国の王の死を指しているのだろう。ライラは苦笑を噛み殺しながら、娘の言を否定した。彼女らの王を殺めたのは自分ではないと。

とは言うものの、目の前の少女はそれを損じることはあるまい。父から聞かされ、また自身の得た経験則から、ライラは諦観混じりにその結果を予測した。


「だろうね」


しかしその予想に反して柚木という名の娘は、さもありなんと納得の姿勢を示した。そのことに、ライラは思わず目を丸くする。


「…自分で言っておきながら何なのだが、妾の言うことを信じるのか?」

「私たちの故郷には、推定無罪という言葉があってね。どれほど疑わしくても、確たる証拠がない限りは容疑者どまりで加害者認定はしないのだよ。ゆえに、君の言にも一定の信用を以て報いよう」


 不思議な考え方に、ライラは小さく小首を傾げた。疑わしきは罰せよ。人間のみならず、自分や多くの種族でまかり通っているその考えに真っ向から反する言葉は、ライラの胸に新鮮な驚きを以て迎え入れられた。ただし、あまりなじみのない概念なせいか、今一つピンと来るものがなかったが。


「ずいぶんと面白い風習だの。まあ、そういうことならば話すのもやぶさかではないが…その前に、いくつか質問がある。それに答えてくれたらある程度事情を離してもよかろうよ」

「こちらに答えられることなら何なりと。ちなみに私のスリーサイズは上から」

「誰もそんなこと聞いてないだろ」


 スリーサイズなるものを口にしようとした少女の口を、幸二が手のひらでふさいだ。目が半眼になって、その九割が呆れで構成されているようである。柚木は肩をすくめて手をどかした。


「場を和ませる軽いユーモアじゃないか。それとも何かな? 私のスタイルには気を払う価値すらないとでも言いたいのかい、君?」

「え? あ、いや、別にそんなことは」

「あれだね、つまり胸の大きさが決定的な戦力の差と言いたいわけか。大平原同盟のような小勢力には生きる価値も無いと、そういうことなわけだ」


 奇麗な笑顔だった。百人の男が見たら、百二十人が虜になって隷属すら誓ってしまいそうな、それほどまでに美しい顔だ。しかしライラは、そんな少女を視界に収めた瞬間、全身が泡立つような冷たい感覚に満たされた。

 怖い。何の虚飾も無くライラはそう思った。種族能力的には天と地ほども差があるはずなのに、何故これほどまで恐怖を覚えるのだろうか。じっとりとした感触が背中を伝う。たかが人間の娘、そう、人間だ。それに自分が怯えている。生態系の頂点に立つ、ライラの血筋が。

柚木から発されるどす黒い力、威圧感、ふとライラは思い出す。かつて父がその逆鱗に触れられた際に見せた笑顔、脳裏にまざまざとよみがえった情景が、現在のそれと寸分たがわず一致した。

 逃げよう。とにかく逃げよう。恥も外聞も矜持すらかなぐり捨てて、ライラは生存本能の示唆に従った。そう思ったのは自分だけではなかったようで、幸二もまた椅子から腰を浮かさんばかりにその端正な顔を蒼白の色に染めていた。


「そ、そんなこと思ってないって。あー、その、うん、小さくても全然いいと思うっていうか」

「ははは、気を遣わなくてもいいよ、こー君。私が性的魅力に乏しいことは自覚しているからね。うん、自覚しているよ。あはは」


 ひい、駄目だー! 幸二少年が頭を抱えた。彼のある意味あまりにも素直な反応に鬼神の注意が一瞬だけ自分からそれる。その隙をライラは見逃さなかった。

よし、今だ。自由を求めてとにかく駆けろ!


「ああ、ライラ女史。どんな質問なのか、まだ聞いていないのだがね?」


 なるほど、これが絶望か。颯爽と自分の腕をつかんだ少女の笑顔を見て、ライラはどうしようもない現実に膝を屈した。ずぶずぶと、黒い泥沼が腰から徐々にその水位を上げていくのがわかる。


「さあ、存分に質問し合おうじゃないか。無論、嫌とは言わないよね、君?」


張り付いた笑顔の下で、ライラはほんの少しだけ涙ぐんだ。




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