三十四話 勇者様、超頑張る
薄暗い室内に、一筋の光が差し込んだ。薄く樹脂でコーティングされた机に乗せられたよくわからないもの――おそらくランプの一種なのだろうが、縁の広いカップをくっつけたような形は馴染みがない――から発せられた閃光は、その進行方向で遮るように陣取っている亜麻色の女性に容赦なく降り注いでいた。長いまつげが震え、眩しそうに細められる。
「さあ、きりきり吐いてもらおうか」
侍女服に身を包んだ娘の正面で、柚木は腕組みするように座して笑った。何だかひどく楽しそうで、モニカは困ったように傍らに立つ幸二を見つめる。こちらの視線に気づいてくれたのか、少年もまた困惑を眉に現しながら肩をすくめた。
「どこの刑事ドラマだよ…」
そんなぼやきが漏れ聞こえる。残念ながらその言葉の意味は理解できなかったが、含まれる意図は何となくだが察することができた。要するに、これは彼ら流の尋問なのだ。
飛び出したエンバル王太子を連れ戻した後、モニカは柚木に連れられてこの部屋にやってきた。城の奥深くに位置する堅牢な客室は、何故か主要な家財道具が撤去され、中央に机と両向いに置かれた椅子が二つ、それに部屋の隅に一人用の机が置かれるだけの寒々しい空間になっていた。そこでモニカは一人用の机に案内され、紙とペンを渡された。これは何か、と視線だけで幸二に尋ねると、「筆記用具だよ、書記用の」という返答が返ってくる。彼のどこか疲れた顔と与えられた道具から、自分が何らかの会議における書記の役目を任されたと気づくには、さほどの時間はかからなかった。
羽ペンにインクをなじませていると、騎士に連れられていかにもおっかなびっくりとした様子の侍女が入室した。王族の側仕えだったらしい彼女は、確かになるほどとうなずきたくなる容姿をしている。今にも泣きだしそうに眼をにじませて、侍女は促されるままに柚木の正面に座った。そして、最初の一言である。
「は、吐けと言われましても……何を、でしょうか」
「決まっている。君が見聞きした事件のすべてだよ」
ピクリとモニカの肩が跳ね上がったが、押し殺し筆記を開始した。われ知らず、ため息が漏れる。ここは貴人用の奥まった部屋であるため静寂を保っているが、今現在城内はビリトルの巣をつついたような大騒ぎとなっていた。せわしなく出入りする騎士団、右往左往として混乱を極める文官、あっという間に会議に突入してしまった王太子と大公。今のところ国民には伏せられているが、それでも勘の良いものは城中に漂う不穏な気配を感じ取っているようで、城下もどこか浮足立っているようだ。
「ふむ、話しづらいのかな。ならばこー君、秘密兵器だ」
「…本当に出すのか?」
「是非も無し」
幸二がどこか疲れたように扉から出て、間をおかず再度入出した。ただし、その手には行きに見なかった盆と、食器のようなものが乗せられている。モニカは小首を傾げた。普通の皿よりも底が深く、まるでサラダボウルのようだ。蓋がされているため中身が確認できないが、かすかに香るものから食べ物だろうと推測できた。
「あの、ユズキ様。それは一体…?」
「取り調べには必須のアイテムだよ、モニカ」
侍女の前に置かれた食器から蓋を取り外すと、ふわっと湯気が天へと昇り始めた。作られたばかりなのか、先ほどよりもかぐわしくなった香りにかすかな熱量を感じ取る。少し興味があったので身を乗り出して料理を視界に入れてみた。
まず飛び込んできたのは、アツアツのとき卵にパン色の肉切れのようなもの。よくよく見るとオルニアと緑ネシアのきざみが包み込まれるように閉じられていて、卵の合間から真白にたかれた米が顔を出している。少なくとも、ゼルドバールでは見たことのない料理だった。問うように黒髪の少女を見ると、彼女は美しいかんばせをほころばせて、どこか自慢げに胸を張った。
「つまるところ、カツ丼だ」
「カツ…ドン、ですか?」
「そう、カツ丼だ。残念ながら醤油がなかったのでドミカツ風味なのが不満と言えば不満だが、無い物は仕方ない。そもそも豚肉があっただけでもめっけもんだね?」
「俺はこのためだけにわざわざ料理長に無理言う柚木姉の神経が信じられないよ」
「何事も形から入るべきじゃないかな。まあ、無駄話はこれくらいにして、食べたまえ。遠慮はしなくていいから」
「え、あの、その」
「ん? どうしたね?」
侍女は困ったようにカツ丼なる食事を見つめていた。時々ちらちらと柚木、幸二、そして自分に視線を向け、俯く。添えられたナイフとフォークに手をつけていいのか迷っている様子だった。
「ユズキ様。侍女は主人と食卓を共にしたりは致しませんから…」
彼女の困惑を明確に察知したモニカは助け舟を出した。正確に言うと自分たちは主人の客であるが、同じようなものであろう。そんな存在の前で、本来なら着席するだけでも不敬であるというのに食事までとなると、彼女が混乱するのも無理はない。
そのことを伝えると、柚木は数瞬だけ呆けたように口をあけると、かりかりと頭をかいた。「しまったな」という呟きを洩らし、苦笑する。
「とはいえ、作ってしまったものは仕方がない。捨てるのももったいないし、食べてくれるとありがたいのだが」
「作ったのは料理長さんだけどな」
幸二が合いの手を入れると、侍女はぎこちないながらも微笑を洩らした。正直なところ、侍従を同席させ食事を出すなど、モニカの常識では考えられないことではあるが、これまでの旅で柚木たちが――異世界人がこちらと異なる価値基準を持っていることは理解していたので、さほど不思議にも思わなかった。以前の自分ならば、驚きで目を丸くする等の醜態を見せていたかもしれない。
再び勧められると、さすがにこれ以上断るのは不敬だと思ったらしく、おずおずとだがナイフとフォークに手を伸ばした。侍女は手慣れた手つきで食器を操り、カツ丼を口に運んで行く。
「何だか、不思議なお味ですね。このお肉についてる皮みたいなのは、何でしょう?」
「それは衣だ。パン粉を油で揚げたものだよ」
卵でとじているからさくさくとはいかないがね。柚木が笑うと、侍女も頬をほころばせる。ばらける米を器用にフォークに乗せて、侍女はかけらも残さず奇麗にカツ丼をたいらげた。精霊に感謝の祈りをささげると、彼女は最初よりかは力の抜けた体で柚木に頭を下げる。
「その、ありがとうございました」
「ふふ、緊張は解けたかな? では、改めて。事件のことを話してもらえるかね?」
侍女は幾分真剣な眼差しで頷くと、何かを思い出すかのように数瞬瞑目し、口を開いた。彼女の名はリリアーノ=レシェル。オバル二世の下で、主に寝室整理の下働きをしていたそうだ。といってもまだまだ新米で、国王付きメイド頭の監督下にあったらしい。
「新米か。にしては、チェインバーメイドなんて役を任されたり、エンバル殿下にも名を覚えられていたりしたようだけど。普通はそんなことないんじゃないかい?」
「…あ、それは私がもともとルブルン大公殿下のお屋敷で働いていたからです」
侍女――リリアーノがどこか申し訳なさそうに苦笑した。
「その、陛下がお臥せになられた折に、大公殿下が私を国王陛下の下へ遣わされまして。その時、恐れ多くも王太子殿下にお目通りがかなったのですが、慈悲深い王太子殿下におかれましては、おそらく私のような端女でもお心に留め置かれていただけたのでしょう。折々で、御配慮をたまわっております」
「…ひょっとして、リリアーノさんはルブルン大公ゆかりの方なのでしょうか?」
一使用人に目をかける事自体はさほど珍しくない。誰しもお気に入りの使用人はいるものだし、優秀であれば他所へ譲られることもしばしばあった。しかし、それが王族――それも国王の下へ送られるとなると、いろいろ話が違ってくる。
王城で働くとなると、大なり小なり血統というものが重視されることが多い。無論、全員が全員そうというわけではなく、下働きの中には平民階級の者もいる。しかし大公から国王へと派遣されるとなると、両者の権威や外聞から考えてどうしてもよほど優秀か、血統が優れているかしなければとても面倒なことになるのだ。となれば、リリアーノがそこまで配慮されている理由は、よほど見事な技能を持っているのか、その家柄が王宮へ上げられるほど高いかのどちらかである。…ここで迷うことなく後者を選択したのは、何となく彼女のまとう空気が、何というか、その、アレな感じがしたからなのだが…まあそんなことはどうでもいいことであった。
モニカの疑問は、リリアーノの過剰ともいえる反応によって否定された。侍女は髪がふり乱れる程に首を横に振り、何度か舌を噛みながら言葉を紡ぐ。
「しょんな、おろれおおい! わ、私の実家は大公領の片田舎でして、もう上から下までど平民です! その、兄が大公殿下のお屋敷で料理人を務めておりまして、その縁でご高配を賜った次第でしゅ」
「へえ、じゃあリリアーノさんって、実力で今の地位を勝ち取ったのか。すごいな」
「そそそ、そんな! わ、私は単なる薬師で、本来なら陛下のお側にいられる程のものではありません!」
幸二もまた、自分と同じ思考をたどったのだろう。とても意外そうに眼を丸くしていた。
「薬師…なるほど、寝室整理の他に体調管理も任されていたわけか」
柚木はうんうんと頷くと、顔を真っ赤にしているリリアーノに続きを促した。彼女は深呼吸を三回ほど繰り返した後、口を開く。
「…今朝がた、私は陛下の薬湯をもってご寝所に参る役割を仰せつかっていました。厨房にて御典医様が調合された薬を受け取ったのが、丁度皆様のお食事時だったと思われます。私の同僚が、いくつか料理を運んでいたのを見ましたから」
「ふむふむ、あの時分か。私の体感では、八時くらいだと思うのだが、こー君はどうだね?」
「こういうとき、時計がないのが不便だよなぁ。俺も大体そんなもんだと思う。日の加減から見ても、そう外れてないと思うよ」
モニカには八時という言葉が何を意味するのかわからなかったが、疑問をさしはさむことなく羊皮紙に書きとめていった。彼らの間に入れないのが若干寂しかったが、だからと言ってその思考を邪魔する気は毛頭ない。
「それから、薬をこぼさないよう気をつけながら陛下のご寝所に向かいました。薬をこぼさないよう気をつけながら、お部屋のドアを開けて……そしたら」
リリアーノが何かをこらえるように口元を覆った。がくがくと肩を震わせ、目に涙をためながらも話を続ける。
「あの、褐色の肌の人が、真っ赤に塗れた剣を持ってて……寝台の上には、血まみれになった陛下が――! わ、私、怖くなって悲鳴を上げて、でもどうしていいのかわからなくて。騎士様がいらっしゃるまで必死に逃げようとしたんですが、腰が抜けてしまって動けませんでした…! あの時、陛下に駆け寄って治療ができれば、もしかしたら息を吹き返したかもしれませんのに、私怖くて! わ、私がしっかりしていれば、陛下は――!」
「もういいよ、ありがとう」
柚木が段々と呼吸の荒くなる侍女を抑えると、幸二は懐から出した手ぬぐいをリリアーノに渡した。彼女は礼を言って目じりの涙をぬぐう。
「なるほど、あの時の悲鳴は君だったのか」
「…お恥ずかしながら。でも、おかげで騎士様方がすぐにいらしてくださいました」
「ついでにどこぞの王太子殿下も飛び出していったがね」
「す、しゅみません!」
噛んだ。
「……一応裏付けもいるかな。リリアーノ。君が悲鳴をあげたとき、駆けつけてくれた騎士の名前はわかるかい? ああ、疑ってるわけじゃないよ。ただ、打てる手は全部打っておきたい性質なのでね」
リリアーノから幾人かの名前を聞き、柚木は頷いた。聞きたいことは聞いたし、あまり長い時間拘束しているわけにもいかないので、亜麻色の侍女は早々に解放されるにいたった。どこかほっとしたように見えたのは、おそらく気のせいではあるまい。
その後、リリアーノの証言が事実であると件の騎士から太鼓判を押され、客室にしばしの沈黙が舞い降りた。いつの間にか外は茜色に染まっており、モニカはあまりにも怒涛だった一日を振り返り、大きな吐息をついた。
「む、そういえば、昼ご飯を食べ損ねたね」
「…いや、今はそんな場合じゃないだろう」
「あ、それでは夕食を多目にしてくださるよう、頼んできましょうか?」
「いやモニカも。柚木姉の冗談に付き合わなくてもいいから」
それでも、こうやって穏やかなやり取りが嬉しくて、モニカは小さく微笑んだ。特にエスパニアに到着してからは、エンバル王太子だったり侍従だったりが常にいて、こうした三人の時間というものがとれなかったのだ。羊皮紙をたたみ、インク壺を片付ける。
「ああ、そうだ。こー君、モニカ。今日からしばらく私と寝室が同じだから、よろしく頼むよ」
壺を思い切りこかして、机が真っ黒になった。きゃあ、と悲鳴を上げて、なんとか羊皮紙を掴んで退避させる。幸い文字部分は無事だったが、端っこがインクでにじんでしまっていた。
「…なあ、柚木姉。今何か、変な台詞が聞こえなかったか?」
「ふむ? 幻聴か何かかな? それとも、異世界らしく幽霊とか精霊の類かもしれないね」
「いや、そういう意味じゃないから。てか、何で俺とモニカが柚木姉の部屋で寝泊まりしなきゃならないんだよ!?」
俺男だぞ! というある種の悲痛さを思わせる声音で幸二は絶叫した。モニカも頭に上った血を自覚しながらであるが強く頷く。これまで散々野宿をしてきたが、それでも自分と柚木は馬車で寝て、幸二が外と男女分担はできていたし、どれほど路銀が乏しくても最低限宿は二部屋を確保していた。寝所を共にするなど、想像しただけでもう色々と。
「ちょ、モニカ! 鼻血鼻血!」
ふへ、と鼻に手を当てると、真っ赤な血潮がぽたりと垂れた。モニカは慌てて懐からハンカチを取り出し、顔を覆う。同時に、こんな姿を殿方に見せてしまった羞恥で血流が増大した。
「ははは、このむっつりさんめ!」
「そ、そんなことありません!」
思わず叫び、その拍子にまた血が流れた。慌てて上を向いて鼻を押さえる。
「まあ、冗談は置いておいて、これはちょっとばかり真面目な話だ。何と言うかな、ぶっちゃけ、きな臭くてたまらない」
「きな臭いって………ああ、そういうことか」
「そう。この国の状況さ。一応、私たちはこの国とは無関係な立場だが、それはあくまでこちらの認識であって、向こうのものじゃない。何かあったとき一緒にいた方が、色々都合がいいのさ」
モニカははっとして、苦笑する柚木を見た。赤い染みを作った布で顔半分を隠している様はお世辞にも緊張感があるとは言えないが、それでも本人としては十分気を張っている。
「…近々、派閥争いが活発化すると。そういうことですか?」
「もう、の間違いだよ。それは既に起こっている。問題は、どの程度で済むかだ」
鬱陶しげに黒髪をなで、柚木はちらりと窓の外を眺め見た。茜が宵に代わり、街並みから人の姿が消えつつある。小さな巨人は物憂げな息を吐き、唇の端を釣り上げて笑った。
「ところで、晩御飯はなんなのかな?」
「やっぱり聞いてきますね」
「だからそれはもういいから」
ちなみに、メインはワザックの香草蒸だった。
★★★
いやに艶めかしく響き渡る衣擦れは、心臓の鐘を一心不乱にたたきだした。
眠れない。幸二は目じりに涙すら浮かべて、心の奥底から睡魔の到来を願っていた。はっきり言って、ぎんぎんに冴えわたる目がものすごく痛い。カーテンからのぞく月明かりは優しく、真っ黒な天井に指す光の筋も淡いもののはずなのに、視神経を針で刺したかのように感じるのはなぜだろうか。
鏡を見たら、おそらく真っ赤に瞳を血走らせた自分と対面できるに違いない。そんな取りとめもないことに全思考を傾かせつつ、ころんと寝返りを打った。
右隣の寝台から、奇麗な黒髪が一房こぼれおちているのが見えた。冷たい月に照らされて、氷のような輝きを放つそれを視界に入れると、幸二は神速と称しても文句の出ない速度で反対側に顔を向けた。自分でも息が荒いことが自覚できる。一揆から内乱にまで発展した心臓を押さえつけて、ふっと左隣の寝台を視界に入れた。
黄金色の絹糸をまといながら、ぷるりとした桜色の唇が艶やかな煌めきをもって幸二を出迎える。時折むずがるように閉ざされた相貌を震わせ、熱い寝息が離れているにもかかわらず幸二の頬をくすぐっているかのように感じられる。首筋から鎖骨にかけてのぞく白い肌が妙にはっきりと視界に移り、内乱は世界大戦へと突入した。
無理だ。これで寝ろというのは絶対に無理だ。幸二は心の中心で絶叫した。自分で言うのも情けない話だが、はっきり言ってほんの些細なきっかけでも狼になれる自信が全身に満ち満ちている。ほんの少し手綱を緩めるだけで、めくるめく桃色空間の完成であった。否応も無くテントを張るどことは言えない部分を、残った理性を総動員して鎮静化させる。排熱するように大きくため息をついた。
しかし、男と同室になって全裸睡眠するとは、彼女たちは正気なのだろうか。幸二は就寝前に繰り広げられた乱痴騒ぎを思い出すことで、煩悩を無理やりねじ込めようとした。入浴時にはひたすらこちらを気にしていたモニカが、平然と自分の前で服を脱ぎ始めた時の狼狽ぶりは自己嫌悪を引き起こすに十分な醜態である。どうして脱ぐのかと顔に血を上らせながら叫ぶと、少女は不思議そうに「寝るときに服をきるんですか?」と逆に問いかけてきた。聞くところによると、どうやらこの世界では就寝時に服を着るのは変人の行いらしい。むしろどうして服を着るの? というモニカの視線と、今にも服をはぎ取らんと手を脇脇させていたメイド娘三人衆の空気に、こちらの方が間違っている気分になるから不思議であった。
「あれだね、水着って下着とたいして違わないのに恥ずかしがらないという原理と同じことじゃないかい?」とは最低限おかしくない程度の寝巻――という名の布切れ――をまとってシーツに入った柚木の言である。そんなことより、何故同世界人であるはずの幼馴染が普通に脱いでいるのかがわからなかった。ありえないだろう、常識的に考えて。さも当然と言わんばかりに自分を脱がせにかかった二人から衣類を死守した幸二は、彼女らを視界に入れぬよう必死に羊を数えていた。」でも眠れない。大きくため息を吐いた。
若い男として、この状況は喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、幸二には判断がつかない。もう一度だけ、黒髪が漏れる寝台を横目で一瞥した。ただでさえ暴走気味の心臓が最高潮の脈動を自身の主に提供する。どうしようもないなぁ、と口の中で呟きを転がし苦笑した。
まあ、あれだ。諸々の情動やら本能やらを取り除いて、最後に残る心奥の感情。つまり、神崎幸二の抱く高梨柚木への恋情が、この状況に喜びと悲しみを覚えている。それを自覚し、衣擦れを起こしつつ少年は頭を振った。
いつからか、と問われれば物心ついたときからと答える。幼いころから常に兄と自分、柚木は一緒にいたし、むしろそれだけ身近に可憐かつ凛々しい娘がいて惚れない方がおかしいと思う。そういう意味では自分の兄は非常に稀有かつ特殊な存在であるが、あれに常識を求める事が既にイレギュラーであるので割愛する。ともかく、そういうことだ。
憧れ、という線も否定はしきれない。柚木は常に人気者だったし、幸二にとっては正義のヒーローであった。強くて賢くて、その上優しい。小さい頃は能力的にはともかく、性格としては大人しく引っ込み思案であったことが信じられないくらい、彼女はとてもきらきらと輝いていた。
そんな彼女が、今手を伸ばすところで文字通り無防備な寝姿を晒している。それだけ自分が信頼され、懐に入れる存在であるという事実が非常にうれしく、また同時に異性として認識されていないことを改めて思い知らされ落胆していた。
これがにーちゃんだったら、違うのかな。
その台詞が脳裏をかすめた途端、たぎっていた血が冷めていくような感覚を味わった。
慕っているが故、だろうか。何となく、本当に何となくではあるが、憧れの少女が自分ではない誰かを――それも彼女にとっても少年にとってもひどく身近な存在を見ているのが、わかってしまうのだ。
どこがどう、とは具体的に言えない。ひどく感覚的なものであるが、幸二の心は、それがまごうことなき真実であると受け止めていた。自分のヒーローが見ている誰かが羨ましくて、妬ましくて。でもやはり、その誰かは少年にとってもかけがえのない人物で。
越えようと努力もした。しかし言いづらく、こんなことを思う自分に嫌悪感すら湧きあがるのだが、自分が誰かさんに負けているとは、到底思えなかったのだ。スポーツでも、芸術でも、対人能力でも。勉強に関しては勝っているとは言い難いが、それでも劣っているとも思わない。ならば、少女を惹きつける彼にあって自分にないものとは何なのだろうか。人柄か? 能力か? 容姿か? 何をもってすれば、自分は彼女に振り向いてもらえるのか。
わからない。全てがわからなかった。どうすればいいのかも、何を得たらいいのかも。そんなときに、この召喚だ。ひどく理不尽で、強圧的であったが、幸二はこの出来事にどこか浮ついた気持ちがあったことを否定しきれなかった。この世界を救いたい、平和な世を取り戻したいという思いは、確かにある。むしろそちらが中心だった。しかしそれでも、この非日常な出来事に自分と柚木が巻き込まれたこと、それにどこか期待している部分は間違いなく存在した。
「結局、そういうことなんだよな」
幸二は顔を歪めて呟く。自己嫌悪で死にたくなった。つまるところ、自分はよくある物語か何かと現実を重ね、主人公、ヒロイン云々の展開を期待しているのである。勇者として、世界を守りたいのも本当。友人として、モニカの手助けをしたいというのも本当。柚木と何らかの進展があるのではと期待するのも本当。誰かさんが少女のそばにいなくなってほっとしているのも本当。そして、幸二自身がその誰かとの再会を渇望しているのも、本当。全てが本心であり、どれ一つとして偽りなどありはしない。
ただ単純に、小説などの『勇者様』になれればどれほど楽だろう。しかし、残念な――あるいは幸運な――ことに幸二はどこにでもいる高校生であり、それが故に様々な葛藤や内面に揺り動かされる。おそらく柚木も、そしてあの飄々とした兄ですら同じはずだ。
「………にーちゃん」
「……コウジ様」
びくりと肩が震えた。今にも消え入りそうな囁きが鼓膜を一撫でする。幸二は呟きを聞かれたかもしれないことへの羞恥から頬を染めた。寝返りを打って顔を向けると、いつの間にか開いていたエメラルドの瞳と対面を果たす。濡れそぼった宝石はどこか弱々しく、はかなげな印象を見る者に与えた。
「ごめん、起しちゃったか?」
「いいえ、その…私も眠れなくて」
恥ずかしげに顔をシーツに隠す少女に、幸二は納得の苦笑を返した。無理もない。多少旅慣れてきたとはいえ、彼女は王族、生粋のお姫様だ。雑魚寝ならまだしも、自分のような若い男と寝室を共にするなど通常はあり得ない。まあ、お姫様というよりは年頃の娘として当然の反応と言えるだろう。こんな状況で図太く寝むれる女性はそうそういはしまい。右隣の事は置いておいて。
「…お兄様のことを、思い出しておられたのですか?」
「…うん、まあ」
やはり聞かれていた。十六にもなった男がホームシックを思わせる台詞を吐き、あまつさえそれが同い年の少女――しかも美人だ――の耳に入るなど羞恥の極みである。理性は異世界、それも帰還方法も未発見な状況ならば仕方ないじゃないかと自己弁護をしているが、感情の方が扇動者も真っ青な感じでひたすら煽りに煽っていた。顔が熱い。
しばし、双方にとって微妙な空気――なお、被害妄想を多分に含んでいる――が蔓延するが、やがてモニカが意を決してその帳を破り捨てた。
「お会い、したいですか?」
何かを恐れるように、碧眼が深い影を帯びた。きっと無意識なのだろう、シーツを掴む少女の手は震えていた。
「お兄様に、お会いしたいですか?」
「…どうかな」
問われるまでもない、会いたいに決まっている。喉元まで出かけたその言葉を、しかし幸二は舌に乗せることなく飲み下した。何故か。言う必要がないからだ。彼女の台詞はという賭けではなく確認、既にその心内で定まっている回答の裏付けにすぎないのだろうから。
「俺、にーちゃんには嫌われてるから」
だから、モニカの回答に加える形で、自分の思いを口にした。自然と苦笑の色が濃くなってくる。
「まあ、それも仕方ないんだけどさ」
「どうしてですか? コウジ様をお嫌いになるだなんて、そんな…」
「…にーちゃんさ。小さい頃、いじめられてたんだ。……俺のせいで」
本当は、こんなことを語るべきではないのだろう。再び寝返りを打って、天井を見つめた。あの時のことは、兄にとってあまり他人に知られたいと思えるものではないはずだ。けれど、どうしてか幸二の口は止まらなかった。まるで抑えていた水があふれ出るように。舌が言葉を乗せて空気を震わせていく。
「俺が小学生の――って、わかんないか。そうだな、六歳くらいの時かな。その日は、学校が終わって友達と遊んでたせいで、家に帰るのが遅くなったんだ。うちの母さん、怒ると怖いからさ。門限に間に合わせようと必死になって。慌てて近道しようといつもは危ないから通るなって言われてた空き地を抜けようとしたんだ。…でさ、その空き地を通り抜けようとしたとき、何人かの男の子たちが囲みを造って何かをしてるのが見えた。その男の子たちってのが俺の知り合いで、つい何してんのかなって、足を止めて見つからないよう陰からのぞきこんだんだ」
ほんの小さな好奇心だった。その少年たちとはよく遊んでいたし、皆気のいい連中だった。そんな彼らが、楽しそうな笑顔で遊んでいる様子を見て、門限のことも忘れてつい見てみたくなったのだ。幼い幸二は様子をうかがうように彼らの隙間から囲みの中を見て――硬直した。
「囲まれてたのは、にーちゃんだった」
それは。土煙を立てる程の勢いで、強く蹴られている兄だった。身を丸めて、必死に痛みと衝撃から身を守る、自分の兄だった。
『へ、弱っちいの!』
『ほんと、幸二君とは全然違うよなぁ。弱いし、へろへろだし、つまんねーしよ!』
『おめぇ、拾われっ子かなんかじゃないの?』
『やーい、捨て子野郎』
最初、彼らの言っていることが理解できなかった。蹴りが、拳が、嘲笑が、兄に向って降り注いでいく光景を頭で理解した幸二は、次いで震えた。彼にはこれが何を意味するのか理解できる頭があったのである。
いじめ。その単語が脳裏をよぎると、目の前が真っ暗になった気がした。がくがくと膝が震え、目に雫がたまる。兄を蹴り続けている少年たちは幸二に気付いた様子はない。だから、幸二はその光景に背を向けて、逃げ出したのだ。
怖かった。いつも遊んでいた友人たちの、空恐ろしいまでのその残虐性が。
怖かった。いじめという、幸二にとってはそれこそ異世界の出来事のようなものが、すぐそばで行われていることが。
何よりも怖かった。兄がいじめられている原因が、自分であるということが。
「俺のせいなんだ。にーちゃんがひどい目にあったのは。なのに、俺、何もできずに、しかも逃げ出して。…最低だ」
吐き捨てるように、幸二は呟いた。そうだ。あまりにも、最低だ。自分のせいでいじめられているのに、助けることはおろか話題に上らせることすらしなかった。親に告げる事も、誰かに相談することもしなかった。ただ自分が怖いという理由だけで。だから。
「だから、嫌われても仕様がないんだよ。自業自得、だからさ」
「コウジ様、それは!」
「そんなこと、あるまいよ」
どこか声音を震わせたモニカにかぶせるように、別の少女の台詞が耳を打った。天井を移していた瞳が右を向くと、いつの間にかむくりと起き上がった陰が、月明かりを背にして頭をかいていた。幸二は慌てて眼をそらす。
「柚木姉、起きてたのか?」
「勿論、寝ていたとも。けれど、誰かさんたちの熱い語らいのせいで、段々と身体が火照ってしまってね。いやぁ、熱い熱い」
「ゆ、ユズキ様!?」
「…あのな、柚木姉。そういう話は――」
「ゆー君は、君を嫌ってなんかいないよ。むしろ逆さ。素直じゃないだけでね」
「……何だよ、それ」
「いやいや、きっと本人は死んでも認めないだろうけど、彼は傍から見ると見事なツンデレブラコンだよ。略して――なんだろ、ツンブラ? それともデレコン…は意味が通らないか。ははは」
「…勝手なこと言うなよ。柚木姉にそんなこと、わかるわけないだろ」
少しだけ怒りをにじませて、幸二は柚木を睨みつけた。彼女は側に置いてあった水差しを含むと、寝乱れた黒髪を手ぐしだけでときなおす。
「わかるとも。何せ、本人にそう聞いたからね」
あっさりと放たれた台詞に、一瞬幸二の身が震えた。
「実は一度、ゆー君に聞いたことがあるんだ。こー君に腹は立たないのかってね。無論、一番悪いのはいじめを行う張本人だが、それでも怨み辛みは人の業。逆恨みしたって、不思議じゃない。ましてゆー君はその当時、御年七歳。理性的な判断を下せるほうが奇跡だよ」
「…何て、言ってたんだよ。にーちゃん」
少しだけ、声が震えた自分が憎らしかった。この期に及んで怯えるなど、あまりにも無様で恥知らずだ。しかしそれがわかっていてもなお、幸二の心は恐怖で縮こまっている。兄に面と向かって拒絶されるのが、あまりにも怖かったのだ。
「『コウは何も悪くない。あの子はただ、普通にふるまっていただけだから』」
「っ、何だよ、それ…」
顔がゆがむ。何故か、ひどく心臓が痛くなった。
「別に難しい話じゃない。確かに君は他の人よりも数段優れているが、君にとってそれはデフォルトにすぎないわけだろう? なら、君は単にあるがまま日常を生きていただけじゃないか。それのどこに罪があるのか。悪いのはそれを変に受け取って行動した取り巻き連中だ。君のせいじゃない」
とまあ、そんなことを徒然と語りあったわけだよ。そう言って柚木はへにゃりと顔をほころばせた。幸二は茫然としてその言葉に聞き入った。頭がぐちゃぐちゃになって、寝ているにもかかわらず目眩で焦点がずれる。
気持ちが、思考がまとまらない。しかし、マーブル色の心の中で、幸二はなおも雄々しく輝く感情を二つ、確かに感じ取っていた。
即ち、兄に拒絶されたわけではないという安堵と、自分の知らぬところでそんな会話をしていたことに対する嫉妬と。
★★★
実のところ。モニカには二人と――彼と寝所を共にするという事に見た目ほど葛藤がないわけでは決してなかった。無理やりにでも眠ろうと目をつぶり呼吸を落ちつけようとしても、隣で寝転がっている少年の衣擦れ、息遣いが、否応にも彼女の心臓を早鐘のごとく打ち付けて、その無駄な努力を破砕するのだ。
だがこれは仕方のないことだ。モニカは無理やり納得させるかのように自分へ言い聞かせた。何せ、生まれてこのかた自分の周りには同年代の男の存在など影も形もいなかったのだから。幼いころは婚約者がいたせいでもあるが、それでもここまで徹底的な隔離が行われたのは、やはり彼女が召喚の巫女として選ばれたからだろう。
そう、召喚の巫女の役目。勇者の子を産むという任を全うするために。モニカは寝台の中でぎゅっとシーツを握りしめた。
ゼルドバール王国は、その歴史と伝統に比して国としての力はさほど大きくない。豊かな土壌と中原という経済的要衝に位置してはいるものの、国土は広くなく、むしろ列強諸国に囲まれているため常に侵略の危機におびえる弱い国だった。そんな中規模の国が生き馬を抜く中原で残ってこられたのは、紛れもなく勇者と言う存在のおかげである。
歴代勇者を血筋に取り込み、また一子相伝の召喚の技を受け継いできたがために、王家は繁栄を享受し世界の盟主的地位に胡坐をかいてこられたのだ。人類を導く勇者の担い手にしてその血統、それは何よりも代えがたい権威として、王国を支える精神的支柱と化していたのである。
しかし、そんなゼルドバール王国の屋台骨を揺るがす事態が起こってしまった。旅先で王家のお庭番からその報告を受けたとき、モニカは気を失いそうなほどの衝撃を受けていた。即ち、召喚の祭壇の消滅。千年にわたって受け継がれてきた秘儀の喪失は、王国上層部を未曾有の混乱にたたき落としたのだ。
こんなことが知れ渡れば、ゼルドバールは諸外国の格好の餌食となる。魔物との戦いでうやむやになっているが、北方の隣国カジャル主国や西方のアルトロア皇国とは領土問題を抱えているし、東方の友好国エスパニアもどう出るかわからない。まさに王国は風前の灯火と言うべき状況にたたき落とされているのである。
故に、父王が失われた権威を補てんしようとモニカにある指示を出したのも、至極当然の帰結であった。お庭番から受け取った手紙の内容を脳裏に描き、モニカは小さく唇をかみしめた。
どんな手段を用いてでも、勇者を王家に迎え入れろ。その文章は少女に狂おしいまでの罪悪感を植え付けた。モニカ個人としては、勇者――幸二と結ばれるということに否やはない。というかむしろ、自分から願い出たいくらいだった。わずか一カ月足らずの付き合いであるが、要所要所で垣間見える彼の優しさ、逞しさは、モニカに熱い思いを抱かせるには十分すぎる程の力を持っていた。王侯貴族という冷たい利害関係の中を当然のように歩んできた少女にとって、少年はあまりにも温かく自分を包みこんでくれたのだ。
であるからこそ、苦しい。わかっていた。わかっていたのだ。自分たち王族は幸二を、柚木を、何の関係も無い異世界人を自分たちの都合のいい道具としか見ていないということを。王族としてのモニカは、国のために彼らを骨の髄までしゃぶりつくさねばならないことを。
「……にーちゃん」
幸二が兄を呼んだとき、自己嫌悪で首をかき切りたくなった。二人にも愛する家族がいた。中でも、幸二の兄に対する親愛は、会ったことのない自分にすら伝わってくるほどだった。彼らから幸二の兄を奪ったのは、私だ。
その思いは柚木との会話を終えた後に、耐えられないほど強烈なものとなった。涙がにじむ。だがモニカは泣くことで逃れようとしている自分を見つけて吐き気を覚えた。泣くなどと言う贅沢を、許すつもりはない。王族としても、個人としても。泣いて逃れられるほど、この罪は小さくないのだから。
「…モニカ」
ふと気づけば、柚木がなんとも言えばい表情でこちらをうかがっていた。黒髪の娘は何度か口を開け閉めしていたが、二の句を継ごうとはせず、しばしの沈黙が部屋を満たした。
「その、だね。ええと」
結局、柚木が次の台詞を吐きだすことはなかった。彼女が艶やかな唇を震わせる前に、どんどんと夜中にしてはひどく不躾なノックが響き渡ったのである。部屋の主に優しくないその扉は、職務を放棄して招かれざる客を吐きだした。
「勇者様! お願いします!」
許されざる客人は、亜麻色の髪を振り乱しながら、真っ赤に塗れた何かを抱えて涙ながらに訴えた。
「殿下を、お助けくださいまし!」
薬師の侍女リリアーノの涙は、うめき声を上げる血濡れの王太子エンバルに降り注ぎ、やがて緋色の絨毯へ解けるように消えていった。