三十一話 勇者様、もっともっと頑張る
なるほど、可愛いは正義か。
柚木は以前、幼馴染一号が声高に主張していた一説を思い出し、今心の奥底からその意見に同意を示した。あまり他人の外見に頓着しない――というか興味のない自分であるが、それでも綺麗なものを綺麗と認識するくらいの美的感覚は有している。その点から考えると、眼前に広がる光景は柚木の枯死寸前だった美意識に栄養剤入りの雨を降り注ぐような代物だった。
分厚い湯けむりに隠された肌は真白であるが健康的で、絡んだ雫を瑞々しくはじいている。すらりとした手足はカモシカのごとく、胸の双丘は少しばかり妬ましくなるほどお育ちあそばされているにもかかわらず、全体のバランスを崩さない絶妙な大きさを維持していた。湿気を含んでまとまった金の髪筋が頬に張り付いている姿など、あっという間に男を知的生命から本能の狼へと変じさせてしまいそうな色香を漂わせている。
ふと、肩まで温かな湯に沈めてしまっている自分を見下ろしてみた。湯あみ着で隠されているが比べるのも愚かしい大平原、全体的に肉付きの薄い体、肌に関しては全く負けていないと思うが、野郎の理想像なる代物からいえば少々ずれていることは否めない。
「世の中、ままならぬものだね」
「あ、あの。ユズキ様?」
いつの間にか舐めるような視線になってしまっていたのだろう。大理石製の浴室の只中に立ち尽くす男の妄想――もとい、モニカは何故かひきつった顔で立ち尽くしていた。手で重要な部分を隠し、柚木から逃れるかのように身をよじらせている。
「ああ、いや、何でもないよ。少しばかり、常識とかいうものの理不尽を嘆いていただけさ。それよ
り、入らないのか?」
「ええと、や、やっぱり私は遠慮いたします。その、恐れ多いですし」
「何、構わないよ。こういう大きな風呂は、大勢で入るほうが楽しいからね。ほら、こー君もそんなところにいないで、早く入ってきたまえ」
「なあ、おかしいだろ。どう考えてもおかしいだろ!?」
お世辞にも質がいいとはいえないものの、ガラスを張られた天窓から曇天で鈍ってはいるもののさんさんとした朝の陽光が降り注ぎ、揺れる水面がきらきらとまばゆい輝きを放っている。床から壁面、浴室まで磨き抜かれた大理石で覆われた湯殿は広く、大小さまざまな調度品で彩られていた。壁面に描かれた白銀の冠と翡翠の衣をかぶった岩山――モニカの話では、この国最大の景観地アデトス山脈だそうだ――や広く深い浴槽は日本のステロタイプな銭湯を思い出させる。もっとも、縁のすぐそばに置かれた木製のテーブルと、その上に並べられたベーコンや一口サイズのパンなどの軽食の存在が柚木の知る浴室のイメージから大きく外れさせていたが。
ちゃぷんと湯の面が並みだった。ちらりと目を向けると、モニカがおずおずといった低で浴槽に身を沈めている。視線が合うと、少しばかりかたい笑顔が返ってきた。
「こー君。郷に入っては郷に従えだよ。この世界の入浴文化は我々の知るものとは違うんだ。たとえ混浴であろうが、それが常識なら気後れすることはない」
「少しは気にしろよ! ていうかありえないだろ普通!? 悲鳴上げるどころか入浴勧めてどうすんだよ!?」
入口から少年が顔だけ覗かせて怒鳴ってきた。見つめ返してやると、顔を真っ赤にしてすぐさま脱衣所へ逃亡してしまう。
「こー君。古代ローマの公衆浴場は、キリスト教徒の猛反発が起こるまで大概が混浴だったのだよ? 現代日本にだって、混浴風呂はきちんと残っている。というか、私は湯あみ着を着ているのだから、そう恥ずかしがることもあるまい」
「いやそういう問題じゃなくてだな、ていうか、柚木姉はそうでもモニカは着てないじゃないか!」
「ほう、見たんだね?」
絶句の気配と同時に、ばちゃばちゃと水しぶきが飛んだ。柚木は唇の端を釣り上げながら頬の雫をぬぐった。巻き上げられた黒髪を数度なでる。モニカが鼻のところまで湯船に身を沈めていた。顔が赤いのはきっと、湯あたりのせいだけではあるまい。
「まあ、いつまでも駄々をこねられると、朝食の時間に遅れてしまうしね。侍女諸君、よろしくお願いするよ」
『かしこまりました、ユズキ様! それではコウジ様、御覚悟を!』
「え? ちょ、何ボタン外して――待て、待ってくれ、俺は入る気はないズボンを引っ張るなああああああ!」
複数の娘たちがあげる嬌声と嘆声、そして一人の少年の得もいわれぬ悲鳴がこだました。本来なら自分も加わっていじくるべきなのだろうが、貴族の子女らしき妙齢の侍女たちの「ふわ、すごく引き締まってる…鍛えてらっしゃるのですね」「ご立派です…!」「…あ、いけない唾が」という和やかな空気に乱入するのはあまりよろしくないと考えなした。こういった場で自分のような立場の者が横やりを入れるのは、無粋の極みであろう。淑女的に考えて。
ふっと、湿気を多量に含んだ吐息を洩らす。浴槽の縁に顎をおき、雫を散らした腕をクッキーの盛られた皿に伸ばす。故郷のものに比べて若干無骨な印象の菓子を口火運ぶと、柚木は眉目を思い切り歪ませた。
「いくらなんでも硬すぎだろう」
歯が割れるかと思った。蒸気でふやけて始めているため、何度か歯を立てると欠け始めるものの顎が痛くなるほどの硬度である。おまけにあまり甘くない。
そういえば、クッキーはもともと保存食として旅行などに用いられた食べ物だと聞いた覚えがあった。そのため昔のクッキーはすさまじい硬さを誇り、しかしその利便性から平民だけでなく、王侯貴族にまで幅広く親しまれていたとか。柚木はどこから得た知識だったか思い出そうとしたが、すぐにその思考を捨て去った。自分たちの豆知識の出どこなど、一つしか思い当らなかったからである。
「あまり風呂の中でものを食べるという習慣はないが、一つの憧れではあるね」
よく温泉などで熱燗を傾けるコマーシャルなどを目にするが、実際にそれが行われることはあまりない。成人したら一度はやってみたいとひそかに期待していた彼女にとって、ちょっと違う気もしなくはないがこれはこれでいいものなのかもしれなかった。
「お気に召していただけると、私もうれしいです」
モニカが目を細めて顔をほころばせた。どうでもいいが、彼女を視界に入れると、どうしても目線が顔より少し下に行ってしまうのは何故だろう。あれはあくまで脂肪の塊であり、肩こりなどの負荷パラメータでしかないはずである。男ならともかく、女の自分には何ら引力を発揮しない無用の長物のはずだ。おかしい。絶対におかしい。
「あ、あの。ユズキ様? 何か、目が怖いのですが…」
湯の熱が身体の奥底にまで伝播したかのようだった。芯が熱され、思考が高速化する。柚木はじっと、じいっとメロンマシュマロを睨みつけた。
ひょっとして、この中には自分たち大平原同盟が知らない秘密が隠されているのではないか。そんな思いにとらわれると、以前裕一が「大なり小なり、オパーイには希望が詰まっているものですよ」といっていた記憶が呼び起こされた。じっと、食い入るように見つめていた柚木は、やわらかなる希望を両の手で思い切りつかみ取った。
「ひあ! ゆ、ユズキ様、何を!?」
あらゆる不可解を体現したかのようなお椀をこねくり回し、柚木は真剣に自分のそれとの違いを見出そうとした。しかし揉もうがこねようが、一向に秘密らしきものは現れない。むっと目元を歪めても何も変わらなかった。やはり素人ではこれに詰まる概念存在を知ることはできないのか。わずかな諦観を覚え、柚木は渋々ながら研究を打ち切った。大きな吐息が漏れる。
「…あの、ユズキ様」
えらく艶っぽい声音で名前を呼ばれた。我に返った柚木は視線を三十度上方修正すると、その勢いを残したまま湯をかき割りながら身を後方へと退避させる。ばちゃちゃちゃと水しぶきが飛んだ。
火照っていたはずの頬から急速に熱が引いて行った。気づいたのである。どことなく呆けているように虚ろな、しかし紛れもなく強い感情で滴っている少女の瞳が、ひどく見覚えのあるものだということに。全身から血の気が引いた。一瞬の交錯だけで、彼女の脳裏に彼の色を宿した人物たちが流れ出す。生徒会で同僚だった少女、助っ人で参加した体育会部の後輩女子、延々とポエムを朗読した木田武雄君(十七)。
恋する瞳、というには余りにも生々しい情欲だった。こと撃退――いい方は悪いが、彼ら彼女らの想いを受け入れなかったという点で撃退なのだろう、多分――には定評のある柚木さんでも、さすがに自分からのアプローチに加え素っ裸同士という状況には、軽く貞操の危機を感じざるを得ない。幸二は何をしているのだと耳を澄ますと、「往生際が悪いです」「さあ諦めて全てを天に晒してください」「…破城鎚を持て!」という白熱した熱気と「やめ、頼む、ぱんつだけは勘弁して――」なる切羽詰まった悲鳴が鼓膜を打った。どうやら最後の防壁をめぐって熾烈なる攻防戦を繰り広げているらしい。おのれ、さっさと城下の盟を誓えばいいものを! 柚木は小さく舌打ちした。
だが、そんなことをしている場合ではなかった。ほんの少し意識を外に向けただけで、自分と百合の花の隙間が詰められていた。温かな湯に包まれているというのに、背中が無性に冷たくなる。だが、このまま何もしないわけにいかないだろう、ノーマル的に考えて。吹きすさぶ混乱の嵐を押しのけて、柚木はいろいろな意味で真っ赤になった姫君を説得しようと攻勢を開始した。
「いや待てモニカ。早まるな。ええとだな、私にはそちらの趣味は」
「ゆ、ユズキ様がお望みなら、経験はありませんが……か、覚悟はできています…!」
無理だ、助けてくれゆー君! 高速で折れた心を抱え、柚木は内心で絶叫した。全身がふるえる。まるで六時間にも及ぶ木田武雄君のポエム朗読並みの衝撃が全身を揺さぶっているかのようだ。少女の碧眼が強い決意を宿していることが心底から恐ろしかった。駄目だ、百合の花咲き乱れる浴室は駄目だ。モニカが数度大きく息を吸い――まるで死地に赴く兵士のごとく顔を引き締めた。
待とう話せばわかる。
「おおお、おおお落ち着けモニカ。ご期待に添えず恐縮だが、私はノーマル、きちんと男が好きだ!」
目じりに涙がにじんだ。ここで一つでも選択肢を過てば、こっそり描いていた諸々の明るい人生計画が大幅な軌道修正を迫られる。つっかえそうになる呼吸を押さえつけ、柚木はぐっと少女の裸肩をつかんだ。
「…………………………え?」
きっと他人にはわかるまい。モニカの呆けたような声が、まるで神への讃美歌のごとく耳を打った感覚など。地獄に垂らされた仏の糸を泣きながらつかみ取り、たたみかけるように百合の姫へ言葉をぶつけた。チャンスは一度きり、二度目はない。
「ささ、先ほどのは、ちょっとした戯れだよ。すまなかったね、勘違いさせて」
ぱちくりと大きな目を瞬かせたモニカは、ややあってワインを垂らしたかのように顔を朱色に染める。
「あ、あの、その! わ、私!」
やったぜ生存成功。
「しかし、モニカがそちらの世界の住人だったとは。少しばかり、我々の友情を考え直さなければならないね?」
若干頬が強張っているかもしれないが、今度は姫君に矛先を変えたパニックの神が力を尽くしてくれているようだ。モニカがそれに気づいた様子はなかった。
「い、いいえ! あくまで嗜みとしてそう思っただけで、私自身にはそちらに傾倒する趣味はありません!」
あわてたように弁解が始まった。というかさりげなく聞き捨てならない言葉も入っていたので問いただすと、王侯貴族の女性は嫁ぐまで純潔を守るのが慣習で、平民のように男女入り混じって入浴することはないそうだ。しかしそうはいっても人間、性欲からは逃れることはできない。そこで彼女たちは、親しい同性――友人だったり、侍女だったり――と入浴することで、親交を深めるとともに欲求を慰めることが一般的だそうだ。無論、百合の花的な感じで。ちなみに男の方はもう少し緩く、異性を風呂に連れ込むこともあるらしいが、やはり同性との入浴はそういうことを意味するのだとか。いうまでもなく薔薇の花的な意味で。
「ですから、その、入浴に誘われたということはそういう意味なのかな、と…」
「…すまない」
柚木は顔を思い切りしかめて自身の過失を認めた。どれだけここが異世界であるといいきかせても、やはり同じ人間であり意思疎通も図れるということに油断していたようだ。戦国大名は男とも女とも関係が持てて一人前という話を聞くが、それと似たような感覚なのだろうか。侮りがたし、異文化コミュニケーション。
空恐ろしいまでに居心地の悪い空気があたりに充満した。柚木は一月ほど前までついぞかくことのなかった冷や汗がこめかみから流れ落ちるのを自覚する。当面の友情と貞操の危機が歩み去ったとはいえ、一連のやり取りは和やかな雰囲気を爆砕するのに十分すぎる破壊力があった。
「…あの」
鼻まで湯に沈み込んでいた柚木に、おずおずといった体でモニカが口を開いた。ちらりと視線で顔をなでる。
「その、こんな時に聞くことじゃないって、思うのですけど」
「何だい? 勘違いさせた詫びというわけじゃあないが、私に答えられることなら何でも聞いてくれ」
それでこの空気が軽くなるのなら安いものだ。柚木は胸をたたいた。
「ええと、あの」
しかしそれに反してモニカはなかなか会話を始めようとはしなかった。困ったように何度か口を開け閉めするが、明確な意味を有した台詞は吐き出されない。柚木の眉が訝しさによって顰められた。
ふむ、と内心で嘆息し顎に手を当てる。何やらいいづらそうな様子を見ると、どうやらあまり気持ちのいい内容ではないらしい。前後の文脈から少女の意図を推量しようとして、柚木は思い切り首を振った。仮に先のやり取りに即したものだった場合、双方に好ましからぬ事態が菓子折り持ってやってくることに気付いたのである。
カップ麺が程良く出来上がるくらいの時間が流れても、少女は一向に口を開こうとはしなかった。身体の火照りが少しいとわしくなって、浴槽の縁に腰を下ろす。ひんやりとした石と雫の感触が爽やかである。
柚木はほんの少しだけ唇の端を釣り上げた。我ながら意地が悪いと肩をすくめたくなる。モニカが何をいいたいかなど、考えるまでもないことではないか。
「…ユズキ様。あの、ユズキ様は」
「おや、とうとう決着がついたようだよ」
柚木は慌てて身をよじった。
え、と少女が瞠目した瞬間、大量の水しぶきが浴槽の中心で花開く。水滴というにはいささか以上に大きな球が顔にかかり、形のいい顎にしたたった。
「駄目じゃないか、こー君。湯船に飛び込んじゃ」
かろうじて腰に白布一枚を巻きつけた少年に注意を促す。彼はどこか虚ろな瞳を俯かせ、静かに肩を震わせた。かのように漏れ聞こえる嗚咽が、幸二の歩んできた旅路の過酷さを如実に表しているかのようである。なお、数秒遅れて入室してきた侍女たちの肌が艶やかに輝いているように見えたのは多分気のせいだと思う。
「俺…………もうお婿に行けない」
「そういう意味深な台詞を聞かされると、どこまでされたのか興味が津々だね、君?」
「……なあ、柚木姉ってホントに血は赤なのか? 代わりにオイルとか液体窒素とか流れてんじゃないだろうな?」
失敬な話である。柚木は小さく苦笑した。ひどく落ち込んだというか、椿の花弁がぽろりな感じの少年をいじりながら、ちらりと押し黙ってしまった姫君を一瞥する。彼女は小さく唇をかみしめて、しかしすぐに日向のような笑顔を浮かべた。すぐさま肩を落とした幸二のそばによって――自分の恰好を思い出し半泣きで距離をとってしまう。
それでも、浴室から出ることはしないのだな。どこからかそんな声がした。
そんな自分に思わず肩をすくめたくなった。どうやら想像以上に、自分の内心は群雄割拠の戦国を表しているようだ。
モニカのことは好きだ。出会ってまだ間もないが、寝食を共にしてしかも性格もいいとなれば、嫌うというのはそれなりに難しい。だがこれは当たり前のことであるが、それは好きか嫌いかという、絶対的二色に分けられるほど単純でなはない。好感が基軸にあることは間違いない。しかしそれは幹から枝葉に上るにつれて、いくつもの要素をはらんだ複雑怪奇な文様を描き出す。
まああれだ。結局のところ友人モニカになら答えてもよかったのだが、第一王女モニカ=ゼルドバールに答えるのは癪だったのである。我ながら心の狭いことだと嘆息した。
さて、私はいつまで彼女らにとって都合のいい勇者でいられるのだろうか。唇を動かすことなく皮肉気に呟いた。
柚木には一つの目的があった。何となれば、この勇者という道化を演じているのも達成のための下積みにしか過ぎない。口には出していないが、多分幸二もそうなのだろうと何となく思っていた。大体である。いきなり拉致同然に呼ばれて見ず知らずの人間たちから魔王を倒せと命じられても、はいそうですかと即答できるものがこの世にいるのだろうか。いたらいたで、ちょっと見てみたい気はするが、さすがの自分でもそこまで脳みそ筋肉ではないつもりだった。
足で湯を跳ね飛ばした。端で揺れる金髪を眺めてまた苦笑する。いつかこの愛らしくも憎らしい友人と袂を分かつ日が来るのだろうか。
何だか、無性にゆー君に会いたくなった。
…更新……できました。
いやもう忙しいというかなんというか。遅くなってしまい大変申し訳ないです。
感想への返信はまた後日にさせていただきますお…(´;ω;`)