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三十話 勇者様、もっと頑張る


 じめじめとした空気が、肌にまとわりつくようでたまらなく不愉快だった。幾度訪れても変わることのない空気に、男は顔に出すことなくこの空間を生み出した建築技術の程度を嘆き悲しんだ。石を組み合わせて作られた階段を一段下りるたびに、かつかつと靴底を叩く音が縦横無尽に駆け巡る。螺旋状に伸びた石の段差はほの暗く、壁に備え付けられた魔導光を持ってしてもその全容を現しきることは不可能であった。手に持ったランタンの光がなければ、男の足は底の見えぬ奈落へとたちまち滑り落ちてしまうだろう。初めてこの階段を下った幼き日の恐怖は、残念ながら何十年たとうと薄れこそすれ、消し去ることはできなかった。


 この螺旋階段は、男にとって苦痛以外の何物でもなった。彼の目指すべきもの、進むべき地へいたるためには不可避の空間であるが、本当ならば足を踏み入れることすらしたくない。ここを通るたびに自分たちがもつ力があまりにも拙く、弱いものであることを嫌というほど思い知らされるからだ。薄汚れた石壁、ところどころ漏れる地下水とそれに蒸す苔、かつて繁栄を極めた神代ははるか遠く、今ではこのような薄汚れた細工しかできない。わきあがった嫌悪と憤怒を込めた視線が積み上げられた石にぶつかった。この地下階段も、上にある稚拙な建築物も、全てが男にとって許しがたい存在なのである。


 階段が終わった。かつんと、それまで石を相手にしていた靴底がようやく目振り合うことのできた真実の愛に感激の悲鳴を上げる。ランタンの光で照らされた、艶やかな光沢を持つ床板に、男は例えようもない開放感を覚えた。これまで数百、数千の回を経た心の揺さぶりであるが、先の螺旋階段と同じように薄れることはあれ消えることは決してない。


 つるつるした金属とも石とも取れない、未知の物質を踏みしめた。廊下のように細く前へと続く道はお世辞にも広いとはいいがたいが、階段とは比べ物にならぬほど強い光によって躓く心配は微塵もない。壁や天井には飾り気をはるか彼方へ忘れ去ってしまったように無機質だが、素材を組み合わせた証拠であるつなぎ目が全くなく、まるで単一の材料でつくりだされたかのように思える。


 おうとつもない床が、男の靴をやさしくとらえた。男はもはや用済みとなったランタンを消し、腰へと引っ掛ける。二、三分ほど通路を歩み、やがて行き止まりへとたどり着いた。そこには単なる壁だけではなく、創造者の到来を今か今かと待ち受ける扉の姿があった。扉といっても、ドア部分は失って久しいのか、遮るものなくその口を開きっぱなしにしている。否、あるいは最初からドアなどなく、横にスライドする形式のものだったのかもしれない。若かりし頃、もぐった神代の遺跡で同じようなものを見つけたことがあったので、そうなのではないかと男は当たりをつけていた。


 扉をくぐった瞬間、男から空間という感覚が消失した。先ほどまで通路を満たしていた魔導の輝きは扉から出ることが敵わず、悔しげにその身をたゆたわせている。

 満天の星砂が、男の眼前に広がっていた。上下左右、それら全てが男の腕を離れ、ともすれば自分が宙を飾る星の一つになったかのような錯覚をおこす。靴で何度か床を踏みしめた。床は存在する。しかし、男の眼下に黒く輝いていた床板は見当たらず、代わりにまばゆいばかりに輝く青い球体が足元を覆いつくすかのように広がっていた。おぼろげながらもしっかりと光を放つ宝玉には、まとわりつくような白いもやと、装飾にしては不規則な茶緑の細工が施されている。


 男は大きく息を吸い、吐いた。地下にあるというのに、この部屋の空気はよどむことなく、常に清浄で爽やかだった。地上の雑多な騒音、醜い営みでこびりついた汚れが剥がれ落ちていくようだ。

 真っ青な輝きを全身に受けながら、男はわき目も振らずただ真っ直ぐに歩を進めた。遠近感どころか平衡感覚さえあやふやな場所であるが、男が道を誤ることは決してない。何故なら、夜の帳に浮かぶ、あまりにも巨大な目印があるからだ。

 それは巨大な水晶と、それを取り巻く太古の装置だった。くるくると緩やかな回転が係っている結晶に伸びる何本もの結線、男でさえ全てを把握しきれていない装置は、わずかな明滅を持って星の海で各個たる地位を気づいている。男は真っ直ぐと太古の遺物、その中心に座すものを見つめた。


 透明な筒が、斜めに傾けられる形で装置の群れに埋もれていた。淡く光を放つ筒はどんな宝石よりも澄み切り、その中でたゆたう小さな影を余すところなく照らし出している。男は装置の直ぐ傍まで寄り添い、筒の中でただひたすら時を待つ存在を見つめ続けた。

 それは幼い少女であった。二本に結ばれた髪に、肌にぴっちりと吸い付いた服、天上の神々を思わせる美貌は、周りの光景も手伝って文字通りこの世のものとは思えない。男は時間を忘れて眠り続ける姫君を眺め続けた。どれほど忙しく、どれほど身体にがたがこようと、男はこの日課を一日たりとて欠かすことはなかった。まだ十にもみたなかったあの日より、男の部屋はここであり、男の居場所は彼女の傍だ。


 どれほど、そうしていただろう。かつりと、硬い音が耳を打った。男は名残惜しげに視線を少女から外し、変わってこの聖域に足を踏み入れた無粋な輩に鋭い眼差しを向けた。この神聖な時間を邪魔するものは、例え神でも許しがたい存在である。


「お邪魔でしたか」


 光の口から現れたのは、一人の女だった。部屋を満たす青い輝きに染まっているものの、本来は亜麻色の髪を背中まで伸ばし、真っ黒なズボンに上着、中は白いシャツを着込んでいる。切りそろえられた髪に隠れる眉は細く、通った鼻筋には古代、視力矯正用に使われたというレンズがはまった装飾品が乗っていた。やや攣りあがった目はしかし全く意志の輝きを感じず、その端整な顔立ちとあいまって、まるで人形と相対しているかのような錯覚を覚える。あまりにも落ち着きすぎて、年齢がよくわからなかった。しかし肌の艶から考えても、おそらく二十歳は越えていまい。見知った顔だった。男は不快感を隠すことなく、この忌々しい闖入者に叩きつけた。


「ああ、邪魔だ」

「それは失礼いたしました。ですが、急ぎの報告がありましたので、参上した次第です」


 淡々と、抑揚のない声で女はいった。男は女の名前を呼ぼうとして、しかし舌を動かすことなく空気を飲み込む。そういえば、この女は何という名だっただろう。ぴくりとも動かぬ彼女の顔を見て、男は内心で首をひねった。初めて会ったときに聞いた覚えもあるのだが、中身が思い出せない。

 だがまあ、どうでもいいか。


「報告? 貴様が私に報告する義務を負っていたとは驚きだな」

「先の取引にも関わってくる内容ですので」


 ぴくりと、男の片眉が跳ね上がった。その一言は男にとって、無粋な闖入の咎を黙認させることのできる数少ない力を持っていたからである。続けろ、と促すように一瞥した。


「つい今しがた、勇者一行が城に到着しました。この国への滞在及び魔王討伐の全面協力を求めにきたようです」

「…なるほど、ようやく来たのか」


 別段待ちわびていたわけでもなかったが、社交辞令的にそんなことをいう。

 異世界より召喚された双竜の勇者。近頃臣民の間で何かと話題になっている者たちの来訪に、男は唇を吊り上げた。声をあげることなく、頬だけを震わせる。


「つきましてはかねてからのお約束どおり、殿下のご助力を賜りたく存じます」

「ふん、約束、約束か。わかっているとも。契約を違うことは決してない。ああ、貴様らは気に食わんが、この取引を持ってきたことだけは評価に値するぞ。何せ、私が断れない条件で持って私を利用しようというのだからな」

「お褒め頂き、恐縮です」


 女は王侯貴族もかくやという気品を持って一礼した。彼女のいった意味を数秒黙考し、頬に手を当てる。


「褒める? …そうだな、褒めている。何なら、頭でも撫でてやろうか?」

「いえ、それにはおよびません」


 ふんと、男は鼻を鳴らした。悪意をたっぷり込めた言葉のトゲを、眉一つ動かさず飲み込んだこの女がひどくつまらないものに思えたからである。ここで怒るという反応でも見せれば、まだ可愛げがあるものを。


「まあいい。勇者の件は了承した。せいぜい、派手に踊るとするさ」

「ご武運をお祈り申し上げます」

「ハ、心にもないことをいうな」


 彼は嘲笑と自嘲、二つの意味を含む笑いを漏らした。この女、いやその後ろにいる連中がどういう意図で勇者とやらにちょっかいを出そうとしているのか、何となくだが察せられたのである。結局は、勇者も自分と同じ。ただの道化ということだ。

 顔すら知らない勇者に、男はほんの少しだけ同情した。自分と似た境遇にあるからなのか、はたまた枯れ果てた良心でものこっていたのか、定かではないが。

 ふと、思い出す。名を忘れた自分が、最後にこの女に対し戯れにつけた名称を。


「人形繰り、か」


 女の表情に、困惑は浮かばなかった。




 ★★★




 前髪がひどくべたつき、額に張り付いていた。

 モニカ=ゼルドバールは輪郭の定まらない白亜の天井を瞼で数度ほど隠し、顔を横に傾けた。後頭部を程よく包み込む羽毛で片耳を塞ぐと、視界を天井から脇の水差しへと移動させる。ともすれば奈落の闇へ引きずり込まれそうな意識を叱咤して、モニカは冷え切った水を喉へと押し流した。唇の端から雫が数滴零れ落ちてシーツに点を作り出す。


 透き通った器から半分の恵みが消えうせると、モニカは水差しから口を離した。頭の霞が少しずつではあるが風に流され始める。ぐっと身体を起こすと、自分が随分寝汗にまみれていることに気づいた。そういえば、昨日は随分蒸し暑くて寝苦しかった。

 モニカは侍女を呼ぶ鈴を鳴らして寝室の窓を開放した。がたりと上へ押し上げて固定すると、朝の冷たい空気が頬を撫でる。汗に濡れた肌が微妙に残る熱気を流してくれているような気がした。


 外はお世辞にも快晴とはいいがたかった。未だ日が昇りきっていないせいもあるのだろうが、早朝らしい薄暗さを差し引いても、眼下に広がる街並みは薄暗い。ところどころパンを焼くための煙が立ちのぼってはいるが、街そのものは穏やかなまどろみに身を任せているようだった。

 エスパニア王国の王都カルベスは、祖国ゼルドバールと少々趣を異にする都である。国の象徴たるこの王城はともかく、建築物の多くに木材が多用され、また郊外の田畑は小麦ではなく米を主体とした栽培が行われていた。大陸中央の諸国家では珍しい米食文化である。生憎と小麦が主食のゼルドバールでは滅多にお目にかかれないが、昨夜のパーティで幸二たちの喜びようを見てしまうと、多少の無理をしてでも自国で栽培したい。モニカは水を湛えた珍しい畑に羨望の眼差しを注いだ。


 エスパニア王国はユイファン連合と同じく、ゼルドバールの長年の同盟国だった。列強ひしめく中原の中でもその結束力は強く、それは今回勇者お披露目の旅で一番目、二番目の訪問先に選ばれていることからもよくわかる。民間での交流はさほどでもないが、王室同士の繋がりは深く、血縁関係もあった。昨日謁見を許された現エスパニア王オバル二世はモニカの叔父にあたる人物だし、勇者召喚によって立ち消えてしまったが、オバル二世の息子エンバルにいたってはモニカの許婚だったほどである。


 モニカは朝の空気を思い切り吸って、体内の澱んだ気分を吐き出した。昨日会ったオバル二世はひどくやつれていて、顔から生気というものが抜け落ちていた。長らく病床にあると聞いていたが、あそこまで衰弱しているとは思わなかったのである。考えるだけでも不敬かつ不謹慎だが、もうあまり長くないと思う。モニカ個人としては小さな頃からに可愛がってくれた叔父の不幸など考えたくもないが、王女の自分は一つの可能性を脳裏からひと時たりとも離すわけにはいかなかった。もし今崩御と相成った場合、現状は祖国にとって非常に好ましからぬことになるからである。

 澄んだ金音が、沈んだ空気を切り裂いた。鋭く、高く。何か金属を打ち付けあう音色が朝霧をすり抜けるように駆け回っている。モニカは音源を追って視線を城壁の内側へ移動させた。澄んだ泉を取り巻くように翡翠の絨毯が敷き詰められたそこには、薄いもやを吹き飛ばすかのようなにび色の輝きで満ちていた。二度、三度、どうして今まで気づかなかったのか不思議になるほど、その音は不規則ではあるが断続的に城壁を駆け上りモニカの元へと駆けてくる。


 それは、ここ一月ですっかり馴染みとなってしまった音色だった。即ち、剣戟。

 侍女が入室すると、モニカは可能な限り素早く身だしなみを整え始めた。濡れた布で汗を拭いて、香草を焚き、髪と衣服を整える。この国が用意してくれた、白の布地に金糸をふんだんにあしらったローブはお世辞にも動きやすいというものではないが、さすがに友好国の王城で旅装束を着込むわけにもいくまい。この服で出せ得る最高速度で歩み、モニカは庭園に足を踏み入れた。

 濃厚な土と緑の匂いが鼻を撫でる。朝露が混じったのか、足元が柔らかく草も湿っていた。自室の窓を確認し、方向修正。はやる気持ちを抑えて、できる限りゆったりとした足取りで音源に近付いた。

 しかし、ほんの一瞬だけその歩みが鈍った。心待ちにしていた光景に水を差す、先約の姿を確認したためである。


「おはようございます、モニカ姫」


 数人の騎士を連れたその人物は、近付くモニカを認めるなり爽やかな笑顔で出迎えてくれた。美しい男だ。初対面ではないにもかかわらず、モニカはそう思った。朝日が透けるような金髪にすっと通った鼻筋に涼やかな目元。以前彼の甘いマスクが織りなす微笑みで城下の街娘たちが失神したと小耳に挟んだことがあったが、思わずなるほどと納得してしまう色気がある。もっとも、モニカにはさほど関係のない話ではあるが。


「おはようございます。お早いのですね、エンバル殿下」


 対外用の笑みを張り付け、モニカは丁寧に会釈した。エスパニア王国王太子エンバルが、もう一度甘ったるく白い歯を見せる。自分よりも二つ年上、十九の男は背もすらりと高く、見下ろされている形になっているにもかかわらず、不快感を全く感じさせなかった。相変わらず食えない方だ。表情筋の一切に現さず、モニカは一人ごちた。


「ええ、何しろ勇者様方の訓練を拝めるなど、そうそうないことですからね。お言葉に甘えて、ご相伴にあずかった次第です」


 いかにもうれしくてたまらないといわんばかりに、頬を紅潮させた。エンバルの視線を追うように、モニカも彼の意中を眼に収める。

 すさまじい速度で、銀光が乱舞していた。

 長髪の妖精が双剣を縦横無尽に、しかしそれでいて全く素人臭さを匂わせず振りかざし、それを白銀の騎士が正確に迎撃、時には絶妙なタイミングで反撃の突きを放つ。二合、三合。四合目を打ちつけようとした幸二の右足近くに柚木が左足を踏み入れた。彼女はそのままくるりと半回転するように勢いをつけ、右の剣を水平に切り込ませる。それを見てとったらしい幸二はあわてて避けるようなことをせずに、彼女の軸足を引っ掛けるような形で横に跳躍した。ちっと鎧をかするように一閃が空を切る。


「光よ光よ光よ、我が息吹、我が声、我が意を持って疾くあらわれよ!」


 呪文詠唱、やや粗削りだがそれでも大きな魔力が幸二の剣を中心として渦を巻き始めた。中位魔術、モニカがわずかに息をのむのと、柚木が後方に跳躍しつつ鋭く声を張ったのは同時だった。


「闇よ闇よ闇よ、我が息吹、我が声、我が意を持って疾くあらわれよ」


 魔力の錬精はほぼ同時に終了し、まばゆいばかりの輝きと気高い漆黒が同時に場を席巻する。護衛の騎士がくっと声を上げた。一瞥すると、どこか熱に浮かされたように目を見開いている。それは剣技の壮麗さゆえか、はたまた精霊もかくやといえる程の美しさゆえか。


『切り裂け!』


 正反対の力が、それぞれの剣をその色に染めた。刹那の間をおいて二色が虚空で一つに交わり――


「そこまで」


 針一本分の隙間を残し、停止した。二の句を告げないでいたモニカは、目を輝かせながら二人を止めた王太子を見つめる。彼は薄桃を大輪の薔薇に差し替えた頬を持って、びっしょりと汗に浸かった勇者たちを出迎えた。


「いや、素晴らしい! これが勇者の力なのですね!」


 上気し、肩で息をする二人は苦笑するだけだった。モニカは周りの護衛から受け取った真新しい手ぬぐいを彼らに渡す。


「お疲れさまでした、コウジ様、ユズキ様」

「ありがとう、モニカ。いやはや、確かに疲れた。こー君の馬鹿力め、腕がしびれてしまったじゃないか」

「そうでもしなきゃやられてたって。なんだよあの剣速、当たったら死ぬぞ、絶対」

「はは、こー君の剣筋があまりにも真剣だったものだから、つい怖くなってしまってね。恐怖に震える乙女のちょっとした失敗だよ」

「うそつけ。どこにそんなか弱い女の子がいるんだよ」


 幸二がわずかに睨むと、少女は小首をかしげるだけで何も答えなかった。心なしか笑っているように見えるのは、おそらく自分の気のせいではあるまい。


「それにしても、ずいぶん魔術も上達しましたね。見違えました」

「モニカが丁寧に教えてくれたからさ。私も魔法少女になるという夢がかなってとても嬉しい」

「……柚木姉。そんな夢があったのか?」

「女の子は誰しも一度は憧れるものだよ、君」


 何かよくわからない会話だが、モニカは面映ゆい気分でにこにこと彼らを見た。勇者たちの役に立てるということは、彼女にとって何よりも幸福なことであったからだ。


「しかし、本当にお見事です。剣の腕もさることながら魔術を、それも伝説の光と闇の属性を使いこなすなんて。双竜の勇者様だけのことはあります」

「双竜って…あの、できればその呼び方はやめてほしいんだけど」

「何故です? ぴったりだと思うのですが」


 幸二のどこかひきつった笑顔に、エンバル王太子は目を丸くした。モニカもつられるように眉をひそめる。白竜と黒竜、これ以上ないくらいに似合っていると思うのだが。周りの護衛騎士たちも同意見らしく、直接的な表現こそないがまとう空気が肯定の意を如実に醸し出していた。


「その、何ていうか。こっちの世界じゃ普通なのかもしれないけど、俺たちの世界じゃ少しばかり、ええと」

「ザ、馬鹿丸出しだよ」

「柚木姉!」


 けらけらと笑う柚木を咎めるように、幸二が高い声を上げた。


「いやいや全く、勇者と呼ばれるのはまだしも、枕詞がつくだけでこんなにも印象が変わるとは思わなかった。ゆー君なら大爆笑ものだね?」

「…やめてくれ、本当にやめてくれ。にーちゃん、こういう話題では蛇みたいにしつこいんだから」

「『双竜ぷぎゃー!』とかかい?」

「いや、どっちかっていうと『ねえねえ、双竜の勇者とか呼ばれるのって、どんな気持ち?  ねえどんな気持ち?』じゃないか?」


 一瞬だけ、モニカの肩が震えた。頬がこわばり、指に力が入る。しかし幸いにして二人はそれに気づかなかったようで、真剣に議論を戦わせ始めた。すっと息を吸う。


「それにしてもあれだけの動き、一朝一夕でできるものではありますまい。さぞや、修練を積まれたことでしょう?」

「そうでもないよ。俺はルドマンさんに教わる前は武術とかやったことなかったし。でも、体を動かすことは好きだったから、体力はあったけどね」

「私もこー君と似たようなものだよ。小さい頃祖母に剣を少々習った程度さ。基礎訓練だけは、言いつけで続けていたけどね」

「ほう、ユズキ様のお祖母様は武術家なのですか?」

「さあ? むしろ私が知りたいね。我が祖母は、自分のことはめったに話さない人だったから」

「桜婆ちゃんか。確かに、滅茶苦茶強かったもんなぁ。威圧感もものすごいし。俺、何回も殴られたよ」


 幸二が顔を思い切りしかめた。頭をかばうような仕草で両手で抱える。どうやら割と嫌な思い出があるらしかった。


「最近は死神すらくびり殺すと豪語していたよ。全く、あの婆様と真っ向から喧嘩できたのは、私が知る限り後にも先にもゆー君くらいさ」

「え、何だよそれ? そんな話、俺知らないぞ?」


 和気あいあいとした空気。談笑する三人に合わせながら、モニカはこの会話に聞き耳を立てている護衛騎士たちに油断なく視線を這わせた。彼らの多くは職務に忠実たらんと無表情を貫いているが、その実瞳だけは幸二たちを鋭く射ぬいてはなさない。礼を失さぬ程度を維持しているのはさすがとしかいいようがないものの、だからといってほめられたものでないことは確かだ。

 モニカはちらりとエンバル王太子を見た。顔は興奮に彩られているが、眼だけが氷のように冷たい。この瞳には見覚えがあった。父や母、国政を担う貴族たちと全く同じ種類の色、対象を冷静に、冷徹に監視する観察し、髪一筋の情報でも得ようとする貪欲な眼だ。同じく談笑に参加しながら、モニカは王太子と二人の間に割って入るかのように体をずらした。一瞬だけ、エンバルの瞳が細められる。


「さあ、コウジ様もユズキ様も。あまりそんな恰好で長話をしていたら、風邪をひいてしまいますよ? 私がお湯を張りますから、湯あみをなさってください。汗を流したら、朝食にいたしましょう?」

「そうだな。こー君はともかくとして、花も恥じらう乙女の私がいつまでも汗まみれというのもよろしくない。ひとつ、お言葉に甘えることとしよう」

「ちょっとまて、柚木姉、俺ならともかくってなんだよ!」

「なに、ただの私見だよ。…サッカー部って、汗臭そうだと思わないかい、君?」

「偏見だ! ものすっげぇ偏見だ!」

「そういうわけですので、エンバル殿下。湯殿をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんですとも。すぐに用意させましょう」

「いえ、そこまでお手を煩わせるわけにはまいりません。私は水の魔術師ですし、お二方のお世話を仰せつかっておりますので」


 だから、エスパニア王国に必要以上借りを作る気はない。とるに足らない出来事であるが、この意味が湯あみにとどまらないことを、彼女ははっきりと宣言した。王太子はモニカの意思を正確に把握したはずだが、今度は内心を一切表に出すことなく、さも残念そうにうなずいた。

 ――まるで、道具扱いだ。どこかから聞こえてきたその台詞は、モニカの心に爆発的な嫌悪の噴火を引き起こした。全身が震えそうなほどの動揺を共に、拳に爪が食い込む。刹那の間だけ言葉の主を探しそうになったが、すぐにそれが自身の鼓膜を震わせていないことに思い当った。

 ぐっとあらゆる感情を飲み下した。駄目だ、今それを考えてはいけない。モニカは全神経を思考から物質的な感覚へと振り分けた。二人の背を押すと、体温を吸ったのかほのかな温かみが手のひらを通じて伝わってくる。


「モニカ?」


 幸二がふとした拍子に振り向く。その瞬間、つんとした香りが鼻をなでた。それが前を歩く少年のものだと認識すると、動悸が高鳴りものすごい速さで血が顔に集中する。気のせいか、各関節の動きが鈍ったように思えた。


「え、あ、え、はい、何でしょうかコウジ様」

「…どうしたんだ?」

「――いえ、何でもありませんよ?」


 モニカは努めて朗らかな顔を作り、小首を傾けた。彼はしばらくじっと自分を見つめていたが、やがて力を抜くようにそうか、と呟き髪をかき上げる。また、独特の香りが広がった。さらに心臓が脈打ち、視界がぐるぐると回っているような錯覚を覚える。なぜか足もとがフワフワした。

 それでも、胸の中で渦巻く自己嫌悪の情は消え去ることはなかったけれど。


やっと…更新できた。

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