三話 ――と思った僕が馬鹿だった
逃げよう。このままじゃあ殺られる。
荒ぶる息を無理やり押さえつけ、裕一は自宅玄関で崩れ落ちるように座り込んだ。足が過度の酷使で悲鳴を上げる。髪はぼろぼろ、背中は汗まみれ。カッターシャツが身体中にくっつく感触がたまらなく不愉快だった。
弟と幼馴染駆け落ち事件発生から二週間たった。もう二週間、わずか二週間。その間に、裕一の日常生活はノアの洪水のごとき強烈な変化を遂げていた。否、遂げさせられたというべきか。
失踪発覚から二日目。その日はお上の皆様方による捜査が開始されたものの、ほとんどの受け答えは両親がやっていたので裕一にはさほどの出番はなかった。平和万歳。
三日目。どこをどうやったらこんな情報を手に入れられるのか。登校すると、学内は既に駆け落ち事件の噂で持ちきりだった。確かに奴らは目立つ。一年にしてサッカー部のエースと目されたイケメンと、外は妖精、中身は兄貴、可憐無敵な美少女生徒会長。それなりに信者がいることも小耳には挟んでいた。
けれど、さすがに非公式ファンクラブなるものの存在までは把握していなかった。否、想像できるはずがない。普通、アイドルなどの芸能人崇拝は、マスメディアという広範囲の宣伝媒体によって植えつけられた集団幻想である。その情報量ゆえに、憧れの存在をグッズなどの形で身近に置くことができるからこそ、ファンクラブというものが出来上がる。学園のアイドルファンクラブなど、アニメや漫画の中だけで、実際にそんなものは存在していないのであった。高校生にそんな労力はあるわけない。
――そう思っていた時期が僕にもありました。そんなファンタジーは、朝の幸二君ファンクラブと柚木様応援隊の強襲によってとうの昔に崩れ去っていた。というか僕関係なくね? という裕一の発言は、血走った美少女美少年たちの般若面にはじかれた。何この美形人口。あいつらはどんなハーレミングを行っていたのか。
結局、その日は友人のとりなしによって事なきを得たが、その翌日以降、裕一は各々のファンクラブに監視、ひどいときには拷問の憂き目にあわされるようになったのである。
ここまででも十分に理不尽かつ不幸であった。それでも、裕一は耐えていた。世の中こんなもの、若い彼らも崇拝の対象がいなくなればおのずとその情熱からも冷めるだろうと高をくくっていたことも否定はしない。
だが、しかし。
さすがに極道の黒塗り車に追われたときにはあまりの出来事にしばし呆然としてしまった。窓から顔を乗り出して「てめぇがあのクソ餓鬼の兄貴か! 覚悟しろぃぃぃ!」などと叫ばれた瞬間、いくらなんでもこりゃないよと神を呪ったものだ。連中を振り切った後、裕一が神社のゲーマーニート大神を殴りに行ったことを誰が責められようか。八つ当たりでは断じてない。
ことここにいたって、ようやく裕一は認識した。弟は、いなくなってもトラブルを撒き散らす。きっとあのやーさんも奴の美少女救出劇に巻き込まれた哀れな犠牲者なのだろう。このままじゃあいけない。どんな手段を用いてもあれを探し出し、自分のまいた種を摘み取らせなければ、僕の生活が危ういのである。
とはいえ、どうすべきか。警察のおまわりさんも手がかりなしで、ほとほと困り果てているという。唯一見つかったのは、近場の公園で放置されていた弟と幼馴染の鞄だけ。電車やバスといった交通機関を使用した形跡もなく、聞き込みをしても目撃者はいなかったそうだ。おかしい。あの街を歩けば芸能スカウトに当たる二人組みが一緒で目立たないはずがなかった。お上もそう思っていたらしく、担当の刑事がしきりに首をかしげていた。
裕一は軽くシャワーを浴び、普段着の作務衣を身にまとう。紺色の伝統衣装が裕一は大好きだった。下駄を引っ掛け、警戒しながら外に出る。一応やー様は完膚なきまでに叩き潰しておいたが、下っ端が逆恨みで飛び込んでくる可能性もある。さっと周囲を見回し、害意がないことを悟ると裕一は足を動かし始めた。嗚呼、シップが肌に染み渡る。
からころと小気味のいい下駄音に耳を躍らせ、アスファルトの上を踊り歩く。しばらくして、整然と並ぶ並木が目に飛び込んできた。膝までしかないレンガの壁に沿って歩き、その途切れ目から敷地内に侵入する。子供たちの楽しげな笑顔がちらついた。
弟と幼馴染が最後に確認された公園である。犯人は現場に立ち戻る、という法則を意識したわけではないが、ここ以外に手がかりがないのも確かだった。シーソー、ブランコ、滑り台という公園三大遊具はもとより、噴水まで完備しているというなかなか剛毅な公園である。おかげで昼は奥様、夕方はお子様、夜は甘々カポー様と、来賓客には事欠かない。設計者もさぞや本望であろう。どんな人かは知らないが。
お上から得た情報に従い、裕一はお子様の間を縫って公園中央に向かった。何やら珍しげな視線を感じるが、これはいつものことである。和服を失った日本、何ともの悲しいことであろうか。噴水に近付くと、それを背にした真っ白なベンチが瞳に写った。比較的真新しい、木製の椅子である。
おうおう、青春か。青春ですか。裕一はやさぐれた気分でベンチに腰を下ろした。きっと行方不明当日、ここで幼馴染との甘い――かどうかは知らない語り合いでもあったのだろう。イケメンなんてろくなものではない。ガッデム。
しばし瞑目し、考える。弟の思考をトレースし、ここから先の行動を予測、幾つかのパターン化を開始した。眉間に縦皺を刻んだ。ややあって、吐息する。
どうにも解せないのだ。あの弟が本当に駆け落ちなんぞするのだろうか? 第一、そんなことをして何になる? あの様子から見れば、両親は絶対に反対しない。僕は恋敵足り得ない。少なくとも家庭関係では駆け落ちする理由そのものが存在しないではないか。では周りの環境か? 裕一はファンクラブどもの狂騒を思い出して臍をかんだ。あれなら逃げ出したくなる気も分かる。というか僕も逃げたい。けれど、あの弟ならカリスマだか色香だかでどうにかしてしまうとも思う。
嗚呼、分からない。一体全体、君はどこにいるんだ。埋没しかけた思考を引き戻し、裕一は何気なく後の花畑に目をやった。
やめときゃよかったと後悔した。
え? ナニコレ? まず思い浮かんだのはその単語。続いて甘酸っぱいりんごの香りが裕一の鼻腔をそっと撫でた。花の香に混じっているが、決して嗅ぎ間違えることのない独特の濃さがそこにはあった。間違うわけがない。これは――
「残留魔力…? ええー……」
すぐさま探査魔術を起動、周辺空間約五キロにわたって情報を収集する。念のためにと距離をもうけてみたが、無駄骨だったようだ。霊視にピントを合わせた視界には、目前の花畑に渦巻く大きな重力痕がくっきりと映し出されていたのである。