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二十九話 愛と希望は意外と高い


 塩の生産工場を視察したその夜、裕一は帝宮の上層に用意された私室のベッドで思い切りだらけていた。絨毯が敷き詰められた室内は最低限の調度品しかないものの、神崎家にある自室が四つは入りそうな広さは、裕一をして腰が引けそうなほど気後れさせた。バルコニー付きの窓には帝都が負った満天の星空が映し出され、一月の間に輝きを回復させた『不動の月』が街を淡く照らしている。いつもならこれを肴に故郷から持ってきた即席麺で夜食としゃれ込んでいるのだが、今日はある事情から涙を呑んでおなかさんに我慢をしいていた。


「とまあ、大体こんな感じかな?」

『……………何というか』


 その事情の象徴である定時報告のための相互通信回線――そこに投影された矢崎教授はこめかみを押さえて瞑目した。頬と目元が引きつり、桜色の唇がわなわなと震えて見える。考える石像じみた姿勢であるが、顔からにじみ出る葛藤が彼を石の塊ではなく人間であると主張していた。数秒間の黙考の後、矢崎教授は全てを吐き出すかのように長い長い溜息をついた。


『やりたい放題、し放題…だな』

「いやいや、それほどでも」


 褒めとらんよ、呆れ成分を濃縮した視線が降り注いだ。彼の脇では相も変わらず積み立てられた本と書類が絶妙なバランスで揺れ動いている。崩れたらこの穏やかな碩学に降り注ぐことになるのだろう。発掘にどれほどの時間がかかるのか。ごろんと寝返りを打ち、視線を通信からそらした。


「別に『連盟』法に触れるようなことはしてないでしょ? 使用技術は現地水準、文化的にも影響なしだし」

『限りなく黒に近いグレーではあるがね。個々の技術はそうでも、組み合わせ方や使用概念で知識を利用したのには変わりない』

「黒じゃなかったら平気だよ。大体、発展途上世界における他世界人の過干渉を禁ずるなんて、傲慢じゃない? 文明って、外部からの干渉も含めて発展するっていうんでしょうが」


 『平行世界連盟』発展途上文明保護法第七条、現地世界出身者を除くあらゆる他世界人の技術供与及び文化干渉を禁ずる、という条文は、裕一のみならず『征服』では懐疑の目で見られるものである。過去、未発達文明に技術供与しまくった挙句滅亡させたという事例があるのは知っていた。しかし、外部干渉――それが友好的交流であれ、侵略であれ――は文明の常、切り離せるものではないし、それら全てを含めるからこそ文明なのではないか。日本人として、裕一はそう考えている。

 そもそも、盛大に外国文化を取り入れて自分たち用にアレンジしまくるという器用な民族がこの世にいるのだ。そのことで滅亡するのなら、それは供与された側の責任であろう。


『まあ、そういう意見もあるし、その反対論も知っている。そこら辺は、まだまだ議論の余地があるとは思うよ。だが、私も君も、『連盟』である程度の立場がある。そこに私情を持ち込むわけにもいくまい』

「なおりんらしいね」


 肯定せず、しかし否定もしない。明言を避けることで彼は元老という地位が許す限りの意思表示を行った。裕一はそれを正確に読み取り、苦笑した。同時に、意地でもこんな立場についてやるものかと決意を新たにする。


「そういう話は置いておいて。こっちの報告は以上。あんまり動き回れなかったから、前回とさほど変わってはいないね」

『うむ、了解した。しかし、こちらはかなり進展があったよ。いいことなのか、悪いことなのかは、いまだ判断しかねているがね』


 矢崎教授の顔がわずかに曇った。その様子を見た瞬間、裕一はお耳をふさいで丸くなる。アーアーキコエナーイ、僕は何も聞こえない。


『現実逃避は止めたまえ』


 しかし無常にも、彼の声は頭の中に響いてきた。畜生セキュリティ上げたばっかなのに。裕一はしぶしぶ手をどけ、寝返りを打って矢崎教授に向き直った。口がへの字になってしまうのは仕方がない。人間とは感情の生き物なのである。


『裕一。君はMBTH‐XF23アイシャという名に心当たりはあるか?』

「…アイシャ?」


 唐突に告げられた固有名詞に小首を傾げた。記憶野を捜索し合致する情報がないことを確かめると、裕一はふるふると首を振る。


「生憎と、そういう名前の知り合いはいないね。型式番号があるってことは、電子精霊か機甲ゴーレムさん?」

『…まあ、そうだろうな。データを送る、目を通してくれ』


 んー、と小首を傾げる。いまいち矢崎教授が何をいいたいのか理解できぬまま、裕一は転送されてきたスペックデータを解凍、脳裏に展開した。あふれ出た文字の奔流を整理し、必要だと思った部分を読み取っていく。


「MBTH‐XF23アイシャ。大戦中期に立案された第六次開発計画において戦域統制を目的に開発された生体式魔導人形……って、千年前に作られた子じゃない。そりゃ知らんわよ」

『ああ。有機ボディの構造が完熟した時期に製造されたものの、ラストナンバーだ』


 有機ボディ、つまり普通の人間とほぼ同一の構造を持つ魔導人形は、『征服』のなかでも古い歴史を持ち、なおかつ未だもって他組織の追随を許さぬ最高機密の分野である。といっても内部規格自体は千年前に完成しきってしまったため、最も新しく生まれたものと、千年前のものの違いは全くない。


「あの、夢と希望のパンドラボックス…生体式魔導人形かぁ」


 機甲ゴーレム、電子精霊、これらは前大戦の折、物量で圧倒的に不利であった『征服』が開発した実働戦力であった。その当時、既に生産技術において第二次大戦中のアメリカ様チックにぶっ飛んでいた『征服』は、文字通り月刊エセックスならぬ分刊ゴーレムな勢いで増産し、終戦時に総数三千五百万機、はっきりいって馬鹿じゃないの? と後世が指摘するくらい作りまくったのである。

 それだけ目茶目茶な増産を行えば、その中に必要なのか疑いたくなる兵器が混じるのは、もはや自然な流れであった。生体式魔導人形も、その一つだ。即戦力の開発――の名を隠れ蓑にして開発された生体式魔導人形は、紳士淑女たちの趣味をとことんまで追及したものとして日の目を見た。即ち、『戦う美少女美少年』である。採算を度外視した各種武装をこれでもかというくらい積み込み、なおかつ男(女)のロマンを凝縮した人格をインストールされた彼らは、文字通り絶対兵器であった。


「僕も一度は作ってみたいんだけど……お金が」


 彼らは戦線でも素晴らしい活躍をしたが、たった一つだけ大きな欠陥を抱えていた。趣味を追求しぬいた結果、製造コストが天井知らずに高まったのである。その費用たるや、一人につき機甲ゴーレム十万機分。夢を買う金は高いのだ。


「…で、この子がどうかしたの? というか、記録ではロールアウト前に研究所が襲撃にあって、行方不明ということになってるんだけど」


 質問に、矢崎教授は一瞬だけ沈黙した。その目元が刹那の間困惑に歪み、しかし直ぐに姿勢を正す。


『実はな、四日ほど前にそのアイシャが『オーディン』とのリンクを行ったようなのだよ』

「…リンク? アイシャが?」


 がばりとベッドから身を起こし、なんとも形容しがたい表情を作っている少年と向き合った。千年前に行方知れずになった魔導人形が、『征服』のメインサーバーにアクセスした? どういうことなのかという思いを視線に乗せて、続きを促す。


『情けないことだが、詳細は全く分からん。ただ、アクセス記録とIPから見て、アイシャであるということは間違いない。彼女は『オーディン』から更新データをロード、IFFてきみかたしきべつコードを取得した。現在は待機モードのようだ』


 裕一は口元が歪むのを抑えきることができなかった。気づいたのである。千年前の魔導人形の復活などという、何の脈絡もない事件を自分に告げているということの持つ意味を理解し、頬を引きつらせた。


「…ねえ、ひょっとしてひょっとすると……アイシャの現在位置って」

『現在座標はB3・001221・22129・11291。B‐3未確認世界であることが確認されている』

「…マイ、ガッ!」


 頭を抱えてうずくまった。緊張で頬が突っ張り、がしがしと髪を乱暴にかきむしる。きっと鏡を見れば、血の気の引いた自分の顔とご対面できることだろう。裕一は低いうなり声を上げた。

 理由はこの状況において、自分にアイシャ回収の任が回ってくるから、ではない。もっと深刻で、考えたくもない可能性が証拠と結婚式を挙げて舞い戻ってきたのである。おまけに嫁さんのお腹の中にはさらに悪い可能性が宿っているようだ。


「なおりん、これって」

『…まだ、決め付けるのは早計だと思うがな』


 頭の中にあった推論の一つが、具体的な形となって産声を上げた。確定するにはまだ証拠が足りないが、否定できる段階は既に地平の彼方だ。頭を抱えたくなった。それが事実だった場合、必然的にえげつない回答と直結してしまう。


「…なおりん。ライブラリのデータでは、この世界は間違いなく封鎖世界ってなってたよね?」

『間違いない。これは『旗』『大樹』のデータバンクも同様のようだ。でなければ、調査の議題など上がるわけがない』


 情報、情報が足りない。頭に幾本もの槍が突き刺さったような感覚を覚え、裕一は唇をかみ締めた。生ぬるい鉄の味が口内に染み渡り、それを拭うかのように大きな吐息をつく。駄目だ、思考が上手くまわらない。裕一は肺一杯に息を吸い込み、吐き出した。吸い、吐く。吸い、吐く。一連の動作を数度繰り返し、新鮮な酸素を取り込む。ぎこちなく感じるだろうが、それでもどうにか笑みを形作ることに成功した。


「やれやれ。弟と幼馴染を迎えにきただけなのに、いつの間にか調査任務に魔導人形の回収――って、そうだ。アイシャ、回収するんでしょ?」

『…ん? ああ、そうだったな。裕一、統括委員会はアイシャ回収を君に任せることで一致した。彼女を、『征服』に連れ帰って欲しい』

「ん。了解。そろそろ里帰りさせてあげたいしね」


 『旗』の調査人員が来ている以上、機密の塊である彼女を長々と放置はしておけない。ちなみに、機密漏洩を防ぐためアイシャを破壊する、という選択肢ははなから除外されていた。基本的に『征服』は生まれ、種族に関わらず意志あるものは同列に扱うから、魔導人形である彼女にもきちんと人権はある。自分たちにとって機密漏洩とアイシャの死、天秤にかけることすら論外だった。


「ああ、そうそう。それで思い出した。『旗』の調査人員。あれ、詳細分かった?」

『大体はな。人名までは特定できなかったが、おおよその見当はついた。やはり、派遣されたのは十二聖剣のようだ』

「やっぱりねぇ。一人?」

『うむ。派遣員は十二聖剣序列第二位、フェイシュタル=トゥリアウス』

「…フェイシュタル? あれ、確かフェイシュタルは継承者不在で空位だったんじゃなかったっけ?」


 十二聖剣はそれぞれが強力な魔力と意識体を持つ第二級魔導具である。割とありがちなことではあるが、そういった強力な兵装というのは得てして自分で使用者を選ぶことが多い。エクスカリバーみたいに岩から抜けないとか、ともすれば意識を乗っ取られるとか、そういう聖具というか呪いの武具としか思えない事例は枚挙に暇がないほどであった。


『そのはずなんだがな。フェイシュタルは前任者が老齢を理由に退役して以来、適合者が見つかっていないはずなのだが……観測された魔力波動は、間違いなくかの剣のものだった。ライブラリとも照会した。間違いはない』

「ちょ、ちょっと待った。観測? 照会? 何か全力で聞き逃したい単語が目白押しだった気がするんだけど」

『ああ、気のせいではないぞ。十二聖剣の情報を送ってきたのは、他ならぬアイシャだ。『征服』上位権限者がいないので、『平行世界連盟』基準の指揮系統に基づいて同行しているらしい』

「夜更かしは健康の大敵。さあ明日もがんばろー」

『現実逃避しても結果は変わらんと思うがね』

「厄介ごとだ! 絶対にぜえええええったいに厄介ごとだ!」


 再びお耳の蓋が閉じた。なにこれ、嫌がらせ? 機密保持云々いうまえに、とっくの昔に接触されてるってどういうこと? あかん、マジあかんでこれ。このままでは情報封鎖のために『旗』とどんぱち始末書あられ、確実に紙の海で窒息する。真っ白なバベルの塔が崩壊する様が泣きたくなるほど鮮明に思い浮かび、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。


『いやまあ、彼女を解析するためにはそれなりの施設が要るだろうし、そこいらは心配はいらんと思うよ。多分』

「濁した! 今言葉濁したよこの人!」

『ちなみにこれがフェイシュタルのデータだ。もっとも、詳細な情報は載っていないがね』


 今度は話そらした! 問い詰めようとした裕一の脳裏に再度情報の羅列がスクロールした。もごもごと舌で台詞を転がし、忌々しさをかみ締めながら飲み込んだ。外された視線が柳の葉に思えたからである。けっ、とふてくされつつも、送られた情報を確認する。幾つかの実践記録を照会し、実際の効果や攻撃方法を分析しようと――



 ――鼻血が出るかと思った。



「は?」


 最初に出た文字がこれであった。裕一はありとあらゆる苦悶を置いてきたかのような、純粋な驚きを持ってその戦闘記録を再生していた。目を両手でこする。視神経に頼っているわけではないことすら思い浮かばず、何度も何度も瞬きをした、もう一度、は?

 映像の内実は、十六年前のとある事件。使用者は、高齢で引退したという、フェイシュタル前任者だった。刃で線を描くたびに吹き飛ぶ岩やら人やらの涙目は、見ているものにまるで冗談のような光景として写っている。使い手の顔には戦場の高揚も戸惑いも、ましてや愉悦も存在せず、ただただ無表情。逆にそれがたまらなく恐ろしかった。

 もっとも、そんなことは些細なことだ。二年三組の木田武雄君(十七)が柚木に玉砕した挙句その録音を放送部によって全高放送されたくらいに些細な問題であった。延べ六時間に及ぶ告白のポエムが授業中延々と流され続けたことなど心底からどうでもいい。

 その顔は、ひどく鮮烈な記憶を伴って裕一の心に焼きついた。


「君は俺のシナモンあげパン、パン食い競争では誰よりも先にたどり着いて見せるー!」


 自分は今、どうしようもなく混乱している。裕一はマーブルになった思考をかき混ぜながら自覚した。木田武雄君がポエムの中で最も声を張り上げたフレーズを絶叫してしまうくらい頭の中がぐちゃぐちゃになっているようだ。さり気なく矢崎教授が顔を引きつらせているようにも見えたが、そんな光景はすぐに頭の土俵から追い落とされる。


「あせふじこー!」

『ゆ、裕一?』


 あまりにろくでもない現実は、無常にも全ての線をつなげてしまうものであった。嗚呼、嗚呼、わかった。わかっちゃった。十二聖剣がどうやってこの世界にやってきたのか、全ての理由が理解できてしまったのである。


「思い違いだわ、なおりん」


 静かな声で、裕一は矢崎教授を見据えた。彼の眉が跳ね上がる。どこか呆けた気分で、至った結論を口にした。


「ああもう、そういうことだったとは思わんかったよ。どうして気づかなかったかな。つまりは、僕と同じ条件なんだ」

『何だね、どうしたというのだ?』

「そう、そうなんだよ。十二聖剣が調査に派遣されたわけじゃなく、そこにいたから調査になったんだ」


 裕一は思いきり口元を歪ませた。矢崎教授が見ていなければ「うけけけけけ!」と笑いながら踊り狂いたいくらいオツムが沸騰している。幾多の激戦を共に駆け抜けてきた胃が悲痛な呻きを上げた。そう、この記録が正しければ、今アイシャと共にいる十二聖剣は――


「ごめんなおりん、ちょっと急ぎの用事ができたみたいだから切るよ」

『おい、私には何が何だか――』


 回線が遮断し、浮かび上がっていた仮想の窓を折りたたんだ。先ほどのデータから取得したアイシャのアドレスを用いて、現在位置を特定する。回答はすぐさまたたき出された。定期的に更新するよう設定し、裕一は自室の窓を蹴破った。バルコニーに足をかけ、一気に大空へと泳ぎだす。唇が大きく弧を描き、沸き立った笑声が堤防を破壊した。


「くっふふふ…とうとう見つけたぞ、イケメンー!」


 動かない月が、ひどく大きく見えた。




 ☆☆☆




 幸二の引き締まった身体が、小刻みに震えた。白鎧を止める金具がかちゃりと鳴り、隣を歩く柚木は思わず彼の整った顔を覗き込む。真っ青だった。


「風邪か、こー君?」

「い、いや…そういうんじゃないよ」


 さらりと自分の黒髪が肩に流れ、慌てたように幸二は目をそらす。堅牢な岩肌をさらし、草木の衣装がアデトス山脈は肌寒く、あまり健康によろしい場所ではない。柚木は立ち止まり、じっと少年の顔を見つめた。気のせいか前よりも頬がこけ、目の下にどす黒い疲労の色が見え隠れしているようにも思える。馬車の進入すら阻むこの険しい山道を歩むには、いささか不安を隠せなかった。


「いや、かなり顔色も悪い。ここで少し休憩を取ったほうがいいんじゃないか? 彼女のことは私が代わろうじゃないか」

「ほ、本当に大丈夫だから。ええと、ほら、急がないと色々不味いんだろ?」

「だが、君はただでさえ体力を使っているんだから、その分頻繁に休息をとらなければ駄目だ。ライラ、少し休むくらいの余裕はあるんだろう?」


 柚木はこの一行を煽動する娘に目を向けた。褐色の肌にクリーム色のセミロング、ゆったりとしたローブの上からでもわかるメリハリの利いたプロポーションは、さぞや男たちを惑わせ、悶々とした夜へと誘うのであろう。傾国の美女といわれても疑問すらわきあがらぬ容姿の女が、どこか楽しそうにくすりと笑んだ。首を縦に振った拍子に、ちりんと鈴の音が奏でられる。


「うむ、まあ問題なかろ。社は直ぐ傍、先には敵も待ち受けていよう。しばし身を休め、戦いに備えるのも悪くはあるまい」

「だ、そうだぞ?」


 幸二がまだ何かいいたそうにしている。もごもごと口を動かす様に、柚木は小さく嘆息した。モニカからも何かいってやってくれ、と半ば以上説得役を押し付ける意図を持って少し後ろを歩いていた少女に視線をやった。


 見なければよかった。


 珍しく柚木は心底から後悔する。可能ならば神速で顔をそらしたかったが、生憎と首の筋肉は絶賛ストライキの真っ最中であるらしかった。まったく動かない。つっと、こめかみから冷たいものが流れる。

 凄まじく凶悪な目つきをした女神が、そこにいた。口元は引きつり、閉じられた握りこぶしからはひたすら不安を煽るくらい力が込められているようだ。般若。まさに悪鬼羅刹を体現したような空気が柚木の根源的恐怖心を山火事のごとく燃え上がらせた。顔立ちが整っている人間の怒り顔は、もの凄く怖い。後ずさらなかった自分をなでなでしてあげたい気になった。


「…モニカ? 何かあったのか?」

「……これといって何もありませんよ、ユズキ様?」


 にこりと微笑む様はまさに女神、しかし目だけが不動明王である。美麗の女、ライラ=ドラコラスの笑みが深まった。嘘だ。何も無いわけがない。柚木が力なく苦笑すると、鬼の面を被った少女は鋭い視線を幸二に――正しくはその背中にいるものへと突き立てる。


「……アイシャさん。いい加減、ご自分で歩かれたらどうなのです?」


 もそりと、幸二の背が蠢いた。べったりと鎧に張り付き、少年の右肩に顎を乗せている存在はモニカの詰問じみた――実際詰問である――を耳に入れ、しかし何の反応も示さずただ身じろぎする。しばし沈黙が幅を利かせ、その後規則正しい呼吸音が帳を破り去った。


「……モニカ、多分聞いてないと思うよ?」


 幸二が顎の乗っていない方の肩越しに苦笑した。そして慌てたようにさっと目をそらす。少女の唇がびきびきと引きつったのを目撃したようだ。モニカは強張った笑顔を顔に貼り付けて、幸二の荷物に対し思い切り、「アイシャさん!」と絶叫した。


「…………何?」


 もぞりと、荷物が動いた。栗色のツインテールに、全身黒尽くめのワンピース、十二、三歳ほどにしか見えない少女が、とろんとした眼差しで場を睥睨した。一瞬だけ柚木を撫でたその眼に、ほんのわずかだけ背筋に緊張が走る。小ぶりな鼻に、薄い唇、人形じみておよそ人とは思えないほどの美貌に、心が過敏に反応したのだ。気だるげというか、眠たげな顔はただひたすらに可愛らしく、自分の母や神崎の母殿が見ればたちまち飛びついて、しばらく離そうとはしないだろう。幼い娘、アイシャは数度瞬きをすると、再び夢の彼方への旅立ちを試みた。だが、それはモニカという名の関所によって阻まれてしまう。


「いくらコウジ様でも、ずっと背負いっぱなしでは疲れてしまいます! たまにはご自分で歩いてください!」

「眠いから、いや」


 ぷい、とそっぽを向いた。眉すら動かさず、一切の感情を覗かせない様は、まさに人形である。モニカから恐ろしいほどの威圧感が発せられた。直接当てられているわけではないが、密着している幸二からざっと血の気が引いていくのがとても哀れである。


「眠いって、貴方千年以上寝ていて、しかも目覚めてからも殆ど夢の中じゃないですか! しかもその間、ずっとコウジ様に背負われて! ずるいです!」

「人間は二十三時間五十九分寝ないと死んじゃう。でも、私は高性能だから二十三時間五十八分五十九秒ですむ。画期的」

「…え、ええと。時間…? 分…ですか?」


 分刻みの時間概念のないモニカが戸惑ったように勢いを弱めた。しかし何気に本音が混じっていた気もするが、淑女のたしなみとして聞き流しておくことにする。ちらりと幸二を盗み見たが、彼は王女の言葉をよく吟味していなかったのか、これといって表情に変化はなかった。鈍感め。


「要するに、ほぼ丸一日寝ていないと死んでしまうといいたいらしい」

「そ、そんな訳ないじゃないですか!」


 柚木の助け舟に、再び闘争心の火がともった。幸二がそれはそれは恨みがましい目でこちらを見ていたので爽やかに笑ってみた。少年の顔は、とても悲しそうに下を向く。


「寝るのは健康の証。それができないから、モニカはしわが増える。おばん」

「し、しわなんかありません! お、おば、おばんって」


 もはやこの騒動は止まりそうもない。柚木はそこら辺の岩に腰を下ろして、少しはなれた場所から彼女たちのじゃれ合いを見学することにした。ふわりとなびいた亜麻色の髪が、自分の胸元に波打った。ライラが同じく腰を下ろして、楽しそうに幸二らを眺めている。


「賑やかなのは、良いことだの」

「賑やか過ぎるというものだよ、君」


 だが、悪くない。くすりと微笑み、柚木は肌寒い山脈の空を見渡した。透き通るほどの青色は、まばらな雲で味付けをされている。冷たいはずの風は、しかしどこか清涼さをもって岩の肌を撫でていった。寒いはずなのに、何だか気持ちいい。


「うん、竜族がここを気に入ったのも、分かる気がするよ」


 ライラは顔を綻ばせただけで何も答えなかった。とうとう実力行使に至ったモニカがアイシャを引き剥がそうと躍起になっている。幸二はもはや全てを諦めたようで、世をはかなんだ詩人を思わせる空気を纏っていた。

 つい数日前に出会ったばかりなのに、皆とても仲がいい。気を利かせてくれたのか、ライラが水筒を差し出してくれた。それを口に含みながら、ふと思い出す。彼女たちとであったあの日は、もっとじめじめとして薄暗かったな、と。



次からしばらく勇者編です。時系列、もどーせー。

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