二十七話 女の子の部屋と書いて聖域と読む
テテラシア邸を後にしたヒューレリクトが真っ先に対面したものは、ぐったりと力なく座り込む飼い犬と魔術師の姿だった。正確には、お犬の毛皮に無理やり顔をうずめてすすり泣く少年と、それはそれは嫌そうに身をよじる犬である。
「な、何が…」
「いいんだ、いいんだー。どうせ僕なんて…」
ばう、とハヤガミが助けを懇願するかのようにヒューレリクトを見つめてきた。関わりたくない。本能が悲鳴の大合唱を上げたが、何だか地味に親友の危機っぽい気がするので放っておくわけにもいかなかった。笑みが強張るのを自覚しながらも、もふもふの中で泣く裕一の肩に手を置く。涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔がわずかに上向いた。
「おやヒュー君。もうお話終わったの?」
「くくく、そんな状態でナチュラルに挨拶されるとは思わなかったよ」
ヒューレリクトを認めた裕一は懐から布を取り出し、顔を拭く。わずか一秒で、涙さんはその痕跡すらこの世から抹消されてしまった。にへ、と緩みまくった笑みでハヤガミのもふもふに頬をこすりつける。
「…で、何を泣いていたんだい?」
「奥さんにね、騒ぐならとっとと死ねっていわれた」
「…君、結婚していたのかい?」
「してたとも」
ラブラブですぜぃ、と笑う少年の顔を見て、思わず戦慄にも似た好奇心の津波に襲われた。彼と添い遂げるなど、常人にできる行いとは思えない。どのような女性なのかと聞こうとして、しかし尋常ならざる恐怖心が決死の堤防でヒューレリクトの蛮行を阻害してしまった。舌が空回り、思考とは全く係わり合いのない言葉が空気を震わせることとなった。
「…くくく。話を戻すと、相談事は終わったよ」
「そう。じゃあ、どうするかも決めたりとかした?」
「…うん。僕は、君に雇われようと思う」
裕一の瞳がまん丸になった。いいの、と不思議そうに尋ねる。拉致までして勧誘していたとは思えない謙虚さに苦笑し、ヒューレリクトは大きく顔を縦に振った。
「ちゃんと考えて出した結論だからね。僕を、君の商会に加えてほしい」
ばう、とハヤガミが何かいいたそうに裕一を見つめた。その視線に頷き、彼はぱっと立ち上がって手を差し出した。「握手ね」と呟き、顔を綻ばせる。ヒューレリクトはその手をとって、軽く力を入れた。何だか無性に懐かしさがこみ上げる。
「よし人材ゲトー! これでお塩のうっはうは」
「…くくく。それはいいけど、肝心の専売許可はどうするんだい? 塩があっても、売れなければどうしようもないよ」
「ふふふ、心配無用。お兄さんにまかせなさい!」
裕一は夜空を眺め、しばらく前に太陽が身を隠した方向に目をやった。城壁や建物に囲まれているため地平の彼方まで見渡すことはできないが、先ほどまであった赤みはもうその身を隠しているようだ。どうしたのかと彼の顔を見てみると、魔術師の少年はにやりと唇を釣りあがらせた。まだ寝るのには早いよね。呟かれた言葉を耳にした瞬間、何故か非常に嫌な予感がした。否、予感ではない。確信である。
☆☆☆
「というわけで、専売許可おくれ」
「…何が『というわけ』じゃ」
寝間着を身に纏った姫皇は、ろくでもないタイミングで寝所へ乱入したこの無礼者たちに向かって大きな溜息を吐いた。一人で寝るには些か大きすぎる天蓋付きベッドに腰掛けて、手近なソファに座った二人と一匹に相対する。腕を組み、もう一度嘆息した。
はっきりいって、全く状況が飲み込めていなかった。姫皇が湯浴みを終え、さあ寝ようと寝所に入った瞬間に窓をぶち破って転がり込んできた近衛魔術師は、見覚えのない黒ローブの少年と大きな犬を両脇に抱えてけらけら笑うのみでその話もいまいち要領を得ない。何せ第一声が先ほどの「というわけで」で続く台詞だったのである。これで全てを理解しろというのは、あまりにも酷だと姫皇は思った。
ふと、フードの陰で顔は確認できないものの、どうやら笑っているらしい少年の視線を感じた。首を動かすと、彼の金髪からかすかにのぞく瞳と合致する。姫皇は大きな親近感を持った。少年の眼差しは状況に流されきったもののそれだったからである。
「…ねえ、裕一」
「なあに、ヒュー君」
「…ここ、どこ?」
「怪しげな武器庫」
おい、と姫皇は思わず抗議の声をあげた。仮にも一国の元首の私室を武器庫呼ばわりとはどういう了見であろうか。こめかみと頬が同時に引きつった。ふん、と鼻を鳴らし、自分の整えられた私室を見回す。
だいたいである。確かに壁一面に剣、槍、弓矢、兜、鎧、盾と各種魔装具が隙間なく飾られているが、この天上の甘露のごとき美しき芸術品の数々を目の当たりにして武器庫などという無骨な表現をするとは何事だ。名工が不眠不休で施してもなお真似できないであろう装飾が、この男には分からないのだろうか。せめて美術館くらいの表現はしてくれないと、彼の感性を疑ってしまいそうであった。
「だそうだけど?」
「…くくく、いや、色々と突っ込みどころ満載だったけど、僕がいいたいのはそういうことじゃなくて」
「じゃあ、聖域、いたいけな美少女のお部屋。男の子にとっては憧れの領域ってやつだね?」
「…そういう意味でもないんだけど――ていうか、憧れるものでもないような」
「何をいうかこの馬鹿ちんがああああああああ!」
唐突に裕一が虚空から取り出した円いテーブル――にしてはやけに足が短い――を思い切り宙へと放り出した。今更驚きはしないが、一体どこから出したのだろうか。ヒューと呼ばれた少年の目前で絨毯にたたきつけられた卓が勢いを殺しきれずに横に転がっていった。染み一つない壁にぶつかり、ぱたりと四足を天上に向ける形で横転する。
「美少女のお部屋だよ、美少女の!? 気になるあの娘のプルァイヴェィト! いつもこの時間、何をしているのかな? 何を読んでいるのかな? 嗚呼、彼女の寝ているベッド、どんな香りがするんだろう? 思春期男子ならば一度は想像する妄想と情欲の結晶ともいうべき私室に入り込んで、その反応はどゆことよ!? それともあれか!? 既に数々の美少女のお部屋に忍び込んで、タンスの下着舐めたり食べたり被ったりとかしちゃってるとでもいう気かこの変態仲間が!」
「凄まじくよくわからない暴論なんだけど!? あと僕そんなことしてないから!」
「だまりゃあ! タンスの下着は夢一杯のワンダーランド! それに興味がないなど男といえようか、否いえまい! どう思われますか、オルガ殿!」
「全くもってその通りにございます、裕一様。特に姫様はここ最近、花柄をあしらったものをよくお召しになりますゆえ、着替え入れはまさに満開の花畑といえるでしょう。貴方様も、一度埋もれてみればきっとその素晴らしさがわかるはずですとも」
「…………ちょっと待て」
何か今、聞こえてはいけない声と内容を耳に入れた気がするのだが。姫皇はおそるおそる、熱弁を振るうあまり立ち上がった魔術師の隣を凝視した。ぱりっとした黒地の家令服に、後に撫で付けられた髪、夜中だというのにだらけたそぶりも見せない初老の男が、気持ちのいいほど背筋を伸ばして控えている光景がまざまざと映し出される。姫皇は突如として頭に侵攻を開始した鈍痛に防衛戦を展開しつつ、引きつった舌をどうにか動かすことに成功した。
「……………………………爺、何故、ここにおる?」
「姫様あるところにオルガあり。わたくしの護衛任務は年中無休にございます」
「………………………どこから、入った?」
「あそこからでございますが?」
オルガはそれはそれは爽やかな笑顔で天井の隅っこを指差した。華美な意匠が施された天井板の一つが、不自然な形で横にずれて空虚な隙間を生み出している。目じりが思い切り引きつった。それでも理性を総動員して、決死の抑制を行う。
「……………まさかとは思うが、お主。ずっとあそこにいたのでは、あるまいな?」
「無論、おりましたとも! 姫様の御身をお守りするためにこのオルガ、天井裏に待機し万難を排してお傍にお仕えしておりました!」
「死ねこの変態がぁ!」
ばねのように勢いよく立ち上がった姫皇は、抱き枕用に傍に置いておいた魔槍を変態紳士に向けて振りかざした。忌々しき敵はあまりにも鮮やかな身体さばきでそれをかわし、心外といわんばかりに眉を顰めた。
「何をおっしゃられますか、姫様。天地神明に誓ってわたくし、日差しの下を歩けぬような行いをした覚えはありませんぞ!」
「やかましい! 乙女の部屋を監視していた段階で死刑確定じゃ! だいたいじゃな、このような時間に男が余の私室にいること自体がもうおかしいと思わんのか!? ここに入ることを許される男は、家族か背の君以外にはおらんのじゃぞ!?」
こんなところを誰かに見られたらどう言い訳するのか。見つかればいかに大貴族、魔術師といえど極刑は免れないし、自分の純潔を疑われるようなことになれば帝国の、皇帝家の威信に関わる。なのに。どれほどの綱渡り的状況か理解していないはずがないにも関わらず、この阿呆どもはへらへらと気のない笑みを浮かべてばかりだ。姫皇は大きく肩を落とし、握った槍をベッドに戻した。何かこう、どっと疲れたのである。
「………もう、よいわ」
「………あの、いいですか?」
おずおずと、黒ローブが右手を上げて呟いた。これほどまでのカオス空間でいまだ笑っていられる胆力に感嘆して、姫皇は乾いた笑声で肯定した。何じゃ、という言葉に力を得たのか、少年はこくりと一度頷き、裕一に顔を戻した。
「…くく、ねえ、一応、念のため、不正解を前提として聞きたいんだけど」
「何ざんしょ?」
「こちらの方って、えっと、その…………もしかして………………………………姫皇、陛下――いやいや、そんなわけないよね。平民の僕が、そんな雲の上の人と会ってるとか、馬鹿みたいな話は――」
「うん、普通に皇帝さんだけど」
氷結魔術を使用したかのように、ヒューが音を立てて凍りついた。ぱくぱくと酸素不足の魚のように口を動かし、かと思うと幽鬼を思わせる動作で立ち上がる。彼はそのまま、定まらぬ歩調で姫皇の私室をうろつきまわり――粉砕された窓から天に身を投げ出した。
「ってちょっと待てええええええええ!」
慌てて裕一が彼のローブを掴み、同じく裾の部分に噛み付いた犬と共に少年の身体を引っ張り戻す。
「お犬様、マウントポジション!」
「ばうっ!」
手足をじたばたさせる少年の上に犬がのしかかった。「無理……色々と無理…!」「御寝所侵入なんて、一族郎党皆殺し……!」などという呟きがかすれながらも耳に届く。一連の流れから完全に置いてきぼりにされた姫皇は、唖然として少年の恐慌を見つめた。裕一が本気で冷や汗を流しながら落ち着くよう言葉を紡いでいる。犬のほうは全身の毛を逆立たせていた。
「だ、大丈夫大丈夫。姫皇様はこんなことで屍山血河を築くような人じゃないから。ね、姫皇様!?」
「ん? あ、うむ。まあ、そうじゃの」
必死さがにじみ出るかのような裕一の形相に思わず頷いてしまった。落ち着いて考えると少々軽率だった気もするが、まあいいかとも思う。別に法に違反しているわけではないし、慣例や体面の問題であるのなら、わりとばれなきゃ平気なものである。一度頷いた後、姫皇はもう一度首を縦に振った。その甲斐あってか、ヒュー少年はよろよろと身を起こし始めた。犬が身体の上から移動する。
「お水でも飲まれますか?」
オルガが差し出した冷水の入ったコップを有難そうに受け取ると、彼はちびりちびりと舐めるように頬を動かし始めた。その光景を眺め、忠臣は穏やかに顔を綻ばせた。姫皇は片眉がわずかに跳ね上がるのを感じた。が、それを言葉に表す前に、にじんだ汗を拭う魔術師が安堵の息を吐く。
「やー、いきなり投身自殺されて、どうしようかと思ったよ。危ない危ない」
「どう考えてもお主が根本原因じゃと思うのじゃがな。連れてくる前に事前説明をせんかったのか?」
「いやいや、急いでたもんでつい」
「ほう。で、本音は?」
「いわないほうが面白そうだったから」
素晴らしく邪気のない笑顔でそうのたまった。悪びれるどころかむしろ面白くなったという心情を隠そうともしないこの少年を、どう料理してやろうかと姫皇が頭を悩ませた矢先、ぬっと黒っぽい何かが裕一の首筋に絡みついた。
「そういうことは………ッ! 早く………………ッ! いってほしかったなぁ………………ッ!」
「ちょ、ヒューく………首、絞まる………ぎぶぎぶ…!」
引きつった笑顔で首を絞める少年とは、端から見ると恐怖というよりもシュールに見える。あるいは弛緩しきってしまった空気がそう見せるのだろうか。涙のにじんだ瞳で助けを求める裕一に満面の笑みを返し、姫皇はそう思った。「裏切ったな!」と視線に悲痛の色が混じったようにも見えるが、きっと気のせいであろう。
姫皇は一度大きく肺に空気を入れ、ぽすんとベッドの縁に腰を落ち着けた。ちろりと首を絞め続ける黒ローブに目をやり、小首を傾げる。
「お主、名は何という?」
「え? あ………ヒューレリクト=バナウと申し、ます」
「ここは謁見の間ではないのじゃから、そう硬くならずとも良い。…ヒューレリクトよ、我が近衛魔術師が無礼、代わって謝罪しよう。すまなかったの」
「…………君、近衛魔術師だったのかい? …皇帝陛下直属の?」
「げほ、げほ…。あれ、いってなかった?」
「………………聞いてなかった」
「ちょ、やめ、また首を……らめぇ、決まっちゃってる………!」
ヒューレリクトの頬が思い切り引きつった。手のひらに込められているであろう力は、裕一の顔が土気色へと変じ始めたことからも十二分に伝わってくる。常人ならちょっと不味いと止めに入るのだが、この歩く非常識ならば殺しても死なないだろう。ゴキブリとはどれほど尽力しても人間にはどうしようもない生き物なのであった。
「……くくく、今度からは、きちんと話を通してよ?」
「う、ういむっしゅう」
ある程度気が済んだのか、ヒューレリクトが掴んだ獲物を開放した。咳き込みながらも肯定――だろう、多分――の返事を返し、裕一は空気を取り込むべく深呼吸を開始した。ややあって、真っ赤な痣のできた首筋を両手で撫でる。
「ああ、死ぬかと思った………」
「くく、君がこの程度で死ぬわけないだろう?」
「そんなわけないでしょ。人間、首絞められたら死ぬに決まってるよ」
恨みがましくヒューレリクトを見やる魔術師だが、その顔にはさほど怒りも込められていなかった。姫皇は思わず苦笑する。男同士のじゃれあいとは、よくわからないものであった。
「さて、ユーモア溢れる喜劇も終わったところで、こんな時間に押しかけてきた理由を聞きたいのじゃが?」
「お茶をお入れいたしましょうか?」
オルガの申し入れに、しかし裕一は軽く首を振った。そんなに時間のかかるものでもないらしい。相変わらず不可思議な衣服を整えて、姫皇と対面になるよう異動させたソファに腰を下ろす。ヒューレリクトもそれに続いた。
「さっきもいった通り、塩の専売権がほしいの。ちょっくら商売をば始めたいと思ってるから」
「…塩の商売じゃと? どういうことじゃ?」
姫皇は裕一が語り始めた内容に耳を傾けた。塩の新精製法と供給量の上昇。実質上の最高責任者としてヒューレリクトを置く旨等々を聞き、姫皇は軽く嘆息した。全く。よくもまあぽんぽんと知識が出てくるものだと素直に感心する。文明と技術の差とは、かくのごとき無慈悲なものなのだろうか。ほんのりと苦笑した。
「なるほど。事情は理解した。そういうことならば、余としても許可を取るのに否やはない。じゃが――それだけか?」
「んー、何が?」
とぼけるように、裕一は頭の後で腕を組んだ。顔を明後日の方に向けているが、口元がにやついていることを隠していない。姫皇もまた、唇の端を吊り上げた。
「…そうじゃな。即金で金貨千枚。今のところこれが限度じゃ。のう、爺?」
「はい、ですがこれまでの節約分を合わせると、もう五百枚上乗せは可能かと」
何もいわずとも、オルガは全てを心得たかのように頷いた。その仕事振りに満足し、姫皇はさっと皇室費の収支報告書を脳裏に展開した。交際費その他を自粛すれば、後々さらなる増額が見込めるはずだ。こくりと頷く。それで十分だった。
「さすが姫皇様、お話が早くて助かるよ」
「ま、お主の考えそうなことじゃしの。ついでじゃし、いっておこうか。
――裕一、思い切り、やってよいぞ」
「ふっふっふ、さすがは皇帝陛下。悪ですのぅ…」
「ふん、お主ほどではないわ」
不気味な笑いあいに、犬がひどく気まずそうに距離を開けた。きょとんと笑っていたヒューレリクトもそれに追随するかのように犬の傍に拠る。その一人と一匹の反応は、見たくないものを見てしまったといわんばかりのものだった。思わず苦笑する。
オルガにすぐさま金を用意するよういいつけ、姫皇は明日の大蔵大臣説得の文案を構築すべく、思考の海へと埋没した。この試みが成功すれば、色々なことで優位に立つことができる。頬の緩みは、止められそうになかった。