二十六話 痛いのは嫌です
日の落ちた帝都は薄暗く、街全体を巡る水路の囁きのみが闊歩していた。繁華街や夜の楽しみを扱う店はなお明ける事のない喧騒に包まれているものの、住宅地や街路といったものは涼やかな月光が降り注いでいるだけである。石畳に靴をゆだねると、ヒューレリクトは心から安堵の吐息を漏らした。地の不動がこれほど頼もしく感じたことは今までの人生ではじめてである。
「慣れれば楽しいと思うけど」
「くくく……自分で制御できればそう思うかもね」
涙も枯れきってしまった三半規管が尻餅をついた。ともすれば玄関口から出て行きそうな胃の内容物を押し留め、それでも地を踏みしめて立ち上がる。天頂の月はその身をわずかに欠けさせているが、それでもどうにか歩くことのできる光量を保っていた。ヒューレリクトは直ぐ目前に佇む、屋敷といえなくもない建物に足を向けた。歩調が定まらないのは愛嬌と受取ってもらえるととても嬉しい。
「…ねえヒュー君。別に急いで結論出さなくてもいいよ? またーりが僕の基本律だし」
「…いや、今決めたい。今じゃないと、踏ん切りがつかなくなりそうだから」
どこか困ったように裕一は微笑んだ。君がそれでいいなら、と館の正門でハヤガミと共に立ち止まる。訝しげに思ったヒューレリクトが同行を促すと、しかし彼は首を振った。
「いやいや、僕はここで月光浴でもして待ってるよ。込み入った話もあるんでしょ?」
「…くく、でも、いくら帝都とはいえ夜中に一人で出歩くのはどうかと思うよ?」
帝都騎士団のお膝元である以上一定の治安は期待できるものの、夜闇の街というのは常に危険をはらんでいるものだ。人が集まれば、それだけ揉め事の種もばら撒かれる。魔術師という絶対的強者であろうと、彼が無用の混乱に巻き込まれるのを見過ごしたくなかった。
「心配御無用。どうやら、そちらのお犬様が護衛をかって出てくれるそうだからね」
お座りの姿勢で裕一を睨んでいるハヤガミが、ばうと吼えた。それはまかせろといっているようでもあり、護衛という表現を心底嫌がっているようでもあった。ヒューレリクトは困惑の笑いを漏らす。
「ほれ、いったいった。早く行けばそれだけ用事も早く終わるよ」
「…くくく、わかった」
ひらひらと手を振る少年に目礼し、ヒューレリクトは木造の重厚な扉を三度叩いた。ややあって、くぐもった応答の声が耳を打つ。内側から金属の仕掛けが解除の歌を鳴らした。
「はい、どちら様でしょう――まあ、ヒューレリクト」
両開きの扉から姿を現したのは、深いしわの刻まれた柔和な笑みであった。六十を越える年配の婦人は、自分の肩を持って屋敷へと招き入れる。少々年季が入っているものの、よく手入れされた調度品の数々がヒューレリクトの目を包んだ。くすんだ赤い絨毯と、鏡のような輝きを放つ銀の皿、花を描いた絵画は婦人自慢の一品である。間違ってもこの館の主の趣味ではない。こんなハイセンスが彼にあるとは到底思えなかった。
「久しぶりね。最近は来てくれなくて、ちょっと寂しかったのよ」
「くくく……すみません。色々とあったものですから」
「…そうよね。お仕事も、忙しいでしょうからね」
老婦人の笑みがわずかに翳った。その中に自分をいたわるような色を見て、ヒューレリクトは笑みに苦笑のスパイスを混ぜた。彼女が遠慮がちに発した「お仕事」の響きが、いいようもない諦観を宿しているように感じられたからである。
「さ、どうぞ。今お茶を淹れるわね」
ヒューレリクトが通されたのは、応接間ではなくこの家の住人が多用する食卓の席だった。既に食事は終わっているのか、テーブルクロスは片付けられ卓は艶やかな木目の地肌をさらけ出していた。がちゃりと、食器が触れ合うにはいささか乱暴な音が耳を打った。食卓の一席を満たす人物がカップをソーサーに落としたのである。彼が一言を発する前に、ヒューレリクトは腰を折って一礼した。
「…お久しぶりです、ココラ老」
「…だ、誰だい?」
男の声と共に、無残な焼け野原と化した頭の平原がぷるぷると震えた。枝のような腕が顔を抱えるように伸ばされ、がたがたと椅子を揺らす。腰を浮かそうとしているようだが、とっさの判断ゆえ身体が言うことを聞いていないらしい。深いしわの刻まれた顔は、数年前に見たときと一寸たりともかわらず、どこか怯えた表情を形作っていた。
彼こそがココラ=テテラシア老、かつてフロバリー商会でアストラ湖を担当しその商業手腕で名を知らしめた、小動物の心臓を持つ豪商であった。
「くくく、お忘れですか? ヒューレリクトですよ」
「…ひゅ、ヒューレリクト? え、本当に? そんなこといって、わしを殺しにきた暗殺者とかいう落ちじゃないよね?」
やっとのことで立ち上がったココラ老は、椅子の陰に隠れるように腰を落とした。顔だけ出してこちらを伺う様子は、親に叱られるのを恐れる子供のように見えた。ヒューレリクトは心からの苦笑を表に吐き出す。
「…本当にヒューレリクトです」
「ほ、本当の本当に? そんなこといって、近所のマイラさんに雇われた強盗とかなんでしょう。そう、そうに決まってるんだ…」
「いえ、本当の本当にヒューレリクトです」
「嘘だ。強盗じゃないなら、きっとわしを天に召しに来た死神なんだ。いやだよ、わしまだ死にたくない」
「…本当の本当の本当にヒューレリクトですから」
「だまされないよ。大体、ヒューレリクトがこんな死にぞこないの半ミイラに興味を示すはずないじゃないか。だから君はきっとわしの遺産を狙う隠し子の振りした演技屋なんだ」
相変わらずすぎて、肩から力が抜け落ちた。ヒューレリクトはとうとう耳を塞いでしまった老人を見て溜息を吐いた。この老人は昔からネガティブ思考というか、骨の髄まで悲観主義に染まっていて、何をいっても自分の都合の悪い方向でしか見ないのである。すると必然的にこの老体と会話するためには幾つかのスキルが必須となってくるのだが、ココラ老が商会を退いて数年、このブランクはヒューレリクトにそれを使用させることをためらわせていた。
どうしたものか。肩をすくめると、自然と乾いた笑声が口から漏れ出した。椅子の後でぷるぷる震える老人と含み笑う黒尽くめローブ。第三者から見れば、さぞやシュールな光景であろう。何だか泣きたくなった。
「お待たせしてごめんなさいね、ヒューレリクト。今お茶を――あら?」
そうこうしているうちに、茶器をのせた盆を抱えてテテラシア婦人が帰参を果たした。彼女は盆をテーブルに置くと、困ったように手のひらを頬に当てた。あらあら、と夫の惨状を見下ろし、苦笑する。
「まあまあ、おじいさんたら。いつもこうなんだから。ごめんなさいね、ヒューレリクト。ちょっと待ってもらえるかしら?」
「…くく、はい」
ありがとう。婦人は微笑み、夫の直ぐ傍まで歩むとその細指を失われた枯れ山にやんわりと添えた。そしてあまりにもたおやかな動作で、五指を骨のきしむ音を纏わせて輝く肌に食い込ませた。
「ぐおおおおおおおお! ば、ばあさん、痛、痛い、てか死、死ぃ!」
「おじいさん。この子は間違いなくヒューレリクトですよ? まさか顔を忘れたなんていいませんわよね?」
「お、覚えてる、覚えてるから! やめ、ちょ、わし、お迎えが来ちゃう……」
「本当にわかりましたか?」
「わか……わかりまし、た…」
ぱっと輝く光山が開放された。つるつるの表面に刻み込まれている真っ赤どころか青黒い五本の筋は痛々しくてたまらない。どれだけ力を込めればああなるのだろうか。ヒューレリクトは若干及び腰になりながらも、立ち上がった老人に礼をとった。
「では改めて。お久しぶりです、ココラ老。ご壮健で何より」
「き、君も元気そうだね、ヒューレリクト。でもできれば助けてほしかったな」
「くくく、無理です」
この老爺と会話する方法、それは拳での語り合い出会った。つまり鉄拳制裁、俺の思いをこの手に乗せる。肉弾音に込められた意思でもって、封鎖されている彼の聞く耳を強制的に開かせるという技であった。かつて老体がフロバリーにいたときは、常に血とうめき声の狂乱がココラ老の全身に降りかかっていたものである。夜見るとホラーであった。
「まあいいや。でも本当、久しぶりだよね。わしが止めてから会う機会も少なくなってたし。あ、立ってないで座って座って」
促されるように、ヒューレリクトはココラ老と相対する形で席についた。鼻腔をくすぐる甘い芳香が水蒸気と共に漂った。婦人の入れてくれたジャム入りの茶を一口含み、ほっと息をつく。
「それで、今日はどうしたんだい? わしにできることならある程度は力になれると思うけど」
「くくく……実は少し、ご相談があって」
ヒューレリクトはぽつりぽつりと、ここ数日の出来事を話し始めた。商会を解雇された部分に達するとテテラシア夫妻の顔が強張ったものの、異論を差し挟むことなく最後まで耳を傾けてくれた。裕一と名乗る魔術師の話、彼による総合商会と手始めに岩塩と呼ばれる未知の採塩方法、その全てを打ち明けると、暖かさを逃がしてしまった茶を傾ける。わずかに身にかかる疲労を息と共に吐き出した。
「…そうか。君も解雇されちゃったんだね」
「先代の信頼厚かった貴方まで辞めさせられるなんて…」
老夫婦は神妙な顔つきで肩を落とした。話す前に比べてどっと老け込んで見えたのは、おそらく気のせいではあるまい。おそらく、ヒューレリクト自身のことも憂慮してくれているのだろうが、最大の関心事はフロバリー商会のことだろう。形の違いこそ在れ、この二人はその長い人生を商会繁栄のために捧げてきた。彼らの心情は、年若い自分では決して推し量れぬものが渦巻いているはずだ。ヒューレリクトはわずかにうつむくことで、老夫婦を視界から外した。
「…なるほど。話は分かったよ。要するに、君はその魔術師様からの申し入れを受け入れるべきか悩んでいるんだね? …いや、ちょっと違うかな。受ける受けない以前に、受けていいのか決められないのかな」
「…はい」
「それは先代とフロバリーのことを気にして、ということだね?」
ヒューレリクトは彼にしては珍しく、笑みを消して頷いた。裕一の話を聞いてから、ずっと胸に残っているしこりを吐き出せて、幾分か気持ちが落ち着いたような気もする。かの魔術師からの提案を受け入れたいという思いが自分の中でくすぶっていることは、漠然とだが自覚していた。けれど、その焔に手をかざすたびに、バウル会長のふくよかな腹が頭をよぎるのだ。
裕一の商売が軌道に乗れば、間違いなく現在の塩相場は根底から崩壊する。そのひと時の混乱を、現在のフロバリー商会が乗り切れるのかヒューレリクトには自身がなかった。もしもこれによって商会が倒産するようなことになったら、自分は恩をあだで返すことになってしまう。それは、嫌だった。
「…ヒューレリクト。貴方は真面目ね。自分を捨てた人たちのことをそこまで考えるなんて」
「…いえ、現会長のことは関係ありません。僕がお世話になったのは、先代ですから。だから悩みます。これは先代を裏切ることになるのではないか、と」
婦人の微苦笑に苦笑を返し、ヒューレリクトは上体をほんの少しだけ背もたれに預けた。礼を失さぬよう気をつけながら、体重をかけるように背筋を伸ばす。
「それがこの子のいいところだとわしは思うけどね。でもまあ、確かに。そこまで気にする必要はないと思うな。極端なことをいってしまえば、君の行動によってフロバリーがつぶれるようなことになっても、その全責任は向こうにあるわけだから」
「…ですが」
頭では理解している。だが、感情の方が追いついていなかった。ヒューレリクトにとって先代は父親であり、商会は家族なのだ。そんな彼らを、自分の行動で死に追いやるのはどうしても納得ができない。
そんな自分の様子を、ココラ老は真っ直ぐ見詰めていた。しばし何かを逡巡するかのように彼は夫人を見つめる。静かな頷きが婦人より返された。老人もまた、首を縦にふる。
「…ねえヒューレリクト。わしもね、随分と長い間フロバリーに務めていたよ。だから、君の気持ちは痛いほどよくわかる。でもね、わしと君じゃ違うの。わしは、わしとばあさんはもう老い先短くて、正直いつお迎えが来てもおかしくない。だから先代に、フロバリーに殉じるという選択をとった。けど、君はまだあまりにも若い。これから長い長い人生を、どれだけ苦しんでも歩まなきゃいけないんだよ?
――だから、わしは年長者として、かつて共にフロバリーを支えたものとして、君にいわなくちゃいけない。ヒューレリクト、あそこはもう、わしらの商会じゃないんだ」
ヒューレリクトは何をいわれたのか、とっさに判断できかねた。じっとココラ老の瞳を見つめる。そこには普段の怯えや恐怖心といったものが多分に含まれていたが、それ以上に輝きを放つ意志力が一際力強く瞬いていた。一緒に働いてそれなりになるが、このような姿はついぞ見たことがない。
「『王とは世界そのものである』かつてどこかの賢人が残した言葉だけど、わしはこれは一面の真実を捉えていると思ってるよ。王、すなわち指導者による施政は世界であり、その交代はまさに歴史の転換期を意味する。年号なんて比じゃないよ、文字通り、王の交代はその国を、世界が変わるということなんだから。簡単にいうと、国は王が死んだその瞬間からまったく別のものへと変化する。それまで培ってきた歴史も、伝統も、王という存在が交代することでその連続性を失うんだ。入れ物は同じ、でも中身が決定的に違う物になる。
――何がいいたいかは、わかるよね?
わしらのフロバリー商会も同じことなんだよ。わしがいて、君がいて、バウルがいる、そんなかつてのフロバリーは、バウルと共に天へと旅立ってしまったんだ。今あるのは、名は同じでも全くの別物。偽者でも、本物でもない。別物なんだよね。だから」
だから、今のフロバリーに君が捨てられたというのなら。もう君が心を割く必要はない。ココラ老はどこか寂しげに微笑んだ。しわに包まれた瞳が、一瞬だけその虹彩を隠す。瞼の裏に何が移っているのか。残念ながらヒューレリクトには知ることができなかった。同時に、何か苦いものが口の中全体に広がっていくような気分が襲い掛かってきた。
「…ねえばあさん。わしのいいたいこと。伝わってるよね? 今日の飯はまだか、みたいな風には受取られてないよね?」
「大丈夫ですよ、おじいさん。ヒューレリクトはおじいさんと違って賢い子ですから、きちんと理解していますとも」
「本当に? わし、ヒューレリクトにボケ老人扱いされるのは嫌なんだけど。本当に伝わったんだよね?」
「ええもちろん。ちゃんと伝わりましたから。それ以上疑問を持つと頭がトマトみたいになりますよ?」
「よかった、伝わったんだ」
告げられた言葉を反芻しつつも、ヒューレリクトは眼前で行われるやり取りに苦味のない笑みを漏らした。そんな彼の笑声を聞きつけて、婦人が口に手を当てて微笑む。
「ねえ、ヒューレリクト。貴方、本当はある程度の心の整理はできていたんじゃなくて? ここにきたのも、ほんの少しだけ背を押してほしかったから。違う?」
ぐっと喉が詰まった。唇の端がひきつり、何ともいえずに口を開け閉めしている自分を見て、やっぱりと婦人が肩を震わせる。嗚呼、かなわないな。どこか清々しささえ覚えてヒューレリクトは頬をかいた。
「貴方の顔を見ていたらわかりましたよ。おじいさんの下手くそな助言でそう簡単に心変わりなんてするものですか」
「え、そうなの?」
「そうですとも」
そうなんだ、やっぱりなぁ。ココラ老は盛大に焼け野原をテーブルに接触させた。心なしか生気が抜けている気もするが、婦人がやんわりと放っておけと告げてきたので言葉に甘えることにする。
「それで。ヒューレリクト。おじいさんの全く心に響かない演説でも、貴方の背を押す程度のことはできたのかしら」
「…はい。多分。我ながら、浅ましいとは思いますが」
「そう。ならいいの。でもね、ヒューレリクト。貴方のしたことは、別に責められるべきものじゃないのよ。どれだけ強がっても、貴方はまだ子供だもの。その子供に重い決断を強いるほど、私たち大人は腐ってはいないわ。かつての先代を知る、フロバリーの関係者に押されたことで許されたような気持ちを得る。浅ましいものですか。それで貴方が前に進めるのなら、誰に恥じることでもないわ。それでいいの」
今度こそ、ヒューレリクトは言葉を発することができなくなった。そのことを自覚したのは、テテラシア夫婦が自分の道を認めてくれた際に生じた深い安堵感からである。同時に湧き上がった罪悪感と自己嫌悪で、思わず顔がゆがみそうになった。何という下劣な精神か。そうはき捨てたくなっていた。
「本当に、あなたは真面目なのね…」
そしてさらに下卑たことに、そういわれて自分は救われた気分を味わっている。目じりが引きつるのを、止めることができなかった。
「…すみません。僕は」
「だからいいのよ。それよりも、決心はついたの?」
「……………はい」
搾り出すような、しかしそれでもしっかりとした肯定を、ヒューレリクトは口にした。それを聞いた婦人は、突っ伏したままの夫に肘鉄を入れる。
「さあ、若い方の門出にそんな不景気な顔をしているものじゃありませんよ。とっとと祝福の準備をなさいな」
「はい、ばあさん」
何をいっているのかわからず、きょとんとする自分を差し置いて、彼女たちはどこか楽しそうに、ここで待つように伝えて部屋を出て行った。ここまで世話をかけた手前、勝手に出て行くわけにもいかないヒューレリクトは、思わず窓の外、月明かりの街路にいるであろう一人と一匹に心をはせる。
やっぱり、一緒に連れてくるべきだったと。
☆☆☆
煌々と降り注ぐ月明かりは、どこか故郷のものとは違って見えた。まん丸の、しかし自分が知るものよりも二回り、三回りも大きい蒼の宝玉に目を細め、程よく冷えた石壁に背を預ける。
あの月には、一つの御伽噺があるという。以前、姫皇は暇つぶしに語ってくれた物語を頭の中で反芻し、昼間よりも澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ。
昔々、月には一人の種紡ぎの巫女が澄んでいた。彼女は荒れ果てた月の大地に次々と恵みの種を植え、貧しかった月の民に多くの豊穣をもたらした。多くの水を含んだ果実、量抱えもありそうな作物、翡翠色の木々は、月に多くの繁栄と栄華をもたらしたという。
けれどある時、月から地上へと降りた巫女は、一人の少年に恋をする。少年はどこにでもいる、一人の農夫。けれど、誰よりも優しい心を持ち、誰よりも穏やかに笑う荘園だった。巫女は彼の心に振れ、共に在りたいと願った。だが、彼女は種紡ぎの巫女。巫女がいなくなれば、月の大地は枯れ果て、死の荒野へと戻ってしまう。
それでも巫女は、少年と共に過ごすことを選んだ。彼らは心を交わし、子を得て、幸せな日々を過ごしていった。しかし、とうとう月からの追っ手に捕らえられ、少年は月の大地へと還ってしまう。
月に連れ戻された巫女は嘆き悲しんだ。そして、地上に残された我が子を思い、種を紡げなくなってしまう。やがて彼女の悲しみを知った月の神は、彼女自身を願いの種へと変じ、少年の還った月の大地へ植えた。そして、月を地上の真上から動かないよう術を施したのだ。種となり、土となった両親が、いつでも地上の我が子を見ることができるように。
以来、月は天頂から動くことなく大地を見守り、夜には暖かな光を降り注ぐようになったという。
「『不動の月』か。悲恋だねぇ」
裕一はあまり悲しい話は好きではなかった。確かに綺麗な話ではあると思うが、どうせなら馬鹿みたいに笑える楽しい話の方が好みである。くるくると腕を回し、大きく伸びをする。
「…ねえ、いい加減、そう睨まないでくれないかな。視姦はするのはともかく、されるのは好きじゃないから」
先ほどから頬に感じる敵意に、とうとう我慢できずに振り向いた。右側、数メートル離れた場所に座す『彼』に、裕一はにこやかに笑いかける。敵意に忌々しさがブレンドされた。何故か分からず小首を傾げる。
重厚なうなり声が夜空に轟いた。あまりにも攻撃的な態度に、思わず苦笑が漏れてしまう。壁から背を離し、裕一はお座りの態勢を解くことなく戦闘態勢に移行した彼をジット見つめる。通った鼻筋、艶やかな毛並み、中々の男前である。ハヤガミと呼ばれている獣は、牙をむき出しにしてこちらを威嚇している。向けられた殺意は、はっきりいって腰を抜かしそうなほど恐ろしかった。こちとら運動不足の貧弱ボウイ。こんな大きな野獣に襲い掛かられたら、一発でかみ殺されてしまう。
「別に僕は、君と君のご主人に危害を加えるつもりはないんだから。そう怖い顔しない」
『…信用、できんな』
明瞭な日本語――そう聞こえる言語でもって、ハヤガミは低い声でそう言い放った。とうとうお座りまで解除され、四肢に尋常ならざる力がこもり始める。
「あらひどい。僕以上に信用できる魔法使いなんて、殆どいないよ? どこをどう見ても、ひ弱な薄幸少年じゃない」
『…貴様、何者だ』
聞く耳持たないんですか、そうですか。ちぇー、と内心だけで舌打ちし、裕一は肩をすくめた。殺気が思い切り膨らんだが、どうにかちびることは避けられたようだ。
「何者と聞かれてもね、色々と答えはあるけど。でもね、昔の人はいいました。人に名を尋ねるときは、先ず自分から名乗るものだ、と。そう思わない、神狼殿?」
『……失礼した』
ハヤガミは再びお座りの姿勢を体現し、月に向かって高く高く一吼えした。どんな管楽器でも再現できそうにない音色が『不動の月』にとどかんばかりに波紋をもって広がっていく。
『我が名はハヤガミ。大恩ある主、ヒューレリクトに使えし神なる獣』
神狼、ハヤガミはどこまでも透き通った瞳で裕一と相対した。そのあまりにも威風堂々とした姿に、柄にもなく感嘆の念を持ってしまった。そんな自分に、我知らず苦笑が漏れる。
「神狼。神に通ずる力を持った獣か。見るのは初めてじゃないけど、やっぱり風格ってものが違うね。それに、真理言語を用いてくれるというのが有難い。会話は人間――いや、この場合は狼関係かな。それの潤滑油でございます」
『…ふん、それも貴様を警戒する理由の一つだ。我ら神に連なるもののみが操れるはずのその言葉、何故人間が用いている?』
「学んだからに決まってるよ。学習能力は人間の得意分野だからね」
真理言語、と呼ばれるものがある。それはかつてあらゆる地にあり、今は失われてしまった神々の語法だった。言語学の世界には、コードと呼ばれる概念が存在する。少々暴論になってしまうが、つまるところ文字とはただのインクの染みである。これら紙に付着した黒い模様は、それを知らぬものにはなんらの意味も生じさせないが、それを知るものには言葉としての意味を作り出す。その作り出された意味、インクの染みを文字として認識させる概念がコードである。
真理言語は、そのコードのみを抽出し、発音あるいは記述する技法のことである。発される音には純粋なコードしか含まれていないため、受信者は己の知識に存在する言語に照らし合わせて変換、それを認識することができる。要は、万物共通、犬猫人間意思疎通が可能な全生命に通じる共通言語だった。
まあ、お馬さんの末吉と話したときのように、向こうは話せない場合は精神干渉系術式が必要になるが、寂しいときに猫さんたちと会話するのに非常に便利である。そういえば近所のみーちゃん、元気だろうか。
『…まあいい。それよりも、それがしは名乗ったぞ。次は貴様の番だ』
「神崎裕一君、十七歳既婚者」
殺気が乗増した。何か魔力を含んだ風まで吹き付けてきて、前髪が全部後ろに流れてしまう。
「名乗ったのにー」
『貴様、それがしを愚弄しているのか?』
「少なくとも、会ったばかりの相手に牙を向くお方に敬意を抱くというのは難題だと思うけどね。というか本気でちびりそうだからやめてほしい」
ぷるぷると背筋が震えた。十七歳、妻もいる身でお漏らしなんてわりと首くくる事態である。天使様の蔑んだ眼差しを想像するだけで、どこか全身が高揚で震えてしまうではないか。嗚呼、これが新しい世界。
『…ならば、質問を変えよう。貴様は、何の目的で我が主君に近付いた?』
「さっき全部説明したはずだよ。人材確保」
『それだけではあるまい? それがしの鼻がいっているのだ。貴様はまだ何か、隠しているとな』
「そりゃまあ色々と。当然でしょ? 僕の全部を知っている存在なんて、僕を含めてどこにもいないんだから。生きることそれ即ち隠し事をすることだよ」
きっとこのお犬様のいいたいことはそういうことではないのだろう。にも関わらず、裕一はどこか明瞭としない答え方で返した。意味はない。何となくそうしたかっただけである。
「やめてよ、僕の全てを知りたいとかいうの。それいっていいのは奥さんだけなんだから」
『ハ、頼まれても御免だわ』
「……………」
泣いてなんかいない。これは心の汗、もしくは心のお漏らしである。あまりの殺気に、きっと緩んでしまったのだろう。待て、僕はまだ十七歳なのに。
「尿漏れにはまだ早いと思うんだけど、どう思う?」
『…いや、意味が分からんのだが』
「いや失礼。ちょっと混乱した」
何故かハヤガミが数歩後退した。はて、どうしたのだろう。
「ま、色々と含むことがあるのは確か。でも大丈夫だよ。それは僕の個人的趣味というだけで、あの子自身に何らかの不利益が降りかかる類のもんじゃないから」
『…それを信じろというのか?』
「信じてもらう以外にどうしろと?」
回答は沈黙であった。しばし低いうなり声と牙の輝きだけが場を支配し、裕一は適当に小さな円を描きながらくるくる歩む。からころと、下駄の音色が心地よかった。ややあって、搾り出すような声と共に鋭い犬歯が顔を覗かせた。
『警告する。これ以上、我が主君に近付くな』
「断る。それをヒュー君個人に言われない限りにおいて、僕の行動を阻害する権利は君にない」
カッ、と狼の眼が見開かれた。次の瞬間、裕一の身体にたたきつけるがごとく凄まじい魔力がハヤガミの身体から立ち上った。足を止め、相対するかのようにじっと神の獣を見据える。
『ならば、我が全身全霊を持って、貴様を排除するのみ』
「――神狼殿、それは本心からいっているの?」
蔑むでもなく、見下すでもなく、裕一は純粋な疑問を持って四肢を強張らす獣に問いただした。同時に、心内でいくつもの攻撃術式を組み上げ、いかなる軌道からも迎撃できるよう準備を整える。わずかに開放した魔力が、瞬く間に世界を侵食し、魔素を吹きすさぶ嵐へと変化させた。ぐるる、と全身の毛を逆立てた獣は腹の底から吼えた。
『もとより敵わぬは承知の上! なれど、せめて一太刀! 貴様の身に我が意を刻み付けてくれる! それがしが望むのはそれのみだ!』
「…ひょっとして君、死ぬ気?」
『我が命は主君、ヒューレリクトのもの。なれば我が身を惜しむこと決してありえぬ』
吊り上った彼の両目から意思を読み取った。裕一は全身の力が抜けていくような感覚を覚え、ふむと苦笑する。このお犬様の心には、一点の曇りも見受けられなかった。純粋に、ただただ純粋に、彼はヒューレリクトを案じて自分にできることを成さんと決意しているのだ。湧き上がる感嘆に身を任せ、裕一は魔力を引っ込めた。攻撃術式を全て分解し、強い苦笑を顔に出す。
ハヤガミの気配がゆれた。強い困惑が表に出ると同時に、裕一は右手を左わき腹に添えて、恭しく頭を下げる。獣のうなり声が止んだ。
「これまでの非礼、伏してわびよう。騎士殿。我が名は神崎裕一。『魔法使いによる世界征服組織』に属する、負け犬以下の魔法使いと呼ばれしもの」
『………む』
「貴殿の忠義、真見事。故に、それ相応の敬意を持って貴殿に相成そう。どうか、我が非礼をお許し願いたい」
威圧感がわずかに減じた。石畳を見ている裕一からはその姿が見えないが、かすかに揺れる気配から、彼が構えを解いたのがわかった。そのまま、待ち続ける
『…顔を上げられよ』
平坦になったハヤガミの声とともに、裕一はゆっくりと頭を上げる。彼のそれはそれは複雑そうな表情を目に入れると、堪えきれない笑いの衝動が全身を駆け巡った。
「やーいやーい、困ってやんのー」
『……謝っているのか喧嘩を売っているのかどちらなのだ!』
「冗談よ。謝罪の気があるのは本当。申し訳なかったね、騎士殿。茶化すようなことをして」
『…あ、いや』
「君が心配するのも最もではある。だから、僕もできうる限りの誠意を持って君の質問に答えよう。何故僕がヒュー君に付きまとうか、だったね?」
『…うむ、貴様――いや、その、貴公が何故に我が主君に近付いたか。それを教えてもらいたい』
先ほどまで微塵もやる気のなかった相手がいきなり変貌して、大分戸惑っているのだろう。ハヤガミは目に見えて狼狽し、しかしそれでも警戒を解かずに裕一の一挙一動に注目していた。その固まりきった姿にまた苦笑が漏れる。こちらには、もはや戦う気は微塵もないというのに。
こほんと咳をする。裕一はできる限り正確に、言葉で表現しようと努力した。ごちゃごちゃする内心を言葉で紡ぎ、どうにか体裁を整える。
「気に入ったから」
『…は?』
「気に入ったから。それ以上でもそれ以下でもない。僕の偽らざる本音」
そう、裕一がヒューレリクトという少年に関心を持った最大の理由はこれだった。この言葉以上の感情は、逆立ちしようが出てこないはずだ。獣も異を唱えようと口を開いたものの、裕一の瞳を見てすぐさまそれを飲み込んだようだ。形容しがたい空気を纏い、どうにか思考を整理しようとしているように見える。
「何故気に入ったか、ってのはなかなか表現が難しいんだけどね。ま、強いていうなら――あの子がとても優しかったってことかな。ねえ騎士殿。君だってそう思うでしょう? あの子、滅茶苦茶いい子だって」
『…ああ』
「僕はね、優しい人間が一番好き。暖かな人間が好き。穏やかな人間が好き」
空の宝玉が柔らかな光のカーテンを引いた。天頂を見上げ、月を隠すように手のひらをかざす。なんだか気持ちが良かった。
「で、反対に嫌な奴が嫌い。冷たい奴が嫌い。粗野な奴が嫌い」
一瞬だけ瞑目する。瞼には、今まで出会ってきた人間の様々な顔が映りこんだ。小さな頃、弟を持ち上げ自分に石を投げた子供たちがぼやけながらも哂っている。
「痛いのは、嫌だよねぇ」
痛いのは嫌いだ。心も、身体も。石を投げられれば痛いし、心無い言葉を投げつけられたら痛い。悲しいのは痛い。冷たいのは痛い。辛いのは痛い。厳しいのは、痛い。
甘えるな、それが現実だ。したり顔でそういう人間を何度も見た。そんなことでへこたれているようで、社会を生きていけるか、逃げるな、前を向け、我慢しろ、ここでくじけるような奴などいらない。あまりにも正しく強い言葉を吐く人間を何度も見た。
「要するにね。僕って現実に立ち向かえないほどに弱いわけよ。うん、なんていうかへたれ? 現実、社会とかいうものに負けたから、今のひねくれた悲惨な性格があるわけね」
『………自覚、あったのか』
「悪かったね。…だからヒュー君を見たとき、素直にすごいと思った。群生としての人間からあれほど排斥され、罵倒され、石を投げられているにも関わらず、あれほどまでに強く優しく在れるのかと、本気で驚いた」
羨ましいと思って死にたくなったのは秘密だ。嫉妬というほどひどくなかったのが、裕一にとってせめてもの救いである。他所は他所、うちはうち。裕一はくすくすと笑い、小首を傾げた。
「ぶっちゃけ、憧れたのかな。僕はもうああはなれないから。で、どうせなら近くにいてほしいなー、って思って、誘ったの。…あ、別にアーッ展開じゃないからね!? 僕は奥さん一筋だから!」
『いや、意味が分からんのだが』
「ならいいお。ま、これが僕側の趣味的理由って奴。ふふ、何だか話しているうちに頭の中ごちゃごちゃになって、しかも何青少年の主張っぽく青臭いこと吐いてんだよ畜生ガって絶賛自殺推進中なのは秘密☆SA!」
よし、それじゃあ核分裂術式を起動して大陸もろとも木っ端微塵になろうか。主神クラスの魔力を凝縮し始めた裕一を見て、狼さんが慌てたように作務衣を牙で引っ張った。
『ま、待て待て待て! いやその、何というか、別にそれがしは気にせんぞ? どれほど青臭かろうが馬鹿っぽかろうが笑いがこみ上げようが、気にはならん!』
「デス、ペナルティ!」
『待てというに! というか死ぬなら他所でやってくれ! それがしたちを巻き込むな!』
「ハ! 僕が一人で死んで他の連中が幸せそうに笑うなど虫唾が走る! 全人類道連れにきまってるだろうがあああ!」
『貴様やはり悪魔か!? 待て、話せば分かる!』
「あっはははははは! 赤信号、皆でわたればこわくないいいいいい!」
結局、この騒動はあまりの騒がしさに堪忍袋の尾をお切りあそばされた天使様によって強制的に収束されるまで続いたという。後に本事件に巻き込まれたH氏は『人間とはかくのごとき強くなるものなのだな』と憔悴しきった顔で述懐した。
ネタ元はソシュールです。え? 解釈が違う? アーアーキコエナイ
それにしても、アルトネリコ3の魔力は恐ろしいです。よもやこれほど投稿がずれ込もうとは……orz