二十五話 狂犬病予防はきちんとしよう
「商会、だって?」
ヒューレリクトは、裕一という名を持つ少年の意図を測りかね、思わず常の笑みをかき消した。商会を作る、それ自体はよくあるとまではいわないものの、さほど珍しいことというわけではない。ある程度の資産家が基盤作成のために手を出すか、務めている商家から独立する形での設立など、その事例もいとまなく枚挙できるくらいには存在した。ヒューレリクトが疑問視しているのは、彼の立場に起因するものである。
魔術師は特権階級。国防の中核を担い、戦場においては並ぶもののない戦略単位として数えられる者たちだった。また、その能力性から平時の民生でも多岐にわたって活躍し、国家体制にとってより多数の、優秀な魔術師確保は最優先に位置づけられる課題である。つまり、魔術を扱えるということはその衣食住全てが国家によって保障され、莫大な賃金と名誉を得られるということなのであった。
目の前の少年が優秀なのかはまだ知るところではないが、少なくとも飛行術などという空想じみた芸当を持っているのは確かだ。おそらく、帝国内でもかなり優遇された措置を受けているはずである。商売は極論すると、自分が食べていくために行うものだ。客に喜んでもらう、国家経済の一助を担うなどの意見もあるが、根本的に人は自身の生活のために働くのである。魔術師はそんな心配をする必要はない。地位も栄誉も、欲しいものは何だって手に入るのだ。商売を起こす必要などないではないか。
「へえ、そうなんだ。そういうところは下と一緒って訳だね」
にもかかわらず、目の前の少年は驚きを隠そうともせずに瞠目した。まるで今知ったといわんばかりの態度に、思わず眉を顰める。こんなこと、魔術師なら知っていて当たり前の話ではないか。問いただすべきかわずかに逡巡していると、裕一は立ち止まってくるりとこちらへ向き直った。
「君のいう通り。僕が商会を立ち上げるのは、食べるためじゃないよ。もっと別の理由から」
「……くくく、別の理由?」
先を促すように、ヒューレリクトも歩みを止めた。ハヤガミがすぐ右隣でお座りの姿勢を構築する。
「ねえ、ヒュー君。塩商人としての君に聞きたいんだけど、ぶっちゃけ一般的国民の経済状況から見た場合、今の塩の値段って適正価格だと思う?」
唐突な話題変換。そのことにほんの少しだけ戸惑いつつ、少年の質問を頭の中で反芻した。アストラ湖から取れる塩の卸価格と輸送その他の費用、塩にかかる税金に純利益を算出したヒューレリクトは、ややあって首を振る。
「…正直、適正だとはいい難いね。帝都の一般的平均月収は銀貨五枚。対して一月にかかる塩の費用が銀貨一枚。負担というには、ちょっと多すぎ」
特に近年、塩の高騰は著しかった。もともと需要に対して供給量が心もとなかったのだが、隣のオスリア大陸で大規模な戦乱がその動きに拍車をかけてしまったのである。群雄が割拠するオスリア大陸にとって、戦乱自体はさほど珍しいことではない。むしろ日常茶飯事なはずであるが、今度ばかりは事情が違った。大陸を二分する勢力、新興国グリンバルト王国と、歴史と伝統あるキュレ王国が大陸の覇権を巡って武力衝突を開始したのである。若き英雄王率いるグリンバルトと巨魁なる古狸が治めるキュレ。この戦争が後のオスリアの趨勢を決めるとまで囁かれている戦いは、遠く離れた帝国の経済にまで少なからぬ影響を与えていた。
簡単にいうと、両国による塩の買占めである。武具などの威光に霞みがちであるが、塩は最重要といっても過言ではないほどに重みを持つ戦略資源だった。人は身体を動かすと、必ず汗をかく。すると体内の塩分が排出され、新しく取り込まなければならなくなる。取り込むためには塩が必須。摂らなきゃ戦う前にあの世の門をこんこんこん。戦争というある意味究極の運動において、塩は兵士たちの生命を繋ぐ命綱と同義であった。
「だからといって、これ以上の値下げも不可能。税率を下げれば国家財政そのものが破綻するし、売値を弄れば商会がばたばたつぶれるだろうね」
「さすがは中世レベル。経済の貧弱さも折り紙つきだね。まあ、妥当といえば妥当か」
「…いってることがよくわからないけど」
「こっちの話だよ。なるほど、需要と供給ね。経済システムは稚拙でも、その概念は万国共通か」
一人納得するように裕一は頷いた。いまいち少年の意図を掴みかねたヒューレリクトは、彼が発した台詞を分析し、その心を幾つかの過程を経て推測した。
「…ひょっとして、塩を扱おうとか考えてる?」
「お、いい勘してるね。厳密にいえば塩だけじゃないけど、扱うといえば扱うね」
「…くくく、それは無理だよ」
困ったように肩をすくめ、苦笑した。塩は国家によって専売物と定められてから、特定の商家にしか販売を許されていない。許可を得るには大蔵省を始めとした帝国上層部に話を通さねばならないし、そもそもの問題として、これ以上新規企業が参入できるほど供給に余裕のある塩田など存在しなかった。しかし裕一は、ヒューレリクトの言葉を笑いながら叩き切る。
「あるよ。塩」
「…………は?」
「だから、あるの。少なくとも今の需要を満たすだけの産出が見込める塩田が」
あっけらかんと述べられた事実を咀嚼し、次の瞬間笑みを消して目をむいた。
「…え、嘘」
「いや本当本当」
ばう、とハヤガミが鳴いた。ヒューレリクトは唖然としてのほほんとしている少年を見つめる。彼は今自分が何をいっているのか、理解しているのだろうか。痺れる脳を叱咤し、彼の言葉が真実であった場合のことを考えた。
現在の塩生産量は、国民の健康を損なわないギリギリの線をいったりきたりしている。需要と供給のバランスが崩れた結果として現在の馬鹿高い値段があるのだが、仮に裕一のいうように、より多くかつ安定した生産が見込めるようになった場合、この状況は文字通り一変するはずであった。まず塩の値段が下がる。需要に対し供給が増加するのだから当然であった。その結果、国民は今まで塩に回していた財産に余剰分ができ、それは往々にして他分野に使い込まれることになる。さらに価値下落は今まで最低限しか購入できなかった層に購買意欲をもたらし、消費率も著しい上昇を迫られるはずであった。余剰金と低価格化による消費の刺激と、多売による税収の増加。
――これが本当なら、帝国経済は一大転換期を迎えることになる。
ヒューレリクトは全身が灼熱の炭となったかのような錯覚を覚えた。ぶるりと、背筋が震える。
「…くくく、途方もない話だね」
「全てがそううまくいくとは限らないけどね。でも、少なくともある程度の経済力をつけさせることは可能でしょ」
つまり、それがこの少年のいう理由とやらなのだろう。あまりにもスケールというか視点の広さに、ヒューレリクトは呆れた。国政に深いかかわりを持つ魔術師ならではの考えとでもいうべきなのだろうか。
「…でも、まだ疑問がある。どこにそんな塩田があるんだい? トルスメギア大陸には、発見されていない塩湖はなかったはずだけど」
まさかオスリア大陸にそれを求めるわけでは在るまい。あちらの状況も、こことさほど変わらないのだから、余剰塩などありはしまい。ヒューレリクトはにこにこしている少年の返答を待った。しかし彼はすぐには答えず、代わりに手招きをして再び歩み始めた。ハヤガミと顔を見合わせ、無言で後に続く。
しばらく歩き続けると、浅いくぼみのような場所が現れた。よ、という掛け声と共に、裕一がそこに飛び込む。
「これよ、これ」
ヒューレリクトとお犬様も片足を上げて入り込んだ。魔術師の少年はしゃがみこみ、すぐ足元を指差している。じっと目を凝らすと、赤茶色の岩肌ではなく、透明な結晶のようなもので構成された岩肌が顔を覗かせているのが見えた。軽く手で触り、指で叩く。ヒューレリクトの顔が、驚愕で歪んだ。
「…まさか、これは」
「塩だよ」
裕一は手の甲で露出した結晶を叩いた。さほど力を入れているようには見えなかったのに、透明な石は自らにヒビを入れ一センチほどの分身をこの世に生み出す。手のひらにのせられた欠片が、差し出された。ヒューレリクトは震える手で結晶を口に含んだ。辛かった。
「………」
「本当はきちんと純化させなきゃ駄目なんだけど、品質はそう悪くないから大丈夫でしょ。で、感想は?」
「…くく、塩だね」
少々荒削りだが、間違いなく塩の味だった。口の中で溶かし、舌で押しつぶす。もごもごと口を動かしながら、問い詰めるように裕一を見つめた。これはいったい、どういうことなのか。
「別にそう驚くようなことでもないけどね。これは岩塩だよ」
「がん、えん?」
「そ。海――っていってもわかんないかな。昔、ここいらには大きな塩湖みたいなのがあってね。それが地殻変動によって、地中深くに埋まってしまったんだ。で、長い年月で塩湖の水分が蒸発し、塩分が結晶化したというわけよ。ちなみにこういうのを、蒸発岩という。これテストに出るよ」
同じくしゃがみこんだヒューレリクトは、無色の結晶を穴が開くまで見つめた。彼女は顔を赤らめることなく、日の光を反射しきらきらと輝いているように見える。
「で、塩ってのは元々比重が軽くて、しかも柔らかいからチューブのように地表に押されて顔を出すことがよくあんの。こういう塩の柱もその一つ」
岩塩ドームだとかダイアピルだとかよくわからない単語が出てきたが、それは後で尋ねることにした。しゃがむ体勢が疲れたので、思い切って腰を落ち着ける。ローブに砂利がついてしまうが、今はそんなことにかまっている暇はない。
「…じゃあ、地下にはこれと同じ結晶が埋まってると?」
「塩床だね。勿論」
あっさりとした物言いに、思わず苦笑が浮かんだ。はっきりいって、塩の価値どころか国家体制そのものを変えてしまうような大発見なのだが、それを露ほども感じさせない雰囲気である。驚きと同時に、不可思議な気持ちが湧き上がってきた。
「…くくく、こんな大事なこと、僕にいってもいいのかい? まだ、君の話に乗ると決めたわけじゃないのに」
「事情も話さずに判断しろ、なんて阿呆なことをいうつもりはないよ。それに、情報を他所に漏らしたところで、どうということはないもの。目ぼしい塩床は、全部僕の私有地だからね」
「………は?」
「そりゃ、すこしは産出できる場所ものこってるけど、主要塩床は押さえた以上、何ほどのものでもないさ」
「いや、ちょっと待った。え、今、え? ……押さえた? どうやって」
ぱかりと口が開いた。何かこの人、とんでもないことを口走らなかったか? ヒューレリクトの混乱をあざ笑うかのように、歩く非常識はさわやかな笑顔で歯を煌かせた。
「お金って、いいよね!」
「……そこはかとなく、不穏かつ危なげな匂いがするんだけど」
「いやいや、別に大したことしてないよ。土地を担保に借金していたお貴族様に、肩代わりしてやるから土地よこせっていったくらいで。あと、実際に差し押さえられた場所は商会に出向いて買い取ったくらい」
「…まさか、最初に会ったときも」
「うん。ここってフロバリー商会が借金のかたに接収した場所だもん」
そういえば、以前資料で見た覚えがあった。ハウゼン伯爵家が商会に借金をして、その担保として領内の土地を差し出したと。しかし鉱物資源はおろか、水資源すらない不毛の地であったらしく、開発も引き取り手もつかず扱いかねているとかなんとか。あれってまだ残っていたのか。
「…どんだけ資金がいるんだい!?」
「金貨十万枚ほど。おかげで山のようにあったお金も百枚まで減っちゃったぜ!」
十万枚。途方もない金額に、ヒューレリクトの目は点になった。ていうかこの魔術師、どれだけ溜め込んでいたのだか。
「まあ、ただ同然に頂いた――もとい強奪したものだからいいんだけど」
「言い換える単語が逆だから! ていうか強奪!?」
「うふふ、金は天下の回りもの。皆、溜め込んじゃ駄目だぞ?」
「話そらした!」
不味い。ひょっとしてこの人、危ない世界の人間なんじゃ。ヒューレリクトは腰をずらしながら、ずりずりと後ずさった。そんな様子に、裕一は心外といわんばかりに頬を膨らませる。
「まあ、それは置いておいて。一応これが僕のやろうとしていることなわけだけど。どうする、嫌なら断ってくれてもいいけど」
「…くくく、ちなみに断ったらどうなるの?」
「天国の一等地でいい物件が売り出し中らしいよ。終の棲家にぴったりだね?」
「口封じだー!」
「やだね、冗談だよ。別にどうもしない。君みたいな愉快な子に危害を加えるもんかいな」
くすくすと笑う少年を、疑わしげに見つめた。さっき、どう見ても目が本気だったのだが。ハヤガミが同意するようにばう、と鳴いた。
「ま、直ぐに決めなくてもいいよ。フロバリーさんとも話し合わなきゃなんないだろうし。今日のところは、これでお仕舞いということで。あ、おなか減ってない? せっかくだからご飯奢るよ」
虚空から何かお椀のようなものを二つ取り出し、蓋のような紙を半分まではがした。どこからとり出したのか、という質問はする気力すら起きなかった。聞いても、はぐらかされるだけのような気もする。何もないところから水――湯気が出ているようだからお湯だろう――を椀にそそぎ、蓋を閉めた。一つをヒューレリクトに差し出す。
「はい、熱いから気をつけて。お犬様はどうする?」
ふん、と鼻がそらされた。裕一はにやりと唇の端を吊り上げると、懐から干し肉のようなものをハヤガミに突きつけた。お犬様の両目が見開かれた。
「くくく、トップブリーダー推薦の高級ジャーキー。ほーれほれほれ」
とっさに顔を反対方向にそらすも、追いかけるように干し肉が鼻先に向けられる。たらりと、牙の隙間から透明な液体が滴り落ちた。腹に響くような唸り声があふれ出し、尻尾が力なく地に伏す。そして。
「がう!」
「く、ふははは! 落ちよった、こやつ快楽に落ちよったぞ!」
干し肉を噛み切りながら、ハヤガミは呪い殺すかのような目で裕一を見つめていた。それを肴にしたのか、ますます楽しげにお犬様を罵り始める。
「うまかろう? 背徳、禁断。警戒するべき相手から施された肉はさぞや格別であろうなぁ。はは、良いのだお犬よ。それで良いのだ。食欲は本能、それを押し殺すなど生命すべてへの反抗ぞ。さあ食らうがいい、原罪の果実を、ふはは、ははははって痛ー! 噛みよった、こやつ噛みよったぞ。てか本当に痛いいいい! ちょ、ヒュー君、飼い主! 止めて手首がちぎれるほどに痛い痛い痛いいいい!」
ほかほかと底を暖かくした、材質不明のお椀から蓋をはがし取る。ふわりと、かいだこともない香りが鼻をくすぐった。薄茶色の透き通ったスープに、白いパスタのようなものが浮いている。この四角いこげ茶色のものは食べ物なのだろうか。渡されたフォークで突き刺し、恐る恐る口に入れる。ふわりと、甘みが口中に広がった。
「ちょっと、そこおお! 何この惨劇無視して赤い狐むさぼってるか! てやめて、作務衣破れるから手首かまないで! 謝るから、土下座でも何でもするからほんと勘弁してください! お犬様!」
食べたこともないスープとパスタは、とても塩辛かった。




