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二十三話 有能が必ず役に立つとは限らない


 少なくとも、自分が雇い主に嫌われているというのは確かなようだ。

 若干いたたまれない気分に襲われたヒューレリクト=バナウは、部屋を覆いつくす書類の雪山の前で立ち尽くし、含み笑いを漏らした。館の隅に備え付けられた仕事部屋は、机と四方の壁に備え付けられた魔道具に照らされているものの、その全容は冷たくない雪に覆われて白く輝いている。所々削れた石壁に、しみと汚れで黒ずんでいた床板は白の暴虐によって圧殺され、隅でせっせと建設されていた蜘蛛の巣は、この大雪でぺしゃんこになっているのだろう。自然の驚異とは恐ろしいものであった。

 一人でこなせというには、あまりにも無茶である。嗚呼、なるほど。ヒューレリクトは心内で大きく頷いた。ここへの異動を申し付けた際に雇い主が浮かべた笑顔はこういうことだったのか。力なく肩が落ちた。はらりとこぼれた書類を手に取り一瞥する。アストラ湖塩田との取引量に関する変更届だった。

 もう、この商会は駄目かもしれない。書類をローブのポケットに納め、ヒューレリクトは低い笑みで身を振るわせた。塩商人にとって最も重要な塩田との取引関連の書類を、こんな閑職に回されるような場所に放置するなど、想像を絶する怠慢であった。今は亡き先代がこれを見たら、どんなにか嘆くだろう。その温和で大らかな性格を、身をもって体現していた前会長のぽっこりおなかを思い出し、ヒューレリクトは居心地が悪くなった。十で奉公に上がり、五年もの間商会のために働き続けてきたのは、自分を息子のように可愛がってくれた先代と、彼の友人のおかげであったからだ。先代の穏やかな顔が悲嘆に歪む様子を思い浮かべ、思わず足が砕けそうになった。

 フロバリー商会は帝国から塩の商いを任された大商家の一つである。かつて国内最大手とも呼ばれ、数々の塩田をその勢力下においてきたが、数年前の先先代の浪費が原因でここ最近は不調が続いていた。それでも先代以下従業員の人力によってある程度持ち直してきていたのだが、半年前にその先代が帰らぬ人となり、彼の長男がフロバリーを率いることになったのだ。

 別に雇い主殿が無能というわけではない。むしろ世間では有能と目されていたし、彼自身の能力も役立たずの対極に座しているようなものだった。父親には似ず筋骨隆々でリーダーシップもあり、豪胆な性格は新たな市場獲得のため大いにその力を振るっている。先代も頼もしそうに口元を綻ばせていたものであった。

 けれど、雇い主の有能さが全てにおいてフロバリー商会の一助になったわけではなかった。彼は積極的に人材を引き込み、変わって古参の従業員を「改革の障害」と称して遠ざけ始めたのである。いうまでもなく、その中にはヒューレリクトも含まれていた。どうやら体育会系の申し子である現会長にとって、古参の従業員は信ずるに値しない軟弱者と映ってしまったらしい。先代の懐は、俗にいう社会不適格者と呼ばれる人材ですら笑顔で受け入れていたため、変革の嵐は予想以上の深度で行われていった。

 まあ、自分が他人から好かれる性格、容姿をしていないことは重々承知の上だったので、そのことに関しては特に感慨を抱くことはない。全身黒いローブを着込み、顔は目深に被ったフードによって影が落ちて確認できない。根暗で陰気で駄目人間、およそ怪しすぎて人に好印象を持たせるなど不可能であることは、十五年間の人生で嫌というほど味わいつくしてきた。現会長がこんな薄気味悪い少年を嫌うのも至極当然といえる。

 だから、ヒューレリクトを切るという選択に関して、異議を唱えるつもりはなかった。それが会長としての判断ならば喜んで従う。先代には申し訳ないが、それが自分にできる精一杯の奉公だと考えていたからだ。だが、それが会長としてではなく個人の判断で行われている現状は、ヒューレリクトにとって悲しむべきものだった。前回の人事異動のとき、古くからアストラ湖との調整を行っていた老従業員を辞めさせたのは明らかな失策である。押しが弱く常に挙動不審な人物であったが、間違いなくその手腕は卓越していた。商人として、会長として考えるなら、首を切るなど思いもよらないことのはずなのだ。

 けれど、現会長は老人を首にした。解雇理由は新しい風を入れるためといっていたが、あの目は間違いなく侮蔑と嘲笑に満ち満ちていた。慣れ親しんだそれを、ヒューレリクトが間違えるはずがなかった。当然、ヒューレリクト以下数人が抗議の声をあげたが、待っていたのは部署異動の通知である。


「くくく……どうしようもないね」


 我知らず、独り言が漏れた。アストラ湖関連の書類が紛れ込んだのも、老人がいなくなったことが影響しているのは火を見るより明らかである。彼のいう「改革」でもって、フロバリー商会は経験、錬度不足という笑えない事態に直面しているのだった。

 とりあえず、仕事をしよう。重くなった頭を切り替えて、ヒューレリクトは書類の雪に顔を突っ込んだ。ここに回されてくるのは主にどうでもいい公告やら製品紹介やら、卸売りの紹介文だったりするので重要度は高くないが、今みたいに商売の根幹に関わるものが混じっていないとも限らない。早急に処理すべきであった。執務机は雪崩の下なので、書類の上に腰を下ろしながら手早く決済印を押していく。

 小気味のいい鐘音が響き渡ったのは、作業に没頭して一時間ほど経過した頃だった。ヒューレリクトは聞こえなかったかのように仕事を続ける。今のは来客を知らせる呼び鈴だ。そういうのは接客部署の管轄になっているので、自分にはさほど関係がないのである。五分ほどして、二度目の鐘音が館中を駆け巡った。さらに五分後、三度目。このときになって、ヒューレリクトは顔を上げた。

 おかしい。呼び鈴が三度も鳴らされるなど、今までになかったことだ。腰を上げ、扉を軽く開いた。耳を済ませる。館は不可思議なほど静まり返り、常ならば途絶えることなく闊歩する足音すらお留守であった。無論、そこには慌てて玄関に走る接客係の音も、応接間に案内する者たちの世間話も皆無である。鐘が四度、自己主張した。

 ふと、思い出した。そういえば、今日は帝国大蔵省で報告等の会合がある日ではなかったか。専売品である塩は国家の重要な財源であり、独占物である。そのため商いを許可された塩商人たちには、定期的に売上の報告や税の納入を行わなければならず、そしてその席には帝国のお偉方が多数出席する。そのため、現会長を含めかなりの人数が参内していることが予想された。その中には接客部も含まれているはずである。

 ヒューレリクトはとてつもない嫌な予感に全身をさいなまれた。いくら人が出払っているからといって、接客部が空っぽになるわけではない。しかし、顕著になり始めた質の低下が不安と焦りを煽り立てた。三日前、ある部署の連中が勤務時間にあるにもかかわらず持ち場を離れて損害を出した件が思い起こされる。自己保身の結果、部長によってもみ消されてしまったが、一部の従業員には公然の秘密となって囁かれていた。いや、いくらなんでもそこまでは。ヒューレリクトは否定しきれない自分に気がついて愕然となった。

 玄関ホールに足を踏み入れても、誰かとすれ違うことはなかった。これは不味い、全身の血の気が引き、絶望がむくむくと巨大化した。誰だか知らないが客人をここまで待たせるなど、商家として致命的であった。何度も鐘を鳴らしたことから推察するに、アポイントもとってあるに違いない。もしもこれが大物であったらどうするか。ヒューレリクトは扉をそっと開け、顔の半分を覗かせた。


「おおう」


 呼び鈴の主がそんな声をあげて瞠目する。自分より少し年上だろうか。何だか趣深い衣装と木の板のような靴、平凡極まりない顔立ちの少年が自分を見て楽しそうに微笑んだ。


「くくく……フロバリー商会へようこそ、お客様。ご案内が遅れて、もうしわけありません。…本日はどのようなご用件でしょう?」

「ええと、会長さんと取引の約束があったんだけど」

「くく…それは申し訳ありません。現在、会長は所用により帰社が遅れておりまして。…中でお待ちいただいても、よろしいでしょうか?」


 少年は含み笑いに驚いた様子を見せたが、そんな感情などすぐにゴミ箱へ投げ捨てたのかにこりとして頷いた。その自然な動作にヒューレリクトはわずかに片眉を上げる。あれだけ待たされて、しかもようやく出てきたのがフードの陰で顔を隠した胡散臭い子供、普通なら烈火のごとく怒りをぶちまけられても文句はいえない状況であった。なのに、怒るでもなく怪しむでもなく、見下しもせず少年はいわれるままに応接間に腰を下ろした。

 視線は相変わらず楽しそうに、ヒューレリクトを的にしている。


「くくく…ただ今、お茶をお持ちします」

「ああ、お構いなく。ところで、先ほどから楽しそうだけど、何かいいことでもあったの?」

「いえ、これといって何も…くく」

「でも笑ってるし」


 少年の瞳には相変わらず負の感情が浮かんでいなかった。このことを尋ねるとき、決まって人は気味悪そうに頬をゆがめるのだが、彼にはその兆候すら感じない。不思議に思いつつも、ヒューレリクトは質問に答えることにした。負い目もあるし、これ以上機嫌を損ねる要素を作るわけにはいかなかったからである。


「…いえ、笑いは富を呼び込むというのが父の口癖でして。うちは貧乏なので、常に笑っていようと心がけたら、いつの間にか癖になっていただけですよ…くくく」


 今にして思えばろくでもない理由である。他ならぬヒューレリクト自身もそう思っていた。そんなことのために、村人からは疎まれ帝都に昇ってきても腫れ物扱いされるなど、道化もいいところである。 しかし、少年はそう考えなかったようだ。


「ほほう。笑う門には福来るか。いいじゃない」


 今度こそヒューレリクトは驚愕で言葉を失った。にこにこしている少年の言葉に聞き覚えがあったのである。昔、固焼きパンを右手に持った先代が同じ台詞を口にしていたのを思い出した。そういえば、彼の眼差しはどこか先代に似ている気がする。全身からかもし出されているのほほんオーラが、何故か無性に懐かしかった。


「くく……お茶を、淹れて来ます」


 一礼し、応接間を出た。そのまま給湯室に入り、薪をくべて湯を沸かす。ゼーリア産のいい茶葉があったのでそれを使うことにした。カップを暖めで、盆の上に載せる。ここからが勝負だ。茶葉が完全に開ききる前に応接間に戻ろうと、ヒューレリクトは少し足を速めた。

 しかし、その歩みは応接間の手前で止まることになる。盆を両の手で抱えた自分の前方から、幾人もの男たちが慌てた様子でこちらに向かってくる様子が見えたからであった。先頭を走っている人物を見て、顔が強張る。がっしりした体躯に借り上げられた髪、二十歳後半の若者だった。彼はこちらに気づくとあからさまに侮蔑で顔を満たし、目元を歪ませた。ヒューレリクトは笑みを濃くする。胃と心臓がぐっと痛んだ。辛いことなど笑えば吹き飛ぶ。そういった父の笑顔がふと頭にちらついた。


「くくく……お帰りなさいませ、会長」


 返答はなかった。まるで虫を見るかのように鼻を鳴らし、応接間へと身体を滑り込ませる。随員の一人が奪うように盆をむしりとった。一瞥すらない。

 最後の一人を飲み込んだ扉が口を閉ざした。しばらく立ち尽くしたヒューレリクトは、黒いローブを引きずりながら、再び書類のスキーを楽しむべく足を仕事部屋に向けた。珍しく、含み笑いではない心からの苦笑が閃く。

 随員は、あの茶を美味しく入れることができたのだろうか。湯を注いだときに鼻をくすぐった芳香を思い出し、ふとそんな言葉が胸のうちに消えた。


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