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二話 トラブルメーカーがいない。僕は自由だ!


 裕一にとって、弟はまさしく雲の上の人であった。スポーツ万能、学年首席、甘いマスクに真っ直ぐな性根。どこの完璧超人ですかと問いかけたいほど、自分とはかけ離れた存在だった。ていうか、比べるのがそもそもの間違い。あれは人間じゃない。王子様という生き物だ。

 対する自分は、どこにでもいそうな平凡な男である。成績はいいほうだが、運動が壊滅的にどん底だった。五十メートル走は十秒、逆上がりはできず、水泳ならそもそもおぼれる。以前ご近所の小学生と喧嘩になった、というか喧嘩を売られたときは、本気で負けそうになった。柚木が止めてくれなければ冗談抜きで地に臥していたかもしれない。最近の十歳児は強いね、本当。

 おかげで、昔から比べられた比べられた。弟の周りには常に人が集まり、笑顔に溢れ、異性からの情熱のこもった視線で満ち満ちていた。大人も子供も、弟に期待と賞賛と憧憬を持って接していたし、あれもそれを当然と受取っていた。反面、裕一に向けられるものは諦観と侮蔑と嘲笑。才能のしぼりかす、駄目な兄、血がつながってないんじゃないか、表裏問わず雑言は裕一目掛けて一斉に飛来した。

 一時期は見返してやろうと、柄にもない熱血をしたものだが、結果はご覧の通り。弟が一発で駆け抜けたものを百回繰り返しても乗り越えられない。千回繰り返しても失敗続き。いい加減、妬心も反骨精神も枯れ果ててしまった。

 よそはよそ、うちはうち。真にいい言葉である。世のお子様方はお父さんお母さんの至言に耳を傾けるべきだろう。

 そんなわけで、裕一は弟の失踪に関して、それほど感慨を持ち合わせていなかった。あれならばどんな逆境にいようとも人望と主人公補正で生き残る。今までがそうだったし、きっとこれからもそうなのだろう。心配するだけ無駄無駄。イケメンは人生の難易度がベリーイージー。死ねばいいのに。

 食器を片付けると、裕一は自室でパジャマを脱いだ。上下共に真っ黒な詰襟を着込み、本日の教科にあわせて鞄の中身をカスタマイズする。数学、いらない、国語、突入。

 皮製の鞄を右手に握り、裕一は階下に降りてリビングを覗いた。今度は孫の名前案を出し合っているらしい。元気なことである。


「お袋様、僕そろそろ行くから」

「え? ああ、そうね。ちょっと待って、お弁当持ってくるから」


 お袋様は古風極まりない緑の風呂敷包みを笑顔で差し出した。礼を言って受けとる。


「幸君はこれから柚木ちゃんの手作りか…いいわねぇ!」

「それはないですよ、あの子、料理が苦手だから」


 おば様がコロコロと笑う。『柚木』と『料理』が同一文上で語られた瞬間、裕一の舌が恐慌に引きつった。もう直ぐ夏だというのに、背筋を冷たいものが駆け巡る。去年、弟と一緒にあの娘謹製のケーキを頂いた記憶がまざまざと脳裏に蘇った。奴とトイレを巡って繰り広げた大戦争は、とてもではないが笑って済ませられるレベルではない。あの後夜間診察受けたし。


「あらら。じゃあ、家事は幸君の仕事ね」


 いやいやいや、それもない。弟のエプロン姿を思い浮かべ、軽く首を振った。二年前に柚木から貰った義理チョコに、律儀にもお返しの飴を手作りしようとしていたが、全くもって食えたものじゃなかった。というか塩と砂糖を間違えるなんて漫画もいいところである。

 今まで舌さんにしてきた仕打ちを思い、こめかみにしわを寄せて唸ると何故かおふくろ様が「あ!」などという嘆声を上げた。胡乱気に見つめると、彼女は困ったように息を吐く。


「あー、えと、その。ごめんね裕君。私たち、裕君の気持ちを考えずに……」


 お袋様の瞳には、曇天のような気遣いと哀れみがたっぷりと込められていた。一瞬意味が分からず、混乱する。ちらりとおば様を確認すると、彼女は彼女で辛そうに目を伏せていた。何この状況。


「えーと、ごめん。意味がわからない――」

「いいの! 何もいわなくて!」


 ごめんなさい、そう呟いてお袋様とおば様は一目散に我が家から離脱した。おそらく行き先は高梨家であろう。唖然とする裕一の肩を、節くれだった手が二度叩いた。親父様が、何も言わなくていいと目で語っていた。

 いまいち釈然としないまま、通学路を歩く。新緑の匂いが濃厚で、さんさんと輝くお天道様は道行く人に汗をにじませることができてご満悦そうだった。もうすぐ夏か。今年はどういったトラブルに巻き込まれるのだろう。過去の夏休み劇場を観覧し、絶望の溜息をついた。



 自分が柚木に想いを寄せていたと勘違いしたのだということに気づいたのは、昼休みも終わりかけの時分であった。



「いやいや、いやいやいや、ないから。それ」


 我知らず漏れた言葉は友人の怪訝な視線へと転化した。何でもないと、裕一は苦笑で返答する。

 しかし、何とも盛大な勘違いをしてくれるものだ。裕一は歯噛みした。確かに柚木は魅力的な美少女であるが、如何せん赤子の頃からの付き合いである。異性というよりは兄弟としか見ていなかった。間違いなく向こうもそうだろう。違うのは弟だけである。

 第一、他の娘にうつつを抜かしていたら奥さんに何をされるか分からない。首すっぽん、男の象徴すぱぱぱぱん。きっと笑顔で首と身体の離縁状をたたきつけることだろう。でもそこがとっても素敵。痛みは時として愛に変わるのである。

 午後の授業を頭に叩き込み、裕一はちらりと窓の外に視線をやる。教室の真ん中近い席なので、お隣の娘さんを飛び越えることになるが、それでも青々とした空は目に焼きつく。

 ひょっとして、僕これから自由?

 空が穏やかに微笑んだ。そうだよ、だってトラブルメーカーはもういないんだもの。

 もうあれの美少女助けのしわ寄せは来ないの?

 太陽は楽しげに笑った。もちろん。だってハーレム男はもういないんだもの。

 いやっほーうという奇声が響き渡ったのは、それから三十二分後のことだった。


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