十九話 ご飯はちゃんと食べましょう
さすがは仮とはいえ皇帝の住処。格というものが違うようである。裕一は近衛魔術師としてあてがわれた部屋に入ると、思わず感嘆の息を漏らした。広々とした部屋に、高価な調度品、ベッドなど無意味にキングサイズで、天蓋までついている始末。敷き詰められた絨毯は毛先が長く、歩くたびに下駄がむにゅりと飲み込まれるかのようである。
明日は帝都入りということで、姫皇たちはもう休んでいることだろう。軽く食べた果物の味を思い出し、裕一は勢いよくベッドに腰掛けた。主の無体な扱いにもめげず、ベッドさんは裕一の尻を健気に受け入れ、その衝撃を身体全体に伝播させた。ふかふかである。あの高級宿にも劣らぬ感触に、裕一の頬は緩みっぱなしであった。
脇に置かれた水差しを口に含むと、半径十キロを警戒する術式を組み上げ発動する。先ほどの暗殺者っぽいものたちが再度襲ってくるとは限らないが、念には念を入れておいたほうがいい。
直ぐ隣には姫皇の部屋、真正面にはオルガの部屋。あとはほぼ無人で、この区画は使用人以外の気配は感じなかった。常時警戒モードに切り替え、裕一は瞑目する。
『へえ、監視者はいないのね。てっきり、二、三人はつくと思ってたけど』
「そんなことを考え付く余裕がなかったんじゃない? 慌ててたみたいだからね、あのお役人」
行宮長の狼狽っぷりを思い出し、笑いをかみ殺すのに苦労した。普通、自分のような怪しさ大爆発の人間なら、監視の一人や二人つけられるのは当然と考えていたのに、何だか拍子抜けである。
「せっかく幻術見てはいけないものシリーズを用意したのに」
近衛魔術師の部屋で、何故かこの屋敷で有名な美形執事たちがくんずほぐれつする場面とか、行宮長が美少女メイドによって言葉攻めされているびしばしエスでエムな光景とか。考える限りの悪戯が無駄になってしまった。残念である。
まあ、これはいつかかますために置いておくことにしよう。無念を押し殺して肩をすくめた。
「さて、それじゃあと」
しばし虚空を見つめると、裕一は遮音結界と通常結界を部屋全体に張り巡らせた。監視者がいないとはいえ、念には念を。油断は世の皆様の天敵である。
――魔力展開。第二術式回路を開放し、次元歪曲バイパスへの接続を開始。暗号コードは二・〇を使用、中継点を介さず直接通信へと設定する。
裕一の目前で、複雑怪奇な術式群が円を描き固定化されていった。光の乱舞はしばし薄暗い室内を照らし、調度品があちこちを行きかう影につながれた。
円の中心に、長方形が投影された。それはしばしノイズにまみれた顔をさらしていたが、時間が経つにつれて象をなし、暗い闇を背景とした美しい少女を生み出した。裕一は虚空に浮かんだ娘の絵に片手を上げる。
『はい、こちら『魔法使いによる世界征服組織』通信管制部。本日はどのようなご用件でしょうか、神崎施政官』
「やあヘルネ。元気そうでなにより。悪いけど、矢崎教授を呼び出してくれない? 割と至急」
『了解。最優先暗号回線を開きます』
通信管制型電子精霊ヘルネが数度頷くと、魔法陣に包まれた小窓の光景ががらりと変わった。うず高く層を成す本の山、山、山。一見無秩序で実際統制の取れていない書籍に埋もれる形で、一人の少年がこちらを見据えるように上半身を映し出していた。年齢は自分と同じ。茶味がかった髪、よく下のものから愛くるしいといわれている童顔は、しかし深い知性を纏った老賢者のように落ち着いた空気に包まれている。
ハーフフレームの眼鏡が光の加減で煌いたように見えた。彼は裕一の顔を見るなり、目元を歪めて大きな溜息を吐く。
「はい、教授! いきなりそれはひどいと思います!」
『……第一声がそれかね』
画面の中で少年はげっそりしたようにこめかみを押さえた。元老院議員の一人にして『魔法使いによる世界征服組織』所属大魔法使い、矢崎直博。本来ない役職にもかかわらず、その卓越した知識と見識によって教授の名で親しまれている、裕一の親友であり同期である少年だった。
『征服』最後の良心、常識人の中の常識人、ベストオブ苦労人、胃痛は人生の友。灰汁の強いというか、性格破綻者の集う『征服』において、裕一と並ぶ普通人である。
『君が普通ならば、およそ殆どの魔術師が普通と呼ばれることになるだろうがね』
「いやいや、僕なんぞまだまだ下っ端でさぁ」
まあいい、と若き碩学は苦笑した。手元に詰まれてあったと思しき本を片付けつつ、彼は疲労感をたっぷりまぶした声音で問いただす。
『それで? 『征服』の仕事をほっぽりだして、今度はいずこのバカンスを楽しんでいるのかね? 私としては可及的速やかに帰還して、書類という名のゲレンデで思う存分スキーに興じていただきたいのだが』
「書類のゲレンデって、君まだ僕が出かけて二日しかたってないのに」
『もう二日だよ。『征服』事務処理に関して決裁権を持ち、なおかつ書類整理を行う奇特な人物はさほど多くないのでね。一人抜けるだけでも洪水のようさ』
顔は笑っているが目が笑っていない。気のせいか、彼の背に負われておる書籍の山が、蜃気楼のように歪んで見えた。怨念という名の灼熱の日差しが、遠く離れた裕一にも降り注いでいるかのようである。
「まあまあ、若いころの苦労は買ってでもしろっていうし。大魔法使い様ともなれば、下々のお仕事を肩代わりするくらいの気概を持たないと、ねぇ?」
『君がとっとと大魔法使いへの昇格を受け入れてくれれば、私の苦労も半減されるのだが。一体何年先延ばしにするつもりだね?』
「無論、死ぬまでさ!」
さわやかな笑顔でいったつもりだったのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。矢崎教授は眼鏡を外し、目頭を押さえた。いやだって、彼以外の『征服』所属大魔法使いって全く仕事しないんだもん。いわく「…面倒」「このプラモ作ってからね」「新作のケーキ考えるの手伝ってください」「孫どもの世話が忙しい」「ここで落としたら……ッ! 島サークルに逆戻り………ッ! それだけは、それだけは阻止しなければ……ッ!」である。うん、これ無理。なんていうか色々と無理。
「あの爺婆連中に押し付けられるのなんて御免こうむるよ」
その押し付けられた張本人は否定も同意もしなかった。何かいいたそうにしているが、言葉が出てこないという様子である。しばし口元をもごもごさせていたものの、やがて何かを諦めたかのように息を吐いた。
『まあ、愚痴だ。忘れてくれ。それよりも、君は一体どこにいるのかね? 旅行その他なら、事前に申請してくれると有難かったのだが』
「いやー、ちょっと身内のごたごたでね。座標データと経過報告書送るから、ざっと眺めて頂戴」
手元に魔法陣の形をしたコンソールを浮かべると、さっと指を躍らせて次元送信を開始する。三十秒ほどでちゃちゃっとまとめたものであるが、今回は私文であるので大丈夫だろう。公的なものは、あとできちんと送ればいい。
データが送信されると、矢崎教授がしばし目を閉じた。記憶野に格納された各種報告に目を通しているのだろう。五秒ほど沈黙が幅を利かせたが、それは少年の驚愕によってこてんぱんにされてしまった。
『封鎖世界、それもB‐3未確認世界だと!?』
「まったく、驚いたの何の。馬鹿弟を追ってきたら、封鎖世界に繋がってるんだもん。何の冗談? て思ったね」
『…なるほど。これなら、君からの事前通告がなかったのも納得できる。封鎖世界への侵入など、数百年にあるかないかだ。しかし………これはまた』
「なおりん?」
苦虫を噛み潰したように押し黙る矢崎教授を、裕一は不思議なものを見るように目をしばたたかせた。学者仲間の親友なら、目の色を変えて飛びついてくるかと思ったのに、反応が些か鈍い。
『ああ、すまない。少し偶然というもののいやらしさに嘆いていただけだ。いやはや、しかし何ともまあ』
いまいち要領が得ない彼の様子に、小首を傾げるしかなかった。
「ごめん、何をいっているのかわからないんだけど」
『…実は昨日、元老院で臨時招集がかけられてね。その議題の中に、B‐3未確認世界の調査決議が盛りこまれていたのだよ』
今度は裕一が瞠目する番だった。一瞬、自分を使うつもりなのかという考えが頭を掠めたが、それはゼロコンマの間を持って否定される。元老院は裕一が封鎖世界にいることを知らなかった。ならば、別の可能性。
「…僕以外の誰かが、この世界への侵入を果たした。そういうこと?」
『ああ、それもおそらく、君の使用した次元回廊を用いた公算が極めて高い。短期間に複数の入り口が開くような確率はほぼゼロに近い』
となると、あの周辺に何らかに所属する魔術師がいたということである。少し予想外だった。ご町内は狭いようで広いらしい。アンビリー。
「主導組織と、派遣員の情報は?」
『主導するのは『真正旗連合』。人員のほうは不明だ。一人か、あるいは複数か。不幸中の幸いになるかわからんが、少なくとも魔法使い級以上の派遣は確認されていない』
世界間移動は超高等魔術。下手をすれば魔法の域に足をかける技法である。下位魔術師ではあり得ない。ならば、必然的に幹部かそれに類する化け物たちということになるが。
「考えられるのは、十二聖剣の誰かかな?」
『少なくとも、我々はそう見ている』
『旗』最高評議会直属の上位魔術師で構成された十二聖剣。いかにも重度の厨二病罹患者であり、各騎士団を統率する彼らは魔法使いに次ぐ実力を持った、連中の大幹部である。ちなみに、全員美形だった。
「ふ、『旗』もこれから大変だね。貴重な幹部級が一人あるいは何人かお亡くなりになるなんて」
『…待て、何を考えている』
「はい、教授! イケメンは死ねばいいと思います!」
『まだ派遣員が男性と決まったわけではないだろう!?』
悲鳴に近い矢崎教授の声に、はっと裕一は我にかえった、そうだ。十二聖剣に直接あったことはないが、中には見目麗しい美少女やお姉さまも含まれると聞いている。であるならば、この機に色々とお近づきになることができるやも知れない。美少女騎士、気の強いツンデレか、はたまた絶対零度のクーデレか! でもクーデレは奥さんがいるので、できればツンデレがいいな!
『あら、何時私がデレたのかしら? この世には捏造は死刑っていう法律があるそうだけど』
「すんませんでした!」
『…相変わらず、仲のいいことだ』
念話を傍受していたらしい碩学が苦笑した。そうだ、見よこの夫婦円満を。倦怠期など微塵もないわ。
『とにかくだ。『旗』が調査を開始している以上、我々としても何らかのアクションをとらざるを得ない。しかし彼らがどのように封鎖世界へ足を踏み入れたのかわからないため、具体的な行動にも移せない。さてどうしたものか、と考えていた矢先にこの一件だ。驚くなというのが、無理な話さ』
「つまり、僕にこの世界を調査しろと。そういうわけ?」
『既に『征服』の統括委員会も了承済みだ。先ほどの報告書を転送したら、皆諸手を上げて歓迎していたよ』
うげえ。裕一は隠すことなく不満の意を表明した。こちとら弟と幼馴染を連れ戻したらとっととおさらばするつもりだったのに、何仕事押し付けてくれとんのじゃワレ。今の心境は大体こんな感じである。しかし、どれほど嫌がったとしても委員会を通された以上、これは正式な決定ということであろう。下位魔術師なら拒否もできるのだろうが、さすがに魔法使い級ともなればそれもできない。つくづく、偉くなるものではないと思い知らされた。
「…わかった。了承するよ。でも、仮に『旗』との交戦が予想された場合、容赦なく粉砕するのでよろしく。特にイケメンなら」
『…『大樹』ならともかく、『旗』がそんな無体をやらかすとは思えんがね。まあ、自衛ともなればやむをえないさ』
「よし、言質取った」
これで派遣員がイケメンだった場合、全力を持って爆殺できる。全野郎の敵はすべからく滅ぼされればよいのである。
『くれぐれも、自衛を前提にしていることを忘れないでくれ。自衛だ、自衛!』
「ふふふ、わかってるよなおりん。攻撃は最大の防御! 即ち僕の攻撃は皆自衛さ!」
『全くもってわかってないと思うのだがね?』
美少女騎士なら協力でも何でもしようじゃないか。美少女は人類の宝。これを害することなど誰にもできないのである。
「じゃあ、ひとまずそれは置いておくとして。ちょっと頼みがあるんだけどいいかな」
『何だね?』
「さっきの報告書に、結界術式が添付してあったでしょ? あれを解析班にまわしといてくれない?」
そういうと、矢崎教授は意外なものを見たかのように眉を跳ね上げた。瞼を幾度か瞬かせ、不思議そうに呟く。
『結界というと、例の『テレノーラ結界』とやらの術式かね? それはいいが、珍しいな。君が自分で解析しないなど』
「それができれば苦労しないんだけどね。さっきちらりと見てみたんだけど、ちょーっとややこしい作りしてるよ。解析防止のプロテクトまでかかってる」
少しの悔しさが胸のうちから湧き上がってきた。この世界の文明レベルから考えて、さほど苦労しないだろうという慢心はあっさりと挫かれてしまった。式をさっと眺めただけでも骨董品という印象は変わらないのだが、それでも内容は緻密を極めた一種の芸術品といえる。詳しく調べようにも、解析魔術に対抗する文言が刻まれているらしく、手持ちではどうしようもなかった。調べるには、それなりに整った施設が不可欠であろう。
「時間をかければ可能だろうけど、生憎とその時間がなくてね。ならいっそ、解析班の肥やしにしてしまおうかと」
『なるほど。君にそこまでいわしめる程の術式なら、彼らもいい経験になるだろう。了解した。そちらは私が責任を持って遂行しよう』
「うん、お願い。…ところで」
仕事の話を終え、裕一はじろりと矢崎教授を見つめた。可愛らしい童顔、上半身を見つめると、大きな溜息をつく。
「なおりん。またやせてない?」
『ん? いや、以前とさほど変わらないが?』
「嘘だね。前よりもちょっとやつれてる。ちゃんとご飯食べてる?」
『食べているとも。今だって食事中だったのだからね。ほら、これが証拠だ』
矢崎教授は傍らから彼のいう食事とやらを取り出した。見せ付けるように出されたそれを、裕一はいい知れぬ戦慄と共に眼に納める。
「なおりん。それご飯じゃない。それ点滴だから」
碩学の手に握られた透明な液体パックは、ゆっくりと中身を雫と化して少年の身体へと納めていた。なにこれありえねぇ。自他共に認める美食家であった裕一は、信じられないものを見るかのように手で顔を覆った。昔から、この研究馬鹿は食事を蔑ろにする奴だった。ひとたび没頭すると、その間の生命維持活動を放棄するのである。以前、一週間経っても研究室から出てこないことを心配した裕一率いる有志一同は、げっそりと頬をこけさせた少年を無理やりに外に連れ出したこともあった。
最近は自宅のお隣さんの食事に呼ばれるようになったらしく、少しは改善したと胸をなでおろしていたのに。
「直ぐに教え子か誰か呼んで、ご飯作ってもらいなさい。いやだめだ、君がそんなことするわけない。誰か! 誰かこの阿呆に食事を作ってあげて。じゃないと死んじゃう、死んじゃうから!」
後半は『征服』全部署に通信を開放した。刹那の間をおき、どたんばたんと矢崎教授の周辺が騒がしくなった。皆知っているのだ。この常識人が、ほっとくと冗談抜きで餓死するまで研究を続ける奴だと。
『教授! またこんな所で本に埋もれて! さ、食事に行きますよ!』
『仕事なんて僕らが後でまとめておきますから! お願いだからご飯食べてください! 滅茶苦茶やつれてるじゃないですか!』
『て、点滴って、また貴方はこんなことして! ああもう、直ぐに料理部に連絡して! いやむしろあたしが作る!』
『き、君たち? いや私は今仕事中というか、研究の途中なのだが』
『そんなこと知りません! ご飯食べない子は研究禁止!』
『わ、私は一応上司で。ああこら、何をする!』
あっという間に矢崎教授は簀巻きにされてしまった。小柄な彼は女性でも運べるようで、おさげが可愛い少女魔術師に小脇に抱えられて部屋を出て行ってしまった。『待て、まだ波導術式の微調整がああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ』などという言葉がエコーかかって聞こえた気もしたが、おそらく気のせいであろう。
『それでは神崎施政官! 通報、ありがとうございました』
「今度は目を離しちゃ駄目だよ。あの阿呆は油断するとすぐ研究に没頭するから」
『はっ!』
画面に映った少年魔術師は一礼して回線を切った。そういえば、彼は以前の研究室突入班で一緒になったな。『征服』は人数が少ないため全構成員と係わり合いがある。名前も顔も、好きなものも網羅していた。がんばってくれ、と心の中で敬礼する。
もう寝よう。コンタクトを外し、裕一はベッドに侵入した。どうか、帰った頃には碩学のふくよかな顔が見れますように。