十七話 ぐだぐだな説明は疲れるだけ(裕一編)
最初に浮かんだ単語は、「は?」であった。姫皇は目を丸くして数秒間、裕一の台詞を吟味する。暖かなお茶の湯気が唇に触れ、鼻腔が蒸気に満たされた。一口すする。苦い。ジャムくらい用意させるべきだったと、姫皇はわずかな後悔にさいなまれた。
「すまぬ。もう一度いってくれんか?」
「だから、僕は異世界人だったのじゃー、と」
異世界人。空いている手でこめかみを押さえた。異界、異世界、異なる世界。単語の意味としてはかろうじてだが理解できる。しかし、その中身というか、心がいまいちしっくりこなかった。掴みあぐねた感覚が、振り子のようにゆらゆらゆれた。困惑が顔に出ていたのか、裕一が小首をかしげて尋ねてくる。
「ひょっとして、平行世界とかの概念がなかったりする?」
「いや、うむ」
「姫様。もしや裕一様がおっしゃっているのは、『泡に連なる世界』のことではありませんか?」
音を殆どたてずにカップをソーサーに置いたオルガが、思い出したかのように呟いた。背筋をきちんと伸ばしたその姿は品位に溢れ、家令の身なりでありながら隠しようもない高貴な輝きに満ちている。これが幼児趣味の変態だと誰が思おうか。外見は中身を表す、あれは嘘である。
「オルガ殿。『泡に連なる世界』って何?」
「以前、正妃様の近衛魔術師殿からお話を伺っただけですので、わたくしも詳しいことまでは存じ上げません。かの者のいうには、『世界は一つの泡の中に納まっており、それらはまるで水中にある気泡のごとく数多の重なりを持って存在している』という途方もない話だとか。正直、わたくしには一割も理解できませんでした」
「ああ、それそれ。若干の修正はいるけど概念としてはそんな感じかな」
裕一は興味深そうに瞳を輝かせた。姫皇はこの本当にわずかな触れ合いだけで、彼の本質が学者であることを察していた。以前自分に皇帝としての帝王学を施した教師が、これと同じ目をしていたことが思い起こされる。人一倍の好奇心と、その欲求を押さえようともしない行動力、両者の纏う気配は一種独特で、気配を察することなどできない姫皇でさえその一致が見て取れた。
「それにしても『泡に連なる世界』か。面白い例え方だね。今度提唱者でも探してみるか…。まあ、それはともかく。そんな感じで理解してもらえばいいと思うよ。理屈は抜きにして『そういうものである』と考えて」
「うむ。善処しよう。では、お主はこことは別の泡からやってきた。そういうのじゃな?」
実際は未だぴんと来ていないのだが、裕一のいうとおり「そういうものだ」と納得することにした。この世の全てを意味づけるなど、傲慢以外の何物でもない。
「なるほど。これで幾分か納得がいったわ。お主の不可解な魔術、理解できなくて当然というものじゃ。何せ、そもそも我らの知らぬ概念を持って構成された技術なのじゃからのう」
そう考えればつじつまが合うのである。不可能とされた多属性魔術の使用、呪文詠唱の破棄。あまりにも自分たちの常識からかけ離れた技術も、根本的な部分でこの世界の魔術と『違う』ものであったのなら起こりえることもあるのだろう。
そして、それがここよりもはるかに進んだものであるということも、何となく察せられた。世界を渡るなど、まさしく姫皇の想像限界を突き抜けてしまう事象である。
「異界の魔術、ですか。何やら壮大なお話になってまいりましたな。では、裕一様の世界では、このように世界と世界の垣根を越えることも可能であると。そういうことでしょうか」
オルガも同様の回答に至ったのか、興味深そうに尋ねていた。表情を見る限り、警戒や畏怖とは無縁である。少し安堵した。これが原因で側近に仲たがいをされでもしたら目も当てられぬ事態になっただろう。恐るべし、変態の絆。
「全てが全て、というわけではないけれど。僕の世界も複雑でね? そもそもの問題として、僕らの文明はその過渡期段階において、魔術という技法を見限っているんだ」
告げられた内容は、姫皇を驚愕の海へと叩き落すに十分なものだった。動揺を顔に出さぬよう、幾分ぬるくなった茶を口に含む。白いテーブルクロスに落とされた紅の輝きがゆれた。心を落ち着けるように、微風で身を躍らせるろうそくの焔を瞳に移す。
帝国で生まれ育った姫皇にとって、魔術がないという生活は考えられないものだった。魔術師は存在理由が国防にあるものの、平時においてその力は民生にも向けられていた。土壌の開発、砂漠の緑化、水不足時の給水。民の生活基盤を支えているのは、間違いなく彼らの魔術であり、魔道具による恩恵であった。それがないとは、いったいどういう世界なのだろう。
「話してもいいけど、かなり長くなるよ? それでもいいの?」
「かまわぬ。どうせお主やお主の属する組織とやらのことは、詳しく知りたいと思っておったところじゃ。これはむしろ好都合というものであろう?」
「話の断片から情報を取り入れ、活用するために?」
わかっておるではないか、と笑うと裕一は楽しそうに噴出した。こういった軽口しみたじゃれあいは、彼の好むところであるらしい。オルガがそれを見て、微笑ましそうに目じりを下げていた。
「色々と原因はあるんだけど、最も大きな理由は魔術が使う人間を選ぶということ。使える人間か、使えない人間か、なんていう極端なことはなかったけど、それでも使用者の才能によって出力が変わる技術だからね。安定性を求めた先人は、どんな人間でも使用可能な、科学という技術を選択した。宗教とかほかの理由もあるけど、長くなるから割愛。かくて魔術は失われ、その残滓が物語に散らされているのみとなったのさー。少なくとも、文明としてはね」
「…待て。お主、いっておることが矛盾しとるのではないか? お主の故郷に魔術がないのであれば、お主が使っているそれはなんじゃ? そのカガクなる代物か?」
「いや? 普通に魔術だね」
「…もったいぶらずに話せ」
「もったいぶってるというよりか、理解できるように順序だてて話してるだけなんだけどね。さて、僕らの世界は魔術を放棄したことで、その技術を失った。でも、全員がその方針に従ったわけじゃなかった。何時の世にも、変人という名の紳士はいるものなのだよ、ワトソン君」
「ワトソンとは誰じゃ」
「言葉のあや、言葉のあや。紳士たちは世から見捨てられた技術を惜しいと思った。このまま消し去るには、魔術の持つ可能性はあまりにも大きい。彼らに護られる形で、本当に細々とだけど、失われるはずだった魔術は護られることになった」
「…ふむ。それが、お主たちのルーツというわけか」
「ぶー、ぶっぶー」
確信を持って呟いた台詞は、しかし裕一の嬉しそうな否定によってつき返された。にこにこと、それはそれは楽しそうに喉を潤して笑っていた。
「はて。お話を伺っている限りでは、その紳士方のお力で魔術は護られたと思われるのですが。違うのですかな?」
「違いまーす。さっきもいったしここでもそうだけど、魔術は使用者を選ぶの。特に、古代や中世といった時代の環境では、魔術を学べる人間なんてあまりにも限られすぎていた。最初の頃はともかく、継承段階での誤解や歪みなんて日常茶飯事、魔術は徐々にその系統が狂っていき、冗談抜きで使用者が一人だけ、なんてこともあったそうだよ」
お茶がなくなった。手持ち無沙汰にカップを振っていると、裕一が指をぱちんと鳴らす。刹那、白い陶器に紅色の液体が並々と注がれた。びっくりして、がちゃんと乱暴にソーサーを鳴らしてしまう。
「…この歩く荷物袋め」
「お礼じゃなくて罵倒がくるとは。おのれゆとり教育」
「何の言葉かは知らんが馬鹿にされていることはわかった」
おそるおそる、口に含んでみた。今までに味わったことのない甘さと清涼感が姫皇の舌で舞踏した。うまい、と思わず言葉が漏れてしまう。
「ペットボトル紅茶でそこまで喜んでもらえるとは、光栄の至り。オルガ殿も如何?」
「ご相伴に預からせていただきます」
もう一度、指を鳴らした。今度は想定できていたらしく、オルガは慌てることなくカップを唇へと運んでいった。
「論議に飲み物は必須だね。じゃ、話続けるよ。完全に失われることはなかったものの、魔術という技法は衰退の一途を極めた。その概念を知るものや研鑽を積むものはいれど、使用できるものはほとんどいない。そんな状態の僕らの世界に、しかし唐突な転機が訪れた」
一息つく。裕一は自分のカップにも茶を注ぎ、一気に中身を飲み干した。喉を潤し、唇が動く。
「ここで話をちょっと戻そう。さっき、世界は無数に存在するという話をしたね?」
「うむ、泡の世界じゃったな」
「そうそう。それらの世界の中には、想像を絶する文明を発達させたものがいくつも存在していた。魔術、あるいは科学のね。そして高度に成長した技術はやがて世界の境界を越えることに成功し、複数の平行世界を勢力下に置く文明が現れ始める。
さてここで問題です、姫皇様。このような帝国主義的な――ていっても通じないかな? ようは資源獲得なんかの拡大政策ね――状況において、起こりえる現象を簡潔に答えなさい」
「決まっておる。相互利害の不一致による勢力争い。つまるとこと、戦争じゃ」
「ご名答。…今から約千年前、最大勢力であった『螺旋の大樹』と、そこから独立した植民世界勢力『真正旗連合』との抗争を皮切りに、次元移動が可能であった全平行世界を巻き込んだ戦乱が巻き起こった。後に次元間大戦と呼ばれる戦いがね。詳しく語ると一日じゃすまなくなるから説明は省くけど、いろんな意味でもの凄かったらしいよ。規模も…犠牲者も」
ほんのわずかだけ、声のトーンが落ちた。姫皇はそれに気づかぬふりをして、無言で続きを促す。
「その中でも最悪にして最大の影響を与えたのが、『ヴェールスヘイムの落涙』。あることがきっかけで世界そのものが爆弾へと変じ、自分の身どころか隣接する平行世界が軒並み崩壊した、戦史上最大の悲劇と呼ばれてるいもの。
そしてこれが、僕らの世界に訪れた変革の始まりだった」
☆☆☆
かつてヴェールスヘイムと呼ばれた世界で起きた事件の詳細は第一級指定に類する機密事項であるため、魔法使い級以上のもの以外には情報開示が許されていない。そのため裕一は肝心な部分――いかにしてそれが起こったのか、誰が何の目的で起こしたのかという部分を省いて説明せざるを得なかった。しかし、今は話の大筋になんら関与するものではないため、さほど気にする必要はないだろう。
「爆発の余波は比較的はなれた位置にあった僕らの世界にまで到達し、影響を与えた。といっても、さほど大規模ではないものだったけどね。巻き込まれた当人たち以外にとっては」
アルトハイムのように全人口の九割が死滅するほどの地殻変動が起きたわけでもなく、物理法則の崩壊によって灼熱の地獄と化した亜華琉のようなこともなかった。ただ、ほんの二百名ほどの人間が次元歪曲に巻き込まれ、血みどろの戦争真っ只中にあった前線世界に飛ばされただけである。
姫皇の目もとが歪み、オルガが静かに瞼を閉じた。裕一はコンビニで買ったアイスティを注いだカップを傾けた。透明なレモン色の安っぽい味が、一応は遠く離れた故郷を思い出させる。帰ろうと思えば帰れるけど。
「場所どころか時間軸さえ問わず、人々は見ず知らずの世界に放り出された。あるものは全く同じ時代から、あるものは気が遠くなるほどの未来から。飛ばされた先の時間さえてんでバラバラで、中には数万年前の世界に送られた人もいたそうだよ」
考えてみると、彼らの境遇は弟たちと似ているように思える。もっとも、勇者と盛り立てられ、魔物の危険はあるものの当初から国家の支援を受けられる奴らと、身の着のまま戦場に放り出された連中の立場が同じであるとは考えられないが。
いつの世も、起こる出来事の質は変わらないのか。微妙な気分が溜息となって口から漏れ出した。
「本来ならば平穏な日常を過ごしていた一般市民が、何の係わり合いもない殺し合いに巻き込まれる。普通なら五秒で殺されたって仕方のないできごと――のはずなんだけどねぇ」
しかし、彼らは生き残った。ゴキブリ並みの生命力と、忠実すぎる生存本能は、弱く幼かった彼らに圧倒的な技量を身につけさせたのだ。そしていつしか、幾人かの人物たちを中心として、生存を目的とした技術共有並びに相互支援のための組織が結成されることとなる。相当未来からやってきた狂乱科学者によるぶっとんだ機械技術、あまりに社会能力がなかったため引きこもって研鑽を積んでいた数少ない正統継承者であった魔術師の魔導技術、各発展世界からぱくった先進技術、魔法使い、大魔法使いによる絶対的戦力と抑止力。
自分たちの、自分たちによる、自分たちのための国家にして、究極のエゴイズムに満ち満ちた家。名を、『魔法使いによる世界征服組織』という。
「無茶苦茶なネーミングセンスじゃの」
「奇遇だね。僕もそう思う」
名付けた奴の感性を疑ってしまう。柚木並みにぶっとんだ名づけを行う人間がこの世にいたとは、その話を聞いたときは随分と深い感慨に浸ったものだった。だって、メスの双子ゴールデンレトリバーに太郎丸と次郎丸なる名前をつけるような女である。本人――本犬?――たちは喜んでいたから何もいうことはなかったが。
「まあ、その後諸々のことがあって、戦争は終結。その中心的な働きをした三勢力、『旗』『大樹』『征服』によって協和的国際機関である『平行世界連盟』が発足したの。元老院と呼ばれる大魔法使い級の議会を最高意思決定機関に持って、各世界間の調整役としてその体制は現在も続いてるよ。一応、僕も出向という形で在籍してるしね」
もっとも、裕一は肩をすくめて苦笑した。各世界が参加しているといえば聞こえはいいが、事実上は三勢力による一極支配ならぬ三極支配であるのだが。地球以外に支配域を持たぬ『征服』は除くとして、現在の次元地図はその殆どが『大樹』『旗』のどちらかに帰属している状況である。あとは数少ない中立世界あるいは次元移動能力を持たぬ世界か、次元断層の影響で未だ足を踏み入れることができない未踏破不可侵領域か、この世界のように鎖国状態にある封鎖世界があるだけだった。
「そんなわけで、オルガ殿の質問の答えになるけど、僕らの世界はまだ発展途上地に分類されているものの、『征服』という一部の突出した機関を持つという意味不明な状況にあるわけです。以上、説明終わり」
あー、長かった。裕一はテーブルクロスの感触を頬で受け止めた。気だるい疲労感に襲われたものの、こういった知にまつわる議論での疲れはどこか心地がいい。のべーっと突っ伏していると、姫皇がぽつりと呟きを持たした。
「スケールがでかすぎて、ついていけんわ」
「姫様、別段ついていかねばならないお話でもありますまい」
「そうそう。この世界は封鎖世界なんだから、あんまり外と係わり合いになることもないでしょう」
「――そう、それじゃ」
ろうそくが揺れた気がした。裕一は腹に力を込め、怠惰を相手取って戦闘を開始する。背を椅子に預ける形で起き上がり、銀の少女をゆっくりと見つめる。
「魔法使い、つまりお主のいう平行世界の中でも最高位に座しているはずのものが、何故にこの世界を訪れた? その理由を、まだ聞いておらん」
その質問を待ち望んでいた。裕一は自らの知識欲が大きくあぎとを開けたことを感じ取った。
「その答えを話すためには、君の持つ情報が必要になる。というわけで、きりきり話して頂戴」
くすり、と笑みが漏れる。抑えようのない愉悦が体中を駆け巡っているのだ。
「そう、君という魔王なる存在と、災厄の勇者とかいうもののお話を、ね?」
ちなみに、お馬さんはきちんとご飯を貰ったそうだ。探査魔術に彼の歓喜の思念が引っかかってきたのである。
チラ裏が主体の今話。
ちょっと性急すぎた気がしないでもないです…orz




