十三話 誰でも使える技術が良い技術
落ち葉のはぜ割れる音が淡々と、しかしとても素早いリズムで姫皇の耳を震わせた。黒い執事服の大きな背中からの光景は、中々にスリリングである。びゅんびゅんと視界を通り過ぎていく黒緑の枝葉は、ともすれば突風に舞う自慢の銀髪を絡めとろうと手足を伸ばしているかのようだ。
そういえば、小さいころはよく爺に背負われて庭園を散歩したものだ。場違いな感慨がふと胸をさす。自分が大きくなり、オルガが年を重ねるにつれて行われなくなった親愛の行為が、逃亡の一助になっているとは何とも皮肉な話である。
「ふむ。現場から離れて久しいというのに、身体は衰えておらぬようじゃな」
「何をおっしゃいますやら。背にかぐわしき姫様を負っているのですぞ? 絶えず吸収される美少女分がある限り、わたくしに引退の二文字はありませぬ!」
「とっとと隠居せい大たわけ!」
馬もかくやという速度で駆け抜けているにもかかわらず、オルガの声に疲労の色はない。一体どんな体力をしているのか、姫皇は呆れた気分で白髪の後頭部を見つめた。…よもや本当に美少女分なる意味不明な物質を吸収しているわけではないだろうが、幾分か身体を忠臣から離すことにした。
すると見る見るうちに、速度が急降下線をなぞってしまった。
「嗚呼、何と御無体な! わたくしを心臓麻痺でお召しになるおつもりですか?」
「お主、本当に美少女分とかいうものを吸っておったのか!?」
姫皇は信じがたい思いでオルガを見つめた。その間にも闘争速度は落ち続け、木々に囲まれているものの多少は開けた場所にて停止してしまった。
「爺、いくらなんでもこの非常時に――」
「姫様。囲まれました」
ふざけているのか、という詰問の声を上げかけた姫皇は、オルガの低い呟きを聞いて言の葉を飲み込んだ。さっと表情を引き締め、彼の背からゆっくりと降りる。がさごそ、がさごそ。獣のように茂みを揺らしながら、四つの影が暗闇から躍り出た。自分たちを中心にして、正方形をかたどるように並んでいる。
「姫様、お気をつけなされませ。このものども、かなりの手だれにございます」
オルガの身体から、台風のごとき闘気が立ち上った。物理的に吹き付けられているかのような気の波に、姫皇の髪がわずかになびく。二、三歩、彼の邪魔のならないよう注意しながら、忠臣の隣に立った。
顔には冷笑、目には焔を、それぞれかくあるべしと意識して、姫皇は無粋な襲撃者たちを一人一人見定める。全身を覆う真っ黒な衣装は隙間なくぴっちりと肌に張り付き、一見すると一刃すら防げないように感じられた。だが姫皇は、それぞれの暗殺衣から微量の魔力を感じ取とった。
魔装具か。構成素材の艶、発される力場などからそう当たりをつける。敵の『職務』を考えれば、おそらく防刃効果といったところか。できるならば手に入れたいな。頭の片隅で、本能に程近い部分が呟いた。
「問うても無駄な気もするが、余は無駄だからという理由だけで切り捨てるような為政者ではないのでな、一応聞いておこう。お主ら、誰に雇われた?」
返答は、彼らの腰から抜かれたにび色の煌きだった。いかにも小回りがきき、剣速もありそうな短剣である。
「ふん、そのような安っぽい刃で余を殺いようとは。片腹痛いとはこのことじゃ。せめて聖剣リュケイアか、魔槍六朝七夜であれば、喜んで身を捧げてやるというのにな」
そこまで望まないまでも、自分を殺そうとするのなら一級品の魔装具を用意して欲しいものだ。あの美しい輝きになら、身を貫かれても砂塵ほどの悔いすらないというのに。
足をすり、重心を全くブラすことなく近付いてくる。覆面から覗く瞳の輝きは、何の色合いもない殺意で塗り固められていた。
「仮にも一国の皇帝を殺いるのじゃ。前口上くらい用意してもよいとは思わぬか?」
「――お命、頂戴仕る」
おお、言ってみるものだ。姫皇はわずかに瞠目した。目前に迫る男が、ただ一言だけ口を動かしたのだ。どうやら最低限の礼儀は――暗殺者という時点で礼儀もなにもあったものではないが――あるらしい。変な部分で感心した刹那、四つの黒衣が宙を舞った。つきの光を帯びた剣が、姫皇の血を吸いつくさんと舌なめずりをしている。
とっさにかわそうと身をよじろうとしたが、全方位ありとあらゆる位置から迫る牙からは逃れられない。多少の訓練は受けているものの、付け焼刃に過ぎない。その道の専門家に敵うはずがないのだ。
「――ふん!」
姫皇の眼前に現れたオルガが、四人全てに掌底を叩き込んだ。空中にいたため彼らは勢いを殺すことができなかったのか、吹きとばされ離れた地点に着地する。だが、ダメージはない。とっさに腕を交差させたらしく、すぐさま態勢を整え剣戟を繰り出した。狙いは姫皇から逸れ、オルガに向いている。
あの一撃のみで、彼がかなりの使い手であることを察したようだ。四方からの攻撃を難なくかわし、それどころか攻撃にまで転じることが可能。こと近接格闘戦において、オルガ以上の使い手は少なくとも帝国には存在しない。
武王ショタロリア。かつて帝国剣闘大会でその名を轟かせた彼のことを、殺し屋たちが知らぬはずはないだろう。以前彼が衆人観衆の中で見せた防衛術、遠、近を問わず十の剣闘士たちからの攻撃をはじき返したその技は、知らぬものなしとまで謳われていた。
――脅威数を正確に判断し、任務を達成するために確実な道を選んでいる。なるほど、確かに手だれであった。
「姫様」
「うむ」
一瞬だけオルガが微笑んだ。その顔を見て、姫皇はさっと身を翻す。背に冷たい刃の感触を感じたが、振り向くことはなかった。足に力を込め、大地を思い切り蹴り上げる。
あの四人は彼に任せて大丈夫なはずだ。だから自分は、もう一つの懸念事項を潰さねばならない。
魔術師がいる。おそらく、今こうしている間にもそいつは呪文を唱え続けているに違いなかった。いかなオルガといえど、魔術師に出てこられればひとたまりもない。魔術師の火力は文字通り桁が違うのだ。だが自分なら、意識してさえいればある程度対抗できるだけの魔力を持っている。無論無傷とはいかないだろうが、生き残る可能性が少しでも高いのはこちらだった。
まずは木々を遮蔽物とし、身を隠さねば。かすかに焦る心を押さえつけ、目前の森に飛び込もうと――
強烈な違和感を覚えた。
足が止まる。目の奥を針で突き刺したようなわずかな痛みが走った。首を振り仰ぎ、少し離れたところにある高い枝の先を見つめる。太く大きい、その気になれば成人でも昇れそうな緑溢れる枝であった。誰何の声をあげようと、喉を張り上げる。
瞬間、すぐ前を巨大な火球が横切った。
☆☆☆
「せふせふー、紙一重だね」
『素直に火球を撃墜した方が早いんじゃないの?』
ゆっさゆっさと跨いだ枝を揺らしながら、裕一は眼下に広がる修羅場っぽい騒動を見下ろした。魔王さんの鼻先を通り抜けた火球が木々を焼き、ベッドを追い出された鳥類の皆様方がお怒りの叫びを上げている。唖然とした顔で、魔王さんが燃えさかる焼け跡を眺めていた。しかしさっと動揺を抑えると、魔術の射出地点まで一気に駆け出す。
「いや、どのくらいのレベルなら気づかれるのかなーって思って。ちょっとした実験デスヨー」
裕一が新たに展開した魔封結界によって、魔術から漏れる魔力は一切合財外部と遮断されているはずだった。それを弱めて、彼女がどの段階で気づくかを見たかったのである。
大体このくらい、という中りはついていたので、魔王さんに迫っていた火炎魔術の軌道を予測しての実験だったが、どうやら推測は的中していたようだ。大変結構。
『当たってたらどうするつもりだったのかしらね?』
「大丈夫大丈夫。きちんと外部干渉して弾道は制御してたから」
黒焦げの美少女なんてマニアックな趣味など裕一には存在しない。焼くのなら健康的な小麦色にしていただきたいものであった。焼きすぎはただ醜いだけである。
「ま、おかげでこの世界の魔術をきちんと見させていただいたわけだけど」
探査魔術で火の魔術師を監視していたおかげで、その男が術を組み立てる動作を全身全霊で持って解析したのだが――
「うん、何ていうのかな。ぶっちゃけ、チャチい」
そのあまりの稚拙さに、ちょっとだけ度肝を抜かれていた。機械文明が発達していない状況から察するに、おそらく魔術文明が台頭しているのだろうと思っていたのだが、これはいくらなんでもひどすぎる。我知らず、大きな溜息が出た。
この世界における魔術のプロセスは、大まかにいって以下の通りである。呪文詠唱による術式の設定と、周囲の魔素の体内吸収。それを練成し、術として放出するという形であった。属性が限られた原因は、体内魔力の波長が吸収された魔素に干渉している結果であろう。魔力の質は人それぞれであるが、血液型のごとく一定の波形パターンがあることは一九八七年のブリュッセル学会で発表されたエルリッヒ=シュトールマン博士の論文『内的魔力における形質同位性』で明らかにされていた。
つまりこの現象で、魔素干渉による魔力の一定波形性を立証できたことになる。裕一の脳内では、既に次の学会で発表するための論文草案が組み立てられていた。学術的に、この世界の魔術は大きな収穫であった。
だが、こと技術面では見るべきところはない。超圧縮詠唱どころか、複合音声詠唱の最初期型すらできていないわ、長ったらしい呪文に比べて威力は低いわ、魔力収束は出来ていないわ、突っ込みどころだけでも列挙するのに一日はかかるはずだ。もう問題外。
他勢力に比べて技術的に千年は進んでいるといわれる『魔法使いによる世界制服組織』の魔法使いにとって、あれはもはや子供の落書きレベルのお話であった。
「ていうか、魔素に頼り切ってるっていう時点でもはや僕らとは系統が違うわけだしね。もともと比べること自体が間違いなのかもしれないけど…」
裕一が全属性を使えたことに対する疑問の答えがそれだった。そもそも、前提条件が違ったのである。
裕一の、すなわち『征服』式の魔術は体内魔力のみで術を構成する、所謂汎用型のものである。当然、外部からの供給に頼っている系統の術に比べて威力は落ちるが、長い研鑽の果てで術式の効率化が図られ、すでにその差はなくなっているといえた。魔素を使わなければ、属性にも縛られることもない。必要なのは知識と研鑽と、ある程度の魔力だけ。
才能に左右されはするが、基本的に誰でも使える技術。それが地球の魔術であった。
「ま、魔術も見れたし。そろそろ片付けておいとましようか」
『へえ、助けるのね』
「当然。美少女は世界の宝です」
無論、それだけではないが。口に出さずに呟いた。
あのハッキングがどういう意図を持って行われたのかは未だ持って分からない。だが、目的を推論することは可能であった。
裕一には一つの推測があった。そしてその推論を裏付けるためには、今魔王に死んでもらっては困るのである。