十話 魔王がいなかったら創ればいいじゃない
「魔王を訪ねて三千里。これだね」
空中の散歩――歩いていないけれど――はなかなか快適だった。飛行結界を調節した結果、程よい風量が顔を撫で回す。やはり飛んでいるのだから、無風よりは多少の風を感じていたかった。本日の作務衣である抹茶色の麻が風に身をはためかせ、袖がぱたぱたと軽快な音を鳴らした。
下を見ると、雲でところどころ途切れているが、一面に広がる田園風景と、黒々と肥えた土が地肌を覗かせていた。フランスとかの上を飛んだら、こんな風景が見られるのだろうか。海外旅行どころか国内旅行ですらめったにいけない裕一は、心のフィルムにのどかな光景を刻み付けた。
『でも貴方、ときどき平行世界に出かけることがあるじゃない』
「あれはお仕事。各勢力との折衝やら取っ組み合いやらで、観光してる暇なんかなかったからね。どうして僕みたいな下っ端がんなことせにゃならんのですかい」
『貴方、一応『魔法使いによる世界征服組織』の最高幹部でしょうが』
「あーあーあー、きこえなーい!」
最高幹部? なにそれ、美味しいの? 少なくとも裕一は幹部と呼ばれるようになっても何ら得するような出来事にあうことはなかった。むしろ仕事が増えただけである。大魔法使いどもは体よく仕事を押し付け、下からは引っ張りだこで身体がいくつあってもたりない。世の中間管理職たちはよくこんな状況で笑っていられるものであった。
大体だ。構成人数百二十六人、しかもその大半が地球出身の魔術師で、おまけに一つの世界も支配下においていない『魔法使いによる世界征服組織』が、並み居る並行世界勢力の三巨頭の一角というのがそもそもの面倒ごとなのである。支配世界を数百と持ち、構成人数が数万とも数億ともいわれる残り二つの勢力にはそれこそ人材が星の数ほどいるのだろうが、小規模な我が家には裕一を含め数人しかいない。『征服』の魔術師は粋人狂人と同類項なのであった。ガッデム。
「嗚呼、仕事ができて真面目でおしとやかで大人しくて生粋のお嬢様みたいな美少女の部下が欲しい」
『馬鹿じゃないの?』
天使様の罵倒が心にろうそくをたらした。熱さがまた刺激である。風に救われた目の汗が真珠のように宙を舞った。
田園地帯を抜けると、大きな河が視界に入った。河といっても、日本で見られるような狭苦しいものではない。それこそ大陸諸国でなければ見ることができない、それはそれは馬鹿でかい大河である。
「カメラもってくりゃよかった」
きらきらと太陽を反射する水面には、木の葉のように散らばる影が点在していた。じっと目を凝らすと、アーモンド型のシルエットが認識できた。
それが船だと理解したのは、はるか前方にいくつもの桟橋――港があることを認めたときである。停泊している木の葉がゆらゆらと揺れ、何本もの糸――多分もやいだろう――で繋がれていた。
「ええと、この河からエスパニア王国とかいう国だっけ」
出かける前に片っ端から記憶野に格納した本屋や図書館の書籍知識を呼び起こす。ちなみに全て立ち読みであった。傍目ではさっと本の表紙を撫でただけだから、立ち読みとすら認識されていないはずである。
魔王の住まう東の魔大陸。数々の伝承、古書が軒並みその地を魔城と扱っていることを突き止めた裕一は、せっかくだから一度魔王の面を拝んでみようと思い立った。理由はいくつかある。
一つ。根本的な問題として、自分の目的はあくまで愚弟と幼馴染を元の世界に連れ帰ることであった。しかし、奴らがこの世界に召喚されてはや二週間と一日。人一倍柔軟性が高いというかゴキブリ並みの適応力を持つ連中のことである。きっと勇者の使命とやらを何の疑問も抱かずに遂行しようとしているはずだった。そして、一度始めたことは決して投げ捨てないという生真面目さんの性格を考えると、「魔王を倒して世界を平和にするまで帰れない」と本気でいうに決まっている。熱血漢なんてろくなものじゃない。
仕方がないので、とりあえず魔王の様子を見て、弱そうだったら後ろからさっくりと刺してしまうことにした。この世界の魔王がどれほどの階級にあるのかは知らないが、大魔法使い連中より強いということはないだろう。以前、友人であり同期の大魔法使いが『ひのきのぼう』で魔王を倒す羽目になったとぼやいていたので、多分大丈夫だろうと高をくくっているのだ。
「まあ、油断はしないけどね。駄目なら逃げるか部下になればいいだけだし」
『ふーん。ま、いいんじゃない、別に? 困るのはこの世界の連中だけだもの』
さすがは天使様。話が分かる。部下になるか同盟を結ぶ。敵になるだけが道ではないのだ。というかこれが二つ目の理由である。
すなわち魔王と協力関係を結べるか否か検討することであった。
そもそもの問題として、裕一と魔王は別に敵対していない。敵対する理由などないからである。というかむしろ、利害関係だけでいえば一致しているとさえいえる状況であった。裕一は勇者たちを連れ帰りたい。魔王はおそらく勇者にいなくなって欲しいはず。なんという渡りに船だろうか。ならばいがみ合うよりも、魔物の軍勢でも貸してもらって、勇者たちの居場所を探してもらった方がずっと効率的ではないか。
そして三つ目の目的は――
『でも、本当に魔王なんてのがいるのかしらね。街での情報も要を得ないのばかりじゃない』
「それを確かめにいくんだけどね。まあ、魔物が活性化してるのは事実みたいだし、夕べのこともある。何がしかの手がかりくらいはつかめるかもしれないから」
『虎穴にいらずんば虎児を得ず、ってやつ?』
「虎穴かどうかすらわかんないけど」
雲の向こうに、青々とした輝きと砂色の刃紋が現れ始めた。間もなく海岸線である。青い海だ。裕一は何となくほっとしたものを感じた。赤や黄色の海というのはどうにもなれないのである。時折仕事で訪れる平行世界は海が白色だった。航空機から見た光景であるが、地球出身者としてはドン引きしてしまったことを憶えている。顔には表していなかったが、上司も同様だったのであろう。会談後の感想を述べると苦笑していた。
そういえば、元の世界ではもうすぐ夏だった。裕一は感慨深げに思い出す。この世界に四季があるのかどうかは知らないが、本日の気温は心地よい春うらら。海水浴にはまだ早かった。まあ、どうせ海水浴に行っても弟の逆ナンパを眺め幼馴染のナンパを眺め、挙句その両方の騒動に巻き込まれるだけである。昨年の夏を思い出し、裕一は涙した。
雲をつきぬけ、飛び続ける。あっという間に後方の大陸が見えなくなった。海面にトビウオっぽい魚の群れがアーチを描いている。すっと高度を下げ、その様子をマジかで眺めて見た。あちらにはネッシーもかくやという恐竜っぽいもの――竜種である――がのほほんと遊泳を楽しんでいる。
で? 何時になったら大陸が見えてくるの? そんな疑問を抱いたのは、トビウオさんすら同行を拒否するほどに距離をとった海域でのことだった。そろそろ太平洋を横断できそうな距離を飛んだのだが、未だ大陸どころか島の一つすら発見できずにいた。
移動を止め、裕一は虚空で静止した。ふいふよと浮きながら、結界の強度を引き上げた。海面の照り返しで日差しがきつく、少々汗ばんできたからである。
『ないわね』
「ないね」
予想された結果の一つにあったとはいえ、少しへこんだ。この一時間ほどが無駄になったこと、にではない。魔王という都合のいい手足がいなかったことにである。この世界の住民が聞けば泣いて怒りそうなことかもしれないが、これは裕一のまぎれもない本音であった。
「というか、コウとゆずきん呼ばれ損じゃん。そしてそれに踊らされた僕大間抜けじゃん」
それは困る。もの凄く困る。こんな勘違いのために元の世界でお袋様に哀れまれ、ファンクラブに追われ、やーさんに脅されたのか? 悲しすぎる。あまりにもそれは悲しすぎる。裕一は遠くの彼方を見やりながら呟いた。
「いっそ僕が作るか、魔王」
適当な魔王を召喚か創生するかして、この世界を支配させようか。九割がた本気で悩みだした裕一の心に、天使様が疑問の声をあげた。
『何かあるわよ』
「何の脈絡も聞き手に対する敬意も前置きすらないという、奥さんらしい指摘をありがとう」
軽口をたたきながら、しかしすぐさま周辺の探査に写る。天使様が異常を感じられたということは、自分の感覚器がその情報を受取っているということだ。探査と同時に自己情報を洗いなおす。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。ありとあらゆる情報の洪水を一つ一つ解きほぐしていった。
異常があった。これら互換に分類されない、第六的な感覚を発見した。刹那の間をおいて、探査術式がその原因をたたき出す。
「封鎖結界…? しかも、何て巨大な」
裕一は自分のはるか上方に、とてつもなく巨大かつ、強力な封鎖結界を発見した。そう、まるで大陸が一つ入りそうなほどの結界である。
「なるほど。巨大すぎて逆に気づけなかったわけだ。存在が大気レベルまで溶け込んでる」
ここまで大きく、かつ高度な結界は、空気中に広く横たわっている魔素とまぎれてしまう。真っ白な布地に黒点があれば目立つが、端ぎりぎりまで黒く染まっていると、黒と気づくどころかそもそも元から黒い布地と思ってしまうのと理屈は似ている。抽象的な例えだが、これが一番この状況に近かった。
再び飛行を開始する。結界に触れられるぎりぎりのところまで上昇し、すぐさま精密調査を開始した。光の魔法陣が目前に出現し、詳細なデータがスクロールされていく。
些か古臭い、というか骨董品っぽくあったが、それでも決して稚拙ではなかった。『征服』以外の勢力でなら余裕で現役を張ってそうな感じである。ただ、使用魔力の項を見たとき裕一は思わず噴出してしまった。
「なんという馬鹿魔力」
信じられないほど桁外れの魔力が結界を取り巻いていたのだ。発動に使用している、というだけではない。まるでそれそのものが一種の障壁に当てられているかのように循環していたのだった。
魔法陣を消し去り、記憶野で術式を構成する。これほどの魔力に正面から突っ込むなど愚の骨頂。いや、できないこともないがちょっと疲れるからいやだった。なので、それらを受け流し、結界に穴をあけられるよう術式を組む。使用魔力は最小限に、発声効果は最大限に。『征服』式魔術の大原則であった。
手のひらを天に向けると、足元に儀式魔法陣が描き出される。そのまま結界を包み込むように右手で触ると、何もない――視覚上ではそう見える青空が、ガラスを割ったように砕け始めた。隙間が開くと、裕一は崩壊部分を魔術で固定する。真っ青なキャンパスに、唐突に茶色が出現した。人が通れるほどに穴を拡大すると、その中にさっと身を躍らせる。
薄暗い茶の土肌が、裕一の頭上一面を支配していた。すっと近付き、巨大な土の塊に手を触れる。暖かかった。物理的な暖だけでなく、概念的な意味でもだ。
亜光速に近い速度で、裕一は天の土の端を目指した。こんな真下にいたのでは、全容を把握すらできないからだ。ものの数秒で天土の終わりが現れた。回り込むように上昇を開始する。
緑で覆われた大地が、虚空をたゆたっていた。浮遊大陸。まさにその言葉どおりの光景であった。浮かぶ岩塊にわずかな間自失する。しかしすぐさま探査術式を幾つか放ち、その地形の把握を開始した。魔法陣を浮かび上がらせ、コンソールよろしくそこに幾つかの情報を打ち込む。各所に飛ばした術式が瞬く間に形状を報告し、魔法陣の中心部に三次元的な映像として大陸図が作成されていった。
巨大な大陸、それこそ西のそれに匹敵する大地が一つと、その半分ほどの大きさの伴大陸が一つ。両者は別個に存在しているが、その最接点部分に小さな浮遊島のようなものが一つ。まるで一対の翼のような形だ。
探査終了の文字を見取ると、魔法陣を消した。
「どうしよっか、奥さん」
『さあ?』
もの凄くそっけなかった。裕一は苦笑する。だが、逆に考えれば彼女は自分の判断に全幅の信頼を置いているということだ。うんそうだ、そうに違いない。きっときっと、そうなんだ。
無理やり自分を納得させて、裕一は移動を開始した。目的地は、両大陸の間である浮遊島である。この結界に侵入したときから感じていたのだ。近付くにつれ、肌が引きつり髪がざわつく。
とてつもない魔力が、その島の中心点に座していた。
気づけば100ptとっぱしておりました。感謝感激!