一話 弟ちゃん、行方不明
弟が行方不明になった。
神崎裕一を含め家族がそのことに気がついたのは、奴と最後に別れてからおよそ二十四時間後のことだった。いつものごとく高校サッカー部なる汗と涙と青春の臭いがご自慢な活動で朝早くから出かけたとばかり思っていたのだが、我が親父様の一言が家族に弟の不在を知らしめることとなってしまった。
「なあ、幸二はどうしたんだ?」
梅干というすっぱさ以外に何のとりえもないあんちくしょうをつまんだ親父様は、焦げ目のついた出汁巻き卵を分解していたお袋様に視線を送った。四人用ダイニングテーブルには白ご飯とおかずが数種類。我が家は和食党なのである。
「部活の朝練じゃないかしら? 試合が近いっていってたものね」
そうなのか。裕一は軽い驚きと共に海苔を醤油につけた。普通、入学して二ヶ月の一年坊主を試合に出そうなど考えないものだが、弟ならば妙な納得感が得られてしまうのは兄弟ゆえか。なにせ我が弟殿は容姿端麗、文武両道、気は優しくて力持ち。入学当初から同級生上級生の娘さんお姉さんお兄さんにフラグを立てまくるという、それなんてエロゲ的主人公体質さんなのであった。どこまでもどこまでも平凡な自分とは雲泥の差。ぶっちゃけ弟じゃなかったら呪殺してる。日本の法律では呪術による殺害を罰することはできないのである。イエイ。
まあ、そんなことはどうでもいい。ともかく奴がこういった快挙を成し遂げるのはいつものことなので、もはや驚くに値しないのは確実であった。
「ほう、そうなのか。あいつも大変だな」
案の定、全然大変そうには思えない口ぶりで味噌汁をすする親父様に、裕一はふと思い出したことを口にした。
「でもコウ、昨日は帰ってなかったみたいだけど」
夜中にホットミルクを入れにいったとき、弟の部屋からは何の気配も感じなかったのである。念のため確かめてみたが、第六感の回答が覆ることはなかった。
「え? そうなの?」
お袋様の箸から鮭の切り身が零れ落ちた。というかお袋様、貴方が驚いてどうなさるのですか。裕一は小さく吐息した。昔から放任主義じみていたが、さすがに無断外泊には気づこうではないか。共に暮らしているんだから。
裕一の呆れが混じった眼差しに気づいたのか、お袋様は引きつった笑顔を浮かべながら指で鮭をつまみなおした。
「で、でもまあ、部活の強化合宿かもしれないし」
苦しい理屈である。裕一はそんなわけあるまいよ、と喉まででかかった言葉を咀嚼した。確かに珍しいことではあるが、平日に合宿を行う体育会というのもなくはない。通常授業を受けた後、ひたすら部活に精を出すというある意味若さの祭典を行うという話を聞いたことがあった。とはいえ、大概は好成績を残した部活くらいしか行わない。うちの学校はどうなのだろう。興味がなかったから全く知らなかった。
「でもそれなら、事前になんか言っとくと思うけどね。特にコウなら」
性格の良い弟はこういった諸所の連絡をきちんとする。昨今のずぼらな風潮に流されないのはあれのいいところであった。イケメンなんて死ねばいいのに。
お袋様の切り身はほぐし鮭へと変貌を遂げていた。にもかかわらず、手持ち無沙汰な箸は攻勢を緩めず切り身だったものを追撃する。必死に言い訳を考えているようだが、出てこないのだろう。もともと豪快なお袋様は頭脳戦には向いていないのである。
ぴんぴろりーん、となんだか気の抜ける電子音が鳴り響いたのはそんなときだった。どう考えても呼び鈴にしては間抜けすぎると思うが、今更それに関して議論する気は毛頭ない。趣味は他人様に迷惑をかけない限り尊重すべきなのである。物好きな親父様。
「あ、あら、お客さんだわ。すぐに出なくちゃね、ホホホ…」
スリッパをフローリングにこすり合わせて、お袋様は立ち上がった。笑顔がとてもわざとらしい。ふと親父様の顔色を伺ってみた。返答は苦笑。時として表情は百万言よりも如実に心を語るものである。
あらかたの食事を腹に収め、食後の緑茶をすすっていたら、玄関先でお袋様が素っ頓狂な叫びを上げた。何事かと親父様と共にそちらを見ると、ぱたぱたとスリッパが奏でる打音と共に、目を輝かせたお袋様がご入室あそばさった。どうでもいいがめちゃ嬉しそうである。
「パパ、祐君! 聞いて聞いて、あのね、お隣の柚木ちゃんが行方不明なんだって!」
それ喜ぶとこだろうか。裕一は思い切り顔をしかめた。おいおいお袋様や。他人様の不幸を嬉々として語るのはよろしくないんじゃございませんか?
「これが喜ばずに居られるもんですか! 幸君ったら、私に似て奥手とばかり思ってたのに…立派だわ!」
すみません、僕この人の思考回路についていけないです。裕一は内心で悲鳴を上げた。
高梨柚木は隣に住む幼馴染の少女であった。艶やかな黒髪に嫌味なくらい整った顔立ち、溢れんばかりの『漢気』を背負ったナイスレディなおちびさんである。小さな巨人、兄貴な乙女、高二じゃなくて小学生、様々な異名で親しまれ、学校でも男女問わずに大人気な美少女だった。
「その、うちの柚木も昨日から帰ってなくて…てっきり、神崎さんのところだとばかり思ってたんですけど」
お袋様の後からおずおずと現れたのは、一児の母とは思えないほど若々しい高梨のおば様である。艶やかな黒髪は娘とそっくりだか、残念ながら彼女の胸の肉まんは受け継がれることはなかった。もったいおばけがでそうだ。
「それで、その…娘はどこに?」
おろおろと口元を両手で押さえるおば様は大変に麗しかった。僕は貴方をママンと呼びたかったです。内心でそう呟き、さてどうしようかと小首を傾げる。柚木まで行方知れずとは少々穏やかではない。あの弟ならいずこの砂漠でのたれ死のうとさほど心は痛まないが、美少女は世界の宝であった。可愛いは正義、この世の真理である。
「高梨さん、申し訳ないけど、柚木ちゃんは居ないわ。だって」
対照的に肌に艶さえ取り戻したお袋様は、瞳に星空を湛えて天を仰いだ。
「あの二人は――駆け落ちしたんだもの!」
黄色い救急車、お願いします。
「ねえお袋様? ちょっと僕と一緒に病院へ――」
「まあ、そうなんですか?」
片手に携帯電話をたずさえた裕一の言葉を、おば様の満たされた歓声が遮った。ぎょっとして彼女を見る。こげ茶色の虹彩にはお袋様から譲られたらしい満天の星空が横たわっていた。星の人たちは互いの手を取り合いぴょんぴょんとはねている。
「間違いないわ! だって幸君は昔から柚木ちゃんが大好きだったし」
「まあ! まあ! そうだったの? 柚木ったらそんなの一言も話してくれなかったのに!」
「あら、当然よ。幸君はそっち方面に関しては間違いなくへたれだったもの。きっと柚木ちゃんは微塵も意識してなかったはずよ」
「あの子、人の好意に鈍感なところがあったから…」
「きっとそんな関係に業を煮やした幸君が、有り余る若さと情熱で――」
「あらあら、まあまあ!」
「それできっとこうなってああで――」
嗚呼、姦しい。裕一は再び席に腰を落ち着け、冷えかけた急須を湯のみに傾ける。お袋様とおば様は女学生よろしく花咲き乱れる妄想へと突入あそばされた。おそらく理性的な判断は難しかろう。
ふと、裕一は先ほどから親父様が一言もしゃべっていないことに気がついた。というか、いつの間にか食器が片付けられ、寂寥感あふるる背広姿が見当たらない。茶をすすりながら、裕一の視線は親父様を求めてさまよった。孫は男の子かしら、女の子かしら。そんなことをのたまう心は女学生の方々の脇をすり抜け、廊下に顔を出す。
「もしもし、警察ですか」
親父様、あんた冷静だよ。
初投稿。うん、分かっております。駄目駄目ですね。
どうぞ生暖かく見守ってください。