日本の作曲2010-2019について
本日は内容が専門的なので、アムパサンドの担当です。「(&・_ゝ・&)<今回は躊躇しません」。
サントリー芸術財団創設50周年記念日本の作曲2010-2019には、多くの日本の作曲家が収録されている。しかし、収録内容には完全に同意できない。
まず開いてみてびっくりしたのは収録されている作曲家たちが高齢化していることである。10代-20代はほとんど扱われておらず、主力層に30-40代が増えた。
これは第3課程まで進学しないと現代音楽の世界に入れないといった構造的な問題も有るのかもしれないと思うが、Aya Yoshida、Nina Fukuoka、Eiko Tsukamoto、Sachie Kobayashiらは20代で頭角を現しているはずなのになんの記述もない。2020-2029以降には入るのだろうか。
確かに「3.11」は日本国内の現代音楽には衝撃を与えたのかもしれない。モチーフにして作曲といった教育目的としては意味があったのかもしれない。しかし、2010年代はそんなことを吹き飛ばすような大革命があったではないか。
2010年代の日本の作曲は「世代交代」「ネオアヴァンギャルド」「ネオコンセプチャル」なのは当たり前のはずだが、評者の殆どはネオコンセプチャルに言及がない。
また事実誤認も多い。「女性作曲家は、アメリカやヨーロッパでは見かけない」とあるが、これは全くの誤りであり、正しくは「メジャーレーベルやメジャーパブリッシャーの契約にまでこぎつけた女性作曲家は、アメリカやヨーロッパではほとんど見かけない」である。YCMに行けば女性作曲家にはいつでも会えるし、GaudeamusもAnnika Socolofskyさんが大賞を取ったではないか。
発言の弁護があれば、女性作曲家は本当にディスクの対象にしてくれない、とは断定できるだろう。ジーメンス音楽賞を受賞したレベッカ・サンダースは、まだNMCからしかリリースをさせてくれない。これはいくらなんでもあんまりではないか。男性の作曲家は多少腕前が甘くてもDeutscher Musikratからすぐリリースさせてくれる。
これはせみころーんさんやエリプシ様とも激論になったのだが「私小説的というか、ほんとうに狭い範囲の話だけしか書いていない」は、個人的には承諾し難い。本当に1970年代生まれの作曲家にとって、「大きな話は何もない」のか。
そんなわけがないだろう。基本的な人権を無視している。メシアンのコピーやラッヘンマンのコピーやドビュッシーのコピーやクセナキスのコピーやグレツキ初期のコピーでデビューした作曲家たちに、大きな話があったと言えるのか。
もし「言える」のなら日本の現代音楽史観は完全な書き直しを図られることになるのではないか。かつての作曲家の世代は楽譜へのアクセスが田舎や地方に住んでいたからできなかっただけで、今の世代はissuuでいとも簡単に読めてしまう。それも新刊がである。
そのような時代なら「イギリスに行って誰に習って、この人に会って奨学金をもらうためにはどうする」とか「誰々が認めてくれそうなことはなにか」に目的が移るのは当たり前であり、藤倉大の創作の弱点はそこではない。
藤倉大は作品が増えたのでおなじみのなろうの読者もいるだろうし、彼の作風の問題点も多くのなろうの読者が気づいているだろうから私が言うことは何もない。それなら、その問題点を指摘するのが座談会の本題であっても良いのだが、なぜか言及は何もない。
評論家は本当のことを言わないといけない。聴衆に気を遣って適当な言葉を選ぶ時間もない。「今の日本の上級国民は国際メジャーの受賞歴が何もなくても音楽家として認めてくれていいですよねー。園田高弘先生や中村紘子先生の時代ならまず無理だったんですが」ってのがあればもっと面白くなっただろう。キーワードはもう一つあった。それは「無競争」である。
「(๑╹◡╹๑ …)<シャッリーノのレチタティーヴォ・オスクロの次にフィニスィーのピアノ協奏曲第4番ってことをやらかした人が居たじゃないですか。あれはなんで問題にならないんでしょうか」
「(。・_・。;)<両方とも弾ける人が居ないからだよ」
「(๑╹◡╹๑ …)<でもそれっていけませんよねー。どっちの楽譜も出版されててお金を出せば買えるんですから」
「(。・_・。;)<片方は5510円で、もう片方は4050円ですね」




