第三十四話 約束遵守
視界は闇に閉ざされた。身体が凍えるように寒い。鼻と口からとめど無く漏れる気泡の音、そしてそれが顔を撫でる感触、そして身体全体を押しつぶさんばかりの圧力しか分からない。
数秒して、視界が回復した。辺りを眩い光が照らしたからだ。光源は、俺の隣。魔王が、光の球を生み出していた。
いつの間にか刀を鞘に収め、奴は、口と鼻を手で押さえて、必死に気泡を体内に留めようとしているように見える。しかし、指のすき間から、手の端から、着実に気泡が漏れている。それは、水圧で潰れた肺から空気がどんどん逃げていっている証拠だった。奴の眼はせわしなく動き、四方八方を見渡していた。奴のその不安げな動作に呼応するように、光球はその数を増やしていく。
俺と魔王の両側には、黒っぽい色をした岩肌があり、それが少しずつ、少しずつ、上へと動いている。真上と真下は、闇であった。絵以外で、この光景を眺めるのは初めてかもしれない。何せ、これほど深い場所に潜る時は、いつも潜水艦に乗っていたものだから。……いや、これは他人の記憶。惑わされるな、自分を強く持て。俺は潜水艇操縦士ではなかったはずだ。
閑話休題。魔王を深海へと落としたのならば、問題無い。後は……
【では、オロクロス、スクロアルマ。戻ろうか】
【えっ? ここで、死ぬつもりだと思ってたんだけど……】
【いいから、戻るぞ】
この光景を眺めている暇は無い。堪能している間に窒息してしまう。自分だけが移動するために、と、右手を魔王から放した。
亀裂を作り出そうとした瞬間、俺は握りつぶされそうな程の力で右腕を掴まれた。魔王が俺の手首をがっしりと握りしめ、そこからメリメリと音が鳴っていた。
成程、「溺れる者は藁をもつかむ」という諺に出てくる藁の気持ちは、このようなものだったのか。奴との接触面から、奴が抱いている恐怖、不安、怒りの程度がよく分かる。
【どこへ行く気だ! 逃げる気か!】
道連れにでもする気か?
【離せ】
水中で〔幻斬〕を奴の腕目掛けて放つも、傷1つつかない。
ならば仕方無い、狙いを変更してもう一度、〔幻斬〕を放つ。今度の標的は、俺の右手首。
体力:102/556 → 92/556
刃はスクロアルマを貫通するも、腕には大して深い傷はつかなかった。スクロアルマが再生し、傷を覆い隠してしまう。
傷は、治っていない。スクロアルマの袖から、繊維の隙間から、血が滲み出ているためそう分かった。
【何やってるんですか!?】
【見たら分かるだろう? 奴から離れようとしているだけだ】
【だからって、自分の腕を切ろうとする馬鹿がどこにいるんですか!】
【仕方無いだろう。今の俺が持つ手段では、魔王の腕の方をどうにかする事は出来ないのだから】
〔幻斬〕をさっきの場所と同じところ目掛けて放つ。
体力:90/556 → 体力:80/556
さっきより傷は深くなったか。どうやら水中では、〔再生〕は大して効果を為さないらしい。スクロアルマについた傷が閉じる前に、〔武具支配〕でオロクロスを操作、水の抵抗を鬱陶しく感じながらも、傷に突き立てる。
滅茶苦茶に動かす度、傷口から脈に合わせドクドクと、血煙が海中に流れ出す。流石に、傷口を抉るオロクロスと、そこに滲みた海水が交互、或いは同時に痛覚を刺激する。呻きながらも、しかしその手は止めない。
体力:80/556 → 75/556
体力:75/556 → 70/556
体力:70/556 → 65/556
……
【ペルシオ、止めて!】
【後少しだ、後少しで……】
俺の手首が、ポキリと不自然に曲がった。脚を動かして魔王と反対方向への推進力を生み出すと、手首が腕から離れていく。手首と腕を繋いでいた、赤い糸をオロクロスで斬る。
これで、間違いなく、俺と奴は離れた。これで〔空間歪曲〕による移動には付いて来な――
「ゴアァァァ……」
辺りの水が、岩が、恐れ慄くように揺れた。……血の匂いに惹かれて、何かがやって来たらしい。
【さらばだ、魔王。俺の右手はくれてやる。研究サンプルとやらとして、持ち帰っても構わない】
背後の、空間を裂く。目的地の上空にも同様に。
【なっ、ま、待て!】
俺を掴もうと奴が伸ばした手は空しく水中を切り、背後の亀裂は俺の身体を飲み込んでいく。
【健闘を祈る】
身体中の圧力が消え、代わりに身体が重くなった。肺が焼けるように熱いものの、やっと、呼吸が出来る。
……ひとまずは、これで……
緩やかに落下しながら、深く息をする。
メリアのペンダントの位置は? ……ここから北、ずっと遠くだ。
帰還する為、〔空間歪曲〕を行使する――
――その時、下から轟音が鳴り響いた。
すぐさまその方向の水面に首を向ける。
そこでは水が龍の姿を成し、巨大な魚の魔物に咬みつき、暴れていた。巨大魚の鱗は明らかに大破していて、みるみる海がどす黒く染まる。
【あれ、魔王の仕業……ですか?】
【だろうな】
ここから水面までかなりの距離があるにも拘わらず、その龍はかなり大きく見えた。
あの巨大魚は先刻血の匂いに惹かれたものに違いない。つまり、間違いなくアビスから出て来た魔物だ。それが、ああも蹂躙されているとは……
「……あれの余波に巻き込まれない内に、逃げるとしよう」
ペンダントの魔力をコンパス代わりに、もう一度、空間に亀裂を生む。
「次に会った時、俺は死ぬのだろうな」
巨大魚を圧倒するような奴だ、俺を殺すのには30秒もかからない。そしておそらく、今の勇者一行も。そうこぼして、俺は再び、引き裂かれ生まれた闇に身体を沈めた。
闇を覗かせている亀裂から吐き出され、俺の両足は小枝と柔らかい土とを踏みしめる。
【まさか……、戻って来たのか? 魔王はどうした?】
聖剣は俺の存在に気付いたらしい。メリアは……後数十秒でここに辿り着くだろう。
【アビスに、沈めて来た】
【何!?】
【流石にそれ程度で討伐できたとは到底考えられない。その上、代償として両腕を持っていかれた。……そろそろ、勇者が来る。取り敢えず、俺はこの場に居ない事にしてくれ。後で話をしよう。聞きたい事がある】
【……う、うむ】
俺は出来る限り気配を消し、近くに隠れた。この状態で勇者一行と遭遇したら、逃げ切る前に殺されてしまう。
【そう言えば、どうしてあそこから戻ろうとしたの?】
【約束、しただろう? 俺は『俺が死んだら、メリアに拾ってもらえ。メリアはものを非常に大切にする性分だから』と言ったはずだ】
【確かに、言ってましたね……。まさか、その為だけに?】
【そうだ。あそこで俺が果てていたら、お前らはアビスの底に沈んでいた。これではいけない。約束は守られるべきものだ】
【自分の、残った方の片腕をちぎってでも?】
【当然だ】
【バカ……? バカじゃないの? ペルシオ】
【馬鹿とは失礼な。あれは約束を遂行するための必要な犠牲であり、危険でこそあれ愚行では無い】
【……はぁ……】
【気にするな。その内、腕は〔再生〕で生えてくるだろうから】




