帝国王宮大混乱
イントラ帝国の皇帝の住まう黄金宮。
その深奥に存在するイドラ六世陛下の執務室に、あってはならない大声が響いた。
「サヤックでお家騒動だと!? なぜだ、あの家は跡継ぎの息子がすでにいたはずであろう?」
声を出したのは、私のお仕えする主君イドラ六世陛下その人だ。
美髯王と讃えられたその精悍な顔つきは、今は困惑に染まり歪んでいた。
「それがサヤック子爵がご乱心で、嫡男に対し『こんな男は知らない、自分に息子などいない』と言い始めたそうでして、諌めた家臣ごと嫡男をバッサリと……」
「なんということを……嫡男のマイリィはできた男と聞いておったのに。宰相、それでサヤックはどうなるのだ?」
「それが、どうも子爵は若返ったようでして、国への奉公は引き続き自分が行うと手紙を送ってきております」
マイリィ氏には私も会ったことがあったが、戦はもちろん政にも比類なき才覚を持った好漢だった。
はっきり言って当代の子爵よりもよほどできた人間で、子爵の馬鹿げた欲望の犠牲になって死んでいい男ではなかったはずだ。
当主継承前では国から口が挟めないことが口惜しい。
私欲のために国を乱したサヤック子爵を罰する手立てが何もないというのだから。
「若返り……なるほど噂のエルフの薬か。死にかけだったホーヤン爺を蘇らせたとかいう……」
「どうも、そのようです。他にもいくつかの家の当主や元当主から嫡男を廃しての継続願いや、当主への復帰願いが来ております。おそらくはエルフの薬で間違いないかと」
私もこの国の宰相を勤めて早三十年になるが、エルフが国へやってくる経験はおろか、そういう記録すらも読んだことがなかった。
まさかこんな厄介事を引っさげてやって来るなどとは予想もしていなかったが……やはり亜人共は我々人間にとっての害悪となる存在だ。
私の代だけではどうにもならんだろうが、耳長も土虫も豚も、いつかは尽く滅ぼさねばならぬ。
皇帝陛下もエルフの悪行にご立腹なのか、苦々しげな顔で唸り、不機嫌そうに人差し指で口髭をなぞる。
「エルフが世界樹からやってくるなど、建国以来の非常事態であるぞ。ホーヤン爺はおしめを替えたこともある余の娘のことをすっかり忘れておった。その薬、どうやら若返らせるだけではないようだ」
「いえ、皇帝陛下。薬学院の調べによりますと、薬の効果は真実人を若返らせるだけのようなのです」
「どういうことだ?」
「つまり、その者の積み上げた経験や記憶なども、体と一緒に昔に戻ってしまうのです」
前宰相であったホーヤン翁は、薬で若返った翌日に古びた制服を着込んで出仕していらしたからな。
私の顔を見て「なぜお前が私の席に……」と心底驚いていらした。
全てを捨てて若返る薬など、まず間違いなく魔の類のものだ。
「それでは……何の意味もないではないか」
「そういうわけではございません。正しく使えば死の淵にある老人を救い、病に倒れた人間を健康な状態に戻す神薬でございます。ただ、政に関わる人間がそれを使うとなりますと……」
そうなのだ、魔性のものとはいえ、効果には間違いがないのだ。
麻薬と同じで、きちんと使い道さえ考えれば薬として有用になる。
できるならば私もそれを陛下のために一服用意しておきたい。
陛下は十代の頃から粉骨砕身で国のために尽くして来られたのだ、引退した後に青春を取り戻しても咎めるものはおるまいて。
「そうか、エルフの薬も使い方次第か……そうであろうな……」
皇帝陛下は悩ましげな表情でそう言い、自分の口髭を人差し指でなぞった。
「薬を撒いておるエルフはまだ見つからぬのか?」
「それが、なにぶん薬を使った者がみな記憶をなくしておりますので……」
「それはたしかにそうであろうな、当主は難しかろうが家中の者などからなんとか情報を集めい」
「必ず」
「それと……」
そう陛下が言いかけたところで、ノックもせずに執務室へと転がり込んできた男があった。
「失礼いたす!」
野太い声でそう叫んだのは、我が国の軍務を取りまとめるリギッド元帥だった。
なんという無礼! これで大した用でなければ許さぬぞ!
「何事だ」
陛下の問いに、リギッド元帥は床に膝をついて頭を垂れた。
「申し上げます!! サヤック子爵、ウィリクス伯爵、マイルズ子爵、ウィルド子爵の倉が賊に荒らされたとのことで、税の支払いを待ってほしいとの急使が届きました!」
「なにっ!? 倉荒らし!?」
それも穀倉地帯の貴族ばかりではないか!
そこからの税の支払いが滞れば、すぐに麦が足りなくなって国中の麦の値が釣り上がるぞ!
「それと……」
元帥はそう言ってから一瞬口ごもり、すぐに五体投地で頭を地面へと擦り付けた。
「申し訳ござらん!! 今期の軍の糧秣も、その全てを何者かに奪われました!!」
「なんだと!? 糧秣が!? なぜだ!」
陛下が今日一番の大声でそう叫び、思わずといった様子で椅子から立ち上がった。
「まだ詳しいことはわかっておらぬのですが……」
「よい! 今分かっている事だけでも申せ!!」
元帥は額から血が出そうなほど地面に頭を擦り付け、陛下の声に負けぬほどの大音声で返事を返す。
「恐らくは例のエルフの商人の仕業です!!」
「なんだと!?」
そんなことがあってたまるか!
何が目的なんだ?
そのエルフの商人とやらは我が国の麦を根こそぎにするつもりか!?
それでは……それではもう……麦を使った戦のようなものではないか!
「二人のエルフが糧秣管理の倉人に接触したらしいと、倉人の部下が証言しています! 恐らくはホーヤン翁が買ったものと同じ薬と引き換えに全ての糧秣を引き渡したものかと思われます! 倉人は家族ごと逃走、行方がわかりません!」
「探せ!! 今すぐだ!!」
民には見せられぬくしゃくしゃの顔で放たれた陛下の言葉に応えるように、私と元帥は同時に走り出した。
「早馬を出せ! 全ての街道で検問をさせろ! エルフだ! エルフを捕まえろ!」
執務室の扉を蹴り開けた私達の背中を、かすれ声の陛下の絶叫が蹴飛ばしていた。