不審な影
月光の中、屋根の上に黒い影が浮かぶ。
その影――クロキは、モンテ皇国使節団の泊まる宿の上から街を見渡していた。
虫の声に紛れて、微かに家々から住民のいびきが聞こえている。
ハミルトンと言ったか、あの巨漢とシャールークの言動からすると、彼らの目的はモンテ皇国の使節団ではないと思われた。
だが、嫌な感じだ。それは、今宵の街の空気の話ではない。クロキには、この旅の行く末に暗雲が立ち込めているような気がしてならなかった。
しばらく前から、宿の前に幌付きの馬車が停まっている。正確にはしばらく前どころではない。ギブソンらが夕食のため、宿の近くの飲食店に入ったときには、いや、クロキがヒースに付き添って外出したときには既に宿の前に停まっていた。
当たりに人気がなくなった頃を見計らい、クロキは屋根から道路へと降りる。
音を立てずに身を屈めて馬車に近づき、中を覗いた。
幌の中には、藁で編んだバスケットが2つ置かれてあるばかりで誰もいない。幌にもたれかかかってイビキをかいている御者のほかは人の気配はなかった。
ふと背後から足音が聞こえ、クロキは咄嗟に馬車の真下に潜り込んだ。
そう言えば、以前、トラックの真下に隠れて危険を回避したことがあったな、と思い出しながら足音が過ぎ去るのを待っていると、足音は馬車の前で止まった。
女性の脚が見える。それも3人。
クロキは息を潜める。
女性たちはこのまま馬車に乗り込むかと思ったが、1人は馬車に乗ったものの、残り2人は後ずさり馬車から離れた。
ヤバい。
クロキは転がるように馬車の真下から飛び出した。
クロキの予感通り、馬車の中から真下に向かって、ちょうどクロキが潜んでいた辺りに剣が突き立てられる。
クロキは直ぐに近くの建物の壁を駆け上がり、屋根の上に身を隠して馬車を見下ろした。
馬車のドアが開き、剣を握った女が降りてくる。
馬車に据え付けられた松明が、女の頭を覆うえんじ色のショールに入った金の刺繍を照らす。
その女はクロキの潜む屋根を見上げた。
クロキは咄嗟に顔を引っ込める。
黒装束のクロキが、物陰を選んで素早く屋根に駆け上ったのをまさか目で追っていたなどあり得ない。
クロキは息を潜め、真下の道路の物音に集中する。背中を冷たい汗が伝った。
しばらくすると、馬車が走り去る音が聞こえ、クロキが恐る恐る馬車があったところを見ると、そこにはもう何もなかった。
翌日。
この日、使節団一行はアーミル国王と謁見する予定となっていた。
ギブソンと書記官の二人とともに、ルース、クロキ、カオリは護衛として王宮に入った。
王宮は、モンテ皇国の城と同じ石造りではあるものの、その形や構造は異なっている。一年を通して温暖であるため、王宮の内部は中央に造られた庭に向かって開放された造りとなっており、庭に生い茂る高いシダ植物で、王宮全体が自然に包まれているような印象を受けた。
煌びやかな絨毯の上を歩き、謁見の間の前まで来ると、ルースら護衛は廊下で待つよう指示され、ギブソンと書記官二人だけが謁見を許された。
謁見の間には、臣下の者たちが氏族ごとに並んで座り、一番奥にはアーミル国王ジーシュが鎮座していた。
ギブソンは謁見の間の中央当たりでかしずく。
「長い道のりをよくぞいらっしゃった。アーミル王国はあなた方を歓迎します」
ジーシュ王はそう言ってギブソンに面を上げるよう促した。
「王様に面会できて光栄でございます。今回の協議が上手くいくことをモンテ皇帝も望んでいるところでございます」
「そ、そうか、ええと、ふむ、良き関係を続けることができるよう、私も願っている」
ジーシュ王は、3年前に32歳の若さで王位についたばかりであり、近くに座る臣下の顔を見たりと、いまだに頼りない雰囲気は拭いきれなかった。
しかし、そうでありながら、この3年間安定した治世と、国力の発展ができたのは、ひとえに王妃の存在があった。
国王の5つ年下でありながら、聡明伯楽、周辺諸国に毅然と対応する胆力もある。そして、何より誰もが振り向く美女であるという。ギブソンは王妃の噂を聞いており、一目見たいと思っていたが、この謁見の間には王妃と思われる者は見当たらず、内心落胆していた。
ジーシュ王との謁見はわずか5分で終わった。実際の協議は、実務者を含めた交易を担当する臣下と行うため、国王との謁見は挨拶に過ぎない。
ギブソン一行はジーシュ王との謁見を終えると、アーミル王国内の視察に向かうため、宿に戻り準備をすることとした。
王宮の正門へと向かう途中、中庭を挟んで反対側からギブソンを見る視線があることにクロキは気付いた。
その方向には、背後に侍女を伴い、金の刺繍の入ったえんじ色のショールを頭から被った女性。それは、昨晩クロキが見た馬車の女のように見えた。しかし、距離も遠い上、ショールで影になって顔は見えない。
その女性は、クロキが見ていることに気付くと、自然な足取りで、どこかへ去っていた。
モンテ皇国使節団一行の日程は、6日間のアーミル王国内の視察の後、2日間の予定で貿易に関する協議を行うこととなっていた。
一行は、まずは首都パリガーサから南下し、香辛料の産地を視察した後、アーミル王国の北東部にある茶葉の一大産地を視察した。その周辺には、古代の都市の遺跡も偏在しており、合間を見てヒースは遺跡の調査を行った。
その後、一行はパリガーサ周辺の都市を周遊することとなっていたが、ヒースはどうしてもパリガーサの北西、アーミル王国の西端にある、約4千年前に滅亡したとされる古代文明の遺跡群の視察をしたいとギブソンに申し出て、使節団とは別行動を取ることになった。
もちろん、ヒースの護衛はクロキで、2人で馬車を使って古代文明の遺跡群の近くの街へと向かった。
かつて、この地には太く長い大河があったという。大河は南方に険しくそびえたつ大山脈を起源とし、ときには激しい顔を見せ、しかし、豊かな恵みを運んできた。その大河が流れる平地に古代文明は繁栄した。
その古代文明もいつしか滅びた。滅びた理由の一つは地殻変動による大河の流れの変化であった。
ヒースが立つ足元に、既に大河はない。土を掘れば大河の痕跡は見つかるだろう。だが、わずかな伏流水が湧き出るのみで、当時の面影を偲ばせるものは最早なかった。
近年発掘された古代文明の遺跡群をヒースとクロキは歩く。石畳に残された住居群の奥に、約四千年前のものとは思えない、立派な建物が朽ちながらもその形をとどめていた。
ヒースが言うには神殿跡であるという。ヒースは神殿跡とその附属する建物群をつぶさに調査していった。
クロキは、ヒースの位置を確認しつつ、辺りを警戒する。往年はいざ知らず、今はただの辺境の地。いかな賊や悪漢が潜んでいるとも限らない。
案の定、クロキが警戒し始めて直ぐに、動き回る人影が視界の端に入った。