蠢く爪
アトリス共和国の首都マリード。
国政の中心たる施設――マリード城内をディックが足早に歩いていた。
ディックは、クロキと戦った時の重装の鎧ではなく、平時に着用するアトリス軍の制服姿であった。
ディックはダニ・マウンテンから戻った後、任務失敗の責任として、地下牢への一週間の軽閉禁と、3週間の自宅謹慎を受け、つい数日前に復帰したばかりであった。
ディックの後ろから、これまた制服姿のモニカがディックに離されないよう足早についてくるが、モニカの制服はノーマルな女性騎士用の制服であるため、モニカの豊満な胸を収めることができず、胸元は大きく空いている。
ディックは、廊下の先に黒い肌の大柄な男を見つけると詰め寄った。
「マックス、オリバー様がモンテに向かわれたというのは本当か」
マックスと呼ばれた男――本名マクシミリアンは、表情を変えずに武骨な目でディックを見てから辺りを見回し、人がいないことを確認した。
「そうだ。なぜ知っている」
「この前のことは、オリバー様からの極秘任務であったはずだ、なぜ大ごとにする?」
「オリバー様がモンテに行くことは、首相も将軍もご存じない」
「なに? では、むしろなぜ私に声が掛かっていないのだ……」
「そもそもこれは、お前の失態が原因なのだぞ。オリバー様は内々に事態を収拾しようとしているのだ。それとも、お前は、オリバー様を信用していないのか」
「む、もちろんあの方のことは信頼しているし、先日のことには責任を感じている」
ディックとしては、オリバーに何も知らされなかったことがショックであったのだった。しかし、同時に、件の事件を理由にモンテ皇国と会談するなど、ディックがオリバーから命じられた任務内容からは考えられない行動であり、言い知れぬ不安を感じていた。
カイゼルと書記官二人、そしてテオが、オリバーらアトリス共和国の代表と会食をしている間、クロキはテイラーとヒースとともに城の食堂で夕食を取った。テイラーは「私も綺麗な大広間で食事したーい」と文句を言いながら、出された夕食を美味しいといって二人前を平らげたので、その光景を見てヒースは目を丸くしていた。
三人は食事を終えた後、カイゼルと事務官二人がそれぞれ泊まる客室とその付近を見て回って特に異常のないことを確認し、会食を終えたカイゼルたちが部屋に入るのを見届けて自らの部屋に入った。
夜が更け、月が城壁を照らす。
松明の光が城の所々に掲げられ、城門の真上の塔に備え付けられた大きなホワイト・ライトの魔法石が来訪者を照らす。
闇の中を動く影。
四、五、いや、六つ。
城を取り囲む城壁の上で見張りをしていた兵士が気配に気づき、携帯用のホワイト・ライトの魔法石で周囲を照らした。
だが獣一匹見当たらず、兵士が安どしたとき、兵士の背後に音もなく仮面をつけた男が現れ、兵士の喉をナイフで掻き切った。
その男は、周囲に潜む仲間に手で合図を送ると、城壁を飛び降り、城へと向かっていた。
儚くろうそくの灯だけが照らす室内。
「手筈どおり、『爪』を放ちました」
ろうそくに照らされて浮かび上がるは、アトリス共和国の書記官。
「よろしい。では明朝、良い報告を期待しています」
窓際に立つオリバーの顔を月が照らす。
木の枝が揺れる音でテオは目覚めた。
窓を開け、外を見るが何もない。
風すらもなかった。
テオは直ぐさま矢立てと弓矢を持ち、腰にナイフを下げると、廊下に出た。
静寂に包まれる廊下の奥に目をこらす。
音を立てぬようゆっくりと歩き、事務官のライオネルが眠る隣の部屋のドアを開けた。
月明かりに照らされ、ベッドの上に座るライオネルの姿が浮かび上がる。しかし、糸が切られた人形のようにライオネルがベッドの上に倒れると、その背後にいた黒衣に身を包み、仮面をつけた者がテオを見た。
「何者だっ!」
一瞬のうちにテオは仮面の人物に向かって矢を放つ。
予備動作の少ない瞬息の矢を近距離で放たれ、反応が遅れた仮面の人物はかわしきれず肩に矢を受けた。
仮面の人物は、窓から飛び降りながら、肩の矢を折り、闇の中に消えていった。
テオは、ライオネルの様子を確認せず、直ぐに廊下に出ると、全速力でカイゼルの部屋に駆け込んだ。
勢いよく開けられたドアの音にカイゼルが飛び起きる。
「ど、どうしたのですか」
「刺客です。俺の傍から離れないでください」
テオの矢を受けた刺客が城内の一本の樹に向かって合図をした後、事務官マシューの部屋の窓からも刺客が姿を現わし、同じ方向に向かって合図をした。
どうやら事務官マシューは部屋におらず、合図を受けた刺客がマシューが向かったと思われる食堂に向かって移動を始めた。
しかし、その刺客の目の前に突如として影が降り立つ。
刺客は急に止まることができず、影とすれ違ったが、首に微かに熱さを感じたと思った途端、足の力が抜け、その場に倒れた。
地面に触れたほほに生温かい感触。首からあふれ出る血液であった。
「この世界で初めて同業に会ったな。同業には、容赦はしない」
影――クロキはゴーグル越しに、周囲に潜む刺客たちに冷たい視線を向けた。
刺客たちが身構える。この男は容赦なく自分たちを殺す。刺客たちは直感した。
肩にテオの矢を受けた刺客ともう一人の刺客は、鳥の鳴き声のような口笛を吹くと、猿のように木々を渡りながらクロキに向かって行き、二人同時にクロキに向かって飛び掛かり、刃を振るう。
しかし、その直前、クロキが「今だ」と呟くと、夜空が白く輝き、昼間のように明るくなった。
「いぇーい! 光系最上級魔法ライト・オブ・ザ・デイ。さぁ、やっちゃって~」
城の塔の上でテイラーがポーズを取りながら叫ぶ。
予期せぬ状況に動きを止める刺客たち。
クロキはふと、自分の真下の影に別の影が重なるのを見て、背後に立つ新たな刺客に気付き、しゃがみつつ後方に向かって右足で足払いをすると、刀を左手で逆手に持ち替え、回転する勢いのまま体勢を崩した刺客の首元目掛けて左腕を振った。
刺客は、体勢を崩しながらも首元を腕でガードし、クロキの刀を防ごうとした。が、クロキの腕は空振りし、クロキが刺客に背中を向けた直後、頭部のこめかみ辺りにクロキのブーツのかかとが激突する。
クロキは刺客に刀をガードされると気付いた瞬間、刀をフェイントに使い、後ろ回し蹴りを放ったのだ。ところどころに鉄板を使用したクロキのブーツによる一撃に刺客の仮面は割れ、頭蓋骨は砕かれた。
クロキは直ぐに後方に向かって回転しながら跳ぶと、刺客が投げたナイフが空を切る。
さらに、クロキが着地したところを狙ってもう一人の刺客がナイフで切りつけてきたが、クロキはそれもかわす。
そのとき、「良いぞ」とクロキが呟いた。
クロキの言葉を合図にテイラーが魔法を解除すると、空が再び暗い夜空となる。
辺りを照らすのは月明かりのみとなり、急な暗転に視界を失った刺客はその場に立ち尽くす。
誰もが視界を失う中、クロキはサングラス仕様にしていたゴーグルを外し、直ぐに刺客を視認すると、一瞬のうちに肩にテオの矢を受けた刺客の喉を掻き斬った。