いざ出発
クロキにぶつかった男とその連れの男が人気の少ない路地に入ると、連れの男がクロキにぶつかった男の肩を掴んだ。
「どうだ、うまくいったか?」
しかし、クロキにぶつかった男は不思議そうな顔をしている。
「どうした? 魔法石をスッたんだろ、見せろよ」
再びクロキにぶつかった男を催促する。
この二人はスリであった。
だが、クロキにぶつかった男は不思議そうな顔から、慌てた顔になる。
「いや、それがよう――」
男は言いかけて止める。
仲間の男の背後にクロキが笑顔で立っていた。
クロキが男に向かってペンダントを差し出す。
「これ、落としましたよ」
男は震える手でペンダントを受け取った。
「あ、ああ、ありがとうございます」
クロキはアンナの元に戻ろうと振り返ると、背中越しに、
「次は、気を付けてくださいね」
と言った。
その言葉に、男の体中から滝のように汗が流れる。
クロキが去った後、男が震えながらつぶやいた。
「俺はスッたと思っていたが、手の中には何もなかったんだ……、それどころか、あいつ、俺のペンダントを俺からスりやがった……」
クロキは歩きながら、かつて、任務のために世界一のスリ師と呼ばれる人物に弟子入りしたことを思い出していた。
短期間で技術を会得する必要があったため、まさに手を血だらけにしながら特訓をしたことを懐かしく感じ、そのスリ師のテクニックに比べれば、さっきの男のテクニックなど児戯も同然であった。
クロキがアンナの所まで戻ると、ちょうどヒースが2人を呼びに来ていた。
「馬車の準備ができました。出発しますよ。」
2頭の馬に引かれた1台の馬車が荒野を走る。
車両の中は座席が3列になっており、席はソファーで長旅の仕様となっていた。
車両は屋根から全て木製であったが、車輪は金属製ホイールに天然ゴムで作ったタイヤが付いている。
「この世界には、蒸気機関やエンジンはないのか」
「蒸気機関はありますよ。工場なんかで蒸気機関を使った機械はあります。でも、移動手段としてはメジャーではないですね。魔法が発達しているため、上流階級の方たちは魔法を使った移動手段を利用しているんですが、そのことに不便さを感じていないこともあって、大衆向けの公共交通機関の検討には消極的になっています」
「だが、大量輸送は商売になりそうだがな」
「まあ、この世界の馬が強靭ということも1つの理由でしょう。この前2人で乗ったときは、時速20ケイラード(約60キロ)は出ていました。今、6人乗っていますが、それでも17ケイラード(約51キロ)くらい出ています。馬の種類によっては、時速24ケイラード(約72キロ)が出るものいるそうです。後は、魔獣の存在があって、都市間を結ぶ公共交通を整備しても、魔獣で被害を受けたときのリスクが大きいですからね」
「では、空、飛行機はどうなんだ」
「それこそ、魔法の方が優れています。空気系の上級魔術を使える者が1人いれば、1度に複数人を飛ばすことができます。あんまりこの世界の人は、ほかの国や土地に行きたいとは思わない傾向にあって、大量の空輸に対する需要が少ないんです。」
クロキとヒースの会話に、前の座席からアンナが口を挟む。
「ほとんどの国の仲が悪いからね、危険を冒してまでほかの国に行きたいとは思わないのよ。それに無魔力者は差別されているから、大体貧しくて旅に出るような余裕もないし」
この世界においては、魔法を使える者と使えない者がおり、その差はあまりにも明確すぎた。
5人に1人といわれる魔法を使える者が優遇され、残りの無魔力者は政治、経済の面で差別されており、この世界のほとんどの国が魔法の使える支配者層により統治され、要職につくものも魔法が使えるということが常となっていた。
「クロキさんの世界では、どんな人物でも等しく政治に参加できるんですよね。そう聞いたことがあります。この国では、無魔力者は貴族の家にでも生まれない限り、政治に参加できません」
ゴードンは窓の外に広がる緑色の草原を見ながら、珍しく落ち着いた様子で呟いた。
その横でアーノルドは大斧の柄を抱えながら、黙って目を瞑ってゴードンの言葉を聞いている。
リタとアンナには魔力があるが、ゴードンとアーノルドは無魔力者であった。
この2人にもきっと無魔力者特有の経験があるのだろうとクロキは思った。
馬車は、2度の休憩を挟み、7時間でダニ・マウンテンから15キロほどのところにあるオルロン・ウィンステッドという街に着いた。
その頃には、太陽が沈み始め、西の空を紅く染めており、一行はここで宿泊することとし、街の中心部の路地を1本入ったところにある、小さな宿に入った。
入って正面にフロントがあり、入り口とフロントの間にはテーブルやソファが置かれたロビーがあった。
クロキが宿の中を眺めていると、ロビーのソファに座っていた男と目が合う。
男はクロキと同じくらいの年齢で、黒い短髪、顎には薄っすらと髭を生やしていた。茶色い軽装の上から黒いマントを羽織り、腰に据えられた輪のようにまとめられたロープが目を引く。
男とテーブルを挟んで、ローブを来た魔術師風の人物が座っており、背中しか見えないが、ロープの男よりも年齢は一回り程上のように見える。傍らに大きな白濁した水晶と小さな青い水晶がはめ込まれた杖を置いていた。
ロープの男は、クロキと目が合うと、眉間にしわを寄せながら目を細めたが、直ぐに何かに気付いたように目を見開き、不自然に顔を反らした。
どこかで会ったろうかとクロキは考えたが、どうにも思い出せない。
クロキが頭を回して考えているうちに宿泊の手続きが終わったらしく、クロキはヒースに促され、上階へと上がっていった。
クロキらが全員上に上がったところで、1人の男が宿に入ってきて、ロープの男と魔術師の男のもとへと駆け寄る。
その男は、ロープの男と同じくらいの年齢で、肩より少し長めの栗色の髪を1つに縛っており、右ほほに一筋の傷跡。背中に弓と矢筒を背負っていた。
その男はロープの男と魔術師に声を掛ける。
「すまない。遅くなった。バーで聞き込みをしてきたが、どうやら情報に間違いはなさそうだ。ん、カルロス、どうかしたか」
ロープの男――カルロスの顔から驚きが抜けていなかった。
「いや、異邦人がいた」
「異邦人? なんでこんな所に」
「さっきの彼のことかい? まあ、だからって何がどうなるわけでもないだろう。テオくん、明日の出発は」
魔術師が弓矢の男―テオに聞く。
「ああ、イゴールさん、すいません。下見の必要がありますから『明け1つ』でお願いします。」
「1つか、了解。最近身体が辛いんだよな、俺もそろそろ年かな」
魔術師――イゴールは、大きく伸びをして、首を左右に曲げた。
その晩、クロキは、隣のゴードンとアーノルドの部屋から2人が出て行った音がしたまま、しばらく戻らないことに気付き、念のため様子を見に行くことにした。
宿の周囲に2人の姿はなく、クロキは宿の屋根に上って上から街を見下ろすと、建物の窓から漏れる暖かな明かりに混じって、街の外れの緑地帯に小さな明かりが見えたため、その明かりに向かって屋根を飛び降りた。
芝生の上にゴードンと、切り株に腰かけたアーノルドの姿があった。
ゴードンは動きを止めて集中しては、再び剣を振るうという動作を反復し、アーノルドはその動きを見ている。
「こんな夜に特訓とは精がでるな」
2人が振り向くと、そこにはクロキが立っていた。
「良くここが分かりましたね」
ゴードンが汗を拭いながらクロキに聞くと、
「夜間の追跡は、この街よりももっと明るい大都会で何度もやっているんでね」
とクロキは答えた。
「その動きはルーティーンか何かか?」
「ル……?」
クロキがゴードンに聞いたが、ルーティーンにピンと来ないらしく、ゴードンは不思議そうな顔をした。
アーノルドが立ち上がって、クロキに答える。
「ゴードンはスキルを習得するための特訓中でな」
習得までに長い時間の訓練を要するスキル。無魔力者にとって、魔法に対抗する唯一と言ってよい技術である。
「アーノルドはスキルを習得しているんですけど、俺はまだなので……魔法は使えませんがその代わりせめてスキルの1つでも使えないと、リーダーとして申し訳ないです」
ゴードンはそう言って再び構え、集中し、剣を振るうという動作を再開した。
パーティーのリーダーとして、とゴードンは言ったが、ゴードンとアーノルドの表情から、クロキにはそれだけではないような気がした。
「俺は帰るよ、お前らも遅くならないようにな」
そう言ってクロキはゴードンとアーノルドに背を向けた。
「はい、おやすみなさい、また明日」
ゴードンがクロキに向かって頭を下げる。
クロキは片手を上げて応えると、風が吹き去るように立ち去った。