第五話「もうタイピングはしない」
会社から駅前の噴水公園には五分ほどで着く。
つばさは早歩きで駅前に向かう。
噴水前のベンチには、網走翔が座っていた。
昨日と同じゆるいジーパンとパーカー姿で、寝癖が残るボサボサ頭に安心感を覚える。
来てくれた。
その言葉をつばさは飲み込んだ。
「ずいぶん眠そうね」
ベンチに座る網走翔は、ぼんやりと噴水を眺めていた。
目をこする姿は昨夜の睡眠不足を思わせた。
「ちょっと色々あってな」
「ふふふ。来たるべき戦いに興奮して眠れなかったみたいね」
つばさは仁王立ちで言った。
「そういうわけじゃない……」
翔は立ち上がった。
「昨日は断って別れたと思ったんだが……」
「あなたは快諾してくれたわ」
「嘘つけ!」
押していこうとつばさは思っていた。
網走翔はボサボサ頭の気弱そうな青年である。
押して押して押しまくれば、きっと暗黒タイピング大会に出てくれる。
つばさはそう考えていた。
「とりあえずお昼ごはんにしましょうか」
つばさが言うと、翔は文句も言わずに着いてきた。
昨日と同じ定食屋である。
今日こそ彼に「うん」と言わせてみせる。
決意を秘めて、白鳥つばさは定食屋ののれんをくぐった。
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二人は昨日と同じ席に着いた。
「コーヒーとサンドイッチで」
つばさは言った。
「今日は随分少食だなっ! っていうかあるのかそんなメニュー」
見た目は老舗の定食屋である。昨日の中華料理ととんかつがある時点でかなりめちゃくちゃな店だった。
翔の驚きをよそに、店員はスラスラとメニューを書いた。
「一体何の店なんだよここ……」
翔はつぶやきながら、昨日と同じチャーハンを頼んだ。
それを見たつばさは少し意外そうに目を見開いた。
視線に気付いた翔は目をそらした。
「うまかったからな」
それだけ言って、料理の到着を二人で待った。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
山盛りのチャーハンを見て、翔はさっそくガツガツと食べ始めた。
「お腹空いてたの……?」
つばさはもぐもぐとサンドイッチを食べながら言った。
「朝から食べてない。カネがないからな」
「私をアテにしてたってことなら、やっぱり暗黒タイピング大会に……」
「申し訳ないが、出る気はない」
ぴしゃりと翔は言った。
そして二十万円が入った封筒をテーブルに置いてつばさの席にスライドさせた。
翔は水を少し飲んだ。
「昨日はいい損ねたけど、俺はタイピングをやめるんだよ。こんな無益で無駄な遊びはやめて、実家に帰って真っ当に働いて過ごすんだ」
チャーハンをもそもそと食べながら翔は言った。
「それで大会の詳細なんだけど、大金持ちの無人島を貸し切ってやることになっているから。きっとおいしいものもたくさんあるわよ」
「聞いてた!?」
「選手たちは豪華なホテル滞在で大会日程を過ごすからとっても快適よ」
「言葉が通じてない……!?」
「参加するのは世界中から集まった闇タイピング界の猛者ばかりよ。腕がなるでしょ」
つばさは話し続けた。二十万円入った封筒をさり気なく翔の方へ押し戻す。
「でもあなたの力があればきっと戦える! 私も全力でサポートするから! がんばりましょう! 今日はいいものを持ってきたわ」
イマイチ言葉が噛み合っている気がしないつばさに対して、翔は怪訝な表情を向けた。
「な、何を持ってきたの?」
良し! やっぱり押しに弱い!
つばさは心の中でガッツポーズをした。
「じゃじゃーん!」
声に出して言って、つばさはバッグからキーボードとノートパソコンを取り出した。
つばさはあっという間に食べ終わっていたサンドイッチの皿を脇にどけると、キーボードとノートパソコンをテーブルに置いた。今日は食事がメインじゃないのだ。いや、昨日も食事がメインではなかったが。
テーブルに置かれた見慣れない配列のキーボードに、翔は興味をそそられたようだった。
「SKY配列のキーボードか?」
翔の目に好奇の光が動くのを、つばさは見逃さなかった。
「そうよ! 最高に打ちやすくて、早くて正確な打鍵ができると話題沸騰中のSKY配列キーボード! 自作なの!」
「どこで話題に……?」
翔の疑問を、つばさは華麗にスルーした。
「昨日は実物も持ってこないで失礼したわ。今日は翔くんにみっちりとSKY配列の魅力を叩き込んであげるから!」
「た、食べてからでいい?」
「もちろん!」
つばさは大きくうなずいた。
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翔が食事を終えた。チャーハンだけだったので、おいしく食べきることができた。
つばさは翔の食事を見届けると、席を移動して翔の隣に座った。
やけに距離が近いし、露出の多い格好をしているつばさに翔はドギマギしてしまう。
「ちょっと……近い」
「近づかないと教えられないよ」
「た、頼んでない……」
翔の訴えをつばさは無視した。
つばさはSKY配列のキーボードを翔の前に置くと、翔の手をホームポジションに据えた。キーボードを繋いだノートパソコンには、OS標準のテキストエディタが開かれている。
つばさは咳払いを一つした。
大きく口を開けると、老舗定食屋の店内で、つばさの歌声が朗々とこだました。
「日本語タイプ、始めます~。三十キーのキーボード~。右手ホームはあおいえに~左手ホームはかさたなに~。上段打って戻ります~下段を打って戻ります~」
つばさの無駄にいい歌声に、他の客からやばい奴らを見る視線一瞬集まったが、つばさが気にするそぶりもない。
「な、なにその歌?」
「SKY配列のキータッチを覚えるための歌よ。作詞作曲は私。うさぎと亀のリズムで歌って頂戴」
「うええぇ……」
翔は定食屋の店内で歌に合わせてキータッチの練習をした。
とんだ羞恥プレイを強要されている。
定食屋なのにパソコン出していいのだろうかとも思ったが、店員も気にする様子もなく、客もまばらだった。
網走翔はつばさの指導で歌に合わせて一通りSKY配列のキータッチ練習を行った。
やはり……と翔は思う。
確かに打ちやすい。
母音と子音が右手左手に分離されており、自然な交互打鍵が可能だ。
複合キーによってかな文字の入力効率も高い。
最も早く打鍵できるホーム段に使用頻度の高いキーを配置することで、打ちやすくなっている。
特に同じ指の段超え打ちはほぼない。
QWERTY配列で感じた『K』と『I』で打つ『き』のような煩わしさは一切なくなっていた。
「……どう?」
不安そうな瞳でつばさは翔を覗き込んできた。
その目はまるで恋人に告白の返事を求める少女のようで、翔は思わず目をそらしてしまう。そっぽを向いて、翔は言った。
「良い配列だよ。とても」
本当だった。
とても打ちやすいし、覚えやすい。
ものの数分で、翔はSKY配列のキー配列をが覚えていた。
それはSKY配列のキー配列がとてもロジカルで、一つ一つのキー配置に考え抜かれた意味があるからだろう。
日本語ローマ字入力を考えたとき、全く無秩序に並んでいるように見えるQWERTY配列とはそこが決定的に違っていた。
翔はSKY配列について感じたことを素直に告げた。
つばさはしばらく反応がなかった。
そっぽを向いて話していたので、つばさの様子が分からなかったが、振り返って見るとつばさは震えていた。
「つ、つばささん……?」
「ごめん……うれしくて。こんなに面と向かって褒めてもらったことってなくて……」
その瞳はわずかに潤んでいるように見えた。
「会社の同僚に勧めても無駄無意味だって言われるだけだったから」
会社員だったのか。勝手にバンドマンのニートだと思っていた。
「俺はタイピングについて嘘は言わない」
「そうだよね。翔くんはタイパーなんだもんね。あと、バッサーだよ」
嬉しそうに微笑むつばさを見ると、次の言葉がなかなか出てこない。
しかし言わないわけにはいかなかった。
「だからこそ、言わせてもらう。SKY配列じゃあ、勝てない」
翔はしっかりとつばさを見た。
「二年あれば違ったかもしれない。でも半年じゃあ勝てない。タイパーたちは、KPMを一文字上げるために何年もかける奴もいる。QWERTY配列にはそんな奴らがひしめているんだ。次回大会が開かれるなら、あるいはと思うが」
良い配列であればこそ、惜しいとは思う。
もっと時間があれば。
こんな大会が定期的に開かれている世の中だったなら、自分は全く違う人生を歩んでいたかもしれない。
タイピングという力が、もっと世界から望まれている世の中だったら。
「暗黒タイピング大会は一度だけよ。多分もう、二度とない」
つばさは寂しそうに言った。
「それに俺はもうタイピングをやめるんだ。もう速度と正確さを求めてタイピングをやることはない。普通に働く。誘ってくれて申し訳ないが、タイパーは別の人を探してほしい」
今一度、翔は伝えた。
つばさは少し肩を落として、目を伏せた。
「……翔くんは世界を救いたいと思わない?」
最初も言っていた言葉だ。
タイプ効率で、世界を救う。
しかしその言葉も、今の翔には空虚に響く。
世界を救うなんて大言壮語は、満ち足りた奴のやる遊戯だ。
タイパーの仕事じゃない。
「世界の前に俺自身を救わないといけないっていうか……」
地に足をつけて、真っ当な道を歩む。
そう決めたのだ。
「やっぱり押せ押せでいっても駄目なものは駄目かぁ」
つばさは天を仰いで嘆息した。
「押せ押せ?」
「だって翔くん、押しに弱そうだから、こう――ガンガン言えばなし崩し的にオッケーしてくれるかなぁって」
ひどい言い草である。
「でもまあSKY配列を褒めてくれたし、嬉しかった」
つばさはあっけらかんと笑い、キーボードを片付け始めた。
「配列は、本当にいいと思ったよ」
「……ありがとう」
つばさはきれいな笑顔を見せた。
しかしその顔はどこか寂しそうで、翔は胸がわずかに痛む。
「さて。そろそろ会社に戻らないと」
「……えーと、本当に会社員なの?」
翔はつばさの格好を改めて眺めた。
「失礼ね。服装自由なのよ」
金髪ピンク髪のバンドマンスタイルは自由にも程があるだろう。
どんな会社なのだろう。何なら雇ってくれないかなと翔は思った。
つばさがキーボードを片付け、店員を呼ぶ。
会計を支払おうとしたときだった。
店の入口から大きな声がした。
「探しましたよぉ~。白鳥博士。やっぱり若者の道を誤らせようとするのはやっぱり罪なことだと思いまして。はっきり伝えた方がいい。無駄なものは無駄だから無駄なんだとね」
翔は視線を入り口に向けた。
パリッとしたスーツを着こなすエリート然とした男が立っていた。
翔は瞬間的に感じた。
この男は、タイピングをやっている――。
それも、かなり早い。
男はこちらを見て、白鳥博士と呼んでいる。
白鳥……博士……?
翔は振り返ってつばさを見た。
つばさは心底うんざりしたような表情で、入り口の男を睨みつけていた。
次回投稿は5月21日を予定しています。
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