第四話「ユノ」
網走翔は家に帰ってきた。
六畳一間のアパートに西日がぼんやりと差し込んでいる。
バッグを万年床に放り込むと、パソコンの前に座った。
日課のタイピング練習をする。
タイピングをしている瞬間が、一番落ち着いた。
何も考えず、無心にキーを叩くのが心地よかった。
しかしどういうわけだろう。
不思議と今日はタイプミスが多い。
ふいに常駐していたチャットソフトが起動して、メッセージの着信を告げてきた。
知り合いからだった。
チャット相手はユノという。
「やあ。昨日のタイピングスレ、君だろ?」
ユノは顔も本名も知らない、ネットの世界で出会ったタイピング仲間だった。
女のような名前だが、会話からして、少し年下の男だろうと翔は考えている。
女っぽい名前の男など、ネットではよくあることである。
ユノとは気が合うので、ときどき情報交換やタイピング対決、どうでもいい雑談などをしていた。
「よく分かったな」
翔もメッセージを返した。
「なんとなくね。タイピングスコアの傾向が君っぽかったからさ」
「あれくらいだったらお前でもできるさ」
「まあねぇ。僕ならもうちょっといいスコア出すかな」
「言ってろ」
翔のそっけない返事に、ユノは笑っている絵文字を並べて送ってきた。
ユノは妙に子供っぽいところがあるやつである。
「それにしても珍しいね。SHOWが匿名掲示板でタイピング自慢なんて」
SHOWは網走翔のチャットネームだった。
「別にいいだろ。そういうときもあるんだ」
「そうかい。なにか嫌なことでもあったのかと思ったよ」
「そもそもタイピングやってていいことなんてねぇよ」
「悲観的だねぇ。嫌いじゃないよ。あのスレの主を雇いたいって探している人もいたんだよ。SHOWも就職できるんじゃないかい」
「俺を探しているやつ……ね」
「ん? なんだい。心当たりがあるのかい」
「今日会ってきたよ」
翔がメッセージを送ると、ユノの反応がしばらく止まった。
「ユノ?」
十秒か。十五秒くらいだろうか。
「興味深いね。SHOWはネットで知り合った人間とはリアルで会わない主義じゃなかったっけ」
「今でも変わらねぇよ。ただ、かなりやべえ奴でな。いきなり俺のSNS情報と口座情報を抜いて二十万円振り込んできた。様子を見るだけでも見ようと思ったんだよ」
「ふーん。僕も詳しく聞きたいね」
ユノは怒ったような顔文字を語尾につけてきた。
こいつに怒られるような筋合いはまったくないと翔は思った。
翔は今日の出来事をユノに説明した。
暗黒タイピング大会のことや、それに誘われたこと、QWERTYとは別の配列で出て欲しいと言われたこと。
「なるほどねぇ」
「まあこんな感じだな。断ったけど、一日考えてくれって言われたよ。明日も会うことになってる」
「なんで断ったんだい。配列変更を賭けた大会なんて考えてもみなかったな。面白いじゃないか。世界中に君の力を見せてやれよ」
「半年だぜ。どうにもならねぇって、お前なら分かるだろ」
「そうかい? 君なら結構いいところまでいけると思うけど」
「いいところまで行ってどうすんだよ。優勝しなきゃ意味ねぇだろ」
「参加することに意味があると思わないかい? 歴史に名が残るぜ」
ユノはおよそこの世の人の営みを小馬鹿にしている節があるから、この言葉は意外だった。用もないのに勝ち馬に乗って、負けたやつを煽りに行くのが趣味である。
「オリンピックじゃないんだ。らしくないこと言うな」
「君こそらしくないじゃないか。やることはタイピングなんだぜ。シンプルじゃないか」
ユノはやけに絡んでくる。
翔ははっきり告げることにした。
タイピング仲間に言うのは気が引ける。
「もう……やめるんだよ。タイピングは」
何の意味もないことはやめて、まともな仕事で働いて過ごす。
金もないし、そろそろ潮時だった。
ユノはまた十数秒沈黙した。
「実家に帰って、家業を継ぐことにしたんだ。また半年もタイピングに打ち込んだらそれこそ人生が詰んじまうからな。これからは真っ当に働くことにする」
返事はない。
「ユノ? 見てるか?」
わずかな沈黙。
「見てるよ。ちょっと笑っていたところさ」
「笑う要素なんてないぞ」
「いや、笑いどころさ。タイピングをやめる? 犬が犬をやめたいと言うのを聞いた気分だよ」
「なんだと?」
「君は自分が何者か分かってないみたいだね。教えてあげるよ。僕と久々に勝負しないか。タイピング勝負だ」
ユノとは近頃は雑談チャットばかりで、対戦をあまりしていなかった。
もともとはタイピングのネット対戦で出会った間柄である。
こいつなりの、最後の手向けなのかもしれないと、翔は思った。
「……いいだろう。最後の勝負だ。勝って終わらせてやるよ」
「さて。どうだろうね」
翔はネット対戦用タイピングソフト「タイピングクエスト」を起動した。
タイピングクエストは、ネット上で不特定多数とタイピング対決ができるソフトである。次々とランダムに示される単語を対戦相手とひたすら打ち込んでいき、速度で勝った方が単語を取る。取得単語数の多い方が勝つというシンプルなゲームだった。正確性を値を設定をすることもできる。
翔はタイピングクエストのフレンドリストからユノを選んで対戦を申し込んだ。すぐにユノが応答する。
タイピングクエストの傍らに開いていたチャットソフトのウィンドウでユノは言った。
「ゲームスタートだ」
翔はそれには応えず、チャットウィンドウを最小化。タイピングクエストを最大化して呼吸を整え、手を握り、開いた。
「これで最後だ」
陽の沈んだ部屋で一人つぶやき、翔は指を走らせた。
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十五分後、勝負はついた。
三分の対戦を四セット行い、結果は三勝一敗。
勝負を終えた翔の額に汗が滲んでいた。
大きく息を吐いて、翔はチャットウィンドウを開いた。
さっそくユノからメッセージが来ていた。
「僕の力をみたかい? 素晴らしい精度と速度だったろう」
連投でメッセージがくる。
「日本でもこれだけ早いのは僕くらいだろうね」
「もしかしたら世界一かもしれない」
「きみもまだまだだね。SHOW」
連投を続けるユノに、翔はメッセージを返した。
「まて。画面をよく見ろ。勝ったのは俺だぞ」
翔が三勝。ユノは一勝だった。
「僕に比べたら、君なんて――」
「現実逃避やめろ」
すると、ユノは怒りと笑いと泣いている顔文字を連投してきた。めんどくさい奴である。
「これでわかったかな」
ユノは言った。
「何が」
「君はタイパーなんだよ。じゃなきゃこの僕が負けるはずがないんだ。勝ち逃げしてタイピングをやめるなんて許さないよ。君は絶対に大会に出るべきだ」
「そんなことを言われても困る。っていうか金がないし……」
「金なんてなんとでもなるでしょ」
無茶苦茶を言うやつである。
ユノとのチャットはしばらく続いた。
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「これは……SKY配列だね」
翔が今日もらってきた配列表の画像を送信すると、ユノは言った。
「知っているのか」
「昔、白鳥嘉男って人が考案した日本語ローマ字入力用の配列だよ。あまり流行らなかったけど、使っている人もいた。いい配列だよ。へぇ、こんな人に会っていたのか」
「いや、白鳥つばさと名乗っていた。血縁者なのかもしれない。若かったし、年齢的に孫娘かもな」
「孫娘? 待ってくれ。君は今日女の子に会っていたのかい?」
「そうだが、パンクバンドみたいな奴だったぞ」
「話が違うじゃないか。まさか明日も会うつもりじゃないだろうね?」
「最初から会うと言っているだろ」
「やっぱり君はタイピング大会に参加しない方がいいと思うな!」
「さっきと言っていることが違うぞ」
「明日はやめて、僕とタイピングをしていればいいよ」
「行くと言ったんだから、明日は行くぞ」
「じゃあ明日は僕も行くよ! いつどこで会うんだい?」
「教えるか! なんだ急に!」
「なんでよ! ケチ!!」
どうでもいい押し問答をしているうちに、夜は更けていった。
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翌日。昼休み近くになると、白鳥つばさは自分が使っているキーボードを外してバッグに入れた。ノートパソコンも一緒に放り込む。いささかかさばるが、仕方ない。
SKY配列の良さを分かってもらうには、実際に打ってもらうのが一番である。
網走翔なら、きっと分かってくれるはずだと、つばさは支度をしていた。
「今日はどうしたんですか? 白鳥博士」
隣席の湯浅朝城が声をかけてくる。
「ええ。ちょっと」
つばさは曖昧にうなずきながら応じた。
「まさかまだタイパーを探しているんですか?」
半分笑いながら言う湯浅の言葉に、つばさは少しむっとしたように眉をしかめた。
「いやぁ、昨日はすいません。なんとか配列の布教に尽力する白鳥博士を心無い言葉で傷つけてしまっていたようで。反省してます」
「私は気にしてないです。それに、反省しているようには見えませんけど」
「見えない? おかしいですね。反省していますよ。ただこれは私の問題だと思いますが、反省していると言いながら反省している色が見えない、という指摘は、私自身の問題だと反省していますよ」
何を言っているのか分からなかった。
昼休みを知らせる鐘がなった。
「じゃあ私は急ぎますので」
つばさは席を立ち、バッグを抱えるとオフィスを出た。
その背中を、湯浅はじっと見つめていた。
次回更新は5月20日を予定しています。
よろしくお願いします。