第三話「SKY配列」
古い記憶だった。
「おじいちゃんのキーボード、変だよ。パパが使ってるのと違うー」
幼い少女の言葉に、老人は困ったように笑った。
老人が書斎で使っていたキーボードは、少女が見たことのないものだった。
少女だけじゃない。誰も知らないキーボードである。
「つばさ。打ってみるかい?」
「ええー。分からないよ」
少女は言いながら、仕方なしに祖父の膝の上に座った。
パソコン好きの父の影響で、少女は物心ついた頃からキーボードに触っていた。
手書きで日本語を書くよりも、キーボードを叩いて書いた日本語の方が多かった。
祖父の使っているキーボードは、独特な配列をしていた。
「なにこれー。変なのー」
少女は祖父に教えられた通り、見様見真似でキーボードを打ち始めた。
人差し指で打つ少女に、祖父は告げた。
「手を広げて、両手で打って御覧」
少女はまだタッチタイピングができなかった。
だからいつもキーボードを見ながら、人差し指で一つずつ文字を入力していた。
ボタンを押すと画面に文字が出ることが楽しかった。
祖父に言われた通り、少女は手を広げてみた。
「じゃあ、『おはよう』って打ってご覧」
「えーとぉ」
ゆっくりと、キーボードを見ながら少女はタイプした。
不思議なキー配列のキーボードは、両手を広げながらほとんど人差し指だけで『おはよう』を打つことができた。タイプの数も、普段より少なかったような気がする。
「できた! できたよ!」
画面に表示される文字を見て、少女は満面の笑みを浮かべた。
「つばさはタイピングが上手だね」
「えへへー」
褒められて、少女は嬉しそうだった。
「もっとやってみるかい?」
「うん!」
それから少女は、しばらくの間祖父の不思議なキーボードを使ってタイピングを楽しんだ。両手を使って、パチパチと、ゆっくりと、だが淀みない打鍵音が祖父の書斎に響いた。
「おじいちゃん! これすごい打ちやすいよ。なんでだろう」
少女は自分の手が流れるように打鍵をしていくのが不思議だった。
いつもだったらもっと一文字ずつ探して打つし、両手で打つのも難しかった。少女の小さな手では小指で『A』を打つのも困難だったのだ。
膝の上で嬉しそうにタイピングをする少女を、老人は満足そうに眺めていた。
「つばさ。これはSKY配列だ。日本語のローマ字入力を打つためにおじいちゃんが作ったんだ。打ちやすいだろ」
見ると、キーボードの真ん中に、『S』と『K』と『Y』が並んでいた。
だから、SKY配列。
「うん! いつもとぜんぜん違う。なんでみんなこれにしないのかな」
老人はまた困ったように笑った。
「ロックイン効果というのがあるんだ」
「ろっくいん?」
「同じ配列のキーボードをずっと使っていたら、新しい別の配列を覚えるのは大変だろう? だから同じ配列のキーボードがずっと使われるんだ。例えそれが非効率で打ちにくいとしても、覚えるのが大変だから、使われ続けるんだよ。お金もかかるしね」
「えー。もったいないよ。最初ちょっと大変なだけじゃん」
「それはつばさがまだ若くてすぐに色々吸収できちゃうからだよ。大人になると難しいんだ」
「大人はだめだねー」
「ある側面では、そうとも言えるね」
「ねえおじいちゃん。私がみんなに教えてあげようか」
少女の言葉に、老人は目を見開いた。
「この配列がいいって。私の友達ならきっとみんな使ってくれるよ。私友達多いんだから。きっと世界中に広まるよ」
無邪気に微笑む少女に、老人はシワだらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そりゃあ、剛毅だなぁ」
今でも覚えている、古い記憶。
初めてのSKY配列と、嬉しそうな祖父の顔。
はっきりとした最古の記憶だ。
祖父の名前は白鳥嘉男。
SKY配列の考案者。
白鳥つばさは、このときこの瞬間から、配列屋の道を歩み始めた。
苦難の道が始まったのだ。
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「――それがSKY配列なのよ!」
網走翔の手を掴んで、つばさは言った。
握った手が離されていく。
つばさはその様子がスローモーションのように見えていた。
不思議なことに、次に放たれる言葉も、つばさにはわかっていた。
何回も……。そう、何回も言われていたから。
「正直QWERTY配列で困ってないんだ」
ネットで探しだしたタイパーの青年網走翔は、興味がなさそうに言った。
「今更変えるのも面倒くさいし、QWERTY配列で十分速く打てるし」
「まって。見てよ。この配列!」
つばさは慌ててかばんから配列表を取り出した。
それは祖父が考案したSKY配列を更に改良した配列だった。
考案時のSKY配列は「ヴ」や長音府が入力できないという問題があった。
それらの弱点を克服して、つばさは最高のタイプ効率を誇る配列に仕上げたのだ。
あとは本物のタイパーが使ってくれるだけでいいのに。
翔は配列表をつまみ上げるとぼんやりと眺めた。
「とてもいい配列だとは思うぜ。きっと速いんだろう。『K』と『I』の位置もいい。でも……」
翔は配列表を置いた。
「暗黒タイピング大会っていつからだ?」
「半年後よ」
「その大会はQWERTYのやつらも出るのかい」
「最大勢力よ。優勝候補だわ」
「……だろうな」
翔はため息を一つついた。
つばさは不安げな顔で翔見つめた。
「……翔くん」
「俺たちがどれだけタイピングをやっているか知っているか?」
独り言のように、翔は続けた。
「毎日十万打鍵だ。来る日も来る日も打ち続けている。何年も。何の役にも立たないってわかっていてもな。タイパーってのはそういう連中だ」
翔はテーブルの上で指をとんとんと叩いた。
「これからこの配列をやるとして、半年……。180日くらいか……。1800万打鍵。一日十万打鍵じゃとても足りない。倍にしても3600万打鍵だ」
翔は配列表に視線を落とした。
「なるほど確かに良い配列なのかもしれない。でもな。相手は生まれたときからQWERTY配列で打鍵している。俺だって単純計算で優に五億打鍵は超えている。それ以上打っているやつだって、QWERTY配列にはいくらでもいる」
顔を上げて、翔はつばさを見た。
「さっき言っていた『K』と『I』の相互打鍵の問題も、タイパーは手首を返すことで連続打鍵を可能にしている。多少のロスは生まれるが、連続打鍵ができるんだ。そういう工夫が、QWERTY配列には連綿と受け継がれている」
翔はじっとつばさを見つめた。
翔の瞳は言っていた。
「勝てるわけがない……?」
つばさは自分から口にしていた。
翔は否定も肯定もしなかった。
静かに水を飲んだ。
「技術のロックインっていうのは、だからこそ破れないんじゃないのか。一度使われだして普及すれば、戻れなくなる」
それが破られる唯一のチャンスが、暗黒タイピング大会だ。
「でも……! でも……! 今回はやっと訪れた百五十年ぶりのチャンスなの。次はないのよ。翔くんなら、なんとかなる!」
「百五十年前だったら、なんとかなったかもしれないけどな……それに……俺は」
翔は何かを言いかけて、少し口ごもるとやめた。
ポケットから封筒を取り出すと、テーブルに置いた。
「さすがにこれで二十万円は受け取れないぜ。何もしてないからな。飯をおごってもらっただけで十分だ」
そう言って、翔は二十万円が入った封筒をつばさに渡そうとした。
しかしつばさは受け取らなかった。
「まって! 一日だけ、考えて。お願い」
「結論は変わらないと思う」
「だとしても、お願い。明日また、正午に噴水前にきて」
「……いいけどさ」
翔は封筒を引っ込めてポケットに突っ込んだ。
「もう話は終わりでいいか?」
配列表をテーブルの上に置きっぱなしにして、翔は立ち上がった。
「ま、まって!」
つばさは立ち去ろうとする背中に声をかけた。
「……配列表、持っていって」
真剣な声で、つばさは言った。
声が震える。
テーブルの上に置いたSKY配列の配列表を、つばさは渡した。
翔はわずかに逡巡したあと、配列表を受け取るとポケットに突っ込んだ。
「ごちそうさま。力になれなくて悪かったな」
そう言って、翔は店を出ていった。
店員のやけに元気がいい「ありがとうございました」が耳に響いた。
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白鳥つばさは昼休憩を終えると職場に戻ってきていた。
パソコンメーカーの研究開発オフィスである。
「あれれ~。白鳥博士~。どうしたんですかぁ? なんか浮かない顔ですねぇ。浮かないことでもあったんですか?」
戻ってきたつばさに、同僚の湯浅朝城が声をかけてきた。
年は三十代半ば、きりっとしたエリート然とした男で、服装自由の職場にスーツで出社している。
「……なんでもないですよ」
つばさはつっけんどんに応えて椅子に座った。
「なんでもないってことはないでしょ。あんなに勇んで出ていったじゃないですか。最高のタイパーを見つけたとかなんとか」
湯浅はにやにやと笑っている。
「さては断られましたね。当然ですよねぇ。今更変な配列のキーボードに変えようなんてやつは白鳥博士くらいしかいませんからね」
湯浅は続けた。
「あんなおかしな大会、開かれるのが不思議なくらいですよ。もし別の配列が勝ったらどれだけのコストがかかると思っているんですか。どうせ勝つのはQWERTY配列ですよ。出来レースなんですって。だから世間には公表してない。無駄なことはやめろって言ったじゃないですか。無駄なことをやめれば、無駄は無くせるんですから」
つばさは湯浅の方を見ずにつぶやいた。
「湯浅さん。仕事しますよ」
つばさは無言で仕事を始めた。
つばさの仕事はパソコンのハードウェア設計だった。
人間工学に基づいた使いやすいハードウェアを作り出す。
パソコン本体・ディスプレイ・プリンター・スキャナーなどの周辺機器そのものと、機器内部の部品ひとつひとつを設計開発していた。
つばさの作る機器は評判もよく、社内の賞を受賞したこともあった。
ぱちぱちとつばさはキーボードを叩く。
ちらっと自分のキーボードを見た。
自作のSKY配列キーボードだ。
しかし職場の誰もSKY配列のキーボードは使ってない。
勧めたこともあったが、誰一人取り合わなかった。
SKY配列のキーボードの良さを広めないといけないとつばさは思った。
だからつばさは社内でタイピング大会を開いたのだ。
もともとパソコンが好きな連中だし、タイピングにも自信があるのだろう。
多くの人が参加してくれた。
つばさはもちろん自作のSKY配列キーボードで参加した。
この大会で勝てば、少なくとも社内の人はSKY配列の良さを分かってくれるだろう。
結果は上々だった。順調に勝ち進んで、決勝戦まで行った。
しかし――。
「大体世界中がそんなおかしな配列のキーボードになったら大変なことですよ」
湯浅はまだ話していた。
「QWERTY配列よりも非効率で遅い配列にするなんて、ナンセンスに馬鹿げていますよ」
この湯浅朝城こそが、白鳥つばさの優勝を阻んだ張本人であった。
タイピング大会決勝、SKY配列のつばさは、湯浅のQWERTY配列に全く及ばなかった。
つばさなりに練習はしていたが、湯浅は昔かなりタイパーとして慣らしていたらしく、そのタイピング速度は一般人の「俺タイピング早いよ」を遥かに凌駕していた。
タイピングは才能が大きく関わる世界だ。
白鳥つばさには、タイパーとしての才能がまるでなかった。
それを大いに自覚した大会でもあった。
その大会以来、湯浅はSKY配列を広めようとするつばさに何かと絡んできた。
「白鳥博士もなんとか配列なんてやめて、効率的でスピーディなQWERTY配列に変えた方がいいですよ。駄目なら配列だろうが変えなきゃいけない。今のままではいけません。今のままでいけないと思っているならね」
つばさは湯浅をきっと睨んだ。
「SKY配列です」
「え? なんですか?」
湯浅はへらへらと笑っている。
「この配列はSKY配列です。確かに湯浅さんに負けましたが、SKY配列の良さが否定されたとは思ってません。誰にでもわかりやすく、使いやすい配列なんです。そして本物のタイパーが使えば最高の速度と精密さを出せる」
「怒らないでくださいよ白鳥博士。そうですかぁ。ぜひみたいですねぇ」
湯浅は顔に笑いを貼り付けたまま、自分の仕事に戻った。
つばさも仕事に戻る。
普段より幾分強くキーボードをタイプしていると自覚していた。
そうだ。本物のタイパーが使えば。
網走翔が本気でSKY配列に取り組んでくれれば、最高の性能を発揮するのに……!
「おじいちゃん……。こんなに大変だったんだね……新しい配列を広めるのって」
つばさはつぶやいた。
昼下がりのオフィスの弛緩した空気の中、つばさは暗い顔でキーボードを叩き続けた。
次回投稿は5月19日予定です。
よろしくおねがいします。