第二話「暗黒タイピング大会への誘い」
「私はとんかつ定食大盛り、味噌汁じゃなくて豚汁で。おしんこうはナス多めでお願い。飲み物はオレンジジュースで」
白鳥つばさに半ば連行されるようにして、翔は近くの老舗定食屋のような店に入っていた。
昼どきなのに、客はまばらだ。
つばさの格好に、店内の客の視線が集まったが、つばさはどこ吹く風だ。
二人は店の一番奥のテーブル席に通された。
向かい合わせに二人は座る。
淀みなく注文するつばさを見て、翔はまだ困惑顔である。
注文を取りに来た店員が翔の方を見た。
「えーと、じゃあチャーハンで」
「ここはワンタン麺もおいしいわよ」
つばさはにっこりと笑って店員を見た。
常連なのだろうか。奇抜なつばさの格好を見ても驚かない。
「じゃあ……それも」
つばさの勢いに押されるように翔は言った。
店員は注文表にサラサラと書き足した。
奢ると言われたのでつい注文してしまったが、果たして食べ切れるだろうか。
「飲み物はカルピス? オレンジジュース?」
両方違うだろうと翔は思う。
「水でいいです」
翔が言うと、店員は注文を繰り返した。
満足そうにうなずくつばさを確認すると、店員は水をテーブルに置いて厨房へ戻った。
「この店はおいしいし、値段も手頃で量も多いから覚えておくといいわよ」
「なるほど……じゃなくて! さっきの話を聞きたいんだけど」
「もちろん話すわよ。でもご飯を食べてからにしましょうよ。お腹空いちゃって」
そう言ってつばさは胸に比べて引き締まったお腹を押さえた。
この女、さっきは世界を救うとかなんとか言ってなかっただろうか。
なんでとんかつを食べながら話したがるのか。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
大学のラグビー部が食べるような量のチャーハンとワンタン麺だった。
つばさのとんかつ定食はさながら力士が食べるくらいの量である。
量が多いにも程がある。
「いただきます」
つばさは山盛りのカツを見ても涼しい顔で、奇抜な見た目からは想像出来ないほど礼儀正しく手を合わせた。
翔も手を合わせて食事をした。
とても食べ切れる気がしなかった。
「おいしい?」
つばさはぱくぱくと食べつつ、時折話しかけてきた。
「おいしいけど、量が多いかな」
「そお?」
二人の前に並べられた料理は、つばさの側だけみるみるうちになくなっていった。
「あーおいしかった。満足満足。ごちそうさまでした」
十五分後、つばさの前にあった山盛りのとんかつは、キレイに胃袋に収まっていた。
「君、まさか大食いチャンピオンとかじゃないよね」
「そんなわけないでしょ。普通よ」
絶対に普通じゃないと翔は思った。
つばさは翔の皿を見た。
「……食べ切れそうにない?」
少し心配そうな声で、つばさは言った。
翔のチャーハンとワンタン麺は、皿の隅に少しずつ残っていた。
翔のレンげの動きはほとんど止まっていた。かなり頑張った方だと翔は思っている。
「もう食べられない」
「仕方ないわね。ちょっと貸して」
つばさは翔からレンゲを奪い取ると、自分のトレイと翔のトレイの位置を入れ替えて、残っていたチャーハンとワンタン麺を食べ始めた。
「もぐもぐ。……ごくん。翔くんは意外と少食なのね」
自分の使っていたレンゲを気にせず使っているつばさを見て、翔はなんとなく居心地が悪い。
「……君が大食いなんだよ」
翔はうつむいて水を飲んだ。
「そうかなぁ。普通よ普通」
言って、翔の残したチャーハンとワンタン麺をぺろりと平らげた。
この女の普通には気をつけないといけない。
「それと『君』じゃなくてバッサーでしょ。他人行儀じゃない」
完全に初対面なのに、距離を詰めるのが早すぎる。
そもそも何歳なのかもわからない。距離感がつかめなかった。
「えーと、つばささん? 何歳なの? 俺は二十三だけど」
「バッサー」
「バ、バッサー……」
「そうそう。これから共に世界を救うパートナーなんだから。仲良くしましょ」
そこがさっぱり分からないのだ。
世界を救うだって?
大仰なセリフを使うやつは、詐欺師かイカれたやつと相場が決まっている。
網走翔は人より少しタイピングが早いだけだ。
世界を救える要素は、どこにもない。
せいぜいネットでイキれるくらい。
何の意味も、ない。
それくらい自覚している。
胡乱げな目で見つめる翔に、つばさは涼しい顔でオレンジジュースを飲んだ。
「翔くんの書き込み、私も見ていたのよ。貼られたサイトのタイピングにも挑戦したわ。全然だめね。あなたのスコアは完全に怪物だった。最初はただのうぬぼれだと思っていた。でも結果で示した。本物だって」
それはそうだろうと、翔は思う。
タイピングだけがプライドだ。
こんなパソコンも持ってなさそうなやつに負けるわけがない。
「あのあとちょっとした祭になっていたわよ。あなたがいなくなってしまったから、余計に。知ってた?」
知らなかった。あとで見てみようと翔は思った。
つばさは胸を寄せるようにして腕を組んだ。
「翔くんは、今の配列をどう思う?」
唐突な質問だった。
「……配列?」
つばさはうなずいた。
プラグラミング言語の配列だろうか。
翔は少しプログラミングの本を読んだことがあった。
そしてすぐに諦めた過去がある。
「ちなみにプログラミングならわからないぞ」
翔は言った。ついでに作文も苦手だ。
首を振ってつばさは続けた。
「キーボードの文字列三段目を左上から順番に言ってみて」
キーボードのことは、翔の頭に刻まれている。
「『Q』だろ、『W』、『E』、『R』、『T』、『Y』……」
「ストップ!」
つばさは手を上げた。
そして答えを待っているように、じっと翔を見つめた。
配列。
「……QWERTY配列のことか?」
日本で市販されているどのパソコンを買っても、付いてくるキーボードの文字配列は決まっている。
キーボードのデファクトスタンダード。
それがQWERTY配列だ。
パチっとつばさは指を鳴らした。
「そう! どう思うの?」
「別に、いつも使っているキーボードさ。特に不自由もないし、普通の配列だろ?」
「普通じゃだめなのよ」
ひどく真剣な瞳で、つばさは言った。
「最高じゃない」
つばさはテーブルの上で拳を握った。
金髪とピンクの髪が震えた。
「翔くんはQWERTY配列に一切の不満はないの?」
「慣れちゃってるからな。……強いて言うなら『K』と『I』の配置だな。あれだけは本当に打ちにくい」
『K』と『I』の連続は日本語ローマ字入力だと「き」だ。標準運指に従うと、この文字は連続で同じ指を使って打つ。タイピング速度向上には、相互打鍵が重要な鍵になる。一つのキーを押した次の瞬間に、別のキーを押し、淀みないリズムでキーを叩きたい。同じ指を連続で使うことなく。
今の『K』と『I』の配置では、それができない。
「変えられるとしたら?」
確信めいた口調でつばさは言った。
「無理だろ。世界中がQWERTY配列なんだぜ。今更」
誰もがQWERTY配列でキー配置を覚えている世の中だ。
それを変えるなんて不可能だ。
つばさはにやりと笑った。
そして一枚の紙をテーブルに置いた。
「なんだ……これ……?」
「読んでみて。書いてある通りのことが、これから起こる」
翔はつばさが出した紙に視線を滑らせた。
なにかのポスターのように見える。
配列が描かれてないキーボードの写真があった。
「……なるほどな」
翔はうなずいた。
「……どう? すごいでしょ」
つばさは得意気にポスターに書かれた文字を示した。
ポスターの文字はすべて英語だった。
翔は苦しげに切り出した。
「その……英語、読めないんだけど……」
「……そ、そう」
若干引かれた。
英語くらい読めて当たり前という雰囲気だった。
自分を釣りだした手口といい、この女、見た目に反して賢い!?
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白鳥つばさにポスターの内容を簡単に教えてもらった。
驚くべき内容だった。
「あ、暗黒タイピング大会!?」
つばさの説明に、翔は素っ頓狂な声を出した。
「そうよ。世界中の配列屋とタイパーが集まって、最高のキー配列を決めるの。基準はタイピング速度と精密さだけ。一番速く正確にタイピングしたチームの優勝よ。そして世界中パソコンを、優勝者の使用していたキー配列に変える。百五十年ぶりに訪れた、技術のロックインを解除する唯一の機会。それが、暗黒タイピング大会よ」
怪しすぎる名前だが、凄まじい影響力を持った大会であった。
勝ったチームの配列になるということは、キーボードのディファクトスタンダードであるQWERTY配列が変わる可能性がある。
ディファクトスタンダードの変更は、世界を変えるに等しい行為だ。
世界中に存在している当たり前……標準が変わる。
聞けば大会の主催者には最大手のソフトウェアメーカーやパソコンメーカーの代表者、大国の大統領の名が連なっていた。
彼らが本気になって変えようとしたら、あながち不可能ではないのかもしれない。
つばさは翔の手を包むように力強く握った。
「QWERTY配列は、最初に普及した配列というだけで、洗練されてもいないし、合理的でもない。世界中の人が、無自覚なうちに不自由な配列を強いられている。真に最高の配列を、私は知っている。何よりも速く、精密な打鍵ができる配列を」
つばさは輝くような目で、翔を見つめた。
「私は天才配列屋、白鳥つばさ。そしてあなたは私が知る限り最高のタイパー網走翔」
握られた手に、力がこもっていた。
「私と暗黒タイピング大会に出て翔くん。あなたと私で、世界を救うの。タイプ効率という名の光で、QWERTYの暗黒に沈んだ世界に、光をもたらすのよ。そのための配列が――」
そういう、ことか。
つばさの言葉は、翔の胸にストンと落ちた。
理解ができた。
タイパーを探している理由も、最高の配列を目指すつばさのことも。
――しかし。
翔は握られた手を離した。
そしてはっきりとした口調で、つばさに告げた。
次回アップは5月18日予定です。
よろしくお願いします。