朝霞さんと鍵しっぽ
優しい風がみやびの長い髪の毛を風鈴のように揺らせた。甘く温かい時刻。火ヶ瀬みやびと朝霞美咲は年頃の女の子らしい会話を交わしながら、暮れゆく町を歩いていた。時間は川のように穏やかに流れ、靴音は気持ちのいいリズムを奏でた。
K(カフカのこと。彼には名前がないため、便宜的に『K』と呼ぶ)が待つ場所まで、もう少し。
「あと五分くらいで着くの。一緒に来てくれてありがとう」と朝霞美咲は言った。うす暗い緊張がその瞳に現れていた。
「いいえ。私が来たかったから来たのです。もうちょっとです!」みやびは元気づけるように言った。彼女は優しく寄り添う。人の為に何かを成し、喜びも悲しみも自分のこととして感じる少女。
みやびは美しかった。まるで一風でさらわれてしまいそうな花のように。
二人は約束の場所へと進んでいった。見慣れた道。見慣れた家屋。見慣れた空。彼女の動悸は徐々に高まっていく。(私が何を見つけるのか、もうすぐ解る)そう思うと心が張り裂けそうになった。足が止まりそうになるたびに風が吹く。まるで彼女の心を押すかのように。迷いはまだあった。それでも自分が信じた人たちがいてくれるのなら、きっと大丈夫。そう心に声をかけて美咲は歩みを進めた。
そしてたどり着いた。朝霞美咲のかつての家へ。二人は家の前へ近づいた時、そこに何かがあることに気が付いた。小さな点はやがて丸みを帯び、一つのシルエットとなって現れた。
「猫さん・・・でしょうか」
「うん。何だろう、まるで私たちを待ってるみたい」
それは先ほどKと出会ったあの野良猫だった。ぶちねこは後ろ足を折り、前足を地面につけて座っていた。彼は近づく少女に目を向ける。鋭い瞳が影の中で輝き、白黒のしっぽが蛇のようにゆらめいていた。
「もしかして・・・師匠の言っていた友人って猫さんのことでしょうか」みやびは近づいて声をかけた。「あのー。こんにちにゃー?」
猫は何も言わない。二人に一瞥を送ると、彼はおもむろに立ち上がった。くるりと背を向けて、ついてこいとでも言うように歩き出した。みやびと美咲は顔を見合わせて困ったような表情を浮かべた。
「と、とりあえず着いていきましょう、朝霞さん!」
「う、うん。カフカさんどこにいるんだろう?」
二人が隣家に接する道路を左に曲がった時、先を歩いていた猫はじろりと後ろを振り向いた。
その目はほんの数秒間、ゆっくりと近づいてくる美咲に向けられていた。
不穏な瞳。そこにはある種の怨みと怒りが含まれていた。もちろん美咲がその感情に気が付くことはない。それでも彼女は怯えた。何に怯えたのだろう?美咲は近づきながら目を凝らした。
瞳はまるで満月のよう。小さくしなやかな身体。切り込まれたような鋭い顔つき。黒と白の混ざり合った毛並み。鍵のようなしっぽ。それは・・・。
「・・・カンくん?」
猫は興味を失ったように視線を切った。そしてまた歩き出す。
「どうかしましたか?」と心配そうにみやびが声をかけた。美咲はその声で我に返った。
「あの子・・・。ううん、なんでもない」小さく息を吸い、高ぶる気持ちを諫めた。しかし一度心に落とされた波紋は、彼女の深いところで何かを呼びかけていた。『ここにいる』と。
猫は隣家をぐるりと周り、さっきKを案内した路地へと入っていった。光の届かない暗い道を猫は迷うことなく進んでいく。その路地はまるで世界の裏側に通じる不思議の道。深淵はどこまでも蠱惑的に二人の少女を招き入れる。
「いこう。きっとこの先にある」美咲は先に立ち、猫の後を追った。
みやびも足元に気を付けながら歩いた。ビンの欠片や洗濯バサミが悲しげに横たわっていた。塀と地面の付け根には苔が生している。砂利を踏む音。みやびにも美咲にも自分たちの靴音は聞こえてこなかった。まるで苔がすべての音を吸い込んでいるかのように。
Kによって蹴り壊された木の塀の前で美咲は立ち止まった。その向こうに見渡せる光景を眺めるために。先に塀の中へ入った猫は雑草に紛れて見えなくなっていた。
そこにはかつて、彼女の生活があった。ご飯を食べて、本を読んで、静かに夢を見て、カンくんと遊んだ日々。美咲は怖かった。そこには過去がある。温かいはずの思い出は今、彼女の中で暗く冷たく沈んでいた。記憶は誠実ではない。それは時として持ち主の心を強く揺さぶる。美しくて映えた世界も。優しい家庭も。好きな料理の香りも。大切だったはずの友達も。今の彼女には手の届かないような、鈍い悲しみを感じさせた。
美咲は開けた過去の入口へと踏み込んだ。そこにある、と彼女は感じた。
私の失くしたものはそこにある。
ささくれだった木に気を付けながら、みやびも塀の中に入った。すると男の声が聞こえた。
「お。来たかお二人さん」中で待っていたKが声をかけた。美咲はKに対して小さく頭を下げた。そしてすぐに雑草だらけの土地に目を移した。
「師匠。その猫さんって」みやびが言いかけたところでKは首を横に振った。人差し指を口元に添え、(静かに)とみやびに伝えた。Kの足元ではさっきのぶちねこが役目を果たした使者のように大儀そうに座っていた。
二人と一匹の視線は美咲に注がれていた。
美咲は自分がかつて過ごした土地を踏みしめ、遠くを見ていた。あの日に感じた孤独が今また蘇る。世界が自分だけを排斥した。信頼していた足場は崩れ落ちた。大事なものを失った。十年前のあの日。美咲は振り返った。みやびとKとぶちねこがいる。皆そこで待っていた。
ここからは私の問題。私だけの真実。カンくんと鍵しっぽ。私がずっと逃げ続けたもの。向き合わなければ私は強くなれない。
朝霞美咲は歩き出した。一歩また一歩。つま先が雑草を踏み分け、細い轍ができる。向かう場所すら分からず、ただ歩いた。自分がどこにいるのかだって分かっていなかった。それでも歩みを進めるたびに、まるで目に見えない敷居をまたぐように昔の光景が心に広がる。懐かしい、古い家の匂い。長い時間をかけて培われた木の香りだ。ここは確かリビングがあった場所。ここにはテーブルがあって、そっちに食器棚。少しづつ思い出す。そこに何があったのかを。更地になった過去の残照が、夕日と共に心に差し込む。
カンくんがよく遊んでいたボール。
お気に入りのクッション。
古びた時計が刻む単調なメロディー。
ドアが開く音。
「ただいま」と「おかえり」。
母が呼び、美咲は食卓へ向かう。
カンくんもひょこっと顔を出して自分のご飯を食べる。
ベッドに入ると美咲は小さなスペースを開ける。
カンくんはもそもそと潜り込んだ。
小さな温もりを体に感じる。
暗い寝室にささやき声が吸い込まれていく。
黒猫の首筋を撫でる優しい指。
喉を鳴らし、しっぽを振って喜んだ友達。
「おやすみ」はまどろみの中で。
(どうして、いま?)美咲は思った。一週間前に思い出した記憶。怖くて辛かった記憶。今は違う。今ここで美咲が感じた記憶は優しいものだった。
それはちゃんと残っていた。小さな綻び。美咲は記憶の糸を一本一本ほどいた。
(こんなにも、あたたかい)。
だってそれは彼女だけの。彼女のための鍵しっぽ。
敷地の真ん中あたりで彼女の足は止まった。視線を落すと、円形状に雑草の生えていない場所がある。その小さな空間に何かがあった。
黒くて丸くて、ぼさぼさに汚れていた。まるで昔に失くしてしまったままの夢みたいに、その何かは彼女を待っていた。
美咲は膝をつく。体中の力が抜けたみたいに。両手は震えていた。息だってうまくできない。彼女はゆっくりと、その何かを抱き上げた。あたたかい。とっても。
黒猫は眠たそうに瞼を上げる。まるで長い夢から覚めたように。そして美咲を見た。会いたかったよ、とまどろんだ瞳の輝きが語っていた。
やわらかい風が吹く。さぁさぁと草が鳴る。永い時間だった。とても永い。
彼女は黒猫を抱きしめた。毛並みは薄汚れ、体はやせ細り、しっぽは付け根からなくなっていた。それでもぬくもりを感じられた。弱く細い命。永い時を彼は待ち続けた。全てはこの時のため。大切な友達とようやく逢えた。
美咲はカンくんを抱きしめていた。失った年月を埋めるように。その目からは泪がこぼれていた。頬を伝った泪が黒猫の額に落ちる。
しじまの悲しみを。彼女はやっと、自分のために泣くことができた。自分を許してあげるための泪。カンくんは美咲の腕の中で静かに瞳を閉じた。
小さな命は消えかけている。けれど最後に伝えなければ。
美咲は小さい声で、全ての思いを伝えた。
「ただいまっ・・・カンくんっ」
黒猫は返事をするように喉を鳴らした。何を言いたかったのか美咲には分からない。それでもきっと、彼はこう伝えたかったのだろう。
『おかえり』と。
言の葉は夕風に吹かれ空高くへ。観名町の涼やかや光がすべてを包む。美咲は泪を流しながら小さな友達を胸でそっと抱き続けた。届かなかった願いは最期の時に叶えられた。
黒猫は生きた。あの日からずっと生きていた。自慢のしっぽを失くしても。優しい家が無くなっても。友達と離れ離れになっても。彼はずっとそこにいた。世間知らずの野良猫になっても、ずっとこの地で待っていた。
そこには思い出があった。彼はそれを知っていた。だから待つ。雨に打たれても、食べ物がなくても、病気になっても。例え地が割れても、天が裂けても。
二人はつながっていた。幸福な思い出の中で。
美咲は小さくなる温もりから彼の年月を知る。
「ありがとう」と、「ごめんね」を。心の奥底で言葉を紡いだ。
カンくんの命の幕が下がる。美咲は腕の中でそれを感じた。
だから最期は笑顔で。精いっぱいの笑顔で。泪を流しながら。
「カンくん、つかまえた」
幸せなる黒猫に。風が吹いて、本当のさよなら。
Kはみやびの頭にぽんと手をおいた。みやびは泣いていない。彼女の心は自分でも驚くほど静かだった。かつて自分の身に起きたことをもう一度観ているような気がした。だから自分の心に映された美咲の感情が、まるで薄い膜に覆われているかのように遠く親しく感じられた。
みやびはKに振り向いて微笑んだ。(ありがとう、師匠)。
Kは両手をポケットに入れた。そして無表情のまま空を見上げた。まるでそこに失われた自分の名前を探すかのように。Kは足元の野良猫に「ありがとう」と言った。猫は自分の父の最期を黙って見ていた。そしてKの言葉に返事をするように言った。
「にゃあ」
Kはみやびに待っているように言い、十分ほどどこかへ行っていた。朝霞美咲はもう動かなくなった猫を抱きながら目を閉じて動かなかった。みやびは何も言わずにその背中を見ている。空だけが時間の経過を知らせていた。
十分後に袋を持ったKが戻ってきた。Kは美咲に言葉をかけ、彼女はそれに従って猫を下におろした。そしてKは袋からスコップを取り出し、黒猫のための小さなお墓を作った。墓標も花も線香もないお墓。けれど彼はそこで眠ることを望んでいたのだろう。
みやびはKが最初からそのスコップを用意していたことに気が付いた。この場所から金物屋に行こうとするともっと時間がかかるからだ。もちろんそのことは口に出さなかった。彼が一番最初にこの場所にたどり着き、その先に起こることも見据えてのことだろうとみやびは思った。あるいは不謹慎と言われるかもしれない。それでも彼女はKの気遣いに感謝した。
三人でカンくんの眠るお墓に手を合わせた。夕日は巨大な手のように西の空に広がり、群青の帳はすぐ後ろまで迫っていた。
「朝霞さん。これを返します」と言ってKは胸のポケットから折りたたまれたメモ用紙を取り出した。美咲は少し驚いた。今ここでそのメモが出てくると思ってもいなかったからだ。彼女は小さく微笑んでそれを受け取った。そして美咲はKはとみやびを交互に見て頭を下げた。
「本当にありがとうございます。カフカさん、みやびちゃん。私の真実は・・・私をずっと、待っていてくれました」
二人は微笑む。一人は友人を祝福するように。もう一人は成すべきことを成した、その満足のために。
「私はもう少しここに残ろうかと思います」と美咲は言った。「カンくんに話したいことがいっぱいあるので」
「分かりました。では後日、報酬のがらくたをお願いします」Kは片目をつむって言った。「それでは、また」
「朝霞さん、さようなら。私たちを信じてくれてありがとうございます。今度は自分自身を信じてあげてください。なぜなら」みやびは両手を後ろに回し、いたずらっぽく笑う。「朝霞さんはとっても素敵なのですから」
「ありがとう、本当に」と美咲は笑顔で言った。微笑も仕草も言葉も、黄金色の風に乗って彼女の心を優しく包む。
二人が去った後、美咲はお墓の前にかがみこんでいた。何を話そうか。何を伝えようか。
「えっと・・・」舌を失ってしまったみたいに彼女は何も言えなかった。
するとまだそこに残っていたぶちねこがそろそろとやって来た。猫は美咲の隣に座り、話の続きを待つように首をかしげた。
「そっか。あなたも、ずっと・・・」美咲は自分の心が遠くに感じられた。まるで他人のモノみたいに。自由はいつだって、本人の中にある。気が付いてしまえば、あなたの世界は無限。微笑んで。昔みたいに。語ろう。
「あのねカンくん、私ね・・・」
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Kとみやびは肩を並べて帰路についていた。Kはいつだって歩くのが早かった。みやびは置いて行かれないように頑張って大股で歩いていた。
「ま、待つのです師匠っ」
「ん?何さ」
「よっとっと」Kは歩くペースを落とし、みやびは急ブレーキをかけたように片足でよろめいた。
「その、カンくんのことです。朝霞さんのお話だと・・・震災の日に亡くなっていたと思っていたので」
「簡単なことだ」とKは言う。「死者は語らない。想いをつなぐのはいつだって生きているモノだ」
静謐が町を覆う。薄暗い春の夜は人々を家へと追い立てる。それぞれの生活は青い夜に彩を添えて流れていく。色んな生き方。色んな思い出。色んな食事。たくさんの人が住むこの町。みやびは大きく息を吸った。胸の奥で何かが震えた。(これでいいのです)とみやびは思った。師匠も私も朝霞さんも能上君も、このままでいいのです、と。
「そういえば、入り口の塀を壊したのって師匠です?」
「あぁ。俺があそこにいたって爪痕を残したかったンだ」
「田舎の中学生の修学旅行ですか・・・」
「いいツッコミだ。成長したな」
「はいはい。それじゃあ師匠、また明日です!」分かれ道で彼女は笑顔で言った。
「え?明日もくんの?ほかにやることないの?」
「読みかけの本があるのですー」
「・・・わーったよ」とKは困ったような笑顔を浮かべた。
「えへへ。何という勤勉さでしょう」
「じゃあな。また明日」
「はいっ。また明日です」
Kは家に帰った後、食い散らかされたお菓子の大群を目にしてため息をついた。
「あのバカ・・・」翌日みやびはキッチリいじめられた。
Kと別れた後、みやびは家に帰らずに昨夜と同じように観名南病院の下にある名もなき公園へ向かった。なぜそこへ行こうと思ったのか自分でもよくわからない。しかし靴音だけが饒舌に語る。みやびが今、能上智留に会いに行こうとしていることを。
「はっ、ふぅぅー」階段を半分ほど登ったところで息を整えた。彼女の瞳は宵の深さに負けないくらい冴えていた。きりっと顔を上げて、まるでオブジェクトのようにそびえ立つ階段へと踏み込んだ。
公園は無人だった。みやびもやっぱりですか、としか思わなかった。自分が思い立った時に来てくれるほど、都合よくはいかないだろうと。そもそも彼の存在感があまりにも希薄に感じられたせいか、昨夜のことも夢のようにしか思えないのだ。
でもそれが夢じゃないことは彼女自身良く分かっていた。彼の笑顔も、照れた顔も、淀んだような瞳も、全部がみやびの中で息づいていた。
「こんばんは、みやびさん」と誰かが言った。少女のような美しい声で。
みやびは振り向てそこにいる少年を見た。車いすにのって微笑んでいる能上智留を。
「もう。びっくりさせないでくださいです」みやびは言った。「こんばんは、能上君。昨日の続きをよろしいでしょうか?」
「昨日の続き?」能上智留は訝しむように眉をひそめた。昨日の別れ際の言葉は彼自身も少し反省していた。きっと驚かせてしまっただろうと。だから今日みやびが駆け足で来たことは予想もしていなかったし、朝霞美咲のことも含めて彼は不安そうな表情になった。
しかしみやびの言葉は彼のそんな不安をかき消すものだった。
「星の名前を教えてください」と少女は言った。
「星の、名前を?」繰り返して確認するように彼は問う。
「はい!三十分くらい、お付き合いよろしいでしょうか?」
能上智留はみやびの笑顔にすっかり緩んでしまった。嫌われてしまったんじゃないかと考えていた自分が恥ずかしいくらいに。
「もちろん、ぼくで良ければ」と微笑んで言った。「じゃああの星は分かる?少し青がかった光り方をしているんだけど」
みやびは空を見上げた。
「むむー。カシオペア!」
「はずれ。あれはスピカって言うんだ。星座で言えば乙女座。真珠星とも言ってね・・・」
みやびは嬉しそうに夜空を見上げる少年の横顔を見た。子供のようなあどけない笑顔。声は楽しそうに弾んでいた。
彼に対して聞きたいことはたくさんあった。気になることもたくさん。でもみやびは何も言わない。彼女にはただ、一つの思いしかなかった。純粋に単純に誠実に。
(私はもっと、能上君のことを知りたい)みやびはそう思った。