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Liberty&Connect   作者: 波止場葉
8/11

俺の探偵業務

 俺は探偵である。名前はまだない。

 素晴らしい。歴史上まれにみる完結した自己紹介だ。あまりにも的確すぎて自分でも呆れてしまう。

 職業・私立探偵(無許可)。最終学歴・大学中退。年齢・三十。住所・無し。名前・無し。ここから先の自己紹介は簡潔にしておこう。長ったらしく聞いたって退屈だし、到底理解してもらえるとは思えないから。俺の経験則的に他人の自己紹介なんて基本、決まりきったことの反復でしかない。どれだけ面白い経歴を持っていようとも記憶に残るものは少ない。だが俺の自己紹介はそうはいかないらしい。俺の生きた軌跡には一貫性がなく、脈絡もない。着の身着のまま旅をして、たまたま観名町にたどり着き、十年前の震災以降ずっとこの街で探偵をしている。

 そして名前をなくしてしまった。それだけのこと。

 とりあえずは名前を失ってしまった成人男性を代表して、それがどれだけ困ったシロモノなのか説明しよう。できるだけ謙虚に、丁寧に、同情を誘うように。

 ん?どうして名前を失ったのか、だって?わはは。

 朝起きたらなくなっていた。


 この日本という巨大な民主主義的法治国家において、名無し人間に人権なんてない。想像してもらえばわかると思う。名前がなければ法律も適応しない。戸籍も作れない。あらゆる書類には自分の名前が必須だし、住民票・運転免許・各種保険・クレカ等々名前がなければ作れないものがたくさんある。そして俺はそれらの恩恵を全く受けずに生きている。

 俺も数年前まではちゃんと名前をもって生きていた。たいした人生ではないが、そこにはしっかりと俺の名前があった。しかし前述したように朝起きたらすべてを失っていた。夢の続きと思うほどに、すべてを。カード・書類・名称は俺の名前だけが空白になり、国家のデータベースに保存されていたはずのあらゆる情報は削除されていた。要約すれば俺は書類上この世界に存在していない。

 デリート&デリート。そしてホワイトアウト。

 誰一人、俺の名前を覚えている人間はいなかった。知り合いはすべて聞いて回った。皆俺のことは覚えている。ただ名前だけが出てこなかった。俺自身も思い出せなかった。ずっと付き合ってきた名前に逃げられてしまったわけだ。俺は空っぽになった。俺はどこにもつながっていない。錨を失くした小舟のように。

 そのことで俺はそれなりにショックを受けた。まるで世界中から『不必要』とレッテルを張られたような気分になった。アンノウン。名前がなければ人は生きていけない。

 名前を失って一番驚いたのは、自分の記憶の脆弱さだった。名前を失くしたのが確か五年前。つまり、それまでの二十五年分の記憶がある。俺はそれをまともに思い出すことができない。

その記憶の中に俺は存在していなかった。誰かが俺に話しかけても、そこに俺はいなかった。記憶の断片はまるで他人事のよう。俺は忘れたくない記憶を何度も繰り返し思い出した。丁寧に包装して引き出しにしまうような感じだ。「そんなことがあった」ではなく、「そんなことを俺は観てきた」と。そして記憶の中の自分に便宜的に『K』と名付けた。空白の観測者に名前を。分かりにくいとは思うが、記憶とは実に不明瞭なものだ。まるで万華鏡を覗くみたいに形を変えながら蘇る。だからこそ俺はそれらの記憶にしるしとして『K』という名を付けた。俺はそんな風にして、何とか自分をつなぎとめている。記憶すら失ってしまったらきっと俺は、今度こそ本当に何者でもなくなってしまうだろう。

 けどまぁ、俺は立ち直りが早かった。三日三晩酒を飲んで酔いつぶれ、四日目の朝に目を覚ますと『どうでもいいや』って気分になっていた。名前がないなら名前がない。それでいいじゃないか、俺。俺が俺なら、なんとかなるだろう、と。

 事実その通りになった。名前がなくても俺はこうして生きている。そして今。黒猫の鍵しっぽを探すために近所のスーパーで鮭を二匹買ったところである。ほら。一貫性も脈絡もない。在るのは俺のちっぽけな知恵と変わることなき自我。もしもバベルの塔の最上階に双眼鏡があったとして。そこから世界中の人間を観測したところで学べることなんて一つもない。これが俺の考え方。そしてそんな考え方を両手いっぱいに抱えていると、自然と偏屈になって、他人に嫌われるわけである。

 どう?同情できたかな?


☆★☆★☆


 スーパーのレジ袋を携えて午後の町を散策する。名無し人間としてまず大切なのは他人に怪しまれないことだ。髪は短く自然に。服装はこざっぱりと清潔に。表情は穏やかに余裕を持つ。完璧だ。非の打ちどころのない好青年。アフリカゾウを散歩させていたって誰も気にしないだろう。

 航空機のエンジンのように活気づいた商店街を通り抜け、人通りがまばらになった住宅街を山の方に向かって進む。俺の足なら三十分くらいで朝霞美咲の家に着くが、わざと迂回して向かった。なぜなら俺は歩くことが好きだからだ。

 春の日差しを浴びながら、ゆっくりと舗装道路を歩く。風に舞い上げられた桜の花びらが俺を格好よく見せるために美しく散る。途中で交番の前を通った。中にいた警官は書類にくぎ付けだったので俺には注意を払わなかった。それでも一応俺は笑顔を送っておいた。にやり。

 名無し人間の天敵とは?そんなのはもちろん分かり切ったことだ。警察官である。こればっかりはどうしようもない。一度見つかったら最後、俺は永遠に取調室から出られないだろう。なぜなら彼らにはマニュアルがある。そしてマニュアルは想像力の介入を許さない。警察という機構は非常識を常識として受け止めるシステムだ。そうでなければあれだけ多くの事件を解決することは難しい。逆に言えば非常識を非常識として認識できないわけだ。俺はこういう連中を『頭の良いバカ』と呼んでいる。

 彼らは名前のない人間を見つければ、ありとあらゆることを調べ上げるだろう。最悪の場合は密入国者として逮捕されるのかもしれない。そんなのはごめんだ。だから俺は警察には近づかないように努力している。正式な探偵許可だってもらっていないし、依頼はその都度見極める。限定された想像力と枠組みが生み出す正義に何の意味がある?

 しかし何事にも例外は生じる。その時は偽造した身分証明書と身の上話で乗り切るしかない。あれ?俺ってもしかして犯罪者予備軍・・・?


 一時間ゆったりと歩き続け、ようやく朝霞美咲が昔住んでいた区域に入る。この辺りは未だに空き家や空き地が多い。道路こそ舗装し直されているものの、街灯やガードレールは必要最小限に抑えられ、無駄に広い道路は時々車が通るくらいで人の姿はほとんど見かけなかった。上空から見下ろすとまるで虫食いのように見えるであろう空き地では雑草たちが温かな家庭を築いていた。いかにも猫が好みそうな場所だ。一部の家屋は見捨てられたまま、木の塀や工事現場で見かけるような仮囲いで覆われていた。まるで人類が滅びた後のような、強い草の香りがした。この地区の良いところを教えろと言われたら「清閑と孤独の共依存」と答えよう。

 彼女の家跡はすぐに見つかった。話にあった通り木の塀に囲まれ、下部に野球ボールほどの穴がある。土地面積は四十坪弱と言ったところか。俺はかがみこんで穴の向こうを覗いてみた。案の定そこには緑の雑草が生い茂っていた。

「さて」お望み通り、鍵しっぽとやらを探そう。

 俺は後ろのポケットから財布を取り出した。中には現金で八千円と買い物のレシートが詰まっていた。俺はレシートをくしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込み、野口英夫と樋口一葉の間に挟まれていたメモ用紙を抜き取った。財布をポケットに戻し、メモ用紙に視線を落した。そこには美しい文字で『朝霞美咲』と書かれていた。綺麗な名前だ。俺の名前もそんな風に綺麗だったらいいのだが。まぁ確かめるすべはない。

 俺は片手で紙を二つに折り、それをシャツの胸ポケットに入れた。

「朝霞美咲さん。あなたの名前、お借りします」


「いやー、見つからん」三十分、家の周りをぐるぐると歩き回ってみたが収穫はなかった。確かに猫の数は多い。たぶん十匹くらいは見かけただろう。人間は三人しか見かけなかった。

「猫の街、ね」しかし俺が探しているのは『黒猫の鍵しっぽ』なのだ。根気強く探すしかないようだ。

 焦っても仕方がないだろう。話の通りなら確実にこの辺りで見つかるはずだ。キーポイントは初期遭遇現場である。そこには必ず意味がなければならない。一度始まった物事は環のように収束するはずなのだ。今の俺にできることは待つこと。彼女の名前を借りて、待つこと。

「・・・それとも」と俺は呟いた。時間もキーの一つなのかもしれない。話では確かアルバイトの帰りに来たと言っていた。

「最悪、五、六時間は待ちぼうけか」俺はため息をついた。


☆★☆★☆


 名前を借りる、という事に関して、俺から説明できることは何もない。俺自身にも何もわかっていないからだ。ただ一つ言えるのは「俺は名前を借りた相手と同じ視点を得る」という事だけ。メカニズムは知らない。俺が借りている間、相手が名無しになるわけでもない。もはや不思議すぎてどうでもいい。

 説明が足りない?理由が必要?なるほど。君も意外と頭の良いバカだね。

 心優しい少女が親に殺される。誰かを助けようとした人がその誰かの代わりに死ぬ。俺が名前を失くす。どこに理由なんかがある?誰が説明してくれる?

 知るという事は全てを観るという事だ。

 識るという事は何も知らないという事だ。

 理解できないものに理由なんてつけなくてもいい。そう考えると視野が広がるよ。


☆★☆★☆


 俺は歩き回ることを諦めて、朝霞家の真向かいにある巨大生物の死骸みたいな公園に入った。敷地だけが無駄に広くて遊具が三つ、ベンチが千個くらいある公園だ。どんな町にもこんな公園が一つはあるものだ。公園の外周は木に覆われ、その向こうには恰幅のいいマンションがいくつか建っていた。きっと災害で家を失った老人たちが住んでいるのだろう。観名町の町長はとても働き者だ。いささか保身的に過ぎるが。公園の中心地には湿った黒土が横たわり、足跡や杖跡が残っていることから、近所の老人の集会場になっていることが分かった。

 俺はベンチに座って家を見張ろうと思ったが、ベンチはどれも薄汚れていたうえに朝霞家に背を向ける形で配置されていた。仕方がないので俺はブランコに座った。赤いブランコと青いブランコで迷ったが「俺に似合いそうな色」という理由で青いブランコに座ることにした。煙草に火をつけ、スーパーで買った缶コーヒーを飲みながら朝霞家を見張っていた。相変わらず人通りは全くない。不審そうに俺を見るのは野良猫くらいだった。

 十分くらいブランコに座っていると尻が痛くなってきた。そりゃそうだ。木だもん。

 俺はあきらめてブランコを漕いだ(師匠の行動論理は理解不可能です)。

「わはは」久しぶりのブランコも悪くない。足の裏が黒土をすれすれで滑空し、全体重を前方へ振り上げる。最高到達点でビシッと足を延ばして次の加速の準備をする。夕方の涼やかな大気が俺の身体を洗っていく。

「飽きた」俺はブランコを急停止させ、元の通り尻を痛める決意をした。朝霞家を見ても変化はなかった。

「・・・ん?」ふと隣に視線を落すと、一匹の野良猫がいた。体はすらりと細く、毛は白と黒が混じりあったぶち猫。心なしか冷めた目で俺を見ている気がする。

「よう」と俺は声をかけてみた。「元気かい、ブラザー。こうして会うのは何年ぶりだい?」ぶちねこは生意気そうな目で俺を睨んでいた。笑ってくれてもいいのに。

「君はこの辺で黒い猫の鍵しっぽを見かけたことはあるかい?知っていたら是非メールしてくれ。返信しないから」ぶちねこはじりじりと距離を詰めてきた。なぜだろう?

「あぁ、袋の魚ね」俺は猫に嫌われやすいことで有名なのだ。

 袋から鮭を一匹取り出して隣のブランコの前に置いてやった。すると猫は待っていましたと言わんばかりにガツガツと食い始めた。

「気にせず食ってくれ。猫案件なら魚で釣ろうと思っただけなんだ」ぶちねこは俺の独り言に反応するようにじろりと俺を睨んだ。そしてまた鮭。良い食いっぷりだ。こっちまで腹が減ってしまう。猫は骨だけを残して綺麗に鮭を平らげた。

「生まれ変わっても鮭にだけはなりたくないね」と俺は言った。

 野良猫は満足そうに前足をぺろぺろ舐めていた。なるほど。猫もこうやって見ると中々可愛いものだ。しかしかまっているわけにはいかない。朝霞美咲に約束した手前、今日中に鍵しっぽを探し出さなければならないのだから。ぶちねこはまだ立ち去る気配を見せなかった。俺は視線を朝霞家に向けたまま、猫に独り言をぶつけた。

「ここから向かいにある朝霞さんのところで買われていたカンくんって黒猫を探しているんだ」俺は猫に視線を戻した。生意気そうな顔だが、きっと義理堅いやつなんだろう。

「それでな、君はこの辺に住んでいるんだろう。そう言った事情に詳しい長老みたいなやつっていないかね?」ぶちねこは退屈そうにあくびをした。

「どうだい。君のN・N(猫ネットワーク)に引っかからないか?」ぶちねこは魚の骨でも見るかのような視線を俺に注いだ。俺のベテラン級の独り言は夕日の中で蒸発していった。

「きみ、名前は?」と俺は言った。


「名前なんてねェよ。おいらは野良だぜ」と猫が言った。


 俺はひっくり返った。腰と背中が土を強打し、腕は大の字に広がる。両足だけがブランコにハンガーのフックみたいにぶら下がっていた。物理と精神の両打撃が俺の常識を打ち砕く。だらしのない体勢のまま、夕空へ向けて長いため息を吐き出した。

「ンだよ。そっちが聞いたんじゃねェか」猫が不服そうに言った。

「いや失礼」と俺は力なく謝った。「少々想定外だったもんで」


 俺とぶちねこは揃ってベンチに座りながら現代日本における野良猫の生活水準の低迷を嘆いていた。せっかく猫と話せるんだ。ここで一生分語ってしまおう。

「おいらのオフクロはおいらを産んですぐにクルマにひき殺されたんだ」

「それは気の毒に。日本人はより速くより静かな車を生み出すことに誇りをかけているからな。

俺だって何度も死にかけたよ」

「オメェは別に構わねェだろ。おいらたちにゃビョウインてのがないからな。悪いもん食ってもクルマにひかれてもガキに殴られてもテメェで治すしかねぇんだ」

 猫は苛立ったように喉を鳴らした。ごろごろ。

「よォ、オメェはなんてぇ名前なんだ?」まさか猫に名前を尋ねられる日が来るとは。

「人にはカフカと呼ばせている。本当の名前はないんだ」

「ほほぅ。名無しッてぇわけか。おいらと同じだなァ」

「その通り。従って君たちと同じく病院にも通えない。金がかかるんだ、とても」名前を失くしてから一度、インフルエンザで病院に行ったことがある。かなりややこしいことになった。それに保険が利かないと薬代もアホみたいに高いので、それ以来病院には行ったことがない。健康に気を遣う男、カフカ。手洗いうがいは日課です。

「ふゥン。でもカフカっていい名前じゃねェか。魚っぽくておいらは好きだぜ」

「カフカはチェコ語でカラスを意味するんだ」俺が言うとぶち君は不機嫌そうに鼻で笑った。(猫も鼻で笑うんだ・・・)。

「カラスは嫌いだ。あいつらにゃ品性ってもんがねェ。食いもんが欲しいんなら共食いでもしてろってんだ」俺は笑った。なかなか猫的な意見だ。

「きみは何歳?」

「覚えてるわけねェだろう。あぁ、でも初雪は三回見たぜ。ありャ最悪だがな」

「なら三歳ってところか。まだ子供だな」

 猫は舌打ちをした。(猫も舌打ちするんだ・・・)。

「アホ言うんじゃねェよ。おいらたちだってテメェらニンゲンと同じで、決まった時間の中で生きてんだよ。シンゾーの音だってオメェよりはえェ。三年つったらリッパなオス猫だぜ」眠たそうに「くあぁ」とあくびをする。野良にしては毛並みが美しいやつだ。きっといい餌場と寝床があるのだろう。

「兄弟は?」と俺は聞いた。

「さァな。聞いたこともねェ。オメェは?」

「俺もだ。今は一人で暮らしている。あぁ、自己紹介が遅れてしまったが俺は探偵を生業としている」ぶちねこは訝しむように目を細めた。夕日を反射した瞳がぎらりと点滅した。

「タンテー?んだそれ。ずいぶん不味そうな名前だなァ」ひどいじゃん。俺は探偵という職業を猫さんに説明してあげた。はたから見ればただ変態だろう。しかし公園は死んだクジラの腹の中みたいにひっそりとしていた。

「ふゥン。それでさっきシッポだかを探してるっつってたわけか。ナンギな仕事だなァ」前足を伸ばしてぐーっと身体を反らすぶちねこ。口は悪いが俺はこいつが気に入っていた。江戸っ子っぽいところが最高だ。

「ところで君はどうして俺と会話ができるのだろう?」

「はァ?おいらじゃなくってオメェが喋ってんじゃねェか」まじか。

「俺・・・にゃあにゃあ言ってるの?」

「さァな」

「・・・おえぇ」想像してみたが気持ち悪すぎる。

「まァ、オメェに名前がないってーのが一番のリユウだろうな。野良猫と違って、名無しニンゲンってのは普通じゃねェぜ」

「なるほどね。君以外の猫とも話せるのだろうか」

「そいつァ無理だろ。だってオメェはおいらを求めたンだろ?」猫は目を細めて笑った。「話してみろよ。おいらは食いもんの礼はするぜ」猫の手も借りたいとは、よく言ったものだ。

 俺は今日十二本目の煙草を吸いながら、ぶちねこ君に朝霞美咲の件をかいつまんで話した。

「朝霞さんと言う女性が十年前に黒猫を飼っていたんだ・・・」

 猫が何かの反応を示すかと思ったが、終始あくびをして退屈そうな態度をとっていた。おいらには関係ない、とでも言いたそうに。話し終えた俺は火のついた煙草を地面に落し、靴底で踏み消した。

「で、オメェはその・・・アサカとかいうヤツの黒いカギシッポ?を探してるってことか」

「いかにも。何か知らないか?」

「さァてね。おいらは知らねェよ」猫は視線を前方に向けた。「つーかそのニンゲンよォ、ちっとオオゲサすぎねェか?おいらが言うのも何だけどよ、たかが猫一匹死んだだけだろ。くっだらねェなァ、おい」

「くだらなくはない。人間は記憶を抱えて生きなければならないんだ。その鍵しっぽがどんなものであろうと、彼女はそれを自分の手で消さなければならない。いささか自分を責めすぎる傾向があるが、そいつは美徳だ」

「はン」と猫は笑った。「キオクねェ。おいらにゃ分からん。分からんが・・・ミサキか。忘れっぱなしってのはヒデェ話だ」

 ぶちねこの口ぶりには感情を抑えたようなところがあった。俺はもちろん『猫心理学』なんて知らない。ただの勘だ。そして探偵とは、自分の勘を信じられるようになって初めて探偵を名乗る。

「俺が彼女のフルネームを君に言ったか?」猫はナイフのように鋭く冷たい瞳で俺を睨んだ。

「だからどうしたってンだ」

「ここにもう一匹魚がある。こいつでどうだ」と俺は言った。「俺と君が会話をできることにはきっと何かの意味があるんだろう。君は、そう。知っているね?」

 猫は何も答えず、ベンチからするりと飛び降りた。よく見れば彼のしっぽも鍵状に曲がっていた。

(鍵しっぽ、か)と俺は思った。

 鍵しっぽ。それは愛された証とも言えるだろう。先天的に曲がっている場合もあるが、大部分は親や兄弟とくっついて過ごしているうちに曲がったようだ。もしかすると彼もそんな風に愛されて生きているのかもしれない。

 ぶちねこは公園の中ほどで俺を振り向いた。夕日を受けてまだらになった樹影が、風で怪しくと揺れた。

「ついてこい。オメェの探し物のありかは知ってンぜ」


 俺は猫の後を歩いた。しっぽが左右に揺れる。俺もしっぽがあったらもうちょっとキュートに見えるだろうか。

 俺は猫の歩き方が好きだ。まるで一本の線に沿って歩くかのように規律正しく正確だ。世の女にもこの様に歩いてほしいものである。最近の若者は歩き方が雑すぎる。歩き方とはその人の在り方を現わしていると俺は思っていた。

 目的の場所はすぐ目の前にあった。そう、朝霞美咲の家だ。公園から出た俺たちは道路を横断し、朝霞家の塀の前で立ち止まった。ぶちねこはそのまま動かなかった。

「君は飼い猫になりたいとは思わないか?」と俺は聞いた。

「さァな。ンなもんなってみなきゃわかんねェぜ。ま、オメェみてえな奴に飼われたくはねェけどな」

「わはは。俺も君みたいな口の悪い猫はお断りだ。似たような奴がすでにいるしな」

「ほゥ。一人なんじゃねェのか」

「助手だよ。猫と犬とウサギをミキサーにかけて誕生したような女の子だ」猫はつまらなさそうに「ふゥン」と返事をした。

「ぶちねこ君。もしも自分に名前が付くとしたら、どんな名前がいい?」

「オメェはヘンテコなことばっか言うなァ」呆れたように猫は呟いた。そして空を見上げる。俺もつられて空を見た。綿のような雲が風に吹かれて流れていく。明日はきっと晴れるだろう。

「名前ねェ。考えたこともないぜ。ンまァ、いつか決まったら教えてやんよ」と猫は言った。「オメェもオメェの名前が見つかるといいケドな」

「胸が温まるね」まさか猫に言葉で励まされる日がやって来るとは。

 するとぶちねこは突然歩き始めた。家の正面を右側に沿って進み、そのまま隣家を通り過ぎて道路を左に曲がった。

「裏口から入るンだ。ちっと汚ねェがな」

 隣家の裏手には真向いの家と挟まれた小さな路地があり、そこから朝霞家の裏手に向かえるようだった。しかし路地は塀と塀でしっかり囲まれていたため、まるで侵入者対策用のトラップみたいに蜘蛛の巣が貼られていた。地面にも空になったペットボトルや見たこともないような銘柄のお菓子の袋が転がっている。猫はそんなうらぶれた路地をてくてくと進む。俺も腰を落してその後に続いた。しかし残念ながら俺は蜘蛛の巣清掃員のごとく、奴らのネバネバ糸を全身でからめとってしまった。朝霞家の裏口に着いた頃には、いよいよ成虫へと変貌を遂げる蚕の繭のようになってしまった次第である。

「オメェ器用だな」

「そりゃどうも」俺は体中に張り付いた蜘蛛の糸を両手で払った。そして芥川龍之介が間違っていたことを証明した。蜘蛛の糸は例え大人百人がぶら下がっても大丈夫なのだ。某物置小屋のように。・・・ようするに、めっちゃネバついたってことだよ。分かれよ。

「こっから入れンぞ」猫は木の板に空いた小さな隙間から中へ入った。「どうした、入んねェのか?」

 あのさ。こんな隙間、抜けるころには肉塊になっちまうぞ。

「あァ、この板外れるぜ」猫は塀の向こうから一枚の木の板をぱしぱし叩いた。

「猫パンチ・・・。激レアだ」俺は猫パンチでかたかた揺れる板の前にかがんだ。どこか掴んで外せないかと思ったが、板と板の間に隙間はなく、下からの手を突っ込むのも無理そうだ。

「猫さん、ちっとばかし離れててくれ。蹴破る」

「にゃ?」

 俺は右半身を後方へ捻り、右足で地面を踏み切った。左足が軸として鋭い回転を腰に伝え、腰で威力を増幅させたまま右足を前方へ蹴りだした。もちろん左腕はガードのため側頭部に添えられている。俺は細部をおろそかにしない。

 膝が伸び切り、右足の裏に軽い衝撃が走る。俺は最高にかっこいい前蹴りで木の板を倒した。

 と思った。思ったんだよ。現実甘くねぇよ。

 俺の右足はまるでダーツのように木の板に突き刺さってしまった。

「にゃははは!」猫が爆笑した。(猫も爆笑するんだ・・・)。

 やばい。この体勢だけはやばい。右足を上げたままの体勢。時計の針で言えば左足が六時、右足が九時を指している。

「コッコッコッ、腰がッッ!」腰がつる!太ももがつる!とっても激しいこむら返り!?

白目を剥いたまま必死に足を抜こうとしたが、腐った木の板は頑なに抵抗をする。

「なにッ!蹴ったことを怒ってるのッ!?」腰に鈍い痛みが走る。『ぎっくり腰』というワードが頭をよぎった。俺はまだ三十だが、これまでに結構肉体的なことをしてきた。そういう人間は得てしてぎっくり腰に怯えるものなのだ。ほんとに。

「ええい!ままよ!」腰の痛みと足の筋に走るしびれを我慢し、俺は残された左足で地面を蹴った。そのまま木の板に飛び込む。べきべきべき。

「くそー、いってー」

「無茶すんなァ、オメェ」

 結局俺は板を突き破って中に入ってしまった。人が一人通れるくらいの穴を開けてしまったわけだ。幸い木は薄く、腐っていたので怪我をすることはなかった。すまぬ、朝霞家の皆様。この塀はきちんと直します。伝太が。

 敷地には穴から覗いた通りに雑草がカーペットのように広がっていた。土は黒く湿り、所々に木片や割れた皿などが落ちていた。草の匂いがむっとこみ上げ、乾いた喉を刺激する。

「ここに一体何があるんだ?」と俺は言った。猫は俺の隣に並んで雑草の群れを眺めていた。

「オヤジさ」と猫は答えた。「おいらのな」


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