私の秘書業務
「ん~!いいお天気ですね~!」空に向かってぐぐっと背伸びをします。思わずあくびがこぼれそうになってしまいました。でも別に眠たいわけではありません。昨夜は予想に反して十時には眠っちゃいましたし、起きたのだって七時ですもの。教科書通りに九時間ぐっすり眠った私は、昨日の朝霞さんのことも能上君のこともすっきりさっぱり心にとどめることができたのです。要約しますと「考えたって仕方ありませんものね!」ってことです。師匠の考え方は徐々に私に浸透していきます。
「うーむ。このままだと私もあんなふうになっちゃうのかな?」
・・・いやだ。気を付けなくっちゃです。ひとまずは師匠のあくびがうつらないように気を張りましょう。年頃の女の子は人前でそう簡単にあくびをかますわけにはいかないのです。
私は十一時ごろにお家を出発して事務所に向かいました。歩いて三十分ちょっとの道のり。土曜日の午前中の町は緩やかな活気に包まれています。
「おやおや?」いつも通りの道を歩いて事務所の建物に到着しますと、建物の横にある駐車場のフェンスに見覚えのある女の子が立っていました。遠目で見てもとっても目立ちます。なぜならぴりっとぱりっと黒いスーツに透き通るような金色の髪の毛なんですもの。私は小走りに近づいて挨拶をしました。
「アーニャちゃーん!こんにちはー!」するとアーニャちゃんはゆっくりと顔を上げ、こくこくと頷いてから右手を挙げ、かかとをピシッとくっつけて敬礼します。
「みやび まちぼうけ」
駆け足でアーニャちゃんの前に来た私は同じく右手を挙げ、左手を腰に当ててシャキッと敬礼をしました。これが私たちの挨拶なのです。えへへ。
「私のことを待っていてくれたのですか?」こくんと頷くアーニャちゃん。
「キョーコ カフカ みつだん。おつかい こーひー ぷれぜんと」肩にかけていた青いカバンから缶コーヒーを二つ取り出し、一個を私に差し出しました。
「届けなくていいのですか?」
「キョーコ いらない。みやび おはなし しよ?」アーニャちゃんは水面の女神さまみたいに青い瞳でにっこりと微笑みました。私は世界中の女神さまに祝福されたたような気持ちで缶コーヒーを受け取ります。
「ありがとう、アーニャちゃん」
アーニャちゃんはまるでお伽噺の世界から抜け出してきたお姫様みたいな女の子です。紫外線すら遠慮するほどの白く柔らかな肌。エーゲ海を思わせる澄んだ青い瞳。仕草の一つ一つはゆっくりしていながらも正確で無駄のない動きでした。そして師匠お気に入りのブロンドです。まるで白いシーツを太陽に透かしたみたいに、儚くて暖かくて手で触れると解けてしまいそうでした。遠い異国からやって来たアーニャちゃんは、私から見れば本物のお姫様みたいなのです。なのでお友達になれたときは狂喜乱舞のてんてこまいでした。
私たちは駐車場のフェンスに背中を預け、コーヒー片手におしゃべりをしていました。
なんだかふりょーみたい。でへへ。
「みやび おしごと?」
「シュヒギムがあるのです」
「カフカ でたらめ」
「子供なのです、うちの師匠」
「みやび 楽しい」
「うーん。落ち着きが欲しいのです」
「くるま うんてん」
「無免許です」
「キョーコ むかし へた」
「ほんとですか?」
「カフカ うそつき」
「困りものです」
「いつも?」
「この間なんてギョーザの由来を教えてもらったら全部ウソでした」
「しょーろんぽー 美味しい」
「すいぎょーざもおすすめです。あとハンバーグ」
「でみぐらす 邪道。大根おろし 王道」
「シンパシーなのですっ!」やっぱりハンバーグは大根おろしですよねっ。
師匠はいつも私たちの会話を甲羅のないウミガメでも発見したかのように眺めています。気の合う女の子は短い言葉でもイシソツーが図れるのです。えっへん。
「きょう たぼう?」
「はい。依頼人さんが来るのです」
「おす?めす?」
「女性の方です」
「はちゅうるい?りょうせいるい?」
「あはははっ。霊長類ですよ、アーニャちゃん」
「えへへ。じょうだん だよ」
「ちなみにですが師匠は無機物と会話ができます」
「むきぶつ・・・?」
「えぇ。この間は物干し竿に話しかけていました。『よう。年中外にいるってどんな気分だい?』って」
「ものほしざお・・・。まとりょーしか はなす?」
「多分話せますね。独身男性には恐ろしい能力があるのです・・・」
「カフカ こわい。まとりょーしか・・・」アーニャちゃんの師匠に対する好感度が下がったようです。ででーん→。
「どんな おしごと?」
「えーっと、探し物です」
「なに なくしちゃったの?」
「黒猫のね・・・しっぽなの」アーニャちゃんは不思議そうに首をかしげました。
「それ どこかで 見つかる?」見つかるのでしょうか。それはもう、失われて・・・。
『みやびさんの師匠の名前は見つからないよ。きっと、どこにも』
その声は私の耳の裏に潜んでいました。考えないように努めていたのに、私を離そうとしない声。イメージが脳内に展開されてしまいます。反芻する間もなく消えていく少年の言葉。夜桜が舞う半月の時刻。失われたカンくん。揺らぐしっぽと、朝霞さんの涙。私は・・・。
「みやび だいじょうぶ。アーニャ いるよ」気が付くとアーニャちゃんは私の手をそっと握って心配そうな表情をしていました。小さく白い手のひらは暖かく、不思議な安心感がありました。
「ごめんねアーニャちゃん。ちょっと考え事をしていました」私はとっさに笑って取り繕いました。「あはは。脳内旅行なのです」
「みやび。アーニャ ここ いるよ」
心配ないよ、と彼女の微笑みは語っていました。アーニャちゃんは時々、人が心に抱えた『なにか』にとても敏感になります。今までも何度かこうして手を握ってもらいました。とても不思議な子です。まるでわずかな風の変化で精巧に舵をとる船乗りみたいに、鋭い女の子なのです。そしてアーニャちゃんは私たちに寄り添います。その痛みを共有しているかのように。
「ありがとう。もうへっちゃらです!」
「よかった。みやび げんき」
「はい。アーニャちゃんのおかげです」
「アーニャ おかげ?」
「手を握ってくれたです」
「手 ふしぎ?」
「確かに不思議な手です。なんとゆーか、心みたいにあったかいのです」
「ここ ろ?りらっくす?」
「リラックス・アーニャちゃんです!」
「えへへ。りらっくす アーニャ」彼女は自分の手のひらを見つめました。まるでその手で誰かを救えたことを誇るかのように。
「あら、火ヶ瀬さん。ちょうどよく来てくれたみたいね」と気が付かないうちにキョーコさんが私たちのそばに来て声をかけました。
「こんにちは、キョーコさん!コーヒーごちそうさまでした」
「いいのよ、コーヒーくらい」と笑いながら髪の毛を耳にかけました。ほっぺたがちょっと赤くなっているのは師匠のせいでしょうか。むむ。後で問い詰めましょう。
「アーネチカ。火ヶ瀬さんとは話せた?」こくこくと満足げにアーニャちゃんは頷きました。
「カフカ まとりょーしか はなす」キョーコさんは目を丸くしました。
「確かに話せそうね」と笑って言います。「さ、帰りましょうアーネチカ。火ヶ瀬さんもごめんなさいね。お師匠借りちゃって」
「いえ!私もアーニャちゃんと会えて嬉しかったです!また今度うちの師匠にかまってあげてくださいです」
キョーコさんはにっこり微笑み、綺麗にカールした髪の毛をふさぁっと煽って車に乗り込みました。かっこいです。アーニャちゃんも後に続いて助手席に乗りました。
「さようなら、火ヶ瀬さん。今度三人でご飯に行きましょうね」
「パカパカー(ばいばい)、みやび」
「さようならですー!女の子だけの女子会ですー!」二人の乗った車がカーブの先へと吸い込まれるまで、私は手を振って見送りました。
「素敵なコンビです」素敵なキョーコさんと素敵なアーニャちゃん。二人が一緒にいると何でもできそうな気がしてしまいます。シュークリームに例えるのなら、カスタードとシュー生地のようなあうんの呼吸があるのです。
さて!私もこれからお仕事です。朝霞さんのため、私のできることなら精一杯がんばります!私も素敵な助手として師匠に役に立つのです。
階段を一段飛ばしで駆け上がって廊下に出ます。洋服の袖を肘まで織り上げ、自己暗示をかけます。「私は素敵。素敵は私。私は私。素敵は素敵」
けど自分で自分を素敵って言うのも変ですよね(今更感)。まだまだ新米だし、涙もろもろだし、しょっちゅうパニックになりますし。玄関の前でうろうろ考えてしまいます。考えたって仕方がないんですけどね。「うんうん。マイナス思考はやめましょう!」
ネガるな!ポジれ!(ネガるな・・・ネガティブになるな。ポジれ・・・ポジティブになれ)。
よぅし。まずは挨拶です。とびっきりのポジ挨拶で突撃しましょう!
「ししょー!素敵な助手が来ましたよー!」
☆★☆★☆
「じゃ、俺行くわ」んがぁーと背伸びをして師匠は立ち上がりました。
「のんびりしすぎなのですっ!」
時刻は午後の二時。ありえねぇ。私が来てからもう三時間近く経ってますよ?今日中に解決させるって言ったのにダラダラしすぎ。まじで。
遡るとこうなります。↓
私がお昼前に着いてからまず二人でコーヒーを飲みました。
「うーん。美味いな」
「えっへへ。美味いでしょー」
それから昨夜行われたジャイ〇ンツ対タ〇ガース戦の意見交換をしました(師匠はラジオ派です)。
「押し出しフォアボールは最悪だったな」
「それな、です。あそこは絶対守らなきゃいけないのにね」
その後師匠はキッチンに入り、二人分のスパゲッティを作ってくれました。ソースはレトルトのミートソース。私の大好物なのです。
「師匠って意外と料理上手ですよね~」
「自炊できる男って素敵だよな。あ、俺のことか」
食べ終わったお皿を流し台に持っていき、食後のコーヒーを用意しました。
「うーん。美味いな」
「えっへへ。美味いでしょー」
コーヒーを飲み終わると、ぼふん。と音がしました。まじか。寝てるよカフカ。
「一時に起こして・・・」
「ちょ、ま、えぇ?」
私があっけにとられている間に師匠は開かずの金庫のような眠りにつきました。経験則として、食後の師匠ほど不動なものは存在しません。仕方なしに一時までは寝かせてあげようと思い、私はお皿洗いをしてから、読みかけの本を開いていました。ちなみに読んでいたのは『嵐が丘』。
「あぁっ!ヒース!キャシー!」
「・・・んが」
ちく・たく・ぽーん。一時になりました。
「起きてーししょー!」と言うとまるで夏休みの小学生みたいに「むにゃむにゃ」。
「世界が終わるまで寝かせてください・・・」
「なんですとっ!?」
いいえ。いいえ!たとえ世界中のお母さんが許しても!この私、火ヶ瀬みやびが許しません!
私は師匠のがらくた箱を開けました。中には用途の分からないがらくたがいくつか入っています。その中から私の私物でもある一本の赤いバットを取り出しました。
このバットこそが、知る人ぞ知る『対・師匠最終決戦兵器』!その名を!
私はするりとバットを構えました。
「赫眼の無頼漢!出番なのです!」かけ声とともに師匠を起こしにかかりました。てやー。
そこからの攻防は筆舌に尽くしがたいシロモノでした。やっとこさ師匠の意識を覚醒させるのに三十分。忘却の彼方へとぶっ飛んでしまった師匠の記憶を引き戻すのに三十分(ごめんなさい。かなりランボーしちゃった。えへ☆)。
「・・・あれ?ここは?俺は一体・・・。やぁ、綺麗なお嬢さん」
「ひえぇ。も、もういっちょ!」ばちこーん。
「・・・あれ?ここは?俺は一体・・・。くそっ!結局俺たちは新人類に蹂躙されるしかないのか!」
「んー。これも違いますねぇ。もういっちょ!」ばちこーん。
「・・・俺は知っているぞ。お前が実は今でもプ〇キュアを見ていることを」
「ぐはっ!?何故それをッ!?」ばちこーん。
そんなこんなで。朝霞さんが来るまであと一時間というところでやっと師匠は起きたのです。
「不思議だ。二日酔いの時よりも頭が痛い・・・」
「コ、コーヒーの飲みすぎなのです、きっと。とても。まじで」
「ふぅん・・・」あぶねーあぶねーです。
☆★☆★☆
「ねぇ師匠。本当に大丈夫なのですか?朝霞さんを・・・助けられるのですか?」私はさすがに不安になってきました。もちろん師匠の返事は決まり切っていますが。
「さぁて。藪をつついて猫が出るかしっぽが出るか」彼はにやりと笑いました。「ま、今よりひどくはならんだろう。ポーの『黒猫』とは違うさ」
「で、でもそれじゃ解決になっていないと思います。だって・・・それは」
「朝霞美咲本人の問題だ。俺たちにできるのは真実を引っ張り上げるだけ。真実を作り替えるわけにはいかない」と師匠は言いました。
「そうです、よね」
「もしかしたら猫のしっぽなんて初めから存在しなかったのかもしれない。もしかしたら朝霞美咲はもう一度自分の記憶を罪悪感と共に捨てるのかもしれない。もしかしたら・・・」師匠はそこで言葉を切りました。
「もしかしたら、黒猫が化けて出てくるかもしれん」
「そ、そしたら・・・どうするのです・・・?」
「神社に行ってお祓い。安心しろ。俺は妖怪が好きだ。河童とか」
「一体何に安心すればよいのやら・・・」私はため息をつきました。「でも今よりは酷くならないって言いましたよね?」
「言っただけだ。経験と推測。かっこいいだろう」
師匠は寝ぐせをペタペタと撫で付け、財布とハンカチと伝太印のガラケー(事務所の電話にだけ繋がる無線)と十徳ナイフのようなものをポケットに入れました。身支度を整えた師匠は、指を三本立てて私にミッションを与えました。
「1 朝霞美咲と事務所で待機していろ」
「2 俺から連絡が来るまで朝霞美咲を返すな」
「3 朝霞美咲が嫌がったとしても俺のところまで連れてこい。あぁ、乱暴はするなよ」
とのことです。
「無理に元気づけようとするな。そのままのお前でいい。分かったか?」は、はいっ!
「が!がんば、りるの。です!」あう。緊張してきました。
師匠はにやりと笑いました。いささか馬鹿にしたような笑みでしたが不思議と腹は立ちません。なんてゆーか、私を肯定してくれるような笑みでした。
(きっと、だいじょうぶ)と私は自分に言い聞かせました。
カフカ師匠は「じゃあな」と言って玄関に向かいました。私は見送りのため一緒についていきます。廊下を歩く師匠の背中を見て改めて、背が高いなーと思ったりしました。本人申告だと身長は百七十八もあって、体重も七十キロあるようです。大人なのに子供みたいで、クールに見えてあったかくて、怖そうに見えて優しいのです。そう、まるで・・・能上君とは正反対のような。
私は昨日の能上智留君のことを師匠に話そうかどうか迷っていました。言うべきなのか、黙すべきなのか。でも結局私は彼のことを話しませんでした。これはただの直感です。師匠を巻き込まずに、私一人で能上君と向き合いたかったからです。だって、彼は私の友達なのですから。
師匠は玄関を出る時、失礼にも私の頭にチョップをしました。
「いてっ」
「がんばれよ、ぽんこつ」ポケットに両手を突っ込み、師匠は行ってしまいました。
突然のチョップにぽかんと口を開けて私は立ちすくんでいました。それからなぜか笑いがこみ上げてきました。
「ヘンなのっ。ふつーにがんばれって言えばいいのにね」
その時私の胸にはフシギな温かさがありました。そう、安心感です。師匠が信じた師匠。私が信じた私。小さな波紋が二つ、溶け合って広がる。師匠を信じる私。私を信じてもいいかなーって師匠。消え去る波紋は凪の訪れ。心が静かに熱を帯びていきます。完結した私たちの関係。私はこれをつながりって呼んでいます。緊張はもうなくなっていました。
ちゃんちゃかちゃーん。
時刻は午後の三時です。チャイムが鳴った時私は『赫眼の無頼漢』の手入れをしていました。お手入れ用の白タオルには先刻の師匠の血がゲフンゲフン・・・。えぇ。なんでもありませんとも。これは塗料が剥げただけなのです。スタンダードな赤色なのですとも。・・・ちらっ。
私はバットをがらくた箱に戻して朝霞さんをお迎えするために玄関に向かいます。その前に廊下へ出る扉のところで応接間を振り返り、海原を望む灯台の心持でぐるりと見回しました。紅茶の準備もオッケー。お菓子の準備もオッケー。掃除も完璧だし、不安材料は皆無なのです!
あらゆる段取りを整えて、私は朝霞さんを出迎えました。
「こんにちは、朝霞さん!」
「みやびちゃん、こんにちは。わぁ、紅茶の香りがする」
「淹れ立て紅茶です。師匠はいないので二人で女子会です」
朝霞さんは玄関に上がり、ほんわりと笑いました。ひざ丈の青いスカートにアイボリーのニット。シンプルながらも清潔でよく似あっています。顔色も良さそうですし、昨日のような強張りはなくなっていました。朝霞さんは「おじゃまします」と言って私の後に続いて応接間に入りました。
「どうぞ、こちらのソファーへ。今、紅茶を注ぎますね」
「ありがとう。私、紅茶って大好きなの」
私は二人分の紅茶をティーカップに注ぎ、お菓子をオーケストラ楽団の配置のようにきっかりと並べました。そして私も朝霞さんの向かいのソファーに腰を下ろしました。自分の手際の良さに満足した私は、朝霞さんの顔を見ました。
あれ?何か笑いをこらえているような表情をしていますぞ?
「み、みやびちゃんっ・・・」声色はぷるぷる震え、今にも吹き出しそうなのを我慢しているような。
「は、はい?」
「ふふっ。えっとね、そのエプロン・・・ふふっ」エプロン?
「はッッッ!」
し、しまったッ!沖縄エプロンを脱ぐのを忘れてたッ!胸元に『なんくるないさぁ』のロゴ!そしてポケットから二匹のシーサーがこんにちはしてましたッ!なんたるふかく!
「あ、うぅー。ヘンなエプロンのまますみませんです・・・」私は立ち上がって後ろ手に紐をほどきました。
「ううん、そんな・・・ぷふっ」ゴーヤ緑の紐でした。ぶらーんと垂れ下がった瞬間に朝霞さんはまたもや吹き出します。あははー。灯台は自分を照らせないのでしたー。
「みやびちゃんって天然なのね」にこにこ笑って朝霞さんが言います。私は自分の詰めの甘さに辟易して紅茶をがぶ飲みしていました。うぷ。
「師匠には自然系と言われています。私の頭の中にキノコが生えていると信じているのです。まったく、失礼しちゃいます」
「ううん。きっとカフカさんはみやびちゃんのそんなところを信頼しているのよ」と朝霞さんは言いました。「天真爛漫さをね」
「あう。そうなのでしょうか・・・。いまいち自信が持てませんです」
「大丈夫よ。おかげで私はとっても笑わせてもらったもの」思わず赤面してしまうほど慈愛のこもった言葉でした。朝霞さんは紅茶を一口飲み、にっこりと笑いました。
「紅茶、とっても美味しいわ。ありがとう、みやびちゃん」
「い、いえ!喜んでもらえて、恐縮です!」うわずっちゃう私。依頼人さんに励ましの言葉をかけてもらっている時点でダメな気もしますが・・・ここから頑張るのです!名誉挽回、汚名返上。万里一空、雲外蒼天なのです!
「私はカフカさんから連絡が来るまで待っていればいいの?」
「はい!誠心誠意、真心こめて!わたくし、火ヶ瀬みやびがお相手します!」あれ。先頭の前口上みたいになってしまいました。
「うん。よろしくね、みやびちゃん」
☆女子会と言えば恋バナ。恋バナと言えば女子会☆
「朝霞さんは付き合っている方はいらっしゃるのですか?」
「へっ?」目をまん丸にする朝霞さん。にっこり微笑んで「ううん。付き合ったことは一度もないの」。
「意外ですっ。朝霞さん絶対モテるのに」
「そんなことないよ。あ、でも初恋はあったなー」
「どんな人です?年上?年下?同い年?」
「中学生の頃の塾の先生なの。ふふ、結局何もなかったけどね」朝霞さんは照れたようにほっぺたをかきました。「みやびちゃんは?好きな人とかいないの?」
「恋をしたことはありませんのです。師匠には『女の子は恋をした方がいいぞ』って言われているのですが、良く分からなくって」
「うーん。そうねぇ」朝霞さんは口元に指を当てて考えていました。「私の友達にもね、恋人ができてからさらに綺麗になった子もいるの。一般論かもしれないけど、確かに恋は女の子を美しくするのかもね」
「恋愛はダイエットの如し、ですか」
「ふふっ。そうね、恋愛はダイエットの如し。でもみやびちゃん、すごく痩せてるじゃない。私なんてケーキ屋さんでアルバイトをしているから全然痩せられないの」朝霞さんはビスケットを一口つまんでから、気が付いたように笑いました。
「そんなことないのです・・・。私も甘党なので雪だるま式に増えていくのです」私はため息をつきました。「それに師匠は私のシュークリームにワサビなどを仕込むのですよ」
「ワ、ワサビ?ふふっ、すごいいたずらね!」
そんな感じです私と朝霞さんは一時間ずぅっと語り続けました。学校のこと。バイトのこと。ダイエット。師匠の愚痴。好きな本。師匠の愚痴。ダイエット。
私たちはバスタブ一杯分の紅茶とお城を築けそうなほどのお菓子を食べていました。二人でそのことに気が付いた時、私たちは本日三回目のダイエット相談をしていたので、顔を見合わせて大笑いしました。
「本末転倒ね。食欲は女子の大敵だもの・・・。あっ、このチョコレート美味しい!」
「やはり草野球でも始めるべきでしょうか・・・。もぐもぐ」
そして師匠が出かけてから二時間が経ちました。時計の針は夕方の四時を示します。私と朝霞さんが本日六品目のガトーショコラをもぐもぐとほおばっていると電話のベルが鳴りました。ベルが鳴った瞬間、朝霞さんは口にあるガトーショコラをごくんと飲み込み、私に頷きました。
「ふぁぶんひひょうれす・・・ごくん。たぶん師匠です。ちょっと待ってもらってもいいですか?」
「うん、わかった。片付けしておこっか?」
「大丈夫なのです。帰ってきたら私がしておくので」
私は立ち上がってデスクの上で鳴り響く電話を取りました。
「もしもしです」
「ジャイ〇ンツの永久欠番を答えよ」
「1 ・③・④・⑭・⑯・㉞」
「オーケー、俺だ。朝霞美咲はそこにいるな?」
「はい。師匠は今ど・・・」
「二人で彼女の昔の家まで来てくれ」
「は、はい。それで徒歩でも・・・」
「そういえば、新しい友人ができた。後で紹介しよう」
「ゆーじん?師匠、どうなっ・・・」ぷつん。
切れちゃった。師匠の電話はいつだってこうなのです。会話の千本ノックです、ほんと。
とにもかくにも、朝霞さんと一緒に昔の家へ向かうという指示です。私はソファーに戻り、朝霞さんに言いました。
「朝霞さん。師匠が今から私と一緒に昔住んでいた家まで来てほしいと言っています。よろしいですか?」私が問うと彼女は小さく頷きました。きっと初めから覚悟していたのでしょう。自分の手でその鍵しっぽを捕まえることを。
「心配ありません。私と師匠も一緒にいます」私は笑いかけました。同情と憐憫が許されないのなら、笑いましょう。それが私にできる精いっぱいの励ましになるのなら。
「ありがとう、みやびちゃん。日が暮れる前に行きましょう」
私はアーニャちゃんみたいに誰かに安らぎを与えることはできません。それでも朝霞さんの「ありがとう」という言葉は、私の心に何かを投げかけました。優しくて温かい何かを。
☆★☆★☆
夕方の日差しが朝霞さんの頬を赤く染め、私の身体をポカポカさせます。こうやって年上の女性と一緒に歩くと、私までお姉さんっぽくなった気がしてついつい胸を張っちゃいます。それでも朝霞さんの方が三つも年上ですし、背も私より高くって頭もよくって胸もおっきくて。本当にこんなお姉さんがいたらなぁって思っちゃいます。私がじーっと見ていたのに気づいた朝霞さんは「どうかしたの?」と不思議そうに言いました。
「いえ、なんでもないのです!」
お菓子と紅茶でお腹いっぱいになった私たちは、師匠のところまで脂肪燃焼のために歩いています。
「ここからだと歩いて四十分くらいなの。付き合ってもらってもいいかな?」と朝霞さんから提案があり、てくてくと歩いているわけです。でも本当は朝霞さんも心の準備をしたいのだと思います。ここから先は彼女一人の問題なのですから。
私たちは黙ったまま歩いていました。朝霞さんはずっと考え事をしているようで、時々つまずきそうになったりしていました。歩き始めて十五分。住宅街を抜けて人通りのない道に出ました。駅から逆方向に位置するこの通りは、登下校する学生さんたちやサラリーマンさんしか見かけません。
風はなく、アスファルトはどこまでも硬くて、斜陽は町に濃い影を落としました。
「ねぇ、みやびちゃん」と朝霞さんは小さく言いました。声には緊張感がまとわり、西日で影になった彼女の横顔は怯えているように思えました。
「はい、なんでしょう?」
「昨日ね、話せなかったことが一つあるの。あまりにも突拍子のない話だし、私の記憶違いかもしれなくて・・・」
「いえ、ぜひ聞かせてください。どんなに不思議な話だとしても慣れっこですもの」
歩くペースを落とし、目の前に伸ばされた自分の影を追いながら朝霞さんは語りだしました。
「震災が起きた何日か前に・・・正確な日付は覚えていないのだけれど・・・変わった男の子と家の前で話をしたの」
「変わった男の子・・・?」
「十五歳くらいの少年だった。女の子みたいに綺麗な顔立ちなの。私はその日小学校で居残りがあって、うちに帰ったのがちょうど今くらいの時間だったの。私が家の玄関を開けようとすると・・・そう、私の後ろにその子がいたの」朝霞さんは何かを思い出したように空を見上げました。
「それでね、彼は言ったの。『もしこれから、大きな災害が起きるとしたら。君は何を守りたい?』って。その時小学生だった私は彼の異様な雰囲気に興味を持ったの。
私は驚いて何も答えられなかった。答えられなかったのに、彼は」
私たちの影は長く長く伸びていました。まるでいつか引き千切れてしまいそうなほど。
「彼は微笑んで『それならカンくんを守ってあげなきゃね。君の夢を守る為にも』と言ったわ。そこから先は会話も何も覚えていないの。十年も前のことだし、思い出したのもつい三日前。もしかしたら私自身で勝手にでっち上げた妄想かもしれないとも思ったわ。
でも違う。違うの。それは本当にあったことなの。確証もないけれど私は信じている。だってその少年はあまりにも奇妙で美しくて・・・震災を予知していた。そう、そして車いすにのっていた」
「・・・え?」
つながっている。どこまでも深く。どこまでも遠く。
能上君だ。と私は思いました。根拠も確証もないことなのに、私ははっきりと感じました。時間的にも矛盾している、そこにいるはずのない少年。災害の予見。私の心は朝霞さんの話を真実として受け止めていました。
「みやびちゃん、どうかしたの?」朝霞さんが心配そうに私の顔を覗き込みました。きっとへんてこな顔をしていたのでしょう。
「いえいえ、なんでもないのです。それで、のが・・・その少年と話をしたのはその日だけなのですか?」
「うん。それ以来見かけたことも聞いたこともない。どのみち私は観名町から離れていたのだけれどね」
「・・・朝霞さんはその子が言ったことをどう思いますか・・・?」
朝霞さんは立ち止まりました。悲しそうに視線を落し、自分の腕を抱えています。それから小さな声で言いました。
「私は怖いの。その子の言ったことがじゃなくて、その子の言ったことを絶対に忘れることができない私が。確かに突拍子もない話だと思う。きっと今同じことを言われたとしても、私はその言葉を信じないと思う。それでも私はこう思うの。私はカンくんを助けられたかもしれないんだって。ヘンな話だよね。自分でも分かってる。当時子供だった自分が、その話を信じてあの地震から誰かを救うなんて無理だったと思う。後悔なんてすることはないって。
でもね、その話は本当だった。本当に起こったからこそ私は後悔してしまう。何かができたかもしれない。するべきことがあったかもしれない。そのためには目の前に垂れているロープを掴むだけでよかったの。当時の私には少し高い位置にあったけれど、決して手が届かないわけじゃなかった。そして今の私にはそのロープを見逃したという現実だけが残った」抱えていた腕に力を入れる。何も言えない私。時間だけが風にさらわれていきます。
「彼のことを思い出すたびに、私の頭の中にそのロープが出てくるの。今はもうつかめない。近いようでとても遠い。
そして一番怖いのが今の私には何もできないってこと。昔のことじゃなくて、これからのこと。私は何一つ変わることができないんじゃないかって。私はカンくんを忘れることで自分を守った。その裏切りだけが、私の・・・真実で・・・」
私はそっと朝霞さんの手を握りました。涙をこらえるのに必死でしたがそこは頑張りました。だって、だって朝霞さんはそんな悲しい思いをしなければならない人じゃありません。私は朝霞さんに泣いてほしくありません。これはエゴでしょうか。私のワガママでしょうか。でもたとえエゴでもワガママでも子供じみた考えでも、朝霞さんが辛い思いをするのは間違っていると思います。
だから私は何も言いません。言わないことが私の答えです。
「ごめんね、もう大丈夫だから」と彼女は笑顔で言いました。
「朝霞さん、師匠のところに行きましょう。きっと大丈夫です」私は握っていた手をほどいて言いました。「そしたら来週デザフェスに行きましょう。もちろん師匠抜きで」
「うん。とっても楽しみ。カフカさんは甘いもの苦手なの?」
「師匠は辛党です。ポケットにいっつもコショーを入れています。味覚が終わっているのです」
「あはは、私も胡椒は好きなんだけどね。みやびちゃんはチーズケーキって好き?」
私たちは甘々デザートフェスティバルを語り合いながら、師匠のところへ向かいました。
きっと大丈夫。師匠が助けてくれます。
だって私は彼を99%信じていますから。