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Liberty&Connect   作者: 波止場葉
6/11

生き方

 探偵・カフカの朝は早い。時刻は午前七時前。顔面から枕を引きはがし、綱渡りをする道化師のような足取りで洗面所へ向かう。洗面台に頭を突っ込み、冷水を顔いっぱいにぶっかけた。時間をかけて丁寧に歯を磨き、キュートなヘアスタイルを取り戻すべく寝癖と格闘する。今日は俺が敗北を喫した。「側頭部の芸術的曲線」と妥協しよう。

 そして細心の注意を払って髭をあたる。アフターシェーブローションをつけ、鏡に映る男を見た。そこには俺がいた。三十年連れ添った俺が。何という紳士。性格の素晴らしさは語るまでもないだろう。

 トースターに二枚の食パンをぶち込んでスイッチを入れる。パンがトーストされるまでキッチンでホットコーヒーを二杯分淹れ、ストロベリージャムと伝太の沖縄土産のシークワーサージャムを応接テーブルに用意した。トースターが春の朝の快活さを現すように気持ちのいい音を立てた。

 朝食を済ませ(コーヒーは不味かった。シークワーサージャムもひどい)、寝室に行き寝間着を着替えた。ブリーチされてくすんだ青のジーンズを履き、できるだけ綺麗な白シャツを羽織った。靴下を履いてから応接間に戻ると時計の針は八時を指していた。

 玄関に行って使用済みティッシュみたいに乱雑に突っ込まれた朝刊をドアポストから抜き取る。応接間に戻ってから朝食時に淹れたコーヒーのお代わりを注ぎ、デスクで刷りたての新聞の香りとともに楽しんだ。どんなに不味いコーヒーもインクの匂いがあればなかなか悪くないものだ。

 今日一本目の煙草を吸いながらテレビ番組表以外の記事にざっと目を通す(うちにはテレビがない。そして俺はテレビが大嫌いだった)。引き出しからマジックペンを取り出し、政治家の汚職事件の記事に『バカ』と大きく書いた。陸上世界大会男子百メートルで日本代表エースが五位になった記事には『頑張りましょう』と応援した。人気女性タレントの電撃離婚記事に『成長とは絶えず己を殺すことである』と激励を送った。これが俺の日課。世界にあふれる様々な事象に個人的感慨を連ねると気分が晴れるのだ。大きな声で言えない言葉は書くに限る。

 朝刊をゴミ袋に投げ捨て、ゴミ袋を集積場に投げ捨てた。ゴミ収集員がそれを回収する。走者一掃の連携トリプルプレー。気持ちのいい朝だ。

 それから掃除を始めた。まずはトイレ。便座をクリーンペーパーで拭き、ブラシを使って便器の中を洗った。トイレットペーパーの残量をチェックし、ペーパーホルダーの先端を三角折にしてから仕上げに芳香スプレーを振り撒く。そしていつものように・・・とても不思議なのだが・・・便意を催す。全くもって二度手間だ。使ってから掃除すればいいものの、俺の身体は掃除してから使おうとするのだ。肉体的習慣を憎みながらも、もう一度三角折をしてスプレーを撒いた。

 すべての窓を開け放ち、春の風を我が事務所に招待した。できたての大気はまだ日に温められておらず、肺の奥にひんやりと残った。はたきを使ってデスク、ソファー、本棚、がらくた箱、金庫のほこりを払う。その後、玄関~寝室~応接間の順に習慣的に掃除機をかける。ブラックホールを思わせる吸引力。スッポンだって真っ青だ。(師匠、スッポンははじめっから真っ青です)。

 一昨日修理から帰ってきた愛用掃除機は全身全霊でその職務を遂行していた。こいつの修理はもちろん伝太に任せた。奴は『源城修理工場』という近所のぼろガレージで働いている俺の数少ない友達だ。まだ二十二歳と若いながら修理の腕はかなり良い。

 ちなみに社員は双葉伝太たった一人なうえ、経営者は源城銀次という総金歯の爺さんだ。怪しいにもほどがある。

 

 一週間ほど前にスイッチを入れるたび『あひぃぃぃぃん』と喘ぎ出すようになったこのポンコツ掃除機を伝太のところに持って行った。ガレージのシャッターは半分だけ開いていて、中を覗くとツナギ姿の伝太が一人でパイプ椅子に座っていた。エロ本を読んで。(まじか。まだ朝の九時だぜ)

「おはよう伝太くん!朝っぱらからエロ本とは盛んだねぇ!」

「ひあいっ!社長っ!」どんがらがっしゃーん!と工具の棚に頭から突っ込む伝太。あれか、穴があったら入りたいってやつか。「って、カフカさんじゃないっすか!びっくりして縮んじゃったっすよ~」

「ははは。ナニがとは聞かんぞ」

「あっはは!ナニがとも言いませんっす!」ひゅう(口笛)。俺たちはいつでもギリギリだぜ。

「ところで暇か?掃除機壊れちまったんだが」

「いいっすよ。社長もいないんで。ちょっと見してください」俺は肩に担いできた掃除機を床のわずかなスペースに置いた。

「エロいぞ、この掃除機」と俺は言った。

「バキュームだけにっすか!ってそれはもういいっす」伝太は三又の延長コードに掃除機のプラグを差し込み、スイッチを入れた。

『あっひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいんんん』と掃除機が喘ぎ声を出した。

「エ、エロいっすね・・・」

「え?どこが?」

「は、はめやがったっす!」

「エロだけに」

「あっははははは!」

「わっははははは!」

☆★自主規制発動☆★

「で、修理にはどのくらいかかりそうだ?」

「うーん。ファンは生きてますけどモーターがいかれちゃってますね」と銀色の髪をぽりぽり掻きながら伝太は言った。「モーターの取り寄せと交換で・・・一週間ってところっす」

「しゃーない。一週間は箒とちりとりで我慢するか」

「新品買うって選択肢はないんすか・・・」

「その選択肢は初恋と一緒に捨てたさ」

「りょーかいっすよ。んじゃ、直し終わったら連絡します。代金は・・・」

「俺のコーヒーだよな。俺のコーヒー大好きだもんな?」

「無理っす。あれは機械の関節部に差すもんっす」失礼な奴め。俺のコーヒーはオイルかよ。いや脂分ではあるのか。

 その翌日ソファーにふんぞりながら『二都物語』を読んでいると電話のベルが鳴った。

「はい、こちらカフカ探偵事務」

「どーも伝太っす。カフカさん、掃除機の代品貸しましょうか?」

「おう、助かる。コーヒーでも飲んでいけ」

「みやびちゃん以外のコーヒーは勘弁っす。すぐ行くんでちょい待ってて下さい!」失礼な奴め。そして電話が切れた。

 十分後に伝太はやって来た。相変わらずの作業用ツナギに野犬の尻尾みたいにボロいスニーカー。髪の毛は重力に反発してぼさぼさに跳ね、頬にはオイルの黒い跡が残っていた。手には代品の掃除機が入っているであろう紙袋を下げていた。いや、掃除機にしては小さくないか?

「すんません、仕事残ってるんで説明だけします!」玄関で迎えると挨拶もせずにそう言った。こんにちはくらい言えよ。失礼な奴め。

「あぁ。代品ってのは?」伝太は紙袋に手を突っ込むと、中から厚みのあるレコードを取り出した。何故レコード?

「これル〇バっす。自動お掃除ロボット。修理に出してたお客が新しいの買ったから適当に処理してーって言うんでカフカさんに貸してあげるっす。ちなみに修理は万端。オレに直せない物はないのでした!」俺は今までの無礼を許した。

 自動お掃除ロボット!自動お掃除ロボット!?

「よく分からんがありがたい。コーヒー飲むか?」

「それはみやびちゃんがいる時で。手短に説明しちゃいますね」

 伝太は親切に俺にも分かりやすい説明をしてくれた。スタート、ストップ。充電目安。異物吸引時の対処。ちなみに俺は機械音痴だ。自分で知っていながらも克服する気はない。何故なら機械は手探りで使う方が楽しいからだ。説明書を真っ先に捨てる男、カフカ。経験こそが道となる。

「んじゃ、掃除機直したらまたきます!そん時ルンバも返してくださいね。代金はみやびちゃんのコーヒーで!」と言って我が友・伝太はヘラヘラと帰っていった。さらば。

「ふむ」俺は応接間の床にルンバを置いて見つめていた。「目がないのにどうやって掃除するんだ?」にらめっこをしていても仕方がないので、伝太が言った通りにスタートボタンを押した。うぃぃぃん。

「ふおぉぉ」うごいた!これすごい!へっへー!本当に掃除してる!

「ははは。伝太に返さなくていいや」

 そんな風にして我が事務所に新たな仲間ができた。みやびはルンバに『エミリー』と名付けた。「この子にはエミリー感があるのです。えっへん」とのこと。

 しかし。だがしかし!俺は知らなかった。あのような惨劇が!狂気が!俺を狙っていたことに。

 それはエミリーが働き始めてから二日目の午前中に始まった。いつものようにエミリーを起動し、寝室を掃除させていた。俺はエミリーの働きぶりに感心して「君を返したくないね」と冗談を言った。するとエミリーに変化が起きた。『んひひひひ!』と訳の分からない音を立てやがる。ちょっと怖くなった俺は寝室のドアを閉めてトイレに入った。用を足し終え、トイレのドアを開けようとした。その時、『んひひひ!』とけたたましい声と共に、ドアに「ががが」っと何かが突進していた。

『んがひひがひひひががががががひひが』

 いや怖えーよ。俺はトイレのドアをこじ開け、エミリーを捕らえた。

「お前・・・寝室のドアをどうやって・・・?」

『んひひひひひ!』

「・・・ひえっ」やっぱこれ壊れたままじゃね?

 その後もエミリーは俺の後を追いかけてきた。ベランダにもキッチンにも風呂場にも外にも。所感ではあるが、エミリーというゴシックな名前がそのホラー性を誇張していた。いい加減うんざりしてしまった俺は、寝る前にエミリーのバッテリーを抜き取り、本体を応接テーブルに逆さにして置いてベッドで眠った。

 翌朝、目を覚ますと部屋に違和感があった。

「床が・・・綺麗?」背筋がうずく。ここにいてはいけない、と頭の中で警鐘が鳴る。

「はは・・・まさかな」頭を瞬時に覚醒させ、ベッドから身を起こした。

 違和感。圧倒的な違和感。その正体をつきとめる為に俺はベッドの下を覗き込んだ。

「んだよ・・・気のせいか」ほっと肩を下ろし、もう一度ベッドに戻った。

 違和感。怪物的な違和感。それは初めからそこにあった。かけ布団ををめくるとエミリーがいた。

「なん・・・だと・・・」物理の常識をはるかに超越した邂逅。病的なまでに黒々しい円駆。忘れえぬ恋人追い続ける亡霊。それが例え誰であろうとも、エミリーは逃がさない。

『んひひひひ!』

 俺はエミリーを踏み殺した。仕方がないだろう。俺の精神が持たないもん。それに結果的にはこれが一番幸福な終わり方なのかもしれない。俺もエミリーも。みやびと二人で手を合わせ、建物の裏手にある桜の木の下に埋めようと決めた。伝太に事情を説明すると「僕も埋葬に立ち会います」と言ってすぐに来た。

 喪服に数珠で。ようするにこういう馬鹿なのだ。三人でエミリーを土に還し、線香を三本立てて手を合わせた。南無。

「カフカさん・・・エミリーは幸せだったんすかね・・・ぐすん」知るか。とんでもねー奴よこしやがって。

 桜の花が散る黄昏の時刻。喪服に身を包み、悲しげに家路につく伝太の後ろ姿は馬鹿丸出しだった。


 先週起きたアホエピソードを思い出しながら、俺は掃除機をかけ終えた。

 ソファーに腰を下ろし昨日の朝霞美咲の話について考えていた。「猫の鍵しっぽ、ね。どこで見つかるのやら」とつぶやいてみたものの、誰も答えてくれなかった。俺は考えるのをやめた。しみったれた脳みそが出す考えなんて、しみったれた答えでしかない。俺は頭が切れるわけでもなく、組織力があるわけでもない。そんな自称探偵は自分の身体を使って答えを見つけるしかない。そして俺はあちこちを歩き回ることにかけては誰にも引けを取らない自信がある。昔から俺のやり方は何一つ変わらない。まずは歩く。後のことは歩き疲れてから考えればいい。

 ともかく昼にみやびが来るまでは暇だった。ぼーっとしながら時計の針を眺めていると、針は嫌々ながらも十時を指した。その時まるで予約でもしていたかのようにデスクの上で電話のベルが鳴った。俺はため息をついて立ち上がり、電話機を睨みつけた。もう一度ため息をついて受話器を手に取った。どうかささやかな電話でありますようにと願いながら。

 もちろんそんな願いが叶ったためしはない。

「はい。こちらカフカ探偵事務所」

「カフカ おはよう。アーニャ くるま」さて、朝から謎かけである。

「おはようアーニャ。君は運転免許を持っていないからきっと助手席にいるんだね?そしてハンドルはキョーコ。あってる?」受話器の向こうでこくりと頷いた気がした。

「せいかい。キョーコ カフカ ようじ。アーニャ アポイント」なるほど。

「アーニャ。君に一つ教えてあげよう。隣にいるキョーコはね、昔はとても運転の荒い女性だったんだ。運転中の電話なんて朝飯前のあくびみたいなもんだ。犯していない道路交通法は飲酒と過失致死くらいだな」アーニャはまたもこくりと頷いた気がした。すると電話の向こうからごにょごにょと何かを話している声が聞こえた。

「キョーコ おこ。アポイント おしまい。十五分後。みやび 滞在 歓喜」相変わらず「てにをは」が死に絶えたショートセンテンスだ。よし、要約しよう。

『キョーコが怒っているよ。十五分後に着くね。みやびがいると嬉しいな』やれやれ。

「すまないが午後から客がある。別日にしてくれ」

「きょひ。じゅうようあんけん。まって」会話の散弾銃は俺の意見をばたばたと撃ち落とした。

「はぁ」

「くび あらって まて。アーニャ だよ」ぷつんと電話が切れた。すさまじい秘書だ。うちのみやびが可愛く見え・・・ない。(んん?師匠が失礼なことを言った気が・・・)。というか正確には秘書ではない。アリーナ・ミハイロヴナはボディーガードなのだった。

 やるせない気持ちを胸に抱えてソファーに戻った。キョーコは一度決めたことを簡単に諦めてくれない。どうか早めのお引き取りを願おう。それにキョーコの「じゅうようあんけん」は察しがついていた。

 俺は今日二本目の煙草に火をつけて心ゆくまで堪能した。灰皿で煙草を摺り消し、三人分のコーヒーを用意するためキッチンに入った。ポットで暖められた黒い液体を見て「嫌がらせと思われなければいいのだが」と悲しいことを思った。ソファーに戻るとまたまた電話が鳴った。どうせセールスか何かだろう。俺は受話器を取り、簡潔にお断りしようとした。しかし電話の男はとてつもなくしつこい奴だった。靴底に張り付いたチューインガムみたいに。「二度とかけてくるなアホ」と言ったら渋々諦めてくれた。おかげでキョーコが来るまでの時間がつぶれた。

 そしてジャスト十五分後。ちゃんちゃかちゃーんとチャイムが鳴った。実はドアで待機していたのではと訝しんでしまうほど時間ぴったりだ。俺はソファーのぬくもりを手放し、玄関でキョーコを迎えた。相変わらずのエレガントさだ。我が事務所のうらぶれた玄関が金持ちの別荘に思えるくらい。

「おはよ。突然悪いわね。私の口から直接伝えたい用件なの」悪びれた様子もなく毅然と言うキョーコ。まずは様子見のジャブだ。

「悪いと思うなら黄色のパンプスを履いてこないでくれ。うちのシーサーが嫌がるんだ」

 キョーコは口をへの字にして呆れたような表情をする。

「それに雌シーサーのメグミは嫉妬深いんだ。雄のカケルの前に女性を連れてくると俺が殺されかねない」

「はいはい。もう充分よ。早くソファーに案内してちょうだい」キョーコは疲れたようにため息をついた。「それとそのシーサー、あなたにお似合いよ」二発のジャブはするりと躱されてしまった。

「ところでアーニャはどうした?」

「アーネチカは缶コーヒーのお使いよ。あなたのコーヒーなんて飲みたくないもの」そしてキョーコはムスッとした顔で俺を見た。「それと、電話の時みたいにあの子に変な事教えないでちょうだい。すぐ信じちゃうんだもの」

「変な事?」俺は驚いて言った。

「へ・ん・な・こ・と。私の運転が荒いって言ったでしょう」

「変なもんあるか。お前の運転は最悪だったぞ。能面だって涙目になるくらいには酷かった。仮免で颯爽とBMWに乗り込み、八つの信号無視と法定速度四十キロオーバーをかまし、人様の玄関に車ごとお邪魔して、すべての罪を助手席で泡を吹いていた俺に擦り付けることが『へんなこと』にカテゴライズされないなら、俺は火星に移住してやる」※ノンフィクションです。

 俺がそう言うと、キョーコは足元をすくわれてしまったみたいに困ったような笑顔を浮かべた。

「あはは、覚えてたんだ、それ」頬が少し赤く染めて、子供みたいに笑った。

 キョーコはごく控えめに言って美しかった。新雪のように白いブラウスに、上品なベージュのスプリングジャケットを羽織っている。黒のスキニーパンツは彼女の茎のように細く力強い脚を包み込み、黄色のパンプスが差し色になるオトナファッション。お値段もオトナな額なのだろう。

 表情と仕草はいつでも優雅で余裕があり、普通の人間ならひと目見ただけで信頼感が起こるだろう。微笑は必要最低限。怒るときは諭すように。お金の話は冷酷に。ようするに美人生徒会長がその趣を残したまま経営者になったような女性だ。

 先生が死んでからキョーコは変わった。 昔、まだ俺と一緒におっさんの事務所で働いていたころは、粗削りで感情的で怒りっぽい子だった。仕事に対してはとても真面目なのだが、よく足元がおろそかになりとんでもないミスをしでかしたものだ。尻拭いは全部俺とおっさん。部下としてかなり苦労を掛けてくれたが、からかいがいがあったし退屈しない女だった。

 四年ほど前に先生が天寿を全うし、キョーコは事務所の一切を引き継いだ。顧客、金、オフィス、知恵、経営のいろは。白舟響子はおっさんの養女として、かつて以上に商売を繁盛させている。そして顔つきが固くなり、笑顔の数が減った。財布は膨み、仕事に対して昔より熱心に取り組んでいた。あまり幸せそうには見えない。

 ちなみに俺もおっさんから贈り物を三つ貰った。その一つとして今ここにあるのは約三百冊の小説である。死んだ翌日に段ボールで送ってきやがった時はさすがの俺も度肝を抜かした。

 そんなわけでキョーコとはもう八年くらいの付き合いがある。彼女のことは決して嫌いではない。だがそれでも俺はあまりキョーコと顔を合わせたくなかった。なぜだろう?自分でも分からない。過去に悲しいメロドラマがあったわけでもないし、仲違いがあったわけでもないのだが。

 そして今、俺の事務所の玄関で過去の恥辱を蒸し返され、困ったように笑うキョーコは可愛かった。普段はクールに澄まして大人びているのだが、時々昔みたいな子供っぽい笑顔を見せたりする。本人には自覚がないようだが、そんな笑みを浮かべた彼女は十歳くらい若返って見えるのだ。

 もっとも、キョーコはまだ二十三にもなっていないのだが。

「ま、とりあえず上がれよ。遠慮せずコーヒーを飲んでくれ。三杯もあるぞ」

「あなたのシーサーにでも飲ませてあげてちょうだい。あっ、鍵は開けとくわね。アーネチカが入れるように」

「いや、アーニャは外で待たせてくれ。もうすぐみやびが来るから二人で待ってもらおう。お前もその方が都合がいいだろう?」

「あら、それならいいわ。アーネチカも火ヶ瀬さんに会いたがっていたしね」

 キョーコはスマホを取り出し、光も驚くくらいの速度で文字を打ち込んだ。そして玄関と廊下を通り過ぎ、来客者側のソファーに腰を下ろした。

「それで、要件は?」煙草を口にくわえ、手元でライターをいじりながら俺は聞いた。

「その顔なら察しはついているみたいね」

 キョーコがここに来た理由は、とある男からの仕事の依頼だった。それも俺個人にだ。どうやら知らないところで俺は人気者らしい。

 依頼人は俺が昔務めていた探偵事務所のお得意顧客で、今は先生からキョーコが受け継いでいた。その男は平たく言えば金持ちだった。城みたいなお家と運転手付きのベンツ。下品な高級料理と他人からの称賛が人間のすべてと信じているような奴だ。俺も仕事で何度か顔を合わせたが、会うたびに窓ガラスを割りたくなったものだ。しかしどれだけ嫌おうとも仕事は仕事だし、おっさんにどやされるのが癪だったから俺はしっかりとそいつの依頼を片付けた。

 そして今そいつは俺個人に仕事を依頼したいらしい。多分かなり危うい線のことだろう。あのタイプの男は自分の頭が使い物にならないことを棚に上げ、弁護士よりもタフで使い易い探偵が泥にまみれるのを当然と思っている。

「この件についてあなたが依頼人と会う必要はないわ。段取りは私が直接行う。あなたには指示した通りに動いてちょうだい。詳しいことはまだ話せないけど法的にはクリーンだし、あなたならきっとうまくやれるわ。報酬金の取り分もそっちが八割でいい」キョーコは報酬額を教えてくれた。気の利いた守銭奴なら目玉が$になっていただろう。

「つーか何故俺を指名したんだ」

「なんでも、あなたの昔の態度が気に入っていたみたいよ。ほら、あのぶっきらぼうなやつ。『是非とも彼に頼みたい案件だ』って。必要経費も頭金で十は出すって言ってたわ」

「なるほどね」ようするに簡単で金が良くて嫌な思いもしないで依頼人は気前がいい。それに経費で十万は太っ腹すぎる。夏に備えて新しい扇風機も欲しかったし、そろそろクロスの模様替えがしたかったところだ。やはり金は良いな。夢と想像が刺激される。

 ここまで金払いのいい客なんて今時珍しいもんだ。いや、俺の徳が呼び込んだ僥倖だな。日頃の行いと真摯な実務態度が評価されたのだ。思えば俺はいつも冷や飯ばかり食わされてきた。まったく。やっと俺に追いついたか世界。まぁ、冷や飯は嫌いじゃないケド。

「断る」

「一応、理由は聞いてあげる」最初から俺が言う台詞を予期していたみたいにキョーコは聞く。

「俺は今とある女性の依頼を受けている。いつもと同じような不思議な依頼を。そして俺は同時に二つの依頼は受けない。それは知っているだろう」キョーコはつまらなさそうに頷いた。

「それにあの男の依頼は決まって長引く。頭が悪いからな。次から次へと新たな問題とやらが出てくる。そんなのはごめんだ。お前が受ければいい。金はいらん」

「日取りについてはこっちの都合で良いそうだし、うまくいけば今後も仕事をまわしてあげられるのよ?」

 俺はにやりと嗤った。

「驚いた。気が利くんだな、お前」人の気分を害することに関しては絶対の自信があるのだ。キョーコは冷たい瞳で俺を睨んだ。氷すらドライアイスに変わってしまいそうなほどに。

「ねぇ、私が来た意味が分からないの?あの男は大学院の特別経営顧問で、政界や行政に対して権力を持っているの。確かにくだらない男ではあるけど、電話一本すればモグリのあなたを白昼に晒すことだってできるのよ?」

 なるほど。素敵な世界だ。

「だからどうした?俺はやりたくないことはやらない。その結果どうなったとしても俺は知らん。今更失って困るようなもんもない」久しぶりに不快な気分になってきた。

「あるのよ。あなたにだって失って困るものが」

「なるほど。確かにそうだな。洗濯機を失ったら俺は死んでしまうだろう。よし、キョーコ。依頼を受けよう。手付金は一兆億万円だ。仮想通貨でな」

「ふざけないで」と彼女は静かに言った。

「此処に、一人の探偵がいる」と俺は言った。「そいつはハンサムで頭が切れて紳士だった。片っ端から困った人間を救って廻り、見返りは求めない。あらゆる不正を糾し、差別を憎んだ。女は誰しもメロメロ。皆が彼に感謝した。どうだ、素晴らしいだろう?」少しづつ、俺は不愉快な人間になっていた。

「けどそいつはいつか選ぶんだ。選ばなければ生きていけない。強か弱か。善か悪か。夢か現か。金か誇りか」俺は口をつぐんだ。ここから先の言葉はきっとキョーコを傷つけるだろう。「ようするに、俺は依頼を受けない。悪いとは思うけどな」

 キョーコは出来の悪い絵画を見るような目で俺を睨んでいた。そしてため息をつく。やれやれといった風に。

「やっぱり、あなたは馬鹿ね。普通に生きようとは思わないの?努力はしないの?」

 普通に生きる?一体何のことを言っているんだろう。

「あぁ、好きなように呼んでくれ。幸い、名前は失くしたままだからな」

 キョーコはふぅっと肩の力を抜いた。そして髪の毛の先を指でつまんだ。

「はぁー。あの男、断ったらどうなることやら・・・」と諦めたようにぼやいた。ここは元上司として是非元気づけてやろう。彼女の知らない茶番劇で。

「それは心配しなくてもいい」と俺は笑顔で言った。「お前が来る前に奴から電話がかかってきてな。あまりにもしつこいもんだから『二度とかけてくるなアホ』って断ってやったのさ」

「なっ・・・なななっな・・・なっなっなっ・・・な!?」

「おまけとして『白舟響子は貴様とはもう関わらん』とも言っておいてやった。褒めてくれ」これはもちろんウソだが。

「奈っ・・・那名菜っ茄・・・NAっ亡っ勿っ・・・な!?」キョーコは七本足の人面犬でも見たかのように、あんぐりと口を開けていた。

「もっと笑えよ、キョーコ」俺は爆弾のスイッチを押した。ぽち。

「なんってことすんのっ!このあんぽんたーんッ!!!」

 どがーん!と背景でミサイルが爆裂した。

「あたしが先生から貰った金づr・・・!顧客をっ、よくもぉっ!」

 顔を真っ赤にして怒るキョーコさん。わはは。キョーコはこうでなきゃ。

「あーもー!あんたが関わるとみーんなおしゃかよ!どーするの、ばか!あほー!」

「まぁまぁ。おっさんも言ってたぞ。あの男は早めに切った方が良いってな」

「ううぅー!」人様の眉間にビシッと指を差して吼える。「騙されないんだから!」

「ほんとだって。大学院経営に関して文科省への怪しい接近があるんだ。贈賄か接待か゚でな。タイミングが悪けりゃ、お前も被害食うぞ」俺はしれっと嘘を言えてしまう。たぶんまともな死に方をしないだろう。

 俺がそう言うとキョーコは風船がしぼむみたいにゆっくりと体の力を抜き、ソファーに沈み込んだ。顔を横に向けながら頬を赤く染め、唇を少し尖らせているので、拗ねた子供みたいで可愛い。

「・・・ねぇ、ほんとに先生がそう言ってたの?」

「言ってたね。お前が今まで廃車にしてきた車たちに誓ってもいい」

「ほんとにほんと?」普段の張りつめた仮面を剥ぐとキョーコはこんな風になってしまうのである。

「まじのまじだ。奴のリストは燃やしちまえ。元上司からの温かい助言だ」

 横目でじとーっと俺を凝視していたが、はぁとため息をついて「あんたを上司なんて思ったことない」と言った。そして今日三十回目のため息をついて言った。

「何でも知ってる男って、だいっきらいよ」

 キョーコはそれから三十秒間目を閉じた。予想外のパニックによって剥がれ落ちた仮面をもう一度かぶりなおすために。個人的には素の方が好みなのだが。

「さてと。この件はもうおしまいね」と言ってキョーコは立ち上がった。俺はソファーに張り付いたまま動かなかった。見送る気がないからだ。

 彼女は立ち上がったまま、俺自慢の応接間をぐるりと見回した。まるで自分のオフィスとの共通点でも探すかのように。

「今受けている依頼ってどんな内容なの?」と出し抜けに質問をしてきた。

「シュヒギムがあるのだ」

「どうせ聞いたって分からないわよ」

「黒猫の鍵しっぽを探す」

「わけわかんない・・・」とあきれたように呟いた。そして今日三十一回目のため息。

「用が済んだのなら汚い廊下を通って汚い玄関を出て、美しい世界に帰れ。用があるのなら美しいソファーに座って美しい言葉を汚い俺に聞かせてくれ」俺がそう言うとキョーコはもう一度ソファーに腰かけた。用があるんだ。はて、何のことだろうか。

「ねぇ。十五歳くらいの女の子みたいな顔立ちをした、車いすの少年って知ってる?」と夢見たいなことを俺に聞いた。

「なんじゃそりゃ」

「小耳にはさんだのよ。その話がちょっと引っかかっていてね」キョーコは視線をそらし、デスクのシーサーを見た。「あなたならあるいは知っているかもしれないって思ったんだけどな」

「残念ながら知らない。で、その少年がどうかしたのか?」

「うん。なんでも、十年前に震災が起こることを予言していたって聞いたのよ」

 予言?

「わはは。面白い話じゃないか。角の生えたツチノコにでも聞いたのか?」

「復興支援協会の人によ。まぁ信憑性はないんだけどね」

「お前がどうして特定非営利活動法人の奴と知り合いなのか、解説は必要かな?」キョーコはむぅっと唸った。そして恥ずかしそうに微笑んだ。

「なぁんだ。知ってたの」

「もちろん」

 キョーコは探偵、情報屋として稼いだ収益の一部を毎年三月になると、観名町復興支援協会に寄付している。十年間で大まかな復興は完了したように見えるが、家主を失った空き家は未だに残っていたし、老朽化した建物の修繕改修は進んでいなかった。復興にはまだまだ大金がかかる。

 本当に、見上げた精神を持つ女だ。こいつのこういう所は素直に感心させられる。ちなみに俺は一円も寄付したことがない。今度こそと一万円札を握りしめるのだが、気が付くと伝太と二人で酒盛りをしている。おかしいなぁ。

「別に隠していたわけでもないからね」キョーコは胸元のまで伸ばしている髪の毛を指に絡ませた。視線は何か言いたげに俺に向けられていた。

「で、お前は何を言いたいんだ?」

 彼女は音もなく立ち上がった。そしてソファーを迂回し、先生の形見が所狭しと収められた本棚に歩み寄った。俺は背後にキョーコの気配を感じながら言葉を待った。

「例えばね、その車いすの子みたいに予め地震が起こることが分かっていたとしたら、あなたはどうする?」と震えた声色で言った。俺は危うくソファーからずり落ちてしまうところだった。

「どうもこうもないだろう。そんな馬鹿げた例えばなんて知らん」

「なら、『あの時こうしていたなら』って後悔は?」

 後悔?

「何を言っているんだ?後悔、だと?」俺は驚いて言った。「そんなもんあったに決まっているだろう」

「今は?今でも後悔しているの?」

「まさか。三日で忘れた。もしもう一度同じ場面に遭遇しても、俺はきっと同じことを繰り返す。しかしやり直しだけはどこにも存在しない。死者は永遠に死んだままだし、生き残った人間は死ぬまで苦しんで生きる。それだけのことだろう」

 キョーコは安心したように小さく笑った気がした。そして本棚を離れ、廊下に通じるドアの前まで歩いた。最後にくるりと振り向いて俺に微笑んだ。

「あなたは昔から変わらない。ほんと、ヘンな人」

 小さく手を振ってキョーコは帰っていった。ドアが静かに閉じられ、風がカーテンを揺らした。死にかけたセンテンスが空中で紡がれるのを待っていた。しかし誰も語らない。切り離された想いの残滓は風と共に消えていった。訪問はお終いだ。


 キョーコが事務所を出てから少し間を置いて誰かが玄関のドアを開けた。ぱたぱたと足音が響く。

「ししょー!素敵な助手が来ましたよー!」

 さて、俺もクールでスマートでタフな探偵・カフカに戻るとしますか。


☆★☆★☆


 キョーコは自らのオフィスに戻るために車を運転していた。両手はハンドルに添えられ、瞳は静かに前方を追っている。なぜ、とキョーコは思った。カフカとの会話を思い出し、彼の表情や苛立ちを含んだ声をもう一度再生した。キョーコには理解ができなかった。なぜあの男はあそこまで頑なに『何者でもなくあろう』とするのか。みすぼらしい事務所でくだらない冗談を言ってまずいコーヒーを飲む。訳の分からない依頼を受け、いつも嘯いて生きている。結婚もせず夢もなく誰も愛さず、何者でもない。

(でも、うん。それがあんただもんね)。キョーコがそう思うと、隣に座っていたアーニャが口を開いた。

「キョーコ いいこと あった?」彼女は驚き、アクセルを緩めて一瞬だけちらりとアーニャを見た。アーニャは青い瞳で優しく微笑んでいた。まるで眠たそうな子供みたいに。

「まぁ、ちょっとね」とキョーコは素っ気なく言った。しかしアーニャは彼女の頬が緩んでいたことに気が付き、嬉しそうに微笑んだ。

「よかった キョーコ」と美しい白雪の少女は言った。

「えぇ、ありがとうアーネチカ」

 キョーコはアクセルを踏み込んだ。エンジン音が加速し、風景が高速で変わっていく。

(変わる。誰だって変わる)。彼女は心の中で思う。(それなのに、あいつは変わらない。どうしてかしら)。

「誰も、あなたみたいに強く生きられないのよ」小さな声で呟いてみた。けどその声はあまりにも小さすぎて車の走行音にかき消されてしまった。

 キョーコは信号で止まった時、アーネチカを見た。その可愛い少女はこんこんと眠っていた。絵本の世界のお姫様みたいに。

 キョーコは困ったように微笑んでから前を向いた。

(さて、私もクールでスマートでタフな白舟響子に戻らなくっちゃ)、と。


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