夕焼けの町。少年
事務所からの帰り道。群青色と紅色が半分に混ざり合った雲が、どっちつかずにふわふわと漂っています。空に落とされた赤と青のコントラストは、不思議と色彩的対比を感じさせません。きっと私たちが誕生するずっと前から、何万回も何億回も同じ落陽を繰り返すことで、赤と青はお互いが最も美しく映える時刻を見つけることができたのでしょう。儚くて、遠くて、どこまでも美しいソラ。夕方のほんの少しの時間だけ終わりと始まりが溶け合って、空虚な影が心に伸びてゆきます。一日の終わり。みんなはどんな一日でしたか?私はきっと今日を忘れません。師匠と過ごした他愛のない時間や、朝霞さんのお話。たとえ明日昇る太陽が今日の太陽と別のモノだとしても、私はこの空とともにこの一日を覚えているでしょう。
私はそんな夕焼け空を眺めながら、影が薄くなりつつある商店街を歩いていました。にぎやかな雑踏。仕事帰りのサラリーマンや、あたふたと忙しそうな主婦さん。まだ遊び足りない子供たちと部活帰りの少年少女。いつもと変わらない風景です。みんな、帰るべき場所へ歩を進めます。私もそのうちの一人。
でも帰る場所がない人だっています。例えば朝霞さん。朝霞さんは帰るべき場所を見失ってしまいました。心が、記憶が本来あるべき故郷を哀しいものにしてしまいました。
例えば師匠。彼には帰るべき場所なんてありません。歩く一軒家。移動する要塞。師匠はただそこにいるだけなのです。どこにも属さずどこにも帰らず。つまるところ、師匠はどこにいようとも師匠なのです。ほんと、実存主義者の鑑です。こんな大人なかなかいませんよね。
私の足は商店街を抜けて住宅地へ出ます。ひっそりと静まり返った夕凪の街。私は胸を張り、顔を上げて歩きます。カバンの中ではシュークリームが一人、私に食べられるのを心待ちにしていました。まずお家に帰ったら冷蔵庫で冷やします。一切の手加減なく、絶対零度の如く。お父さんとお母さんと一緒にご飯を食べたら、時間をかけてお風呂に入ります。体はぽかぽか。心はほくほく。パジャマに着替えたら躊躇なくソファーにダイブです。むふふ。至福のひと時。手の中のシュークリームは北極みたいにきんきんです。それではいただきます!ぱくっ。ぽわぽわの生地の中からカスタードクリームがとろーりとろとろ、口いっぱいに広がりますぅ。ほんわぁ~。
「はっ」よだれが垂れてしまいました。淑女にあるまじき失態です。だ、誰かに見られた?「ほっ。誰もいないです」危ない危ない。私の妄想トリップはブレーキが故障しているのです。修理の予定はありません。てへ。
一本道を進むとやがて分岐路に出ます。家に続く道か、山のほうへ向かう道か。私の足はまるで磁石に引っ張られるみたいに歩を進めます。山の方へと。多分朝霞さんのお話を聞いたからです。私は一本道を外れ、階段道に入りました。
観名町住宅街は南にある山へ向けて、まるでウエディングケーキみたいにいくつかの段が連なってできています。道路‐家屋‐階段。道路‐家屋‐階段。という感じで。しかし山から商店街までをつなぐ一本道はありません。車か自転車で行き来するためにはくねくねと曲がった道路を進むしかないのです。そして私は今、その道路をよけて家々の間にある階段をえっほえっほと登っています。目的地までは十分くらいです。ショートカットの極み。
私の目的地は山ではありません。山から一段下にある「観名南病院」です。あ、別に病院に用事があるわけではありません。向かう先は病院の下にある公園です。私はその公園がとってもお気に入りなのです。ちなみに病院の正式名称は「みなみなみみんかんそうごうびょういん」です。はんぱねーネーミングです。言いにくいったらない。
私は公園に向かって止まることなく階段を上ります。腕を小さく振って、上に向けて跳ぶ感じです。とん、とん、とん。単調な靴音がこだまします。それは不思議な響き方でした。まるで階段の上からりんごが落ちてくるような。登っているのに落ちている。私の靴音は階段を転がり続けて、いつか師匠のとこにぼてぼてっと届くのでしょう。
「昨日お前の靴音が俺のところに転がって来たぞ。生ごみと一緒に捨てたがな」
「師匠も一緒に回収されてしまえです」みたいな。なんとなーくそんなことを想像してしまいました。
半分くらい登ったところでいったん休憩です。「ふう~」私はあんまり体力がないのでした。ちなみにこれはダイエットではありません。健康的脂肪燃焼と呼んでください。
陽光を背に浴びながら、頭上にある紫に染まった山の稜線を目指し、私は進みます。特に珍しくもないのですが、誰一人すれ違うことはありません。家々の開けた窓から色んな生活を覗くことができました。いや、ほんとに覗いてるわけじゃありませんよ。音となって匂いとなって身振りとなって伝わってくるのです。カレーの香り。テレビの音。子供の笑い声や。「ただいま」と「おかえり」の挨拶。私はそんな情景を心で感じながら、一軒一軒通り過ぎていきました。
そんなこんなでとうちゃーく。観名南病院の一段下の通りに着きました。ここまで来るのに十分くらいでした。昔から全く手入れされていない階段なので、私は甲冑を装着したまま野球をしているかのように息を切らせていました。「はふぅ~。ちかれたちかれた」。
一息ついた私は病院の真下にある、まるで切り立った崖の端にやっとのことで居座っているような、うらぶれた公園に入りました。公園にはブランコと鉄棒とベンチと子供の残した落書きしかありません。私はカバンをベンチに置いて、観名町を見下ろすために金網のフェンスの方へ寄りました。切り立った崖、とはつまりそういうことです。この公園は段の斜面からせり上がった場所にあるので、子供が落っこちないようにフェンスが付いているのです。そして山の麓とせり上がった公園という条件は、私に観名町の全景と水平線に溶けてゆく太陽を見せてくれるのです。
私は夕日の朱色に染まった町を静かに見ていました。
私の生まれた町。私の育った町。多くの喜びや楽しさを見つけ、やがて引っ張られたゴムが弾けるみたいにたくさんのモノを失くした町。
息を吸い込むと、空の高いところにある涼しい大気が私の胸を満たしていきます。
いろんな人がこの街にいます。謎多く軽薄ながらも私の師であるカフカ師匠。師匠の因縁の相手である、クールでスマートでエレガントなキョーコさん。キョーコさんの秘書で、最近お友達になったロシア出身のアーニャちゃん。師匠の酒飲み仲間で、いっつもヘラヘラしている修理技師の伝太さん。幼馴染のやっちゃんに、お父さん、お母さん。お兄ちゃん。そして師匠を訪ねる数多くの・・・間違いました・・・数少ない依頼人さん。朝霞さんとも出会いました。私はいろんなつながりを持った人たちを心の中で思い浮かべていました。
この観名町に住む人々と、あの日のことを。
観名町は十年前、正確には十年とひと月前の三月二十六日の午後四時に、最大震度七の地震に襲われました。当時都市開発が進んでいた中心部は被害が少なかったものの、郊外に当たる住宅地や商店街は古い木造が多く、百七十に及ぶ家屋が倒壊しました。そして震災発生から一時間後には私がかつて住んでいた住宅地域は火災の猛威にさらされました。電柱や街灯は嵐の後の雑草みたいなぎ倒しになり、山の麓は地盤振動によって一部が崩れ落ちました。観名南病院は直接的被害を受けなかったものの、倒木や舗装道路の亀裂などにより、大勢のけが人が病院に行くことができませんでした。地元の消防団や警察だけでは救助の手は追い付かず、都市部や隣町からの支援は道路の陥没、液状化や連絡機能のマヒのために遅れました。
太陽が落ちるころに自衛隊が到着しました。しかし明かり一つない夜の街での救助活動は難航しました。倒れた家屋の下敷きになった人。大けがをしているのに病院に行けない人。住宅街から上がる白煙。やがて夜が明けると強い雨が降りました。とても、強い雨が。
燻る木の残骸を蹴り分けながら消防団や自衛隊の方が、いまだ行方の分からない誰かの名前を叫んでいました。懇願するような声で。涙を流しながら。多くの人は学校や会館に避難し、物資の到着と家族の帰りを待ち続けていました。とめどなく涙を流している人。静かに休む人。破れた服を着たままぼうっとしている人。分断された明日への道は、大きく暗い口を開けて私たちの前に横たわっていました。
当時六歳だった私はあの日の光景を意味も分からずに見ています。ただ、そこにあった廃退と絶望の空気に怯えながら。よく覚えているのは父と母が泣いていたことです。私もそれにつられて泣きました。心が真っ白になってずっと泣いていました。泣き疲れると私は眠りました。夢にお兄ちゃんが出てきました。それがどんな夢だったのか、今の私は覚えていません。でもその朝起きた時に母に強く抱きしめられた感触は今もまだ胸に残っています。終わりのない悲しみ。お兄ちゃんとはもう会えないんだろう、と私は思いました。
二日が経ったころ、私たちのいた避難所には無理に作ったような活気がありました。このままじゃいけない、何かしなければ、というから元気でした。父はボランティアに参加し、慣れない力仕事をしていました。母は支援物資の配給や、簡易料理の調理をたくさんの女性と行っていました。私たちはもう悲しむ為の心がすり減ってしまったのです。今にして思えばそれはとても辛い時間でした。心に空いた空白をみんな必死になって埋めようとしていたのです。時にはそれを強さと呼びます。でも人間一人一人はとても弱いです。それでも強くあろうとする。人と人とのつながりを通して。きれいごとや美辞麗句を揶揄されようとも、私たちは人の為に何かをしたかったのです。それが希望になると信じて。
何度かの夜が明け、人々は次第に活力を失っていきました。帰らない家族を想い。失われた日常を憂い。静かな夜が続きました。太陽が割れた大地を照らすまで、私はずっと星を見ていました。そして星に願います。どうか、ひびきお兄ちゃんに会えますように、と。
死者八十四名。行方不明者一名。倒壊・焼失家屋百七十三棟。半壊家屋百二十五棟。震災発生から一ヶ月以内での死亡者三十二名。
その数字には私の兄も含まれています。この町の人たちは深く傷つきました。死者の数字にではありません。自分の心の中で、大切な何かが永遠に死んでしまったからです。
私は震災で兄を亡くしました。火ヶ瀬ひびきという、いつも優しくて、笑顔が温かくて、小さい時からずーっと私を守ってくれたお兄ちゃんでした。私たち家族は兄を失い、今でも失い続けています。そして欠落を埋めぬまま、この町で生きていました。両親と私は今では時々兄の話をしたりします。それまでの人生に兄がいたことを確認するみたいに。
私がまだ中学生だったころ、まだ死というものを理解していなかった時に、私は兄の死に理由を探そうとしました。それは外的な理由ではありません。私の心の中の事です。兄が亡くなってからの私の人生で何が変わったのかを。何を失って何を得たのか。たぶん人生にはこういう理由探しがとても大切だと思います。何かを失い、失った後の人生を振り返った時、その出来事にどんな意味があったのか。
私は考えました。考えて考えて、そして気がつきました。
私はお兄ちゃんを失うべきではなかった。
私はその時初めて理解しました。兄が亡くなったことに何の意味もないことに。そう、死に意味なんてないのです。私は泣きました。自分でも驚くくらい、泪がぽろぽろこぼれてきました。その時初めて、私は自分のために泣きました。私はその涙の後、絶対にお兄ちゃんのことを忘れないように生きていこうと誓いました。私が兄にできる、最も誠実な向き合い方が忘れないということでした。
今日の朝霞さんのお話もよくわかりました。もしかしたら大げさだと言う人もいるかもしれません。でも私は朝霞さんが何を恐れているのか、何から逃げたいのか理解できました。それはきっと、自分の弱さと向き合うことなのです。歳月の否定、後悔。だからこそ私たちは朝霞さんの味方に付くと決めました。朝霞さんが私たちを信じてくれたように。
ちなみに師匠は私たちとは違って強い人です。彼には後悔もなく、何かあっても一人で何とかしちゃうタイプです。やりたいことしかやらないし、嫌いなものとはとことん戦います。それで大損を食らったとしても、笑ってごまかしちゃうような人なのです。でも師匠はいつだって誠実に生きています。とんでもない自論や表現を駆使し、誰かの味方であろうとします。本人は気づいていないようですが、そんなところがロマンチストなのです。
地震から十年が経ち、観名町は昔の温かさを作り直すことができました。失ったものを抱えたまま、復興に力を注ぎました。たくさんのボランティアの方や顔も名前も知らない人々のおかげで、私たちは今も笑って生きています。人はそれを「つながり」と言うのでしょうね。
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今日の最後の光が遠くの方で消えていきます。まるで線香花火がパッとはじけるみたいに、夕日は空の彼方に落ちてしまいました。薄暗がりの公園で私はフェンス越しにその光景を見ていました。風が少し冷たくなります。私は消えゆく光を追いながら、一つの詩を思い出そうと努めていました。ずっと昔に読んだ詩。確か、変な言葉で始まった気がします。えーっとえーっと・・・。
「・・・ひねもすの」終日。そーだ、ひねもすのってところから始まるのです。
始まりの一文を思い出すと、あとは芋ずるを引っこ抜くみたいにするするッと全部出てきました。題名も作者も忘れてしまいましたが、その美しい言葉のメロディーは今でもよく覚えていました。私の口は詩を紡ぎます。
「ひねもすの君が燃ゆる朱の空
しじまの遠く宵の雨
逆巻き口に凪はゆめ
枕寝かせば日は死ぬる
まぶた上げればその名を忘るる」
ふと、その詩を声に出して読んでいました。とても儚い詩です。私の口から出た言葉は、終わる夕日に連れられてどこかへ消えていったような気がしました。師匠もきっとこの詩が気に入るはずです。明日ぜひ教えてあげましょう。
でも不思議なことに作者と題名が出てきません。こんなはっきり覚えているのにヘンな感じです。まるで小学校の時の友達の名前が思い出せないみたいな・・・もやもや。
「中華・隋時代の詩人、恒稀子の『抱擁』だね」
「へっ?」後ろから誰かの声が聞こえました。透き通るような淡い響き。諭すような優しい呟き。私は振り向きました。
そこには一人の少年がいました。公園のちょうど真ん中あたりに、車いすにのった少年が。全く気が付かないうちに彼は私の後ろに来ていたのです。夕闇に覆われた病院を背景に、少年はにっこりと笑いました。まるで小さな子供のように。
「ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだ。偶然にもさっきの詩は僕も知っていてね」宵の空に吸い込まれてしまいそうなほど美しい声で彼は謝りました。チェックのシャツと白いズボンに包まれた体はとても細く、お人形さんみたいな造形です。つららのように美しい指は車いすのハンドリムに添えられ、背筋をピンと伸ばしています。
「いえ、ちょっとびっくりしちゃっただけです。ぽけーっとしていたので」私が笑って返事をすると、彼は嬉しそうに頷きました。
歳はたぶん十四、五歳くらいだと思います。私より少し年下みたいに見えました。顔立ちはとても整っています。むしろ女性のような、知的な印象を受けました。髪の毛は糸のような細さでまっすぐ額に流れていました。
そして私が驚いたのはその瞳でした。一見すると子供のような人懐こい感じが顔全体にあるのに、目の光をのぞき込むとそこにはどろりとした光がありました。まるで滞った川のようなにごり。その停滞した輝きは彼の女の子のような外見に不思議なテイストを加えていました。その瞳は何でも知っているようで、何も知らないようで、全てを観てきたような。そんな寂しい輝きでした。
「とっても詳しいのですね」と今更にびっくりした私は言いました。「古いマイナーな詩人さんですし、世界でも三人くらいしか知っていないと思ってましたです」
「あはは。ぼくはこの通り病院にこもってばかりだからね。小説や詩は本に穴が開くほど読んできたんだ」困ったように笑って少年は言います。
「それでもすごいですよっ。私なんて『雨ニモ負ケズ』しか覚えてないのです。『抱擁』、教えてくれてありがとうございます」
「『抱擁』もいい詩だよね。恒稀子がその時代に何を思って筆をとったのか、良く分かる一文だもの」車いすのハンドリムをトンと指で叩きます。
「そうですね。夕方六時にはぴったりの詩です。七時にごはん、八時にお風呂、九時におふとんって感じです」私がそう言うと少年は面白くて仕方がないみたいに笑い出しました。
「あはははっ!」あのー。爆笑なのです。
「わ、私何か変なこと言いました・・・?」師匠に笑われるのは慣れっこですが、初対面の男の子に笑われるとさすがに恥ずかしくなります。むぅ?何がおかしかったのでしょーか・・・?
「いや、ごめんごめん。突然家庭的なことを言うからさっ」少年は目に浮かんだ涙を指でさっと拭ってにこにこ笑いました。
「うにゃ・・・。今のは違うのです、そのぉ」
「うん、でも確かにそういう見解もあるね。詩や文学は自己投影と最深意識の発掘に能う、非形骸的なレガシーだもの。あるいは恒稀子だって、そんな日常的普遍性を筆に込めたのかもしれないね」はい?今なんと?褒められちゃったのかな?
「よくわかりませんが、ありがとうございます?」
「うん?どういたしまして?」訳が分からずに二人そろってお辞儀をしました。私がちらっと上目で少年を見ますと、彼も同じように上目で私を見ていました。視線と視線がぶつかります。お辞儀をしたまんまで。
「ぷふっ」
「はははっ」おかしくなって二人して吹き出しちゃいました。こーゆーのを滑稽っていうのでしょうか。それでも私たちは嘘偽りなく、ただただ笑ってしまいました。仲のいい友達同士みたいに。
しばらく二人でくすくす笑っていると、少年は顔を上げて静かに瞼を閉じました。まるで楽しかった記憶を目の奥に閉じ込めるみたいに。そしてゆっくりと目を開けて言いました。
「はじめまして、だね。ぼくは能上智留。よろしくね」
「はい。初めましてです能上君。私は」
「火ヶ瀬みやびさん、だよね」私の言葉を遮り、野上君は言いました。心臓が一瞬だけどくんと大きく響きます。彼にも聞こえそうなほど。
「どうして私の名前を?」
「ぼくはなんでも知ってるよ。なんせ暇な身分だから」いたずらっぽく笑って言いました。ですが瞳の奥の幻妖なな光はより深くなった気がしました。
空は群青。桜の花びらが風に吹かれて力なく散っていきます。背後の山はより排他的になり、春の夜は悩まし気に暗くなっていきました。
私は能上智留という少年に興味がありました。そして好奇心も。彼の存在はあまりにも不安定なのです。湖面に映った水草のように揺れ動き、風が起こす波紋にさらわれていつか消えてしまいそうな気がするほどに。そして一対の淀んだ瞳。それは彼にふさわしくない光でした。あまりにも達観している印象を受けます。その瞳なら世界中の自動販売機の下に落ちている小銭を全部数えられそうなほどに。すみません、ヘンな喩えで。
能上君は恥ずかしそうに頬をかきながら口を開きました。
「実はね、みやびさんの姿は前にも見かけたことがあるんだ」打ち明けるようにつぶやきます。「だからね、こうやって話すことができてとても嬉しいんだ。ぼくは友達とかいないから、今みたいに笑ったのも久しぶりでさ」
「ううん。声をかけてくれてありがとうなのです。同じ詩を知っているならお友達ですもん」と私は言いました。なんだか胸があったかくなります。驚かなかったと言えば嘘になりますが、能上君と友達になりたいのは本心でした。
「ありがとう。うれしいよ、とても」その声は少しだけ震えていました。公園の街灯がパッと点きます。彼の白い頬はちょっとだけ赤くなっていました。年相応の男の子らしくて、思わず頬が緩んでしまいます。
「能上君は『抱擁』をどう感じますか?」私が聞くと、彼は顔を少し上に向けて考えました。あるいは考えるふりをしました。なぜでしょうか。その瞳はすでに答えを用意していたような気がしたからです。
「恒稀子の『抱擁』に収められた無名詩。彼女の作品は当時の暴君・煬帝を綴ったものが多いから、この詩もきっと戦争や終わりのない暴力を嘆いたものだろうね。ぼくが気に入ったのは最後の二節なんだ。日が死に、名を忘る。きっと平穏の内に過行く日々は、その落陽とともに永遠に失われる気がしたんだろうね。同じ一日は二度と来ない。そして昨日があったことを忘れるほどの今日がやってくる。まるで日めくりカレンダーみたいにね。彼女は激動の時代を、女性の持つ刹那的で悲壮的な視点で切り取り、やがて体で知ったのだろうね。恒稀子は最期、その煬帝に親族もろとも処刑されたからね」
「はわわっ!は、博識ですっ!」なにそれ小論文ですかっ!すっごいです能上君!
「そんなことないよ。ちゃんと本を読めば分かるもの」鼻にかける様子もなく能上君は言いました。でも少しだけ表情が暗いような気がします。彼は指を組み合わせて柔らかく笑いました。
「いえいえ!師匠の千倍は博識さんです!」
「師匠?」
「えっと・・・私の師匠はですね。気に入らない本は燃やしちゃう人なのです」能上君はぽかんと口を開けました。
「燃やすって、どうして?」
私はため息をつきました。
「よく分からないのです。うちの師匠は読んでみて嫌いになった本は、ひとまとめにファイヤーするのです。そして『奴等は地球環境破壊の一助となった。これで心おきなく憎める』などとわけわからんことを言います。ちなみに燃やされランク一位は太宰治でした。続いて三島由紀夫。私には到底理解できません、ほんと」
「あはははっ!すごいお師匠さんだね!」と能上君は大笑いです。
「笑い事じゃありませんよ~。本たちが可哀そうなのです」
「確かにちょっとやりすぎかもね。でも、うん。本を燃やす自由は誰にだってある。道端に捨てるよりかはスッキリするかも」
「むむ。まさか能上君も師匠派?これってとても不名誉ですよ?」
「あはは、手厳しいねみやびさんは」と能上君は言います。「ところで師匠さんってどんな方なのかな?」
「売れない探偵です。ペットショップにあるワニの餌くらい売れない探偵です」
「な、なるほど。そしてみやびさんは弟子ってわけなんだ。探偵の弟子って楽しい?」
「うーん。そうですね。楽しいっていうのはちょっと違うと思います。ただ・・・」私が続く言葉を探している間、能上君は私の目を見たまま待っていてくれました。
「ただ、私が助手として働いてみて分かったのは、それがとても悲しいお仕事だってことです。例えば依頼人さんに突然姿をくらました恋人を探してほしいという依頼を受けたとします。私たちはきっとその恋人を見つけることができます。でも恋人さんには姿をくらませるだけの理由があってしかるべきなのです。そして私たちは依頼人さんに『真実』を告げなければなりません。誰かを傷つけるだけのナイフを、その心に突き立てるのです。師匠が一番不機嫌になるのはすべてが終わった後。依頼人さんが事務所から出ていくときでした。どれだけ想いを入れこんでも、信頼を勝ち取っても、依頼人さんは悲しそうな顔をして出ていくのです」と私は長々と言いました。「すみません、こんなお話しちゃって・・・」
「ううん、とても興味深いよ。それでもみやびさんは弟子として、助手として働くんだね?」
「はい。私ひとりじゃきっと無理ですけどね。辛いし、怖いし、悲しいです。それでも探偵というお仕事には・・・ロマンスがあるのです。流れる泪にも違いがあるように」ちょっと恥ずかしいですけどそう言いました。「師匠は結構レーコクでレーテツな人ですけど、彼もそんなロマンスを求めて探偵をしています。全く売れない探偵ですけどね」能上君はにっこりと頷きました。
「みやびさんは、そう。きっとお師匠さんのことが好きなんだね」
なにをっ!?
「あぁ、いや。これは信頼しているって言うべきなのかな」能上君は優しい笑顔で言います。「表情で分かるよ。ぼくも師匠さんに会ってみたいなぁ」
私はぴーんときました。普段師匠とばっかりいるのであまり気にならないのですが、同年代の男の子に是非知ってもらいたいことがあったのです。
「能上君。能上君に一つ、乙女心を教えてあげます」私は指をぴょこんと立てます。
「うん?」
「女の子はね」私は冗談っぽく笑って言いました。「心で思っていても口に出しちゃいけないことが、必ずあるのですよ」
師匠に対する信頼感は確かにありますが、それは心の中で温かいままに、そっとしておきたいのです。純情乙女心。
あっ、恋愛感情は一億%ありません。いちおくぱーせんと、まじで。
能上君は私の言ったことをまじめな顔をして考えていました。口元に指を添えてふむふむ言っています。な、なんか悪いことしちゃった気分です。
「いえ!能上君のことを責めたわけじゃないのです。ただ能上君って達観したようなところがあるので・・・それで・・・その」あう。言葉が出てきません。
「智留くんだけに悟ってる!なんちゃって!・・・へへ」あははー。師匠のバカダジャレが伝染りましたー。
「ううん。ぼくはいつだって言わなくていいことを言ってしまうんだ。それでよく人に嫌な顔をされた覚えもあるしね」能上君は腕を組んでうんうんと頷きます。
よく考えれば私たちはずっと同じ場所から動いていません。三メートルくらいの距離を維持したまま。もしかすると私が無意識のうちに距離を置いていたのかもしれません。彼には、その・・・。ちょっと普通じゃないところがあるのです。それは整いすぎている顔立ちでも、車いすに座っているからでもありません。彼の瞳の暗いよどみのせいなのかもしれません。まるで夜空に輝く遠い星のような。
でも彼とこうして言葉を交わすことができてとても嬉しいです。美しくて儚くて不思議な能上君。私は能上君に対してお姉さんのような好感を抱いていました。それももちろんナイショですけどね。
「ありがとう、みやびさん。乙女心大切にするよ」幼い笑顔で能上君は言いました。
「いーえ!能上君はそのままでも素敵な博識さんです」後ろに手を組んで得意げに笑ってみました。
すると能上君は何かに気が付いたように空を見上げました。私もつられて空を見ます。藍色の空。そこにはたくさんの星がありました。まるで宝石をばらまいたような綺麗な星。観名町は宵の時刻になると数多くの星を観ることができます。昔学校の先生に聞いたお話だと、観名町という町名は「星の名前を観る」から観名と伝わっているそうです。
「もう七時前だね。そろそろ帰らないと」
「も、もしかして。星の位置で時間が分かるのですかっ?」
「うん。昔から星空が好きでね」と恥ずかしそうに、また嬉しそうに彼は言います。「毎日飽きずに眺めているとね、星の名前や個性、時刻なんかも知ることができるんだ」
「能上君すごいです!『腕時計要らずの智留』の通り名を差し上げます!」
「あはははっ。ありがとう、もらっておくよ」彼は笑って言いました。
能上君は小さく息を整えて柔らかな微笑みを口元に浮かべました。
「えっと、一つ聞いてもいいですか?」と私は言いました。
「どうしたの?」
「能上君は、その。歩けないのですか・・・?」
聞かない方がよかったのかもしれません。そこにはきっと私の想像も及ばないような苦しみがあるはずです。それでも私は知りたかったのです。彼のことを、もっと。
能上君は困ったような笑顔を浮かべました。
「うん。震災の時にね。でもぼくのことは気にしないで」彼はまっすぐに私の目を見ました。「生きている以上、誰だって何かを抱えているんだからね」
「す、すみません。いやなことを聞いちゃって・・・」私は目をそらして謝りました。
「ううん。逆に聞いてくれた方が良かったよ。だってぼくは何一つ不自由なんてしていないからね」
「それは、どういう?」
「いつか教えてあげるよ。ぼくがこの町にいる理由を」
「・・・?」
やはり能上君は不思議くんです。師匠と同じくらい。
「それじゃあ、ぼくは帰るね」
「あっ、私も晩ご飯の時間でした」私はベンチに置いてあるカバンを手に持ちました。能上君は両手で車いすをこぎ、公園の出入り口に向かいました。
「さようなら。話すことができてとても嬉しかったよ。また今度みやびさんを見かけたら声をかけても構わないかな」
「もちろんです。ぜひ、詩のことや星のことを教えてくださいね」と私は言いました。「さようならです、能上君」彼は小さく微笑みました。まるで安心したような。儚くて脆くて、寂しい微笑み。私は能上君を見送るため、そこに立っていました。
二つに割れたお月様が重たい瞼のように空に浮かんでいます。冷たい風が私のスカートをなびかせ、草木の匂いがふわりと運ばれてきました。街灯が発する、まるでマシュマロみたいにまっしろで柔らかい光の円から能上君の姿が消えていきます。車いすは音もなく動いていました。
「ねぇ、みやびさん」公園の出口の手前で、彼は体を半分だけこっちに向けて声をかけました。心臓がどくんと鳴ります。光の円を挟んで私たちは向き合っていました。
「大切なことを教えてもらったお礼に、ぼくからも一つ」呼吸がうまくできなくなります。私はまるで重大な判決を下されるかのように耳を澄ませていました。
彼の声色が変わっていました。そこから紡がれる言葉は、まるで遠い昔から用意され、時間の中で風化しながらも、私にとっての決定的な事実を内包しているような言葉でした。私は息をのみます。
彼の瞳のよどんだ光が、もう死んでしまった星のように、暗く遠く輝きました。
「みやびさんの師匠の名前は見つからないよ。きっと、どこにも」
心がぐらりと揺れました。地面が崩れたような錯覚。私はカバンを抱きしめました。怖くはありません。ただ、彼の口にした言葉が世界共通の真実のように聞こえ、私の理解が及ばなかったのです。
師匠の名前は見つからない。何故、それを知っているのでしょう。
能上君は「さようなら」と言って宵闇の向こうに去っていきました。私は声も出せずに立ちすくんでいました。
「どうして・・・?」やっとのことで絞り出した声はまるで他人の声みたいに聞こえました。山の向こうに輝く星。天頂からすべてを見通したような少年。風が吹いた時、私は孤独でした。世界中で自分だけが一人ぼっちになったような感覚。朝霞さんがかつて感じた孤独と同じように。名前をなくしてしまった師匠のように。月が散らす光の粒子は、私を照らしてはくれませんでした。
はっと気が付いた時、私はひどく悲しい気分になっていました。能上君は結局、私の教えた言葉の意味を理解してくれなかったのです。でも私は彼とのつながりを感じました。私はまたここで能上君と会うでしょう。きっと会わなければならないのです。てゆーか嫌がっていても会いに来てやりますもん。さっきは驚いて何も言えませんでしたが、今度会った時はきちんと言ってあげましょう。女の子は秘密が多いんだよって。そして今度は友達としてちゃんと目を見てお話をしましょう。
「あっ!しまったぁ~」カバンを胸でぎゅっと抱いていたのに気がつきました。イヤな予感・・・。カバンの中をそーっと覗きます。あう~。やっちったです。
「シュークリーム・・・つぶれちゃった・・・」今夜はうまく眠れそうにありません。とほほ。
しかし立ち直りが早いのが私。私は立ち直りが早い。私は私。立ち直りは立ち直り。はい。考えるのはもうオシマイ。お家に帰ってご飯です。
公園の外に出てから、ちょっと迷いましたが能上君のいる病院に向けて小さく手を振りました。さっきの言葉に返事をするように。師匠の名前が見つからなくたって構いません。だって、私は・・・。
「さようなら、能上君」帰り道は寒くて、暗くて。それでも大きく腕を振って、歩く。星空がそこにある限り、私は一人じゃないから。