朝霞さんの長い話
「猫のしっぽが・・・鍵しっぽが、怖いのです」と朝霞美咲は言った。猫の鍵しっぽ?
俺は目を閉じたまま、猫の鍵しっぽを思い出してみた。俺が思い浮かべたのはとある黒い猫だった。名前のない黒猫の鍵しっぽ。毛は柔らかく、使い古された絨毯を思わせる。痩躯をしなやかに躍らせて喉を鳴らす。しっぽはまるで独立した生物のようにしなやかに動き、空へ向けて鍵状に曲がったしっぽの先は宿命的にその奇形を維持する。猫のしっぽは生物進化の最後の砦を思わせた。あらゆる無駄とコストを削り人間が捨て去ったもの。茂みの奥からゆらゆらと揺れる黒い鍵しっぽ。捕まえようとしても蛇のようにするりと手のひらを抜けていく。振り返るとそこには暗闇しかない。ただ、一対の瞳がこちらを見抜く。まるで宵闇に浮かぶ双子の月のように黄色い光で。そして猫はその姿を消した。初めから何もなかったみたいに、消える。俺の想像はそこで終点を迎えた。
そして今、朝霞美咲という女は猫の鍵しっぽに怯えている。まったく、すごい世界だ。
「あなたはそれが猫のしっぽだと分かるのですね?」会話を進めるため俺は聞いた。朝霞美咲はその表情に翳りを見せて頷いた。よく知っているという意味らしい。
「前置きが必要ならいくらでも語ってください。朝霞さんの心温まる幼少期もぜひ知りたいですしね」と俺は爽やかに言った。自分が大学生だった頃を思い出すぜ。一週間で辞めたけどな。すると右にいるみやびの視線が狙撃銃のレーザーポインターのように注がれていた。
「子供の頃のお話はちょっと・・・」顔を赤くして朝霞美咲はもじもじしていた。
「師匠の冗談なので無視しちゃってくださいです」小娘め。
朝霞美咲はふうっと息を吐き、人食いクマだって心配してしまいそうなほど弱々しく微笑んだ。俺は足を組み替えて背もたれに深く沈んだ。そして彼女の目を見た。
「続きをどうぞ」
「十年前の震災の日から始まります」十年前、か。そう俺の関わる依頼は全てそこから始まる。人々が涙を流し、永遠に消えない痛みを知ったあの日。崩れ落ちる天蓋を見上げて誰もが救いを祈ったあの日から。
隣りに座るみやびの緊張が高まった気がした。スカートの裾を握る手が固くなった。
「私は観名町で産まれました。ですが十年前の震災の日に私の家は倒壊してしまい、十歳から八年間は他県の祖父母の家で暮らしていました」彼女はその時間の重さを測るように掌を見落とした。
「二年ほど前に私が大学進学を進路に決めると、両親と相談してもう一度観名街で暮らすことを決めました。私も隣町の大学に進学が決まり、両親は新しく家を建てました。そして去年の春から観名町で暮らし始めました。私はこの町が好きです。家族や友人と過ごしたこの町が。確かに辛い思い出はありました。何人かの友人や知人はあの日に亡くなったまま、さよならも言えていません。思い出の染みついた家は積み木みたいに簡単に倒れて瓦礫の山になりました。あの日の地震からずっと、私たちの中にあった何かは失われたままです。だからこそ私たちはこの町に戻って来なければならなかったのです。失ったものと向き合うため、と言うと美談に聞こえてしまいますね。それでも私たちは何を失ったのかを知り、それを抱て生きなければならなかったのです。八年間、祖父母の家であの日から逃げるように暮らしてきた私たちはそれに気がつきました。時間は痛みを和らげますが、痛みは時間の中で形を変えて残り続ける、ということに」喋り疲れたのか、朝霞美咲はふうと息を吐いて短く目を閉じた。
「すみません、こんな身の内話をお聞かせしてしまって」
「いいえ、語れるだけ語ってください」
「ありがとうございます」、と彼女は小さく微笑んだ。
俺もみやびも観名町の震災を経験していた。だからこそ朝霞美咲の言いたいことは良く分かった。
「両親と私はそのようにして観名町に戻りました。それまでの空虚で哀しい生活を振り切ろうとして。昔の友人や親戚や知り合いの方は私たちを温かく迎えてくれました。たくさんの方のおかげで私たちはすぐに観名町での生活に慣れることができました。故郷を離れて復興が進んだ頃に程度良く帰ってきた私たちをまる家族のように迎えてくれたのです。父もかつての職場に復帰させてもらいましたし、母も毎日幸せそうに暮らしています。私も大学生としての新しい生活を楽しんでいました。・・・あの場所に行くまでは」瞳が静かに震える。
みやびは身動き一つせずに黙って話を聞いていた。
「つい一週間前のことです。アルバイトの帰り道に、昔住んでいた家があった場所に行きました。ふとあの家の敷地はどうなっているんだろう?もう整備されて更地になっているのかな、と思って見に行ったのです。かつて私が住んでいた区域は古い木造住宅が多く、そのほとんどが地震によって倒れてしまいました。幸い私の家の周りで火災は起きなかったので、いくつかの家具や洋服はボランティアの方々に取り戻してもらいました。
それでも私には一つ気がかりがありました。観名町を離れて過ごした八年間、私は自分の記憶が混乱していると感じていました。何か大切なものを見落としているんじゃないか、と。町に戻るとその忘却感はより強くなりました。目に見える木々や道路や商店街は昔の記憶のままでした。それでもふとした時に、何かが違うと思うようになったのです。まるで手のひらに刺さった小さな棘が何かの拍子にちくりと痛むように。
そしてその日の夜、かつての家を見に行った時にその鍵しっぽは現れました」朝霞美咲は膝の上で両手を強く握り合わせた。その痛みで自分の手のひらの棘をより強く感じようとするみたいに。
「家のあった場所は木の塀に囲まれていて中を見ることはできませんでした。でもよく探してみるとちょうど膝のあたりに野球ボールほどの小さな穴が開いていたのです。私はかがみこんで中を覗きましたが、塀のせいで街頭の光が遮られて中は真っ暗でした。それでも私は目を凝らしました。その向こうにある、私のかつての生活を感じようと。この記憶のつぎはぎみたいな違和感を拭おうとして」小さく息を吸い、静かに吐く。耳にかけていた髪の毛が一房、紅葉のようにはらりと頬に落ちた。
「暗闇の中で何かが動いた気がしました。冷たい空気がひんやりと背筋を伝います。風が吹き始めました。弱々しく、冷たい風が。きっと雑草が風に揺れたのだろうと私は思いました。結局暗がりで何も見えませんでしたし、ずっとかがみこんで更地を覗いているのも変なので、私は立ち上がりました。その時に気が付いたのです。私以外の誰かがここにいる、と。夜でしたし、ただでさえ人通りのない道です。私は急に怖くなり、早く立ち去ろうとしました。
私は目の端に何かを見ました。小さくて黒い何か。家のそばの街灯の下に、その何かはありました。私はそれを見たくありませんでした。けれど体は凍ってしまったように動かせません。視線すら動かすことができません。現実はすでに消えてしまいました。淡い月光がその何かを照らします。
それは鍵のように先の曲がったしっぽでした。黒い猫の鍵しっぽ。街灯の足の影からゆらりと揺れていました。風に吹かれているみたいに揺れていたのです。青白い虚ろな光の中で、その鍵しっぽは私に何かを伝えようとしているように思えました。私はそれを呼吸も忘れて見ていました。思考も恐怖もすでに消えていました。あるのは風と月だけ。私の心は過去を追っていました。手のひらの小さな棘がなんであるのかを思い出そうと。
風がやんだことを覚えています。しっぽはなくなっていました。すべてが悪い夢のようでした。それでもあの鍵しっぽは幻覚でも夢でもありません。あれは本物の猫のしっぽでした。
私はあの猫を知っている。そう思った時、沈んでいた記憶が鮮明に蘇りました。あの鍵しっぽは私の記憶の一部だったのです」自分を責めるように下唇を噛む。
俺はひどく煙草が吸いたかった。しかしその欲求を抑え、代わりにコーヒーを一口飲んだ。不思議なことに味は全くしなかった。
「私には友達がいました。猫の友達です。名前はカンくんといいます。私が八歳の時に家にやってきて、二年間一緒に暮らしていました。オスの黒猫で、とても美しい毛並みと満月みたいに綺麗な瞳を持ち、細くて美しい鍵しっぽをいつも自慢げに立てていました。
私とカンくんはいつも一緒にいました。テレビを見るときも、ソファーで本を読んでいるときも、夜にベッドで眠るときもずっと一緒にいました。同年代の友達と外で遊ぶよりも私はカンくんと遊んでいるほうが好きでした。伝わらないと分かっていても、学校のことや友達のことをたくさん話しました。ソファーに座ると私の膝の上にするりと身を落ち着けたり、喉をくすぐると気持ち良さそうにごろごろと鳴いたり、一緒に寝るときは私のお腹の横で丸くなって眠りました。そんな日々が二年間続きました。そして十年前の震災の日に・・・カンくんは失われてしまいました。永遠に。
あの日私は母と二人で商店街に買い物に出ていました。地震が起きた時、私と母は急いで近くの小学校に避難して、隣町で仕事をしている父と連絡が取れるまで、多くの人と一緒にラジオの速報を聞いていたことを覚えています。私はカンくんが心配で仕方がありませんでした。家でたった一人で取り残されているカンくんを思うと胸が痛くなって涙が出てきました。でも助けに行くことはできません。たくさんの自衛隊やボランティアの方が町に残された人を探している間、私はずっと避難所で待っていることしかできません。父と無事再会できた時も、私の心は休まりませんでした。
四日後に父の口から家が倒壊したと聞いた時、私の頭は真っ白になりました。そんなことはない。これは何かの間違いなんだ。そう言って何度も自分に言い聞かせました。やがて一週間が過ぎ、私たちをはボランティアの方々と家を見に行きました。比較的被害が少ない場所だったので私が一緒に行くことも許されました。
太陽が空高くから光を投げ出し、あらゆる残骸が見て取れました。割れた道路。折れた電柱。崩れた家屋。煤けた木の匂い。どれもが非現実的な光景なのに、まるで血肉があるみたいな生々しさでした。家のあった場所に着いたとき、母は泣いていました。私は母とつないでいた手を振り切ってその残骸へ飛び込みました。誰かの呼び止める声も無視して、一目散に。頭の中にはカンくんのことしかなかったのです。息を切らせながら、かつては家だったものを飛び越えながら、必死に探しました。危ないぞ。やめなさい、美咲。と、誰かが言います。後から追ってくる人たちを振り返ることもなく、
私はカンくんを探しました。もしかしたら、もうどこかに逃げているのかもしれないとも思いました。そう頭の中で分かっていても、私は自分の心を抑えることができません。長い時間を不安定な緊張感の中で過ごしていたせいだと思います。どれだけ危険だろうと、私はその衝動を正しいと思っていたのです。
探せるところは全て探しました。カンくんはどこにもいません。私は立ち止まって周りを見回しました。ここはどこなんだろう。と思いました。その瞬間、私は孤独でした。世界の端っこに私は取り残されています。影が揺らぎました。まるでたった一秒で太陽が一周したみたいに、私の世界が触れ動いたのです。口がからからに乾き、目に映るものはすべて作り物みたいでした。私の心は真っ白になりました。何かが入る隙間もない白さ。自分が誰で、どこにいるのかも分からないほど。
その時、折り重なった瓦礫の下に何かがありました。空白の心はそれがなんであるかを理解するまで時間がかかります。
カンくんのしっぽが、そこにありました。黒々とした血がこびりつき、すでに命をなくしたしっぽが。太陽の光はまるで私にその光景を焼き付けようとするみたいに、はっきりとソレを照らします。誰かが私の肩を掴みました。音は残骸の下に埋もれてしまったように何も聞こえてきません。頬を何かが伝いました。それが汗なのか泪なのか分かる前に私は気を失いました」朝霞美咲は胸元で両手を重ね、今にも泣きだしそうな瞳をしていた。彼女は今、自分と向き合っている。そう、まずはそこから始まる。
みやびを横目でちらりと見ると、彼女も泣きそうな顔をしていた。感受性が強すぎる子だ。きっと心の中はすでに大洪水だろう。朝霞美咲とうい新しいつながりの中でみやびは泣いていた。
「目が覚めるとそこは病室でした。白い天井と白いベッド。お医者さんがやってきて簡単な検査を受けましたが、過度のストレスと震災の恐怖による昏倒だろうと診断しました。
目を覚ました私には、もうカンくんの記憶はありませんでした。今まで彼と過ごした記憶と、あの日に探したときの記憶が。病室と同じように真っ白です。その数日後、私たちはこの町を離れました。誰もカンくんのことを話したりしませんでした。私に気を使ってのことだと思います。でもきっとカンくんのことを話しかけられていても、これまでの私には理解できなかったと思います。猫という言葉にも、また実際に猫を見かけても私の記憶が反応したことはありませんでした。大切なものを忘れ、虫食いみたいに穴だらけの記憶を抱えたまま十年間生きていたのです。一週間前の夜に、かつて家があった場所でその鍵しっぽを見かけるまでは。
私は道の真ん中に立ったまま、その記憶を読んでいました。まるで古い本を読むみたいにその時の音や香り、手触りや痛みを想い出しました。私は泣きました。辛くて。哀しくて。怖くて。
私はカンくんを忘れることで自分を守ったのです。それが私の真実でした。悲しむときに逃げ出し、死を遠ざけました。私はカンくんに対して最も不誠実なことをしたのです。
月の光が私の影を長く伸ばします。それは私の影でした。ずっと逃げるようにして生きてきたのに、その罪は私の影でしかありませんでした。それからの一週間、時折目の端に鍵しっぽが現れるようになりました。思い切って振り向くとすでに消えています。
私は怖いのです。これから先、たとえ何があったとしてもカンくんのしっぽが目の前で揺れるたびに、私の罪が、向き合うべき時に逃げ出したという弱さが、しっぽと共に死ぬまで追いかけてくることが。だから、私は・・・カンくんのことが、もう・・・もう、」
朝霞美咲は静かに涙を流し始めた。両の手で顔を覆い、肩を震わせ、声を出さずに。ただ、泣いた。静謐のヴェールに覆われた息遣いが事務所の中でこだました。
「ぐひっ」みやびが目と鼻を真っ赤にして涙をこらえている。膝を強く握り、こぼれようとする鼻水を我慢しながら。重度の花粉症みたいに。まったく。俺まで泣いてしまったら木彫りのシーサーまで貰い泣きしてしまうだろう。シーサーを泣かせない為に俺は涙を我慢し、あくびをした。
テーブルの下からトレイを一枚取り出し、空になったコーヒーカップとティッシュ箱を乗せた。
「みやび、コーヒーのおかわりを」トレイを手渡した。
「・・・ふぁい」涙声で返事をして立ち上がった。みやびがよちよちとキッチンの奥へ消えると、中から小さなすすり泣きが聞こえてきた。
朝霞美咲は同じ姿勢のまま泣き続けていた。猫のために。罪悪感のために。抜け殻のような歳月のために。俺はポケットからハンカチを取り出し(洗い立てに決まってんだろ)、綺麗に閉じられた膝の上に乗せた。
「好きなだけ泣けばいい」と小さく呟いた。誰にも聞こえないほど小さな声で。
涙を流すことは女性にとって、もっとも美しい心のケアなのだ。
二人は五分間泣き続けた。やがて潮が引くように音もなく水滴は瞼の奥へと帰っていった。テーブルには新しいコーヒー。涙という塩スパイスが加わっていないことを祈る。みやびは定位置に戻り鼻をかんでいた。朝霞美咲はハンカチを使って瞳から頬まで繋がった流水痕のような線を恥ずかしそうに拭いていた。
夕焼けの時刻。時計の針は午後五時を過ぎていた。外から知らない誰かの声が聞こえてきた。車のクラクション。オレンジの夕日。それらはまるで静寂に穿たれた朱色の楔のように、俺たちに夕暮れの儚さを思い出させた。世界と記憶と孤独の儚さを。
「すみません、お恥ずかしいところを見せてしまって・・・」指先で目元を拭いながら朝霞美咲は言った。「ハンカチをありがとうございます。洗ってお返ししますので」
「いえ、今返して下さって結構です。私は洗濯が大好きでして。洗濯ばさみなんかもう友達です」
「は、はい。それならお言葉に甘えて」と少し驚いた顔をして彼女は俺にハンカチを手渡した。俺のジョークはいつも人に伝わらない。変わった世界だ。
「話していただいてありがとうございます。委細把握のため少し質問をしても?」と俺は言った。朝霞美咲は頷く。彼女はもう逃げることはできないのだから。
「まず一つ。一週間前の晩にそのしっぽを見かけてから今日まで何回見かけましたか?時間や場所に関連性がありそうなら教えてください」
「・・・わかりません。あの子のしっぽが現れるのは不定期です。一日に何度も見える日もあれば、見かけない日もあります」そう言って考えるように視線を落した。
「時間と場所もばらばらです。最初に見かけた夜からずっと逃げ続けてきたので。すみません」
「わかりました。では二つ目。あなたはカンくんのしっぽがどうして今になって現れたと思いますか?」
「それは・・・きっと私が思い出すことを望んだからです。そこにあった真実に気づかず、自分の愚かさを知らずに。私は悲しむべき時に逃げ出し、向き合うべきものを見捨てたのです。十年間、のうのうと生きてきました。友達の存在を自分の心で欺きながら。そのつけがきっと今の私なのです。これからも・・・私を捉えて離さない。私にはもう何もできません。ただただ目を瞑って生きるしかないのでしょうか…。こわくて、どうしたらいいのか、」朝霞美咲は顔を暗くした。もう一度泣いてしまいそうなほどに。すると突然、
「そんなの違います!朝霞さんは悪くないじゃないですか・・・!だって、だってカンくんと朝霞さんは・・・!」とみやびが我慢できずに言った。
「みやび。無責任なことを言うな。それはお前の問題ではない。言いたいことがあるのなら、下水道に向かって叫べ」
「だって師匠!そんなの、間違って・・・!」肩を震わせてみやびは言葉を飲み込んだ。白い頬には赤みが差し、視線は辛そうに朝霞美咲に注がれていた。
彼女はまだ純粋すぎる。正しいことを正しいと信じ、間違ったものに真剣に腹を立てる。そんな子供っぽい子なのに、物事が良く見えすぎている。裏の裏が表ではないことを彼女はわきまえていた。よく言えば勘のいいお姫様で、悪く言えば生まれたてのプランクトンちゃん。
それでも俺は彼女のそんな純粋さを美点だと信じている。なかなかお目にかかれない種類の人間だ。絶滅危惧種・みやびと言ってもいい。だからこそ・・・。
「みやびちゃん、ありがとう。でも私なら平気だから」朝霞美咲は小さく微笑んだ。ハイエナだって同情してしまうほどの微笑だ。
「いえ・・・ごめんなさいです。つい我慢ができなくって・・・。すみません朝霞さん」みやびも彼女が無理をして微笑んだことが分かったようだった。俺にもぺこりと頭を下げた。
「さて、朝霞さん。これで最後です」と俺は言った。「あなたはその鍵しっぽをどうしたいのですか」
堅い沈黙が天幕のように落ちてきた。風が揺らすカーテンの向こうからも音は聞こえてこなかった。俺の心音すら、この場所から排斥されてしまった気がした。
「・・・わかりません。どうするべきなのかも、どうしたいのかも。でも、逃げるのはもう嫌です。ただ、私は、私は・・・」
「もうわかっているでしょう。あなたは自分の手で鍵しっぽを捕まえるしかない。あなたは自分の過去と向き合い、後悔し、涙を流した。よろしい。その両肩には「あなたに罪」がある。そして五里霧中の体で私のところに助けを求めてやって来た。なら今度は今の自分と向き合うしかありません。あなたの真実はあなたのためにあります。さらに言えば私はあなたの真実を見つけられます。手にとって差し出すことが。それをどう捉え、受け止めるのかは・・・朝霞美咲さん、あなたの心で確かめてください」
彼女はにっこりと微笑んだ。頼もしい味方ができたみたいに。頼もしさに定評のある男、カフカ。扇動の達人とも呼ばれております。
「お願いします。助けてください、カフカさん」
「よろしい。私向きの依頼です。あなたの鍵しっぽを捕まえて見せましょう」と俺は笑って言った。不思議と気分がいい。たぶん彼女の誠実さに応えられる自信があったからだろう。
「しかし一日中あなたに着いているわけにもいきません。私は私で行動をします。朝霞さん。話にあった昔の家の住所を教えてください」朝霞美咲にテーブルに置いてあるボールペンと、メモ用紙を一枚ちぎって差し出した。彼女は丁寧にゆっくりとそこに字を書いた。返されたメモ用紙を見るとそこに書かれていた字はとても綺麗だった。まるで明朝体のお手本だ。やはり美しい字を書く女性は良いものだ。いかにしてその文体を築き上げたのか、俺の想像力が刺激される。それに比べてみやびの丸文字は最悪だ。読み辛くて適わん。
「ありがとう。それとこっちのメモ用紙にも一筆ください。『朝霞美咲』と」
「私の名前を、ですか?」
「えぇ。別に悪用なんかしませんよ。私は字の綺麗な女性の書く、ご自身の名前に心惹かれるのです」うーん。我ながらとてつもない言い訳だ。性癖にしてはいささか文学的すぎる。
「ふふっ、不思議な方ですね」と彼女は笑った。まるで俺がボケたみたいじゃん。まぁ笑顔を拝見できただけ良しとするか。
彼女は『朝霞美咲』と自分の名前を書き込んだメモ用紙を俺に手渡した。素敵な字だ。
「それでは朝霞美咲さん。あなたの名前、お借りします」と俺は言った。
ぷるぷる・・・じりじり・・・むむむむ・・・がばぁっ!
「しっ、師匠!私もお手伝いしてもよろしいでしょうかっ!」十二月の満月のような沈黙を破ってみやびが言った。
「あぁ。是非お手伝いしてくれ」顔をぱぁっと明るくする我が弟子。
「お前は家のクローゼットに入っててくれ。そして自分が日々、何匹のごっきーと生活を共にしているのか勘定しろ」自転車のサドルに付いた鳥のうんこでも見るような視線を俺に注ぐ我が弟子。
「ちっがいます!そんな汚れ仕事は師匠の性分です!」と叫ぶみやび。ひどいじゃん。
「私は朝霞さんのためにお手伝いしたいのです!」
「みやびちゃんが一緒にいてくれるのなら私も頼もしいわ」と朝霞美咲もにっこりと言った。おのれ。女子の結束は男子を圧倒的斥力で屈服させるのだ。俺は知っている。
「オーケー。今回は認めるよ」と俺は言った。
「ありがと師匠!ぜひ私も頼ってくださいです、朝霞さん!」0‘2秒だけ俺に礼を言い、後の時間は朝霞美咲に熱意ある視線を向けやがる。
「はい。ありがとう、みやびちゃん」
今回の依頼なら、みやびに協力してもらっても大丈夫だろう。良いものと悪いもの。悪しきものとそうでないもの。みやびには是非知ってもらいたいからだ。
「そう言えば最初に報酬は受け取らないと説明しましたよね。あれには続きがあります」と俺は言った。「お金は受け取りませんが、依頼を解決した後、『がらくた』をいただきます」
「がらくた、ですか?」彼女は首を傾げて言った。
「その通り。がらくたです。何でも構いません。机の奥や段ボールの中にあるようなやつです」
「ええっと・・・はい。大丈夫です。でも、がらくたなんてどうするのですか?」
「食べる。と言ったら嫌いになりますか?」彼女は楽しそうに小さく笑った。
「・・・ししょーならありえる」
「では探偵・カフカは明日からしっぽ探しを始めます。明日の予定はありますか?」
「明日は土曜なので大学はありません。午前中はアルバイトなのでその後なら」
「わかりました。では明日の午後三時にこの事務所に来てください。明日中にはきっと探し終わると思うので」彼女は目を丸くした。
「あ、明日に見つかるのですか?そんな早くに?」
「えぇ。ですが今日明日はこの件は考えないように努めてください。想像より恐ろしい恐怖はない、と言いますから」
「わかりました。明日の三時、ですね」と彼女は俺の目を見て頷いた。
「しかし、何か困ったことが起こったら迷わずここに来てください。たとえ深夜でも早朝でも構いません」
「大丈夫です!師匠と私がついていますです!」溌溂とみやびが言った。
朝霞美咲は嬉しそうに微笑んだ。それで充分。もう語ることはない。
「さぁ、もう夕暮れ時です。みやび。朝霞さんを玄関まで送って差し上げろ」
「ハイッ!」とまるで新入りの軍人みたいに立ち上がるみやび。
「コッコッコチラデス!」にわとりか。必要以上に肩に力が入ってしまう残念な弟子であった。
「本当にありがとうございました。カフカさん、みやびちゃん」
☆★☆★☆
朝霞美咲が帰った後、俺はずっと我慢していた煙草に火をつけた。煙を肺いっぱいに吸い込み、ため息とともに吐き出した。たゆたう紫煙はより白い壁を汚すためにふらふらと流れて消えていった。
「師匠、朝霞さんは大丈夫なのですか?」と心配そうにみやびが声をかけてきた。
「まぁ今よりは酷くはならないだろう。明日はお前にも働いてもらうぞ」
「もちろんです。お昼前でいいですか?」俺は頷いた。みやびは先程まで朝霞美咲が座っていたソファーに腰を下ろし、不安そうな表情で俺を見た。
「どうした?俺ってそんなにハンサムだったか?」そんなまじまじと見られると照れちゃうぜ。
「あははは。そんなことはどうでも良いのです」ひどい。
「わたし、朝霞さんとのカンくんのお話を聞いて一つ嫌なことを思い出しちゃって・・・」俺は時計を見た。五時半過ぎ。そろそろ切り上げて帰ってもらおう。
「師匠はエドガー・アラン・ポーの『黒猫』って小説知ってますか?」
「知ってるよ。『黒猫』と『メールシュトレームの大渦』はお気に入りだ。んでまさか『黒猫』を想起したのか?」こくんと頷く。まったく、小説だぞあれ。
「いいか。あんなのはただの小説だ。それに第一、主人公が人格破綻者じゃないか。頭の狂った酒飲みとおしとやかな女学生。比べるまでもない」
「でもあの小説ってとても不吉なのです。なんてゆーか、ある種の復讐は様々な形をとって訪れる、と言いますか・・・。まるで歩く先にある様々な死角に誰かが潜んでいるような気持になるのです・・・」
「あのなぁ」俺はため息をついた。「んなもん出てきた頭からぶん殴ってやりゃいい。その為に俺たちは彼女の依頼を受けたんだろう」みやびは目を丸くした。そして唐突に「にゃははっ」と笑いだす。意味が分からなかったが一応俺も笑ってみた。にやり。
「師匠って頭が良さそうに見えて実はとってもお馬鹿さんなのです」
「ハードボイルドと言ってもらいたい。ほら、お前ももう帰れよ。んで顔と頭をスッキリさせて明日来てくれ」
「はいっ!りょーかいです!」ピシッと立ち上がり、彼女は微笑んだ。
「冷蔵庫にシュークリームがある。今日のお給料である。領収書は?」
「いーっつも領収書って言うの何故なのです?」とキッチンから戻ってきて質問する。
「なんとなく」
「むぅ。ま、いいです」と言って廊下へ出るドアの前に行き、くるりと振り向いた。「それでは師匠。また明日です」みやびは丁寧にお辞儀をして玄関へと向かった。俺はもちろん見送らない。鍵は預けてあるからだ。
「じゃあな。歯を磨く前にちゃんと歯ブラシを洗えよ。あれ雑菌だらけだから」と別れの挨拶をした。
「うにゃっ!?またいらん雑学をっ!」どてん、と事務所がきしんだ。どうやら廊下ですっ転んだらしい。わはは。
すると玄関から小さな声が聞こえた。「さようならカフカ師匠。私は99%信頼しています」
「ありがたいね」ドアが閉まり鍵が施錠される音が響いた。音が消えてしまうと、後には俺だけが残された。先のない、沈黙とともに。
さて。今日はこれで店仕舞い。黄昏の探偵は一人静かに夕食を食べ、風呂に浸かり、冬のクマのように眠るのだ。
「また明日」と窓の外に広がる世界に向けて呟いた。俺とは無関係に進んでいく世界。俺はずっとここにいる。言葉が初春の風に乗り、孤独な誰かの元へ届くことを願った。二ミリくらい。