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Liberty&Connect   作者: 波止場葉
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俺とみやび

 平和な春の正午。ホオジロザメだって思わず歯磨きをしたくなるほどの陽気だ。長く暗い冬を耐え抜き、緑の若葉が世界で萌える。新しい空気と変わらない営み。世界はどんどん進化していき、俺は相も変わらずソファーで眠り続け、まだ見ぬ依頼人がやってくるのを待っていた。前回の依頼がいつ頃のことだったかは思い出せないが気にしてはならない。依頼人は来るべき時にきて、代償を払い、俺はあくせくと働く。労働世界の縮図に収められた一欠片のピースを大事にする男、カフカ。褒められて伸びるタイプです。

 俺が毎日飽きずに昼寝をするのにももちろん理由がある。みやびはまだその辺を理解できていない為、「師匠はクマにでもなればよいのです」などと言う。確かに素敵な意見ではあるが、クマはとても燃費が悪いのだ。それに第一、俺がクマになってしまったら誰も手をつけられないだろう。射殺されるのがオチだ。俺は心底クマに同情した。クマもきっと俺に同情してくれるだろう。

 俺が寝るのは社会への当てつけだ。日々変化し、流転する社会に対してのささやかな抵抗である。資本が労働者を搾取し、社会構造は逆三角になっていく。その最底辺にいる小市民探偵を代表し、俺は昼寝をするのだ。そしてこの『カフカ探偵事務所』はやがて来る依頼人にいつでも変わることなく微笑む。優しく、頼もしく。

 ただし、微笑みは年数回程度であるうえに不定期だった。まったく、困ったものだ。

 開け放した窓から吹き込む麗らかな春の風を子守歌に、俺は静かに眠った。


(しーしょーおー。おーきてー)声が聞こえる。なじみ深くて幼げで、きれいな声だ。安眠の泥沼につま先からつむじまでどっぷり浸かっている俺にも、この声だけは素直に届いた。

(師匠!依頼人さんが来ましたよ!)・・・なに?依頼人だと?俺は今、睡眠による光合成をしているんだ。人体の神秘を流動する血潮とともに感じているんだ。

 夢の中ではみやびがキッチンでコトコトと料理をしていた。

「はい師匠。畳の唐揚げ」

「嫌だ。食べたくない」そう言うとみやびは青いシマウマになった。

「はい師匠。ドストエフスキーの顎髭」

「嫌だ。食べたくない」そう言うと青いシマウマはみやびに戻った。

「はい師匠。マンボウのおひたし」

「いただきます」

「おかわりもあるのです!」

「うぷ」もう食べられない・・・。

 すると唐突に頭が弾けた。いや違う。弾けたのは眠気、痛むのは頭。ものすごい衝撃を受けて上半身が起き上がった。あれ?みやび?何故お前がここに・・・。はッ。

「客か・・・。今行く、逃げるなよ」びりびり痛む頭と支離滅裂な思考を抱えて玄関へと向かう。

 さぁ、しっかりしろ。俺は今から依頼人を迎えるのだ。

 飛び跳ねた寝癖を聖母の如く優しく撫で付け、だらしなく垂れ下がったワイシャツを叱責してズボンに突っ込む。いつ如何なる時も外見を整える男、カフカ。寝起きはとても弱いですが、依頼人には自信と希望と真実を提供します。

 そんなプロフェッショナルな微笑みを口元に浮かべて俺は玄関のドアを開けた。・・・誰もおらん。廊下を見回しても人影がない。フッ、シャイな依頼人だ。

 そんなわけないだろ馬鹿か俺は。思考が急速に解凍され、何事なのかを理解した。

 あのやろう、仕返しか。落胆と仲良く肩を組み、愛しのソファーへと引き返す。すると応接間のドアで俺を待っていたみやびが悲しいくらいまっ平らな胸を張って、

「師匠、おはようございます。コーヒー飲みます?」と勝ち誇ったように言った。小娘め。


☆★☆★☆


 火ヶ瀬みやびがうちで働き始めたのは今から三ヶ月ほど前のこと。さらに三ヶ月遡り、約半年前に彼女は一人の依頼人としてこの事務所にやってきた。その日のことはよく覚えている。


 ひどく強い雨が降っている日だった。ばらまかれたビーズのような大粒の雨が町中を痛めつけていた。十年前の震災の時、街に盛る炎を鎮め、後には何も残さなかったあの日の雨を思い出した。そんな日は何をやったって上手くいかない気がするものだ。短い午睡から目覚めた俺は残る時間をジグソーパズルでつぶしていた。雨降りの夕方に仕事もなく、夢もなく、家族もいない男にジグソーパズルは最高の暇つぶしだった。パズルの絵はフランス印象派の画家が描いた『三人の女』という絵だった。その名の通り三人の裸体の女が並んで立っていた。えっちだ。右の女は俺の好みだった為すぐに完成したが、左の女はその目つき同様に中々手強い。

 女の局部と格闘していると、まったく突然にチャイムが鳴った。ちゃんちゃかちゃーんと間の抜けた音が響く。俺はピンポンと鳴るチャイムが大嫌いなので伝太という友人に改造させたのだ。他にも嫌いなものはたくさんあるが、それらは自伝でも書くときに説明しよう。

 しかし、この時間に誰かがやってくるとは思いもしなかった。伝太やキョーコのような知人はまず連絡を入れるはず。そして俺にはほとんど知り合いなんていない。雨降りと同じように俺は誰かにとって「通り過ぎるだけのモノ」。

 ならば答えは一つ。そこには、まだ見ぬ悲しみを抱えた誰かが俺を待っている。

 築二十年の鉄筋コンクリート造の二階。空室だらけのドアを通り過ぎ、一番奥の怪しい玄関。

「探偵事務所」とだけ書かれた表札。名前はまだない。女の局部を放置し、俺は玄関へ向かった。

 自分でもなぜこの仕事を生業としているのかよく分からない。任されたからかもしれないし、ちっぽけな誇りがあるからかもしれない。それでも毎度毎度、依頼を片付けるたびに自分が空っぽになっていくような気がした。何度も店を閉じようとも思ったし、チャイムが鳴るたびに黙殺しようとも思った。こんなことを延々と続けていたって俺の失くしたものが戻らないことは分かっていた。

 それでも誰かが来るたびに、誰かが俺を求めるたびに、俺はそのドアを開けてしまう。

 誰が俺を求めて来たのかを知りたくて。その出会いが何かの運命になるのではないかと期待して。

 俺もあと百年も生きたら少しは成長できるのかもしれないな、まったく。

 雨は気の抜けた拍手のような音を延々と繰り返す。街は灰色に染め上げられ、目に映るものは一切合切が病的だった。湿り気を含んだ風は病んだ老人の咳みたいに悲しげに吹く。秋特有の長雨は延々と続く前奏曲のように世界に降り注いだ。

 玄関のドアを開けると一陣の風が小雨を連れて吹き込んできた。飛沫は仔馬のように飛び跳ね、俺は顔を逸らして目を瞑った。そしてそこに立っている誰かの姿を認めるため、ゆっくりと瞼を上げる。これから始まる出会いを象徴する暗幕を上げるように。

 目の前には頭からつま先まで雨に濡れた、美しい少女が立っていた。傘も持たず、顔を真っ青にして、俺に助けを求めにやってきた。頭一つ分、視線を上げて俺を見る女の子。それがみやびとの出会い。

 煌めく長い黒髪が風と踊る。すらりと細い身体と特注品みたいにぴったりとした手足は、その華奢さに反して芯のある強さを思わせた。青白い端正な顔の中で光る一対の美し瞳が俺を見据える。

 何もかもが荒涼と化し、慟哭の風が取り巻く世界でたった一つ、その少女の琥珀色の瞳だけが「真実」を秘めていた。

 雪の白壁のような美麗さ。今にも泣きだしそうな瞳。空白的な儚さの少女。

 短い沈黙は凪の湖面のような静けさ。彼女の唇が震えた。幼さを残す声が水面に波紋を起こす。

「助けてください、探偵さん」

 少女は怯えていた。声色と手は震えている。雨に濡れた髪の毛は細く、唇は血色を失っていた。みやびはどこまでも弱く脆く、春の若葉のように綺麗だった。

 彼女を助けることに迷いなんて無かった。探偵さん、という響きが気に入っているからだ。

「もちろん、君を助けるよ」と俺は言った。不思議と口元が綻びてしまう。

「えっと・・・ありがとうございます、です・・・」不安そうな上目遣いで少女は言った。

「でもその格好じゃ風邪をひく。風邪をひいたら医者が儲かる。それは好ましくない」

「はへ?お医者さん?」

「いや、何でもないよ。一先ず着替えを用意しよう」 

 俺は彼女を玄関へ上げ、脱衣所からハンドタオルを持ってきた。「替えの服を用意する。ちょっと待っててくれ」とハンドタオルを渡して俺は言った。

「ご、ごめんなさいです。ごめーわくを・・・」

「迷惑事が私の仕事のタネだ」少女を玄関に残して俺はバスタオルと女性用の着替えを脱衣所に用意した。探偵さんの家には大抵何でもあるのだ。女性用下着も今度買ってくるべきだろうか。

 少女を脱衣所に案内してドアを閉めた。

「着替え終わったら廊下の突き当りの部屋に来てくれ。温かい飲み物と質の良いソファーが君を待っている」と外からの声をかけた。

「あう・・・。ホントにごめんなさいです。着替えまで・・・」と申し訳なさそうに少女は言った。

 俺はコーヒーを二杯用意するためキッチンに向かおうとした。応接間のドアのところでふと廊下を振り返ると、玄関から脱衣所まで少女の濡れた小さな足跡が可愛らしく続いていた。ペタペタと。俺はその足跡を残したおいた。悲壮的な探偵事務所における数少ない心温まる風景だ。

 キッチンでゆっくりとホットコーヒーを作る。俺はコーヒー作りが好きだ。数少ない趣味と言ってもいい。ドリップされた深い香りや、カップとソーサーの触れ合う音に、蠱惑的に混ざり合う砂糖とミルク。そんなものがとても好きだ。

 しかし俺のコーヒーはいつだって不味かった。手のひらでカカオを握りつぶし、そのまま泥水と混ぜたかのように不味い。世間一般では探偵が作るコーヒーは美味いという風潮がある。そんなのは幻想だ。俺が言うんだから間違いない。そして俺のコーヒーは依頼人たちの淡く美しい期待を絶対的に裏切る。無機質で散文的な苦みをもってして。依頼人は一口目以降、二度と手を付けない。

 今回も一応味見をしてみる。・・・うん、不味い。やはりコーヒー粉とお湯が独立して味覚を刺激する。俺はため息をついた。

たぶんキッチンが悪いんだ。冷蔵庫とか食器棚の配置が風水的に良くないのだろう。包丁が五本、ピーラーが三個もあるのなんていかにも魔術的だ。呪われたキッチンから立ち去り、淹れたてのホットコーヒーを二つ、応接テーブルに置いた。煙草に火をつけ、少女の着替えが終わるのを待った。

 雨の日は嫌いだ。

 まず一つに腰が痛くなる。腰痛がひどいとシップを張る。シップを張ると惨めな気持ちになる。二つ目に閉塞感。世界をまるで高い壁で囲むかのような分厚い雲。心を濡らす雨音。どこにも行けない自分。三つに泪。雨は俺に無数の泪を思い出させる。かつて枯れた泪。今も流れる泪。そしてこれから訪れる泪。そして最後に・・・これが一番の理由だ・・・洗濯物が干せない。雨は嫌いだ。

 煙草の火をもみ消し、やりかけのパズルをテーブルの下に仕舞った。中途で放置された左の女の嫉妬深い眼差しが俺を刺す。心配するな、後で遊んでやるよ。覚えていたらな。

 そしてコーヒーを淹れてから三分後、淡い水色のパジャマという格好で、おずおずと少女がやってきた。俺は目で座るよう促した。少女はそれに従い、俺の向かいのソファーに静かに腰を下ろした。きれいな髪の毛は未だ水けを含んでいたが、それ故に黒曜石のように美しく映えた。顔色も幾分マシなり、決壊寸前のダムのようだった瞳はすでに澄んでいた。しかし挙動の落ち着きのなさは増していた。手をもじもじさせ、唇を軽く噛んではまた戻す。俺と灰皿を交互にちらちらと見る。まるで間違い探しでもしているみたいに。

 少女は完璧に緊張していた。厄介ごとを抱えたまま、ずぶ濡れになって知らない男の部屋に上がり、着替えまで貸してもらったのだ。心から少女を気の毒に思う。何故なら俺は今、不味いコーヒーも飲ませようとしているからだ。

「名前を教えてもらえるかな」と俺は言った。少女は怯えたようにびくりと肩を震わせた。

「えっと・・・火ヶ瀬みやびっていいますっ。突然押しかけてしまってごめんなさい、ですっ」みやびはぺこりと頭を下げた。女性の甘い香りがした。

「タオルと着替えも、お借りしてしまったのは、ありがとうごじゃいますっ・・・!あう」素敵な文法だ。世を知らぬ少女特有の不器用なお辞儀と挨拶は少しくすぐったかった。とても懐かしい感じがする。昔読んだ小説の一文をふとした時に思い出したような、心地よい気持ちになった。少々月並みではあるが。

「押しかけたもの、ずぶ濡れなのも、着替えを貸したことも、まったく構わないよ。それより」と言って観名町銘菓のチョコビスケットと俺お手製の呪われたコーヒーをみやびに差し出した。

「風邪をひいたら困る。温かいうちに飲みなさい」仕事中の俺はどこまでも紳士だった。

みやびは「いただきます、です・・・」と言って暖をとるように両手でカップを持ちあげた。唇を少し尖らせてふーふーと湯気を冷まし、ちらりと俺を見た。そして暖かさと香りを味わうように、ゆっくりと一口飲む。コーヒーはこくんと喉を通った。

 が。みやびはその瞬間、カエルの煮出し汁でも飲んだかのようにおもいっきり顔を歪めた。素直なリアクションだ。歪めた表情も中々可愛らしかった。

「こ、こりはコーヒーでふか・・・」口の中で渦巻く苦みを噛み潰して少女は聞いた。

「いかにも」

「どこにょメーカーでひゅか・・・」相当堪える不味さだったらしい。

「ネス〇ゴールド。私はいつもこのコーヒーを出す」

「うぐぐ・・・」手元のカップに視線を落して唸る。きっと、これまでにこのコーヒーを飲んできた人々に同情しているのだろう。俺も同じ気持ちだった。

「呪われているんだ」と俺は言った。

「はひ?」目を丸くしてみやびは俺を見る。

「私の家のキッチンは呪われているんだ。多分、冷蔵庫や食器棚の配置が風水的に良くないのだろう。包丁が五本、ピーラーが三個あるのにも、どことなく魔術的な趣がある」俺は所感を述べた。「だからコーヒーが美味しくないのは私のせいではない。断じて」驚いてぽかんと口を開けているみやびに向けて、真剣なまなざしで訴える。

「そんなキッチン聞いたことないです・・・。むむぅ」目を細め、口を三角形にして訝しむみやび。「探偵さんのコーヒーの淹れ方が悪いのではないでしょーか?」ひどいじゃん。初対面の美少女にあなたのコーヒーは不味いです、と言われるのは結構悲しい。俺は何も言わずに自分のコーヒーを一口飲んだ。なるほど、不味い。

 するとみやびは突然身を乗り出し、まっすぐに俺を見た。

「探偵さん・・・キッチンをお借りしても良いでしょうかっ」さっきまでと変わって、はっきりとそう言う。

「それは構わないけど、どうして?」今度はこっちが驚く番だった。

「えっと、私が証明します」

「何を?万有斥力?天動説?」

「いーえ。目下の問題です」みやびは立ち上がり、俺に向かって小さく笑った。「コーヒーが美味しくないのはキッチンのせいじゃないってことをです」

 その目には好奇心と探求心があった。さっき会った時から俺が惹かれていたのはその瞳の輝きだった。静かなようで燃えていて、あどけないようで鋭い。灯火みたいな強い瞳は、森の中に現れた水源の流麗さをその奥底で澄ませていた。しかしそんなアイロニカルな輝きはこの無防備な少女にまだ追い付いていなかった。いや、逆だ。彼女自身がまだその輝きに釣り合っていなかった。あと十年も経ち、彼女が成熟した女性に成長すれば、みやびはきっと誰もが放っておけない美しい女になるだろう。

 けどそれは同時に危うくもあった。彼女はまだ十五歳だし、世を知らず、不器用で不安定で弱かった。彼女の美しさは簡単に壊れてしまいそうな気がした。ほんのちょっとの「真実」だけでもみやびは耐えられないだろう。現実にある悪意と、その脅威に。誰かが彼女を守らなければならない。そのまっすぐな笑顔を守りたいなら、の話だが。

 まぁ女なんてほっといても勝手に成長するもんだ。馬鹿な男と違って。

 俺は笑って挑発的に言った。

「オーケー。我が家の呪いを君が解いてくれ」

 みやびはキッチンに立ち、ゆっくりとコーヒーを作る。横顔には血の色が差し、動作は緩やかでありながらも手慣れた感じがした。

 食器の触れ合う音と、みやびの小さな鼻歌。メロディーはそれだけ。会話もなく、気遣いもない。沈鬱とした探偵事務所には彼女の柔らかな雰囲気が広がる。鉄のように冷たいガラステーブルにすら暖かみが差した気がした。水色のパジャマ姿のみやびはきらきら光る長い黒髪を柳の葉のように穏やかに揺らし、コーヒーの香りに満足したようににっこりと笑う。

 奇跡、と俺は考えてみた。

 キッチンから目を離し、ソファーに寄りかかって天井を見上げた。汚い天井だ。これ以上ないくらい煙草の煙を吸い込んでいる。俺は今まで幾度も天井を見上げてきたのに、こんなに汚れていたことに気が付かなかった。俺に一体、何がある?汚い天井と大量の本。今年で三十になり、独身。恋人もいないし友人知人も片手の指で数えられるほど。インチキ私立探偵で、全く儲かっていない。

 悪くない。いかにも俺らしいじゃないか。

 それでも考えてみる。「奇跡」。もし俺の元に何かの奇跡が舞い込んできたとしたら、俺は何を願うのだろう。目を閉じて想像する。


『明け方の群青の空。散りばめられた星々をなぞる二つの流星。右と左から尾を引いて流れる箒星は、やがて空の中心で交差する。最初で最後の邂逅。永遠の歪を胸に残し、彼等は去ってゆく。再開の約束すらなく、二つの流星は真逆の方向へと進んで消える。やがて夜が明け、何事もなかったかのように、世界は始まるだろう』


俺がイメージした「奇跡」はあまりにも審美的だった。恥ずかしい。

目を開けてもう一度考える。俺は何を望むのか。何が欲しいのか。何を守りたいのか。

みやびの笑顔が胸に残っていた。俺は・・・そう。新しい洗濯機が欲しかった。乾燥機能付きの。

「探偵さんはブラックですか?」キッチンからひょっこりと顔を出してみやびが聞いた。

「砂糖とミルクを一つまみ」と俺は答えた。少女はコーヒーカップをソーサーに添え、トレイを抱えてキッチンから出てきた。

「お待たせしました。はい、探偵さんのです」俺は頷いてコーヒーを受け取った。みやびも俺の向かいに腰を下ろして両手でカップを持つ。顔色も良く、言葉遣いもはっきりしている。緊張はだいぶ緩んだようだ。

「さて」と二人で目を合わせる。鈍い緊張感が俺たちの足元を漂う。デスクの上に鎮座する、伝太の沖縄土産の木彫りシーサーも手に汗握っていた。たぶん。

 もしもみやびのコーヒーが不味ければ、論理的に俺のキッチンが呪われていることが証明されてしまう。逆に美味ければ、俺のコーヒー作りが人類最高峰に下手だということが証明されてしまうのだ。あれ?俺の得なくね?

 みやびがこっくりと頷く。それが合図だった。

「「いただきます」」二人でカップを口元に運ぶ。

「まじでか」

 美味い。それもかなり美味い。まろやかな苦みが緩い砂糖の甘味に包まれ鼻腔をつく。独立しすぎない主張はコーヒー豆本来の深みを存分に活かし、喉に落ちるころには口蓋にほんのりとした余韻を残す。昔キョーコのオフィスで出された高級志向のグランドコーヒーより七倍は美味い。ということは俺の二百倍くらいか。わはは。

「えへへ」俺のリアクションがあまりに大きいためか、嬉しそうにみやびが笑った。完敗だ。

「これで探偵さんのキッチンは呪いから解放されましたね」

「その代わり逆説的に私のコーヒー作りの下手さが証明されたがね・・・」自分の好きなのもが不得手だったと知った時の悲しみよ。

「確かに探偵さんのコーヒーは壊滅的ですが、努力と愛情があればきっと上達するです」

「残念ながら、この探偵事務所には努力も愛情も存在しないんだ。あるのはただ、真実だけさ」きっと今の俺は二十世紀のハードボイルド探偵のような哀しげな微笑を浮かべているだろう。髭とステッキがあれば百点満点だ。

「何とも悲観的な探偵さんですね…」こくこくとコーヒー飲んで言うみやび。

「オトナは悲しいのさ。君もそのうち分かるよ」ごきゅごきゅとコーヒーを飲んで言う俺。美味いなぁ、このコーヒー。

 

 なんだか、とてもリラックスし空間だ。水面に投げ込まれた小石が美しい波紋を作るみたいに、雅やかな静けさが今ここにある。たとえいつか失われようとも、心に小さく残るような思い出になる。 

 ここに来る人々は皆一様に混乱している。現実を侵食する硬い足音に怯え、息を切らして逃げこんでくる。

 というか、そこまで追い込まれなければこの事務所にはやって来ない。彼、あるいは彼女たちは強固な現実にしがみつこうとする。溺れた人が木の板にしがみつくように。結論を急ぎ、説明を求め、足元が見えなくなる。自分の身に起こったことに勝手に理由付けをし、真実をでっちあげる。現実に起こった非現実から逃げようと。

 その行為がそもそもの間違いだった。現実はただ静かに流れるもの。その流れに逆らえば、よどみが生じる。よどみは真実を濁らせ、依頼人たちはより深く混乱する。

 だから俺がまずやらなければならないことは、依頼人をリラックスさせることだった。笑わせたり、呆れさせたり、泣かせたり。ちなみに一番得意なのは怒らせることだったりする。意味のない無駄話をしたり、コーヒーを飲ませ(不味い?知るか)、時には本を読ませたりする。とにもかくにも、俺のペースにするわけだ。中には突然激怒しだす人もいるし(コーヒーのせいではない。たぶん)、くだらない身の内を語りだす人もいるし、一緒にカポーティを読んだりもする(俺はカポーティの短編が好きだ)。

 そして俺という現実感の管を通し、彼等は語りだす。アリスだって腰を抜かすような物語を。

 結局のところ、インチキな私立探偵にできることは限られている。俺にできるのは意志ある真実を探し当てることだけである。聞こえはいいかもしれないが、それはとても残酷なことだ。どれだけ依頼人に想いを入れようとも、真実の受け止め方だけは、俺には変えることができない。恋と同じだ。好きになればなるだけ、軋轢は大きくなる。想えば想うほど、心が離れていく。

 けれど、火ヶ瀬みやびという少女は何か違う気がした。彼女には普通でないものがあるような気がした。たぶん俺が珍しく感傷に浸っているせいだろう。正直言えば、こいつのことが結構気にいった。誰もが自分のことを語るこの事務所で、彼女だけが俺の求めているものを与えてくれた気がした。


「家はここから三十分くらいです」

「観名北高校の一年生だね?」

「ど、どうして分かったのですか?」

「制服とバッジで分かったよ。結構長くこの街にいるから」

「おぉー。探偵さんって感じです。観察力ってやつですね」

「そんなことはない。いつも靴下を片方だけ失くす探偵なんて俺くらいさ」

「でも探偵さんはとてもしっかりしていますよ。私には分かるのです」

「どうして?」

「キッチンです。キッチンが綺麗な人はちゃんとしてるってお母さんが言っていました」微笑むみやび。

「さぁ、わからんぜ。しっかりしているのは俺じゃなくて嫁かもしれん」

「お嫁さんがいらっしゃるのですか。なるほどなるほど」

「いや、いないけど」

「え?いないの?」

「うん。独身」

「彼女さんも?」

「もう何年も」

「あっ(察し)。なる、ほど、です」

「なぜ空っぽのプールを見るような悲しい目を俺に向けるのだ」ぷふっと吹き出すみやび。

「ステキなひゆですっ。詩的な探偵さんなんていたのですね」

「詩的で、独身で、コーヒーが不味い。最高の自己紹介だ」

「およよ・・・。涙誘う探偵さんです・・・」

 時間は垂れ落ちる蜜のようにゆったりと流れていった。小さくて他愛のない会話。俺たちはそれぞれ二杯のコーヒーをおかわりし、チョコビスケットを平らげた。奮発して上等のシュークリームをみやびにあげると、まるでリスみたいに恍惚とした表情でもくもくと食べた。

「太るぞ?」

「え?シュークリームはカロリーゼロですよ?私の中では」さすがJk。頭が下がるぜ。

 と、まぁこんな感じで一時間近く喋り続けたわけである。つまらない情報交換の中にこそ、真の美徳があると俺は思っている。

 雨はすでに上がっていた。太陽は平均日照の遅れを取り戻そうとするかのように、夕照りを燃やす。アスファルトが乾き、木の葉に乗った雨粒を風が払う。雨の憂鬱は俺の心から消えていた。雨の日に家に閉じこもっていても、素敵なことは起こるのだ。きっと、誰にでも。

「さて、そろそろ君がここに来た理由を聞こうか」と俺は切り出した。みやびはこくんと頷き、俺の目を見た。

「助けてください、探偵さん」

「それ、五百回は聞いた」二人で笑った。友達のように。「大抵の話は驚かないし、笑ったりはしない。君が困っていることに力になれると思う」

 みやびは両手の指をぴったり合わせて黙っていた。

「えーっとですね・・・。とりあえず主題から入りますと」俺は大抵の話には驚かない。長く探偵をやっていると自然とこうなるのだ。しかし。

「絵本の逆襲が始まったのですっ」この仕事はいつだって驚くことばかりだ。まったく。


 そんな風にして俺とみやびは出会った。その後俺は依頼をこなし、報酬として『カフカ』という名前をもらった。個人的にフランツ・カフカも好きだったので事務所の正式名称も『カフカ探偵事務所』に変更した次第である。いいよね、カフカって。

 依頼解決からの約二か月間、火ヶ瀬みやびは毎日毎日事務所にやってきては、

「弟子入り所望です!カフカ師匠!」などと言う始末。

「断る。すごく断る。大変断る」

「理由です。昨日とは違う理路整然とした理由を三行で。どうぞ!」

「い

だ」

「ずるい!大人はずるいです!あっところでシュークリームあります?」

「冷凍庫で凍らしてある。歯を折って歯医者に行って総入れ歯にして来い」

「シュークリームへの冒涜です!あれ?これちょっと美味しいかも・・・」

「まじ?俺も一口・・・痛いっ!知覚過敏がぁっ!」

「ふっはっは!歯槽膿漏で死にたくなければ弟子入りを認めるのです!」

 二ヶ月だぞ。これが。

 結局は俺が根負けし、みやびを日給一シュークリームで雇うことになったわけである。

 強引な形での弟子入りになってしまったが、一つだけ約束がある。「俺が許可しない限り依頼には関わらせない」という取り決めだ。これだけは譲るつもりはない。何故なら俺は一度それで失敗したからだ。みやびを傷つけてしまったからだ。

 というわけで俺の昼寝の時間はほぼ無くなってしまった。一人でいる時間もなくなってしまったし、食費(お菓子代)も増えてしまった。まったく、とんでもない弟子だ。

 まぁ、毎日退屈はしのげるがな。



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