春が来る
みやびが助手になってからひと月(出会ってから四か月)が経った雪の日に、とある依頼が俺のもとに転がり込んできた。俺の受ける依頼は今回の朝霞美咲の身に起きたことのように、漠然とした何かの意思がカタチをとって現れる。その依頼も例にもれず不可思議なものだった。死者のように眠る老人。美しい娘。雪の降る町と太陽の届かぬ地下。あらゆる思惑と誘惑が渦巻き、事件は思いもよらぬ方向へと向かった。そして人が一人死んだ。
俺は依頼を進めるにつれて、ひどく意地の悪い人間になっていった。関わる人間すべてに嫌気がさしたし、とても謙虚に表現するならぶん殴られたりもした。恫喝もあったし血も流れた。
それでも俺は依頼を片付けた。というか、その時はすでに依頼ですらなかった。関係者全員がこれ以上真実を掘り下げることを望んでいなかったし、俺にメリットがあったわけでもなかった。
俺はただ我慢できなかった。本当にそれだけだった。自分のちっぽけなプライドを守るために、俺は地に眠るモノを起こした。
それは最悪の代物だった。金、強欲、暴力、肉欲。とある老人が生涯をかけて隠そうとした罪悪を、俺はその家族の前で晒上げた。俺の持ちうる語彙と嘲笑を使って、数人の人間をこれ以上ないくらいに傷つけた。
それが俺の弱点。一度鞘を捨ててしまうと、簡単にはナイフを収められない。苛立ちと共に真実を掘り下げようとすると、やがて俺の手はそこに達する。悪意の水脈。最後にはすべてが溺れ死ぬ。アーニャ風に言うのなら「やぶ つつかず いられない」ってところか。
最大の失敗はみやびをそこから遠ざけられなかったことだ。みやびは今回の朝霞美咲のように依頼人に肩入れした。そして俺に黙って勝手に調査を行ったりもしていた。最後にはきっと素敵な真実が訪れると信じて。
俺は最後の日に依頼人の女を事務所に呼びつけた。そこで全ての真実をぶちまけた。嘲弄を込めた侮蔑の笑顔で。関係した人間には書類でソレを知らせ、件の老人には「悪いね」と忠告した(彼はその三日後に老衰で死んだ。一度も目覚めることなく)。
女は俺の知る限り最も下品な言葉を使って俺を非難した。そしてよくできた悪人みたいな笑い声を残して去っていった。女が去ると事務所は死んだように静かになった。俺自身も死人みたいに悲しい気持ちだった。どうしてこんな外道なことをしたのか、自分でも分からない。何かを得たわけでもない。誰かに褒められるわけでもない。俺は昔からちっとも変わらなかった。
その時寝室のドアが開いた。小さな音を立ててドアが閉じられた。今にも泣きだしそうな顔をしたみやびがそこにいた。目を真っ赤にして両手で胸元を抑えていた。失望と哀願をこめた声で彼女は言った。
「師匠、今のって・・・ウソ、ですよね?」俺が気付かないうちに寝室に入り、そこですべてを聞いていたらしかった。
「エイプリルフールっていつだっけ」
「え・・・?えっと、四月の一日です」
「そうか」と俺は言った。「残念だったな」
「・・・っ!」
外では雪が降っていた。二月の観名街は冷たくて、静かで、何よりも白い。俺の言葉は寒さで凍り付いたように、しばらく空中に残っていた。みやびの大きな瞳からぽろぽろと涙が流れた。コートの裾をギュッと握りしめて、彼女は俺を見た。
「お前は一体何を望んでいる?都合の良いハッピーエンドか?」俺は嗤った。「悪いがそんなものはない。アリスもいつかは大人になる。俺は自分のやり方を変えることはできないし、お前がどう思おうと関係ない。救いが欲しいのなら・・・何も見なければいい。何も聞かなければいい。何も語らなければいい。童話の時間はおしまいだ」
みやびは何も言わず、まるでダーツの的みたいに立っていた。俺の言葉は彼女の心を確実に傷つけていた。
もうやめにしようと俺は思った。彼女はあまりにも弱い。俺は最初から間違えていたのだ。彼女は夢を見すぎている。俺は大人になりすぎた。最初から掛け違っていたのだ。何もかも。
「分かったのなら、出ていった方がいい。お前の求めているモノはここにはない」
「・・・」彼女は静かに背を向けた。沈黙は雪のように部屋を覆った。
(暖房の修理をしないとな)と俺は思った。
みやびは泣いたまま応接間から出ていった。玄関のドアが開いて、閉まった。俺には何も残らなかった。雪は地を濡らし、泥に変わる。ぬかるみに足跡を残してみやびは俺の人生から姿を消した。やがてその足跡すら消えてなくなるだろう。
「コーヒー、美味かったな」と俺は呟いた。沈黙が怖くて。
翌日から彼女は来なくなった。俺はいつもと変わらない日々を送るだけ。結局のところは本人の問題なのだ。俺は昔の探偵仕事も含めて、図鑑でも作れそうなほど多くの血生臭い人々を見てきた。今更自分の愚かさを引きずるほどヤワな人間じゃない。
そもそも俺は一人で生きるべきなのだろう。理解も信頼も愛情も、春の雪のようにやがて溶けてなくなるだけ。今まで多くのモノを見捨て、傷つけて、裏切って生きてきた代償。俺は俺の生き方を変えられない。変えるわけにはいかない。
みやびが来なくなってから三日が経った。その日の午後、俺はいつものようにソファーで眠っていた。浜辺のように浅い眠り。俺は夢を見た。夢にさだねが出てきた。
『よっ。元気?』と白舟さだねが言った。
「おう。さだねか」彼女と会うのは(たとえそれが夢の中でも)十年ぶりだった。
俺たちは昔のように公園のベンチに座っていた。空は群青。幾星霜の年月を経ようとも変わらない女。彼女はもう、死んでいるから。
『あたしとあの子、どっちの味方につく?』とさだねは聞いた。
「俺は一生、お前の側にはつかない」
さだねは笑った。面白そうに。また少し寂しそうに。
『さよなら、K』
短い夢から覚めた時、そこにみやびがいた。彼女は俺に背を向け、本棚を眺めている。俺はその光景を夢の続きのような気分で見ていた。打ち寄せるさざ波のような、儚い夢として。
でもそれは夢なんかじゃなかった。みやびはくるりと俺に振り向いた。そして夜空に浮かぶ三日月みたいに、優しく笑った。
「私と師匠は99%の信頼でつながっています」と少女は言った。
「残りの1%は?」
「それは・・・ナイショです」
俺はソファーから起き上がってみやびを見た。何故だか笑いがこみ上げてきた。
「みやび、コーヒーを」
「はいっ。すぐ用意しますね!」
俺には名前がない。行くべきところも、求めるものすらない。それでも。
錨を失くした小舟のような俺でも、道しるべがあるのなら。みやびがここにいてくれるのなら。俺は自由に生きていける。
「なぁ、みやび」
「なんでしょう?」
今日くらいは正直なことを伝えよう。なんせ冬が終わるんだ。春が来て、花が咲く。俺もちっとはまともなことを言ってみよう。
「あー、ありがとな」
「はへ?」
お前が戻ってきたことが嬉しい、なんて口が裂けても喉が腐っても人類が滅亡しても、絶対に言えんな。まったく。