序章
不定期に、ゆっくりと更新していく予定です。
のんびりとお付き合い頂けると嬉しいです。
私はお人好しだと、友人が言っていた。
仕事を終えて、いつもの駅で電車を降りる。週末の地元の駅は、時間まだ早いせいか人が少なかった。
今日は朝からクレーム対応に追われ心身共にクタクタだったけど、無事解決し終えることができた。そしてこの日も、いつものように終わるはずだったのだ。
近所のスーパーに寄って買い物をして、ご飯を食べて飼っているハムスターに餌をやる。ゲージの中を掃除して、私もお風呂に入って、ハムスターと遊びながら晩酌をし、ゲームをしてから眠りにつくのが日課だった。
いつもみたいに、帰るはずだったんだけどなぁ…
いつもの駅で電車を降りて、改札に向かう途中だった。
私の前を歩いている、一組の母娘がいた。ちょうど私の母と同じ年齢ぐらいの母親と、私よりも少し若そうな小柄な娘さん。二人で同じデパートの紙袋を持っているので、恐らく買い物からの帰り道なのだろう。二人で楽しそうに談笑しながら、前を歩いていた。
私も微笑ましい気持ちで、その光景を眺めていた。そして、
ホームから長い階段を降り、改札口から出る、はずだった。
目の前の娘さんが、母親と話すのに夢中になり階段に気が付かなかった。母親も、よもや娘が階段に気付かないなんて、思いもしなかった。隣を歩いていたサラリーマンも、前の階段を降り始めていたおばあさんも、私の後ろに居た地元の高校生グループも、誰も気付かなかった。
私だけが、気付いた。
娘さんの足が宙に浮き、バランスを崩していく。私は咄嗟に娘さんの腕を掴み、抱きとめようとした。しかし私の腕力では、小柄とは言え成人女性を抱きとめる程の力がないのは明らかだった。
このままでは私も彼女も落ちてしまう。私は彼女を抱きとめるのをやめ、全力で腕を引っ張る。遠心力を使い、彼女をなんとかホームに戻すことができた。
驚きながらも娘を受けとめる母親。自身に何が起こったのか把握しきれず混乱する彼女。サラリーマンもおばあさんも高校生グループも、私を見ているのがわかった。
彼女をホームに戻した時、私の身体は宙に浮いていた。ささえるものも受けとめてくれるものも、なにもない。サラリーマンが私に手を伸ばしてくれていたけど、残念ながらその手は届かなかった。
私は重力に逆らうことも出来ず、背面から階段を落ちていった…
「大丈夫ですかっ?!!」
男性の声で、はっと目が覚める。階段から落ちた時、衝撃で一瞬だけ気を失ったようだ。
「ごめんなさいごめんなさいっ!私のせいで…!」
泣きじゃくる声で、この声の主が先程の娘さんだとわかる。声のする方に目を向けると、先程の母娘がいた。
「救急車を呼びます!お嬢さん、気をしっかりっ!!!」
頭上から男性の声がする。私が落ちる時に手を差し伸べてくれたサラリーマンだろうか。身体が動かなかったから、確認することは出来なかった。
「娘を…娘を助けてくれてありがとうっ!!!」
母親の方が泣きながら、私の手を握ってくれた。その温もりで、自分の体温が驚くほど下がっていることに気付く。
あぁ、私、死ぬんだな…
身体中が痛い。頭から血の気が引いていき、後頭部にじんわりと広がっていく血溜まり。体温の下がった身体が外気に晒され、寒い。
「ぁ…」
喉に自分の血が溜まり、声が出ない。周りの人たちが必死に声をかけてくれているけど、よく聞こえなかった。
「―――っ!」
娘さんが何かを私に言っている。母親が握っている手とは逆の手を握り、泣きじゃくっていた。
私は大丈夫だよ、助かって良かったね。
そう想いを込めて、最期の力を振り絞って彼女の手を握り返した。
「っ?!」
彼女はそれに気付き、顔を上げる。彼女と目が合い、私はそっと微笑んだ。
私は大丈夫だよ、助かって良かったね。
気にしないでって言っても、もちろん気にしちゃうと思うけど。
でも、私は早くに両親を亡くしてしまっているから独り身だし、職場も私一人が居なくなっても困るような状況じゃない。友人たちは悲しんでくれると思うけど、きっとみんな私らしいって言ってくれるはず。
家で私の帰りを待っているハムスターには悪いけど、合鍵を渡している友人が明日遊びに来てくれる予定だったから、ちゃんとお世話してくれるよね。あの子は動物好きだから、きっと大丈夫。今晩だけはお腹を空かせちゃうかもしれないけど、巣箱の奥にひまわりの種を溜め込んでたのを知ってるんだから。
未練がないかと言われるとそれは何とも言えないけど、目の前の人を助けられなかったら私は一生後悔する。
だから、これで良かったんだよ。
私はちゃんと、幸せだったんだから。
頭が真っ白になり、私は意識を手放した。